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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

神社の史実とその祭事3 

神社の史実とその祭事3


神事の始め棋士は宮の原の彦島八幡宮の前に並び、宮司の祝詞があって、玉串奉賛、式辞、終わって先導役の案内で老の山の草原に至り、型通りの囲碁に関する注意や挨拶がありまして、試合開始の合図で囲碁が始まります。
盛夏7月6日の事ですから、涼味たっぷりといった良い場所です。

「小戸の夜炊き」という漁法が漁港ができる前までありましたが、「小戸の夜打ち」との関係はありましたか。

起源はいつの時代かわかりませんが、「小戸の夜打ち」との関係はありました。
これも下関の季節の名所の一つでした。
毛利公が各藩の棋士の長い旅路の疲れを慰安するため、神職に命じ水夫に金を渡して魚をとらせました。
その漁法がおもしろいもので、小瀬戸の中流に舟を浮かべ松明を焚き、寄ってくる魚を手頃な網で、手品のように素早く掬い上げるのです。
数多くの舟が松明を炎々と焚いて急流のなかを離合集散する様は壮観で、草原から眺める棋士を感動させたことと思います。
獲れました魚は棋士の食膳に供したのですから、夜打ちの疲労も忘れ、翌年もまた「小戸の夜打ち」を楽しみにして集まる人も年毎に増加するようになったそうです。
このことは「六夕の七夕雑話」から抜粋してのお話です。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/08 Fri. 12:47 [edit]

category: ひこしま発展誌

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サイ上り 

サイ上り


保元二年、今から約八百年のむかし、伊予の国勝山城主、河野通次が戦に負け、追っ手を避けながら、ようやくのことで彦島へ落ちのびてきました。

河野通次と五人の家来は、この彦島で力を蓄え、もう一度、勝山城を取り戻そうと、しばらくの間、慣れない農業や漁をして、兵をあげる日を待っていましたが、頼みとする家来たち二人は病気で亡くなり、一人は伊予の国の様子を調べに行って帰ってこず、とうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。

それから二年たった平治元年十月十五日、里から西南にあたる海上に、ふしぎな紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中が黄金色に輝いているのを、島のイナ釣りの男が発見しました。
男はさっそく、そのとき島の長になっていた河野通次に知らせると同時に島民にも知らせました。
島の人たちは、浜辺に集まり、
「ひょっとすると不吉なきざしかもしれない」
「いや、きっとあそこに黄金が沈んでいるんだ」
とか、わいわいいって騒ぎ立てました。

結局、最初に見つけた男に調べさせようということになり、その男は、こわごわ舟を出して黄金色に輝く場所に行き、矛を持って海中を突き刺したところ、神体と思われる像の左眼に突き当て、海中から引きあげてきました。

心配そうに様子をみていた河野通次は、その像を見て、これこそ我が守り本尊であるとして、近くの小島にお堂をつくって、像をまつり、これを光格殿と名づけました。

このとき、通次は鎧兜を着て、左右に太刀と弓を持ち、武運長久を祈るとともに、舞をまい、
「さあ揚がらせられた」
と、大声で叫んだことから、この小島を舞小島というようになりました。

また、おもしろいことに、氏神様の左眼を矛で突かれたことから、彦島の人はむかしから左眼が細いという言伝えがあります。

ご神体は、その後、正和三年に、今の宮の原に移して、永く彦島の氏神様として親しまれてきました。
そして毎年十月十五日には、「サイ上り」の神事が行われますが、その様子は、まず最初に、裃をつけた子ども三人が飛び回ります。
すると鎧兜をつけ、太刀を腰に、手に弓をもった者が、子どもを矛で突くまねを幾度も繰り返します。
そして「サイ上り」を叫びます。
子どもの飛び回るのは、イナが飛ぶまねで、弓で突くのは、ご神体を海底から突き上げたときの意味。
「サイ上り」とは、通次が「さあ揚がらせた」と喜んで叫んだ古事をそのまま伝えるものといわれます。
そして、この鎧武者やイナなどになる人は、昔から、彦島十二苗祖の家から参加することになっています。


(注)
彦島十二苗祖とは、河野通次の河野姓ほか、平家の落ち武者が住み着いたといわれる、園田、二見、小川、片山、柴崎、植田、岡野、百合野、和田、登根、富田姓で、彦島開拓の祖先といえましょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/08 Fri. 12:26 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名33 赤間関(あかまがせき)と下関 

赤間関(あかまがせき)と下関


下関の地名で、忘れてならないものに、「赤間関」があります。
「赤間関」は、明治22年4月1日に全国で市制が施行され、31の市がはじめてできたとき、その一つ「赤間関市(あかまがせきし)」として、市の名称につかわれました。
また、赤間関は、「赤馬関」とつかわれたり、「馬関」と呼ばれたこともありました。
現在のように「下関市」と呼ばれるようになったのは、13年後の明治35年に、市の名称を近代的なものにしようと、変更したものです。

「赤間関」の「関」は、水陸の交通の要所に、軍事や警察上の目的をもって設けられた施設で、全国的には大化改新ころから整備されています。
本州最西端に位置し、九州と、さらに大陸とも近い下関の地に「関」があったことは、当然のことといえます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/02/08 Fri. 12:09 [edit]

category: 下関の地名

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