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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/28 Thu. 11:18 [edit]

category: ひこしま発展誌

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磨墨と生づき 

磨墨と生づき(するすみといけづき)下関市豊浦


 ある日のことだ。
 一頭の馬が、御崎山(みさきやま:下関吉母)の牧(牧場)をきもくるわんばかりにかけまわっていた。
 かわいい子馬が見えなくなったのだ。
 あちらの山、こちらの山と、母馬はかけまわった。けれども、いくらさがしても見つからなかった。

 日は、まもなく海にしずもうとしていた。
 母馬は、牧じゅうをさがしまわったあと、淵が谷(ふちがたに)の滝つぼまでやってきた。ふと、その滝つぼをのぞいた。
 子馬がいた。
 母馬は、それが滝つぼにうつった自分のすがただとはしらない。母馬は、うれしさのあまり、滝つぼの子馬めがけて身をおどらせた。

 子馬は、遊びつかれて、母馬のいるところへ帰ってきた。

 しかし、母馬のすがたはなかった。
 ヒヒーン。
 子馬は、母馬をもとめていなないた。それからというもの、母馬をさがしもとめる子馬のいななきが御崎山の牧にたえることがなかった。
 なかまの子馬がさそっても、いつもひとりで母馬をさがしもとめてはいなないていた。

 ある日、子馬は、岬のはしに立って、母馬をよんだ。
 すると、海のむこうの蓋井島(ふたおいじま)から、なつかしい母馬のいななきが聞こえてきた。
 それがこだまとはしらない。
 子馬は、高いがけから海にとびこんだ。
 そして、荒波にもまれながら、蓋井島めざして泳いだ。

 やっと泳ぎついた島。

 しかし、そこに、母馬のすがたはなかった。
 うちひしがれた子馬は、牧に向かって、ひと声高くいなないた。
 すると、こんどは御崎山の方から母馬の声が返ってきた。
 子馬は、つかれもわすれて、また海へとびこんだ。

 御崎山と蓋井島の間を何回となく行き来しているうちに、いつしか子馬はくろがねのようなたくましい馬に育っていった。
 この馬が、のちに源頼朝(みなもとのよりとも)の愛馬となった名馬磨墨(するすみ)であったといわれている。


 一方、生づきという馬がいた。
 この生づきは、ふしぎなことに、磨墨が母馬をさがしもとめてわたったという蓋井島で生まれ育った。
 生づきは、生まれて半年もたたぬうちに母馬に死にわかれた。
 まだおさない子馬は、母馬をしたって、なきくらしていた。

 ある朝のこと、飼い主は、生づきの毛なみが、しずくがたれるほどぬれているのに気づいた。どうしたことだろうかとふしぎに思って気をつけていると、次の朝も、その次の朝も、やはりびっしょりぬれている。
 とうとう飼い主は、ねずの番で、しのわけを見とどけることにした。

 月の美しい夜だった。

 月に向かって、子馬が大きくいなないた。
 と、広い海をこえて、吉母のあたりからいななきがかえってきた。子馬は、やにわにさくをこえて、海べに向かってかけた。海べへ出ると、そのまま海へとびこんで、声のした方へめざして泳ぎだした。
 子馬のすがたは、やがて海のむこうに見えなくなった。

 しばらくすると、こんどは、本土の方から生づきのいななく声が聞こえた。

 やがて、波しぶきをあげながら、生づきがもどってきた。
「さては、こだまを母馬の声と思って、ああしていつも、海をわたっていたのか。」
 母馬を思う子馬の心にうたれた飼い主は、だいじにだいじに子馬を育てた。
 海できたえただけあって、生づきは、かんのするどい、すばらしい馬に成長した。

 こうして、生づきも東国の馬商人に買いとられ、やがて頼朝の愛馬となったということである。

 のちに宇治川の合戦(1184年)で、梶原源太景季(ふじわらのげんたかげすえ)の乗った磨墨と、佐々木四郎高綱(ささきのしろうたかつな)の乗った生づきとが、宇治川で先陣争いをしたという話は、あまりにも有名である。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/02/28 Thu. 10:41 [edit]

category: 下関の民話

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農業者の団体組織と生産進歩の過程5 

農業者の団体組織と生産進歩の過程5


彦島に温室栽培を取り入れた動機は、西部地区に大正5年に日本金属が亜鉛の精錬工場を建設して亜硫酸ガスが発生し、それが拡散して作物が出来ないようになり、はなはだしい所では土地に染み込んで草木も枯れていくようになりました。
この煙害対策として考え出したのが温室で、迫・西山地区を始め彦島各地で建てられるようになりました。

