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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/28 Thu. 11:18 [edit]

category: ひこしま発展誌

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28

与次兵衛瀬 

与次兵衛瀬


むかし、彦島の沖には、暗礁がたくさんあって、ここを通る船はたいてい岩に乗り上げ、沈没しました。
だから船頭たちは、死の瀬といって寄り付かず、よほどの腕のたつ船頭でも、ここを通った後は、神経を使いすぎてグッタリとなったほどでした。

明石与次兵衛は腕のいい船頭でした。

そのころ、天下を治めていたのは、豊臣秀吉で、朝鮮との戦のため、佐賀の名護屋城にいましたが、文禄元年、秀吉の母親が急病という知らせが届き、小倉から日本丸という船に乗り、急ぎ大阪城へ帰ることになりました。

そのとき日本丸の船頭が与次兵衛だったのです。
与次兵衛の胸の中には、ひとつの計画がどす暗く渦巻いておりました。

というのは、与次兵衛の兄、黒崎団右衛門が、以前秀吉の中国地方の戦いの際、毛利家から離れて、秀吉の味方になり勝利へ導いた功労者であったのに、何のほうびももらえず、反対に殺されてしまいました。
その兄の恨みを、いつか自分がはらそうと機会を狙っていたのです。

しかし、秀吉のそばには、いつも力の強そうな家来たちが護衛していて、近づくこともできないありさまです。

いよいよ秀吉が船に乗り込んで小倉を出発する日、与次兵衛は、
「今日という日を逃しては、二度と秀吉を討つ機会はない。彦島の沖合いのあの死の瀬に船を乗り上げ、溺れ死にさせてやろう」
こう密かに胸の中で考えました。

ちょうどその日は、天気は悪く、海峡には白波が立っていましたから、疑われる心配もありません。
もし計画が失敗したも、荒波のため舵をとりそこなったと言えば許してくれるかもしれません。

船は碇をあげて出航しました。
与次兵衛の額からは、じっとり汗がにじみ流れてきました。
そして、いよいよ死の瀬に近づいてきたとき、与次兵衛は、思い切り舵を左にきりました。
日本丸は、荒波を斜めに突き進み、ぐんぐん死の瀬に近づくと、突然“ガガッ、ガガッ、ググッ”と不気味な音がして、船は岩に乗り上げ、見る間に船底が裂け、水がドッと入ってきました。

「あ、何事だ」
「静まれ」
「大変だ」
と、船の上は大騒ぎです。

船は横波を受け、今にも沈みそうです。
家来たちは、一生懸命になって、秀吉公を守ろうと、泳ぎの上手な武士を集め、万が一船が沈没したときは、その肩にでもお乗せして、泳ぐよう申し渡しました。

しかし、幸いなことに、日本丸は岩に乗り上げただけで、沈没はまぬがれ、秀吉はやっとのことで助け出されました。

その後、与次兵衛は、取調べの役人に、舵がきかなかったからと、いろいろ説明しましたが、聞き届けられず、門司大里の浜で打ち首になりました。

それから、この死の瀬のことを、だれいうとなく与次兵衛瀬と呼ぶようになりました。


(注)
この与次兵衛瀬に、与次兵衛碑がたっていましたが、明治43年からはじまった関門海峡第一期工事で瀬を砕き、海峡の障害物を除きました。
そのとき碑は、彦島に持って行き、その後第四港湾の建物内に引越しましたが、昭和29年門司側が引き取り、今は、めかり公園にあります。


『下関の民話』下関教育委員会編


追記
現在は、下関市のアルカポート内の赤間神宮側に、その碑はあります。
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Posted on 2019/02/28 Thu. 11:02 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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28

磨墨と生づき 

磨墨と生づき(するすみといけづき)下関市豊浦


 ある日のことだ。
 一頭の馬が、御崎山(みさきやま:下関吉母)の牧(牧場)をきもくるわんばかりにかけまわっていた。
 かわいい子馬が見えなくなったのだ。
 あちらの山、こちらの山と、母馬はかけまわった。けれども、いくらさがしても見つからなかった。

 日は、まもなく海にしずもうとしていた。
 母馬は、牧じゅうをさがしまわったあと、淵が谷(ふちがたに)の滝つぼまでやってきた。ふと、その滝つぼをのぞいた。
 子馬がいた。
 母馬は、それが滝つぼにうつった自分のすがただとはしらない。母馬は、うれしさのあまり、滝つぼの子馬めがけて身をおどらせた。

 子馬は、遊びつかれて、母馬のいるところへ帰ってきた。

 しかし、母馬のすがたはなかった。
 ヒヒーン。
 子馬は、母馬をもとめていなないた。それからというもの、母馬をさがしもとめる子馬のいななきが御崎山の牧にたえることがなかった。
 なかまの子馬がさそっても、いつもひとりで母馬をさがしもとめてはいなないていた。

 ある日、子馬は、岬のはしに立って、母馬をよんだ。
 すると、海のむこうの蓋井島(ふたおいじま)から、なつかしい母馬のいななきが聞こえてきた。
 それがこだまとはしらない。
 子馬は、高いがけから海にとびこんだ。
 そして、荒波にもまれながら、蓋井島めざして泳いだ。

