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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

神社の史実とその祭事8 

神社の史実とその祭事8


ところで神事はまず今は陸続きとなっている舞子島の光格殿に神輿が練りこみ、そこでシュウカキという一種の禊が行われ、神輿が帰ってくると社殿前の広場に据えられます。
その神輿の前に三角形に砂が盛られ、まず裃姿「トビンコ」という子供が榊を押し戴きながら、三角形に三度ちょうど魚が飛ぶような形で盛り砂の回りを飛びます。
するとその後、舞い役という鎧兜に身を固めた男が、槍を構えて砂の真ん中に立っている榊を盛んに突き刺しながら舞い、やがて止め役の声に「さあ上がった」と呼ばわります。

これで「サイ上がり」の神事は終わったのですが、参加者のなかで古老らしい一人にマイクを向けて尋ねてみます。

昔と今を比べて、どういう点で変わっていますか。

そうですね、戦争に負けて八幡様と住民の関係は古くからのつながりが薄くなり、形だけのものとなった感じがしましたが、もう日本も独立して10年にもなりますので、若い者も神社仏閣の行事に積極的に協力する人が多くなりました。
参詣する人も年々増えてきました。
私どもは喜ぶべきだと思っております。
これからも日本独自の伝統は大いにやるべきだと思っています。

と、なかなかの気炎です。
ところでこの神事に参加するのは、河野一族をはじめとする十二人、すなわち彦島を開拓した十二苗の子孫だそうです。

RKB毎日放送の録音の中で「古老」として紹介され、お話されたのは西山の植田英雄さんです。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/14 Thu. 12:53 [edit]

category: ひこしま発展誌

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帰られなかった佛様 

帰られなかった佛様


 むかし、十二苗祖をはじめ。彦島の人びとは西楽寺の門信徒であった。しかし、今ではそのほとんどが、下関の光明寺、了円寺、教法寺と、彦島の専立寺を、それぞれの旦那寺としている。

 今から約三百年もむかしの話。

 寛永十五年(1638年)九州天草の乱で敗れた小西の残党は、海賊に身をやつして玄海を荒らしまわっていたが、ある時、彦島までも襲って来た。
 彦島は、古くから何度も海賊の根拠地されてはいたが、この時ほど大量に、そして残虐な仕打ちを受けたことはなかった。そのため、島の人びとは、相次いで下関に避難することにした。
 折悪しく、その年の春、西楽寺の十九代住職が亡くなったので、本尊である阿弥陀尊、観音様、薬師様も避難して貰おうと、下関の福昌寺(今の専念寺)に預けた。

 島の人びとが疎開して二年後、つまり寛永十七年(1640年)幕府はキリシタンを禁圧する目的から『旦那寺請制度』を設けた。それは、士農工商、すべて、どこかの寺院にその門徒であることを届け出なければならない、という制度で『宗門改め』とも言う。

 彦島から避難していた人びとは、『西楽寺の門徒』であることを誇りにしていたが、廃寺同然となっている西楽寺の名を届け出るわけにもゆかず、仕方なく、光明寺、了円寺、教法寺に、それぞれ一時的な門信徒として申し出ることにした。彦島に残っていた僅かな人びとは、無住の西楽寺に届けることも出来ず、専立寺の門信徒となった。因みに西楽寺は時宗だが、四つの寺院はいずれも浄土真宗である。

 小西党の海賊どもが長府毛利のお殿様に征伐されて、疎開先の人びとが島に戻りはじめたのは、三十五年後の延宝元年(1673年)のことであった。

 ようやく懐かしい古巣へ帰ることの出来た人びとは、早速、西楽寺の門徒に立ち戻りたいと役人に届け出た。しかし、役人は『宗門改め制度は、永代である』と言って、その願いをしりぞけてしまった。
 西楽寺を旦那寺として仰ぐことの出来なくなった十二苗祖をはじめ島の人びとは、せめて福昌寺に預かって貰っている三像だけでも帰島させて欲しいと申し出た。
 早速、阿弥陀様だけが島に帰って来られたが、残る二尊像は、福昌寺が渋って、なかなか返してくれない。おさまらないのは島の人びとだ。人びとはたびたび下関へ渡って、平家の守り本尊だから、是が非でも阿弥陀様と一緒に安置すべきだ、と接渉しつづけた。

 三十年という月日が、またたくまに過ぎた。その間、島の人びとは、かわるがわる福昌寺に出かけて二像返戻を迫った。その熱意に動かされたのか、廃寺同然の西楽寺に新しい住職を迎えるという条件を確かめて、観音様だけが彦島に帰されることになった。それが宝永元年(1704年)のことであったという。

 しかし、残る薬師如来様だけは、どうしても返してくれず、そのうちどうしたのか、福昌寺からも行方知らずとなってしまわれた。

 島の人びとは、ひどく哀しんだが『阿弥陀様は平家一門の冥福と島の平和を祈り、観音様は、光明、了円、教法三山の隆盛を見守って下さる為に帰島され、薬師様は全国各地に隠棲している一門の落人を慰めるために諸国を廻って居られる』と、末永く言い伝えることにしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
現在、西楽寺には、薬師如来坐像と観世音菩薩が安置されている。
行方不明となった薬師如来立像について島の古老たちは『関の専念寺に行ったきりで…』と言うだけで、多くを語ろうとしない。
しかし、西楽寺本尊は三像でなければならないということから、幕末において『楠』から地蔵菩薩を移し、参道の一角に安置して、今に至っている。
この地蔵尊は、永暦二年(1161年)の春、河野通次が寄進したものであるが、その作は、弘法大師であると伝えられ、今でも参詣者が多く、線香が絶えない。
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Posted on 2019/02/14 Thu. 12:51 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名38 お亀銀杏(亀山八幡宮) 

お亀銀杏(亀山八幡宮)


「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。
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Posted on 2019/02/14 Thu. 12:32 [edit]

category: 下関の地名

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