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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

神社の史実とその祭事2 

神社の史実とその祭事2


そこで毛利藩では八方手を尽くして、諸大名からお抱え棋士を派遣してもらったそうです。
これを聞いて気の毒に思った四代目の本因坊道策が、妹婿の伝法院ドウハというお坊さん参加させました。
彼は江戸の町人のなかで囲碁のできる人をお供に、四十二日の日数を要して赤間関の極楽寺に到着しております。
途中で近畿地方の名所旧跡を訪ねたかもしれませんが、とにかく長い旅であったと思います。

囲碁の神事はどのようにして挙行されましたか、場所方法などを聞きたいのですが。

場所は小戸寄りの草原で、西北に響灘、北に小瀬戸海峡、西南には小倉、戸畑、若松、八幡が関門海峡の向かいに見えます。
この草原は昔八幡宮の社領地となっていましたが、明治時代に要塞となりました。
「小戸の夜打ち」の頃には、竹の柱に萱の屋根で、座っておっても展望がよい所に碁盤を並べて打つのですから、賑やかなことでしたでしょう。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/07 Thu. 10:18 [edit]

category: ひこしま発展誌

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07

壇の浦に消えた宝剣 

壇の浦に消えた宝剣


永寿四年(1185)三月二十四日、源平最後の合戦、壇の浦の戦が行われましたが、ここで平家は完全に滅んでしまいました。
このとき安徳幼帝は、二位の尼にいだかれ三種の神器のうち、剣と勾玉とをお持ちになって海底深く消えていかれました。

なかでも剣は“天叢雲の剣”(あめのむらくものつるぎ)といって、いわれのある剣でしたので、その時、政治をとっておられた後白河法皇はたいへんしんぱいされ、海峡のはしからはしまでさがさせましたが、どうしても見つかりません。
そこで賀茂大明神におこもりになって、宝剣のゆくえをお願いしましたところ、七日目に大明神のおつげがありました。
そのおつげによると、ながとのくにの壇の浦にすむ、老松、若松という海女を召して調べさせよ、ということでした。そこで法皇はさっそく義経をおよびになって、このおつげをお話になり、いっときも早く、剣を探し出すようお命じになりました。

ふたたび、義経は激しい戦をくりひろげた壇の浦にもどってきて、老松、若松のいどころを探し、やかたによびよせました。
老松はそのとき三十五歳、若松は娘で十七歳、もぐりにかけてはこの近くでは二人にかなうものはないと、いわれているほどじょうずで、そのうえ、どことなく、気高い感じを人に与えました。
やがて、老松、若松は、みじたくをして海にもぐりました。太陽が沈む頃二人は浮き上がってきました。
若松は、別に剣らしいものはみなかったと義経に報告しましたが、母親の老松の方は、
「ふしぎな大岩をみつけました。その岩には人がくぐれるくらいの穴があって、私は、できるかぎり、その奥へ奥へと進んでみました。およそ一里くらい入ったところで、急に明るくなり、そのむこうに龍宮城らしき建物があり、金銀の砂をしき、その美しい光景に気が遠くなりそうでした。やがて二階構えの楼門まできたとき、どうしたことか手足がしびれだし、いまにも砂の中に引き込まれそうになりました。そこで思わず、お経を唱えると、いくぶんかしびれた手足がもとにもどり、大急ぎで浮き上がってきました。
あの楼門の中へ入るには、神仏のお力にすがるほかはありません」
と申しました。

そこで義経は、くらいの高い僧たちを集め、相談したところ、老松が身につける衣に如法経を書き写し、そのお守りで龍宮城に行かせようということになりました。
老松はふたたび海にもぐりました。そして一日一夜も浮き上がってこないので、義経をはじめ僧たちは、もう老松は死んでしまったのか…と、なげき悲しみました。
ところが翌日のお昼ごろポッカリと水面に顔をだしました。義経は心配のあまり、
「どうであったか…」
と、たずねましたが、老松は、法皇さまにおめにかかり、じきじきにお話いたします、と申しました。

やがて老松親子は京にのぼり、法皇さまの前にでて、ふしぎな話をはじめました。
「如法経のお守りで、手足もしびれず龍宮城に入りました。大日本国の帝王のお使いで、壇の浦で失った宝剣をさがしにまいりましたと門番につげると、広いお城の中をあちこちと案内され、とある庭へつれてこられました。
しばらく待つうちに、しだいに風がでてきて、大地がうなり、はげしく氷雨が降ってきました。私は恐ろしくて、今にも逃げ出そうと思いましたが、ここで逃げ出せばお役にたたずと思いじっとがまんしておりますと、やがて風もおさまり、部屋の奥からうすきみ悪い煙がたちのぼり、シュ、シュという音がしはじめました。
何事かと思って、その方に目をうつすと、小山ぐらいはありそうな大蛇が剣を口にくわえ、七、八才のこどもをかかえていました。その目は、らんらんと輝き、口は耳までさけて、真赤な舌がぶきみにのぞいていました。そしてこういいました。