最初に温室栽培を始めた人は、富田岩吉氏であります。
富田氏が永年にわたる試験栽培の結果、良い結果を得たので本格的な生産に取り組み、彦島各地の農家に広めたのであります。
初めはメロンやキュウリなど種類は少なかったのであります。

この温室も戦争末期に2500坪近くあったものが、軍の司令で8割がガラスの徴発を受けたため、また頓挫をきたしておりました。
これを昭和25年頃から漸次増築して、現在では以前に勝る3000坪以上となり、菊などの花卉栽培を取り入れ、西部地区のみでなく彦島全域の農業経営に役立っているわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/27 Wed. 11:01 [edit]

category: ひこしま発展誌

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片目の虻 

片目の虻


豊浦町黒井と内日とにまたがって620メートルの鬼が城という山があります。

むかし、むかし、この山に大江山の酒呑童子の一の子分といわれる霞隠鬼が逃げ込んできました。
この山の頂上に石で城を築き、洞窟を造りました。鬼は、この洞窟を鬼の穴と名前をつけ、しだいに里におりては、食物をかっぱらったり、牛や鶏を殺しては、穴に運びいれました。
食べ物が無くなると、また里におりては悪いことをするので、村人たちは、五人一組で夜回りを始めましたが、なにしろ相手はすばしこく、せっかく見つけても取り逃がすばかりです。
といって、村人たちで、鬼が城を攻める勇気もありません。村人たちの中には、とうとう恐ろしくなって引っ越すものもでてきました。

鬼の方も、だんだん悪いことになれて、昼間から里に姿を現すようになりました。
ある日、鬼が大歳神社のそばを通りかかり、宮司の家を覗き見したところ、そこに宮司の娘、登葉が針仕事をしていました。
さあ鬼は、この登葉に一目ぼれしてしまいました。
それもそのはずです。登葉は、村でも評判の美しい娘でしたから。

それからというもの、毎晩のように鬼は里に出て、登葉の部屋をのぞき、登葉を一目見たときは、おとなしくして鬼の穴に戻り、登葉がいないときは、村中を荒らしまわって帰りました。
村人たちもしだいに鬼の習性を知って、
「登葉さんには気の毒だが、村のためを思って、いっそのこと鬼のお嫁さんになってはくれまいかのう」
と、かげで話し合うようになりました。

こうした村人たちの声が登葉と父親の耳にも入りました。
そこで親子は、ある計画をたてました。
「登葉や、うかうかしていると、村人たちは無理やりにでも、お前を鬼の嫁にしてしまうぞ、それよりも先に鬼のやつがお前をさらいにくるかもしれん。どちらにしても、鬼をどうにかして退治するほかに助かる道はない」
「それならお父さん、私は今晩一番きれいな着物をきて、念入りにお化粧します。鬼がのぞきにきたとき、おりをみて矢で射殺してください」

夜がきました。丸いお月様が鬼が城の上にポッカリ浮かんでいます。
月の光をあびて、登葉は、また一段と美しく見えましたが、心の中は、恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。
しだいに鬼の足音が近づいてきます。父親は、弓に矢をつがえて部屋のすみで様子をうかがっていますが、足がガクガクしてきて、落ち着かなくなってきました。
もし失敗して鬼を怒らせば、自分は殺され、登葉はきっとさらわれるにちがいありません。

やがて、格子のすき間から大きな眼がのぞきました。
さいわい鬼は、登葉の美しい姿に見とれて父親が矢をつがえて待っていることに気がついていないようでした。
父親は、大きく呼吸をすると、鬼の眼に狙いを定め、パッと矢を放つと確かに手ごたえがあったとみえて、鬼はギャーといって地面をのたうち回りました。

あくる日、こわごわのぞいてみますと、血が点々と鬼が城の山頂までつづき、鬼の穴で片目に矢が突き刺さったままで死んでいる鬼をみつけました。


それいらい、この土地の虻(あぶ…ハエより少し大きい昆虫)は、不思議なことにみな片目で、村の人たちは、片目を射られて死んだ鬼が、虻に化身したのだろうと噂しました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/27 Wed. 10:20 [edit]

category: 下関の民話

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27

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

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昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:43 [edit]

category: ひこしま発展誌

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