 やっと泳ぎついた島。

 しかし、そこに、母馬のすがたはなかった。
 うちひしがれた子馬は、牧に向かって、ひと声高くいなないた。
 すると、こんどは御崎山の方から母馬の声が返ってきた。
 子馬は、つかれもわすれて、また海へとびこんだ。

 御崎山と蓋井島の間を何回となく行き来しているうちに、いつしか子馬はくろがねのようなたくましい馬に育っていった。
 この馬が、のちに源頼朝(みなもとのよりとも)の愛馬となった名馬磨墨(するすみ)であったといわれている。


 一方、生づきという馬がいた。
 この生づきは、ふしぎなことに、磨墨が母馬をさがしもとめてわたったという蓋井島で生まれ育った。
 生づきは、生まれて半年もたたぬうちに母馬に死にわかれた。
 まだおさない子馬は、母馬をしたって、なきくらしていた。

 ある朝のこと、飼い主は、生づきの毛なみが、しずくがたれるほどぬれているのに気づいた。どうしたことだろうかとふしぎに思って気をつけていると、次の朝も、その次の朝も、やはりびっしょりぬれている。
 とうとう飼い主は、ねずの番で、しのわけを見とどけることにした。

 月の美しい夜だった。

 月に向かって、子馬が大きくいなないた。
 と、広い海をこえて、吉母のあたりからいななきがかえってきた。子馬は、やにわにさくをこえて、海べに向かってかけた。海べへ出ると、そのまま海へとびこんで、声のした方へめざして泳ぎだした。
 子馬のすがたは、やがて海のむこうに見えなくなった。

 しばらくすると、こんどは、本土の方から生づきのいななく声が聞こえた。

 やがて、波しぶきをあげながら、生づきがもどってきた。
「さては、こだまを母馬の声と思って、ああしていつも、海をわたっていたのか。」
 母馬を思う子馬の心にうたれた飼い主は、だいじにだいじに子馬を育てた。
 海できたえただけあって、生づきは、かんのするどい、すばらしい馬に成長した。

 こうして、生づきも東国の馬商人に買いとられ、やがて頼朝の愛馬となったということである。

 のちに宇治川の合戦(1184年)で、梶原源太景季(ふじわらのげんたかげすえ)の乗った磨墨と、佐々木四郎高綱(ささきのしろうたかつな)の乗った生づきとが、宇治川で先陣争いをしたという話は、あまりにも有名である。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/02/28 Thu. 10:41 [edit]

category: 下関の民話

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28

農業者の団体組織と生産進歩の過程5 

農業者の団体組織と生産進歩の過程5


彦島に温室栽培を取り入れた動機は、西部地区に大正5年に日本金属が亜鉛の精錬工場を建設して亜硫酸ガスが発生し、それが拡散して作物が出来ないようになり、はなはだしい所では土地に染み込んで草木も枯れていくようになりました。
この煙害対策として考え出したのが温室で、迫・西山地区を始め彦島各地で建てられるようになりました。

最初に温室栽培を始めた人は、富田岩吉氏であります。
富田氏が永年にわたる試験栽培の結果、良い結果を得たので本格的な生産に取り組み、彦島各地の農家に広めたのであります。
初めはメロンやキュウリなど種類は少なかったのであります。

この温室も戦争末期に2500坪近くあったものが、軍の司令で8割がガラスの徴発を受けたため、また頓挫をきたしておりました。
これを昭和25年頃から漸次増築して、現在では以前に勝る3000坪以上となり、菊などの花卉栽培を取り入れ、西部地区のみでなく彦島全域の農業経営に役立っているわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/27 Wed. 11:01 [edit]

category: ひこしま発展誌

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27

羽根石 

羽根石


 現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。

 弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。

 むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
 そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
 船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。

 それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
 そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
羽根石のあった沖の洲は、内務省による大和町埋め立ての際に姿を消し、石船から海中に捨てられた大石群は、昭和四十三年、第四港湾によって引き揚げられ、現在は赤間神宮境内に『太閤石』と名付けられて保存されている。
但し、同神宮の『太閤石由来文』はこの話といささか異なるようである。
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Posted on 2019/02/27 Wed. 10:38 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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片目の虻 

片目の虻


豊浦町黒井と内日とにまたがって620メートルの鬼が城という山があります。

むかし、むかし、この山に大江山の酒呑童子の一の子分といわれる霞隠鬼が逃げ込んできました。
この山の頂上に石で城を築き、洞窟を造りました。鬼は、この洞窟を鬼の穴と名前をつけ、しだいに里におりては、食物をかっぱらったり、牛や鶏を殺しては、穴に運びいれました。
食べ物が無くなると、また里におりては悪いことをするので、村人たちは、五人一組で夜回りを始めましたが、なにしろ相手はすばしこく、せっかく見つけても取り逃がすばかりです。
といって、村人たちで、鬼が城を攻める勇気もありません。村人たちの中には、とうとう恐ろしくなって引っ越すものもでてきました。

