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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

神社の史実とその祭事4 

神社の史実とその祭事4

「六夕の七夕」とはどんなことですか、それをお話ください。

「六夕の七夕」なんて妙な言い方ですが、昔も今もご承知の通り毎年7月7日の夕暮れをタナバタとしていますが、この彦島では「小戸の夜打ち」と「小戸の夜焚き」か7月6日の行事となりましたので、七日のタナバタを六日と一日繰り上げて行ったのであります。
この習慣は彦島全部ではありません。
田の首地区は当時の長府藩ではなく小笠原藩でしたからタナバタは六夕ではなく七夕です。

本因坊道策名人以外の有名な棋士もその後来ましたか。

来ました。
元禄六年から十五年までの十年間は、各藩主が送ったお抱え棋士で「夜打ち」が行われましたが、十六年には四世井上道節ほか高名な棋士、それに各藩が送ったお抱えの棋士が加わって、この神事も勢いを盛り返したようです。
享保二年には五世本因坊道知ほか、同六年には六世本因坊ほか、元文四年には七世本因坊ほか高名な棋士が来ております。
本因坊は藩の切なる要望によったものと思われますが、代を継ぐ度に必ず来ております。
申し添えますが七世本因坊は26歳で没し、赤間関の極楽寺に埋葬されたとなっております。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/09 Sat. 12:42 [edit]

category: ひこしま発展誌

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十二苗祖(じゅうにびょうそ) 

十二苗祖(じゅうにびょうそ)


 むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。

 今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。
 四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、
『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。
 翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山城再興をはかるに最適な場所であることがわかった。
 そこで、里(迫町の一角)に屋敷を建て、園田一学、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の重臣五名と仮寓することに決めた。

 通次ら主従は、里を拠点に島を開拓し、なれない農業や漁業に励みながら、勝山城再興の日を待っていた。
 西山の舞子島に『光格殿』というお宮を建て、引島で一番大きなくすの木を伐って八幡尊像を刻み奉納したり、海峡を見おろす丘の上に立って、兵を挙げる日の一日も早かれと祈願したものだ。

 二十数年という月日が、またたくまに過ぎた。

 そのころ、都で発した源氏と平家の戦いは、西へ西へと伸び、寿永三年(1184年)秋には、平知盛が引島に城を築いて、源氏を迎え撃つことになった。
 今まで、静かであった引島も、つぎつぎに集結する平家の軍勢によって、修羅場のように騒々しくなり始めたが、翌年三月二十四日、壇ノ浦の合戦で、ことごとく滅び、知盛による引島城は『平家最期の砦』になってしまった。

 ようやく、もとの平和な島に戻った翌年、つまり、文治二年(1186年)一月、平家の残党、植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三名が、平家の守護仏である阿弥陀如来坐像と、観世音菩薩、薬師如来立像を、それぞれ捧持して来島した。
 三人の落人は、里に河野通次を訪ね、平家再興の意図を打ち明け、それまでの間、この島にかくまって貰うことにした。
 そして、平家の守り本尊である三像を仮の草庵に安置したが、その場所は今でもカナンドウ(観音堂)と呼ばれている。

 その後、健保二年(1214年)四月には和田伝済、つづいて翌三年には、同じく平家の残党、冨田刑部之輔と登根金吾が、植田治部之進を尋ねて来島した。
 これら和田を除く五名の人びとは、いずれも平家の執権で、彼らは河野家主従に自分たちの身分を明かし、一門再興に力を貸してほしい、と頼み込んだ。勝山城再興を願う河野一族は、この不思議な因縁に驚いたが、同じ境遇である十二氏が力を合わせれば果たせないことはないと、手を取り合って協力を誓った。

 しかし、そのころは、既に河野家第一の参謀である園田一学は病死し、あとを追うように通次もこの世を去っていたので、河野家再興は、なかばあきらめの状態であった。

 一遍上人の高弟、西楽法師が引島に来られたのは健治二年(1276年)三月であった。法師は、観音堂の阿弥陀如来坐像の威光にうたれ、一遍上人の許しを得て引島に永住しようと決心した。それは、観音堂を今の本村に移し『西楽庵』を建てて三像に仕えるためであった。

