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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程1 

農業者の団体組織と生産進歩の過程1

語り手 植田五作

植田五作氏は迫町において長年農業に従事され、また種々の事業を手がけられてこの地区の発展に寄与しておられる方であります。
かつて彦島の村議会議員・町議会議員としても活躍され、下関と合併後は市議会議員として市政に参与し、彦島の発展のために尽くされておられます。
一方、彦島農業協同組合の組合長として、長年農業者の発展振興のために献身しておられる、人格高潔で住民からの信望も篤い方であります。

明治の中頃までの彦島の農家は、生産物としては米麦が主体であって、それに雑穀・生姜などを交えた農業であったのであります。
これが明治末期の日露戦争のころは野菜もかなり栽培されるようになりました。
その当時の耕作面積は田が百十町歩、山林が三百町歩ぐらいで、これを耕作している農家は二百五十戸内外であったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:37 [edit]

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人口増加の趨勢について3 

人口増加の趨勢について3


昭和7年、かねてより政府の手によって彦島東部沖の「沖の洲」海面に進められていた十六万坪の埋め立てが完工するとともに、彦島と下関が運河渡しで行き来できるようになりました。
それまでは海士郷、伊崎間を船で往来していたのでありましたが、小戸海峡の潮流を止め彦島と伊崎、竹崎、大和町で囲み、東洋一の漁港が出来上がりました。
その上、本土・九州間を繋ぐところの鉄道海底トンネルが完成し、線路が大和町の中央を走るようになり、これと並行して下関駅の移転もありました。

このような埋立地の利用度の増加と共に、大漁港の出現によりまして、漁船の管理・造船・修理の必要上から、多くの造船所またはこれに関連の工場が幾多建設せられ、彦島は発展に発展を重ねたのであります。
しかし、彦島に上水道がなく工場誘致には、この水が問題でありますために、ついに彦島発展のためとして昭和8年3月、下関市と合併いたしました。
当時の戸数は4700戸、人口は21651人となりました。

現在、昭和32年10月1日調査では、戸数は10208戸、人口は44508人となりまして、産業経済共に下関市の心臓部として脈々と活動しておる次第であります。
人口も日に日に増加の一途をたどっております。

以上で私に与えられた人口増加の趨勢についてのお話を終わりたいと思います。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/21 Thu. 12:30 [edit]

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人口増加の趨勢について2 

人口増加の趨勢について2


彦島が独立しました明治22年の戸数・人口については、第二次世界大戦で下関市役所が空襲を受けて、彦島の記録が焼失してしまったので正確な数は分かりませんが、おおよそ戸数500戸、人口3500人程度の農漁村でありました。
明治40年にいたり戸数1516戸、人口6554人となりました。

当初村役場庁舎は本村の民家を借り入れてこれに充てていたのでありますが、42年に現在の庁舎を新築し同43年に移転いたしました。
その時の戸数は1529戸、人口が8584人でありました。

このころから彦島工業化が進み、やがて神戸以西の西日本屈指の大工業地帯となり、戸数・人口とも飛躍的に増加したのであります。
この工場進出について申し上げますと、明治38年に福浦に大日本人造肥料株式会社、現在の日東硫曹が建設され、続いて大正3年12月に江の浦の三菱合資会社の埋め立てに、同社船舶部彦島造船所が建設され、同じく大正5年の3月には西山に日本金属株式会社彦島精錬所の建設、同5年10月に老に林兼商店が鉄工所を建設、なお冷蔵庫ならびに製缶部、製鋼部を新設いたしました。
その後も小工場の施設が続々と増えまして、人口も著しく増加し大正10年10月の町制施行時の戸数は3543戸、人口は15922人となりました。

大正12年、字迫にクロード式窒業株式会社の建設がありました。
かくのごとく大工場の新設でますます人口が増え、大正15年の調査によりますと、戸数は4147戸、人口は18140人となりました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/20 Wed. 11:02 [edit]

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人口増加の趨勢について1 

人口増加の趨勢について1

語り手 安光清一

彦島の人口増加の趨勢について安光清一氏からお話を伺います。
安光氏は現市議会議員、山口県地方都市計画常任理事、下関市第十六連合会自治会長として地域の発展に活躍しておられます。

ただいまから彦島の人口増加の趨勢について、申し述べることにいたします。
これは過去の記録ならびに、現存の長老の方から承ったお話を参考にして申し上げたいと思います。

彦島は明治4年の区制実施に従いまして、山口県豊浦郡第九区第三小区に編入せられ、超えて明治16年赤間関区に編入せられまして、彦島および六連島を治めるために戸長役場が置かれ、時の戸長に植田謙輔氏が命ぜられました。
さらに明治19年に赤間関区の直轄に移され、区長の指揮下に入ったわけであります。

その後明治22年、町村制の実施に伴いまして、再び豊浦郡の管轄下へ移されました。
赤間関より分離して豊浦郡彦島村として、同列の自治体となった次第であります。

その当時、大字彦島、大字六連島の二つの大字に分けて、彦島を「海士郷、老、本村、江の浦、弟子待、田の首、福浦、迫、西山、竹の子島」の十字とせられたそうであります。
元来、天恵の地形であるため、各種の会社・工場の建設をみるにいたりまして人口も著しく増加しました。
大正10年10月1日に彦島町として町制が施行せられるようになりました。


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Posted on 2019/02/19 Tue. 11:43 [edit]

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青年の自主的修養の時代3 

青年の自主的修養の時代3


以上の「泊まり宿」の風習は封建的との謗りもありましょうが、人間的に完成することには非常に効果があったものだと思われます。
しかるに日進月歩の文化の進歩は、この島の交通事情にも影響をおよぼし、外部との人的交流も繁くなるにつれ「泊まり宿」の習慣も下火となり、大正時代の初め遂にその姿を消すことになりました。

明治43年には青年団が組織されました。
この組織は青年の意欲にマッチしたのか、またはマッチしなかったのかわかりませんが、容易に成績があがらず、県の訓令によって、団則や年令等に種々改革を重ねたものであります。
しかし、青年の自主的な修養涵養の機会は大変少なくなったのであります。

「泊まり宿」の風習は、時代遅れの旧式な方法とみることもできましょうが、昭和の現在、青少年の不良化を強く憂慮されております今日、この育成補導のうえから深く考察されるべきことではありますまいか。
この「泊まり宿」のしきたりは、彦島では各部落で行われていたようでありますが、二、三の部落によっては、有力者の熱意が過剰となり、ボス的な縄張り意識を持って、縁組関係にまで排他的になる事態が生じる等、弊害が著しいため廃止になった例もあります。

良いものが良いままで永続できにくいことは、いつの時代でも起こりがちなことではないでしょうか。


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Posted on 2019/02/18 Mon. 11:52 [edit]

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