鬼の方も、だんだん悪いことになれて、昼間から里に姿を現すようになりました。
ある日、鬼が大歳神社のそばを通りかかり、宮司の家を覗き見したところ、そこに宮司の娘、登葉が針仕事をしていました。
さあ鬼は、この登葉に一目ぼれしてしまいました。
それもそのはずです。登葉は、村でも評判の美しい娘でしたから。

それからというもの、毎晩のように鬼は里に出て、登葉の部屋をのぞき、登葉を一目見たときは、おとなしくして鬼の穴に戻り、登葉がいないときは、村中を荒らしまわって帰りました。
村人たちもしだいに鬼の習性を知って、
「登葉さんには気の毒だが、村のためを思って、いっそのこと鬼のお嫁さんになってはくれまいかのう」
と、かげで話し合うようになりました。

こうした村人たちの声が登葉と父親の耳にも入りました。
そこで親子は、ある計画をたてました。
「登葉や、うかうかしていると、村人たちは無理やりにでも、お前を鬼の嫁にしてしまうぞ、それよりも先に鬼のやつがお前をさらいにくるかもしれん。どちらにしても、鬼をどうにかして退治するほかに助かる道はない」
「それならお父さん、私は今晩一番きれいな着物をきて、念入りにお化粧します。鬼がのぞきにきたとき、おりをみて矢で射殺してください」

夜がきました。丸いお月様が鬼が城の上にポッカリ浮かんでいます。
月の光をあびて、登葉は、また一段と美しく見えましたが、心の中は、恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。
しだいに鬼の足音が近づいてきます。父親は、弓に矢をつがえて部屋のすみで様子をうかがっていますが、足がガクガクしてきて、落ち着かなくなってきました。
もし失敗して鬼を怒らせば、自分は殺され、登葉はきっとさらわれるにちがいありません。

やがて、格子のすき間から大きな眼がのぞきました。
さいわい鬼は、登葉の美しい姿に見とれて父親が矢をつがえて待っていることに気がついていないようでした。
父親は、大きく呼吸をすると、鬼の眼に狙いを定め、パッと矢を放つと確かに手ごたえがあったとみえて、鬼はギャーといって地面をのたうち回りました。

あくる日、こわごわのぞいてみますと、血が点々と鬼が城の山頂までつづき、鬼の穴で片目に矢が突き刺さったままで死んでいる鬼をみつけました。


それいらい、この土地の虻(あぶ…ハエより少し大きい昆虫)は、不思議なことにみな片目で、村の人たちは、片目を射られて死んだ鬼が、虻に化身したのだろうと噂しました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/27 Wed. 10:20 [edit]

category: 下関の民話

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農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:43 [edit]

category: ひこしま発展誌

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与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、いろいろな説がある。例えば『打ち首』に対して、『何のおとがめも無かったが、門司の浜で自分から切腹して果てた』というのもその一つである。
その後、寛文十年(1670年)彦島の人びとが浄財を集めて『死の瀬』に石塔を建て、『与次兵衛ヶ瀬』と名付けたという。
旧記によれば、植田惣市という人が建てたことになっているが、これが寛文十年の石塔であるかどうかは解らない。しかし、この石塔は、海峡を航行する船舶から非常に重宝がられ、いつの頃からか、通航料を置いていく船も出はじめた。
ところがこの碑も、明治四十三年、関門航路修築の際に取り除かれ、その後、大正三年以来、彦島弟子待に放置されたままであったが、いつのまにか下関唐戸桟橋近くの岸壁に移され、それからまた第四港湾建設局の構内に保管されることになった。保管といっても、いつ見てもゴロンと横にころがったままであったが、昭和二十九年、門司側が引き取って、さっさと、めかり公園に建ててしまった。
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。
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Posted on 2019/02/26 Tue. 10:59 [edit]

category: 下関の民話

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農業者の団体組織と生産進歩の過程3 

農業者の団体組織と生産進歩の過程3


耕作面積も次第に減少を続けて田三十町歩、畑が百十町歩となったのであります。
したがって農家も「一町歩百姓」が「四反百姓」となり、まだ減っていく恐れがあります。

このような耕作地の減少傾向に対処するため、昭和の初めから一部の農家は温室事業を取り入れて生産方式の改善を図りました。
この温室は昭和8年頃から盛んになり、露地栽培の野菜を温室栽培に切り替える農家が増えてきました。
ところが昭和12年の日中戦争以降、農産物は統制され米穀中心に切り替えられ、併せて供出制度が布かれて米麦も一定量以上は持つことができず、あとは全て供出しておった次第で、温室栽培も頭打ちになったのであります。

昭和20年8月の敗戦で食糧難が深刻化してきまして、農民も自分で作りながら食料に不自由しておったのでありますが、わが国民が共に苦しみを分け合うことは当然のことであるので、進んで供出に参加したのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/25 Mon. 12:53 [edit]

category: ひこしま発展誌

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