 そのうち法師は、平家一門と勝山城の、二つの再興話を耳にしたので、その悲願をあきらめさせ、引島開拓に心を打ち込むよう、説いてまわった。
 初めのうちこそ、かたくなに法師の話に耳をかそうとしなかった十二家の人びとも、やがて挙兵のむなしさに気付き、永年の望みを捨て去ることにした。

 そこで人びとは、平家の守り本尊に仕え、農業、漁業、工業にいそしみ、引島に永住することを誓い合った。弘安元年(1278年)秋のことであったという。


 引島開拓と十二氏共栄に力を合わせ始めたこれらのいきさつは、古くから『十二苗祖の誓い』と呼ばれ今もなお語りつがれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
彦島を語ろうとすれば、先ず、十二苗祖を知らなければならない。
彦島の歴史をひもとけば、必ず、十二苗祖の名前が出て来る。
つまり、島の開拓史に欠かせない人びとが十二苗祖で、今でも電話帳を繰れば、これらの名前を次々に拾い出すことができる。

旧記や口伝による彦島十二苗祖の経歴は次の通りである。

◎河野通次
 平城天皇の末孫で、三位中将大江政房の嫡子、伊予の国勝山の城主、河野通匡の嗣子である。保元の乱に於いて崇徳上皇の軍に参戦して敗れ、通匡は京都白河殿の夜打ちで戦死した。

◎園田一学尚久
 河野家の執権で園田一覚が本名であったが、文武に長じ、通匡の片腕となっていたので、一学の名を頂いたという。

◎二見右京勝定
◎小川甚六安友
◎片山藤蔵正直
◎柴崎甚平信重
 いずれも河野家の重臣

◎植田治部之進兼明
 藤原信頼の末孫で、大納言平教盛の執権。平重盛の守護仏、阿弥陀如来坐像を覆奉して来島したという。

◎百合野民部高昌
 藤原秀基の末裔で、平教盛の執権。観世音菩薩を捧持して来島したという。

◎岡野将監重利
 橘伊賀守の末孫で、平知盛の執権。薬師如来立像を捧持した。

◎和田伝済儀信
 和田義盛の五男で、朝日奈三郎の弟。下総の国大倉の領主であったが、頼朝を討たんとして果たさず、隠島した。

◎冨田刑部之輔久次
 平重衛の執権。二万三千石の冨田勝部之進の嫡子。一ノ谷合戦後、備前に隠れ再起を図っていたが、植田治部之進の隠島を伝え聞いて来島したという。

◎登根金吾忠光
 平家の旗本と伝えられている。
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Posted on 2019/02/09 Sat. 12:25 [edit]

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下関の地名34 「赤間」の由来 

「赤間」の由来


赤間(あかま)の語源は、紅石山(赤間神宮の裏山)に大きな馬の形をした紅色の岩石があったことから、また、船の中にたまる水を「アカ」ということからなど諸説がありますが、平成4年に発刊された『下関市史・民俗編』に、「赤間関の地名の由来」という項があり、「赤間」の由来が記述されています。

この項目は、監修者で全国的に著名な国分直一氏が記述したもので、大要は次のとおりです。

旧暦一月一日、早朝の最干潮のとき、関門海峡の早鞆瀬戸で、下関市の住吉神社と門司区の和布刈神社が、両岸で相対し「和布刈神事」を行います。この神事は、太古から行われているもので、春に先立ちもえ出るワカメを刈り採って神前に供え、民衆も食べることによって神と一体になるという考え方です。(海中にあって繁茂するワカメには、神が宿ると伝えられています)
関門地域で海とかかわって暮らす人々は、「ワ」を「ア」と発音し、「ワカメ」を「アカメ」と発音するところから、「アカメ」が「アカマ」になったとするものです。
「メ」が「マ」となったのは、「目」の古い形が、「マ」であったからとしています。

現在でも、壇之浦漁業協同組合の皆さんは、この和布刈神事が終わるまで早鞆瀬戸のワカメを刈り採らないという風習を固く守りつづけています。これも神とのかかわりを感じさせるものです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/02/09 Sat. 12:08 [edit]

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