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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/28 Thu. 11:18 [edit]

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農業者の団体組織と生産進歩の過程5 

農業者の団体組織と生産進歩の過程5


彦島に温室栽培を取り入れた動機は、西部地区に大正5年に日本金属が亜鉛の精錬工場を建設して亜硫酸ガスが発生し、それが拡散して作物が出来ないようになり、はなはだしい所では土地に染み込んで草木も枯れていくようになりました。
この煙害対策として考え出したのが温室で、迫・西山地区を始め彦島各地で建てられるようになりました。

最初に温室栽培を始めた人は、富田岩吉氏であります。
富田氏が永年にわたる試験栽培の結果、良い結果を得たので本格的な生産に取り組み、彦島各地の農家に広めたのであります。
初めはメロンやキュウリなど種類は少なかったのであります。

この温室も戦争末期に2500坪近くあったものが、軍の司令で8割がガラスの徴発を受けたため、また頓挫をきたしておりました。
これを昭和25年頃から漸次増築して、現在では以前に勝る3000坪以上となり、菊などの花卉栽培を取り入れ、西部地区のみでなく彦島全域の農業経営に役立っているわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/27 Wed. 11:01 [edit]

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農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:43 [edit]

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農業者の団体組織と生産進歩の過程3 

農業者の団体組織と生産進歩の過程3


耕作面積も次第に減少を続けて田三十町歩、畑が百十町歩となったのであります。
したがって農家も「一町歩百姓」が「四反百姓」となり、まだ減っていく恐れがあります。

このような耕作地の減少傾向に対処するため、昭和の初めから一部の農家は温室事業を取り入れて生産方式の改善を図りました。
この温室は昭和8年頃から盛んになり、露地栽培の野菜を温室栽培に切り替える農家が増えてきました。
ところが昭和12年の日中戦争以降、農産物は統制され米穀中心に切り替えられ、併せて供出制度が布かれて米麦も一定量以上は持つことができず、あとは全て供出しておった次第で、温室栽培も頭打ちになったのであります。

昭和20年8月の敗戦で食糧難が深刻化してきまして、農民も自分で作りながら食料に不自由しておったのでありますが、わが国民が共に苦しみを分け合うことは当然のことであるので、進んで供出に参加したのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/25 Mon. 12:53 [edit]

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農業者の団体組織と生産進歩の過程2 

農業者の団体組織と生産進歩の過程2


日露戦争後に北九州で工業が非常に発達し、人口の増加に伴いまして野菜が売れるようになったので、芋・麦の耕作を減じて野菜作りが盛んになったのであります。
迫・西山地区は砂地で野菜作りに非常に適していたので一面に野菜畑が広がり、その販路は下関はもとより北九州の各市まで及んだのであります。
これに刺激されて他の地区でも一斉に野菜作りに転換をはじめたのであります。

ところが第一次世界大戦後の全国的な好況の波に乗って、彦島に工場の進出が相次ぎ、西山にも日本金属が亜鉛の精錬所を建設することになって、あの広い野菜畑が工場となってしまったのであります。
西山だけでなく彦島各所に工場が次々にできるので、田畑はつぶされて、せっかく野菜に活路を見いだし、販路を拡大していたのが、この時期に頓挫してしまいました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/24 Sun. 12:44 [edit]

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