この宝剣は、日本の帝のものではない。もとはといえば、龍宮城の大切な宝である。
というのは、次郎王子なるものが宝剣を持って陸にあがり、出雲の国のひの川に八つの首を持った大蛇となって住み着き、人をのみはじめた。それで、すさのおのみことが大蛇を退治し、そのお腹から、剣をとりだして姉の天照大神に差し上げた。
そのあと日本武尊に渡ったりして、いろいろ持ち主がかわったが、そのたびに大蛇になり、どうかして剣をうばいかえそうとしたが、いずれも失敗におわってしまった。
しかし、うまいぐあいに、今度は安徳天皇に姿をかえ、源平の戦をおこし、ついに宝剣を見事取り返すことができた。
わしがいま口にくわえているのは、まさに、その剣じゃ、かかえているのこどもは、安徳天皇である。
みよ、平家一門の人々はみな、龍宮城におられる。

と、大蛇が扉を開くと大臣をはじめ法師、女官たちが、じっと私を見つめていました。
そして、大蛇は最後に、

この宝剣は、二度と日本国には渡さない。永久にわしのお腹に入れておく、

というなり、赤い舌を巻いて剣を飲み込んでしまいました。
私は、それを見届けるや龍宮城をあとにして、帰ってきたのです。


老松の長い話が終わると、法皇をはじめ義経たちは、深い失望のためいきをつきました。
こうして、三種の神器のうち、剣は、壇の浦の海中深く、龍宮城の大王である大蛇のお腹におさめられたのでした。


(注)
壇の浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたびさがされ、その回数は二十回にもおよんだといわれています。
また、宝剣が沈んで二十七年も過ぎた頃にも、夜など壇の浦の海に光り輝くものがあるという噂が流れたという話も伝わっています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/07 Thu. 10:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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07

下関の地名22 福浦 

龍宮島


 むかし、福浦の港には海賊が出入りして良民を苦しめていた。海賊の屋敷は、この港のあちこちに散らばっていたが、中でも対岸の伝馬島にあるのが一番大きかった。

 ある日のこと、
『あの島の海賊をみんなで退治しようじゃないか』
 という相談がまとまって。村の若い衆が総出で討伐に出かけることになった。

 さて、夜も寝しずまったころ、舟で島に渡り、そぅっと上陸してみたが、どこにも人の気配がない。
『おかしいぞ、こんな筈はない』
 小さな島のこと、みんなで手分けして探し歩いたが、猫の子一匹見つからなかった。
『今夜は、また沖へ出て、悪いことでもしよるんじゃろう。明日の夜、また出なおして来うじゃないか』
 一人の若い衆がそう言ったが、みんなは、なおも、そろっ、そろっと、足音をしのばせて探し歩いた。と、闇のすそからギーっと音がして、一本の松がぐっと傾いた。若者たちは驚いて一斉に身を伏せ、眼をこらした。
 すると、松の根方にぱっくりと穴があいて、雲をつくような大男が出て来た。一人だけではない。二人、三人、四人、九人、十人…と、出るわ出るわ、あとからあとから、数えてみると三十六人。
 大男のくせに足音も立てず、どこからともなく引いてきた船に分乗すると、すーっと屁のように沖へ消えて行った。

 若者たちは、松のまわりに集まって互いに顔を見合わせていたが、突然、一人の度胸者が、松の木を傾けて、根元の穴に入っていった。しばらくの間、ぼゃあっとそれを見ていた若い衆らも、気をとりなおして、そのあとにつづいて入った。

 そして、仰山たまげた。

 穴の中は立派な御殿、いや、さながら龍宮城で、金銀財宝が山と積まれていたからだ。その奥では、美しい着物で着飾った女たちが、ワイワイ騒いで酒盛りの最中であった。
 若者たちは、すっかりその雰囲気にのまれて、しばらく立ちつくしたままだった。すると女たちもそれに気づいたのか、
『まあ、あなた達は、むこう岸からいらしたのですね。私たちは、ずーっと永い間、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ』と手招きして、大いにもてなしてくれた。
 若者たちは、夢遊病者のようにその宴の輪にさそい込まれ、思わず、時間も目的も忘れて美酒に酔いしれてしまった。
 そうしているうちに、海賊どもがぞろぞろと戻って来て、若ものたちは捕らえられたが、たった一人だけ、命からがら逃げ帰り、村の人びとにこのことを告げた。

 あくる朝、村の人びとは総出で伝馬島に押しかけ、若者たちを救おうとしたが、不思議なことに、前の晩の松はどこにも見当たらなかった。
 その夜から、付近の海を荒らす海賊たちは現れなくなったからそれは良いとしても。とらえられた若い衆の行方も、わからないままであったという。


 海賊が居なくなって静けさを取り戻した福浦の人びとは、伝馬島に若衆たちの墓を建てて『龍宮島』と改め、海賊退治に出向いた人びとの勇気をいつまでも語り伝えた。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
龍宮島は、福浦湾の奥まったあたりの、塩浜寄りにある小島であるが、今は陸続きとなっている。
通称、リンゴ山、昔は『海賊島』とも呼ばれていた。
現在、塩浜町の小公園になっているが、この名称は『リュウグウが転じてリンゴになった』と言われている。
尚、この近くには、他にも『海賊谷』『海賊の口』『海賊泊り』『海賊屋敷』などの地名や伝説が残っている。
また、海賊の人数が三十六人というのは、六十三隻江良の逆数であることを考え合わせて、面白い。

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Posted on 2019/02/07 Thu. 09:39 [edit]

category: 下関の地名

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