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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

神社の史実とその祭事6 

神社の史実とその祭事6

RKB毎日放送の録音

下関市彦島の西山にある彦島八幡宮の秋祭りに行われる「サイ上がり神事」は離れ島であった頃は島一番の大祭。
島の人々だけでなく、近郷近在から船で押しかけてきたものだと話には聞いていたものの、やってきますとこれは確かに大したもの。
いつもひっそりガランとした八幡様の広場には、いっぱいの物売りが出て、綿菓子・おもちゃ・焼きスルメ・くじ引きなどの店を張り、目にも綾に着飾った大人・子供が広場にぎっしりです。

ところで「サイ上がり神事」とは珍しい名前ですが、これは彦島開発の河野一族にゆかりの神事、そのいわれについて、まずは彦島八幡宮の柴田宮司に伺ってみましょう。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/12 Tue. 11:07 [edit]

category: ひこしま発展誌

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辰岩(たついわ) 

辰岩(たついわ)


 本村小学校の裏山に小さな森があります。その中に伝説の『辰岩』があるということはあまり知られていません。

 ずいぶんむかしの話です。

 この森に平家の落人がかくれ住んでいました。彼は、いつかはきっと昔のような平家全盛の時代がやってくると信じ、住まいの近くに麻を植えたりして細々と暮らしていました。
 しかし、そんな日は再びやってくる筈もなく、いつのまにか年老いてしまい、辰の年の三月二十四日、落人は森の中で腹かききって死んでしまいました。
 それからというもの、毎月二十四日になると、その森から大きな龍が出ては海峡をにらみつけ、大声に吠えたてましたので、島びとたちはその日が来るのをとても恐れていました。

 ある年の春、偉いお坊さんが、その話を聞いて、彦島を訪ねて来ました。そして、たった一人で森に入って行き、三日三晩お経をあげましたところ、その翌月から龍は出なくなりました。
 島びとたちは安心するとともに、『あの龍は、落人の怨霊であったのか』と、みんなで供養塔を建てようと話し合って、久し振りに森に入ってみました。
 すると、落人の住まいのあった場所に、どこから運んだのか、大きな自然石が建てられていました。それは、人間の力ではどうしても動かせないほどの大岩で、しかも、これを運ぶのを見た人は誰も居ません。
 島びとたちは不思議でなりませんでしたが、結局、これは落人の墓だろう、ということで、そこに花を供えて帰りました。

 そのうち、大岩のことを誰いうとなく『辰岩』と呼ぶようになりました。

 ある年のこと、
『辰岩の下には、平家の財宝が埋められていて、落人はそれを守っていたらしい』
 というまことしやかな噂が、ひそかに流れました。
 それを聞いたある欲の深い男が、秋の夜更けにそっと森に入って辰岩の下を掘りはじめました。ところが不思議なことに、鍬を振り下ろしたとたん、男は発狂してしまいました。
 その後、伊崎からも財宝の噂を聞いてやってきた男が居ましたが、やはり同じように気が狂って、
『龍がにらんだ、龍がにらんだ』と、つぶやくようになりました。
 そんなことが何度もあって、島びとたちは落人の命日に花を供える以外、誰もその森に近づかなくなりました。

 何年かたちました。

 ある日のこと、小倉の与八という商人がやって来て、森の前に島びとを集めました。そして与八は、こう言いました。
『わしゃあ、辰岩の宝物が本当か嘘かを確かめるために、わざわざ小倉からやって来たんや。今までは、どいつもこいつも、夜の夜中に内緒でそろっと掘ったけぇ気が狂うたんやと、わしは思う。そいで、わしゃあ、みんなの見ちょる前で堂々と掘るけぇ、立ち会うてくれいや』
 島びとたちは、恐る恐る与八のあとにつづいて森に入って行きました。

 与八は、多くの人びとの見守る中で、辰岩の根に、ガシッと、鍬を打ちおろしました。
 そのとたん、与八は、
『アーッ』
 と悲鳴をあげました。そして驚いたことに与八は両手を高くあげ、頭をふりふり辰岩のまわりを走りはじめました。島びとたちはどうすることも出来ず、ただ、あれよ、あれよ、と眺めているばかりでした。
 そのうち、持ち上げていた鍬が頭に落ちて、与八は死んでしまいました。

 島びとたちは、辰岩のそばに小さな墓を建て、与八の霊を慰めると共に、それ以来というもの、辰岩に近づくことも、また、その話をすることさえも避けるようになったということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/02/12 Tue. 10:46 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名36 赤馬 

赤馬


藤原佐理という人が書いた「離洛帖」に、「赤馬泊」と記されているのが、「赤馬(あかま)」を見る最も古い文書です。
記されたのはせい正暦2年5月19日、藤原佐理が京都から大宰府に大宰弐として赴任の途中のことです。
赤馬(下関の別称)まで来て、京都を出発するときに摂政藤原道隆にあいさつを忘れたため、そのお詫びを藤原誠信に依頼した書状で、文書は国宝に指定され、畠山記念館に所蔵されています。
「赤馬」の記述された部分は「今月十六日、来到長門赤馬泊」(16日に長門の赤馬という港に来た)とあります。
そののち「赤馬」は「赤間」と同じように使われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/02/12 Tue. 10:17 [edit]

category: 下関の地名

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