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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

小瀬戸の海ぼうず 

小瀬戸の海ぼうず


 関門海峡は、むかし二つに分かれておって、それぞれ、大瀬戸、小瀬戸と呼ばれたものじゃ。

 そのころ、小瀬戸の潮のながれは日本一はやかった。だが、どんなに早ようても、一日に何回かは、かならず流れが止まる。そのときを見はかろうて、漁師たちは舟をだした。


 ある、霧のふかい朝のこと。
 小瀬戸に近い浜辺の漁師が舟をだそうとすると、波うちぎわに大入道がすわっておった。
『うわあっ』
 漁師はびっくりして、ころげるように逃げかえった。そして、家の戸をぴたっと閉めて、しばらくがたがたとふるえておったが、おちついて考えてみると、大入道のようすが、どっかおかしかったことに気がついた。なんだか、もがき苦しんでおったようにも思える。
『もしも病気なら、よもや食いつきはすまい』

 漁師は、ひとりごとを言いながら浜辺にとってかえし、こわごわと大入道をのぞきこんだ。
『いったい、どうしたんじゃ。どこか、気分でもわるいんか』
『うん。頭のうしろに、なにやら刺さっちょるらしい。ゆんべから、痛うてやれん。すまんが、抜いてくれんか』
 大入道の声は、思うたよりも、ずっとずっとやさしかった。
『おまえさんがあんまり大きゅうて、わしにはなんも見えんが、背中にのぼってもええかいの』
『うん、ええけ』

 漁師が、おそるおそる大入道の背中によじのぼってみると、もり(さかなをつきさす鉄製の道具)が、頭に突き刺さっておった。
『これじゃあ、痛いはずじゃ。誰ぞの流したもりが、刺さったんじゃろう』
 力を込めて引き抜いてやると、大入道は、
『うーん』
とひと声うなって、気絶してしもうた。漁師は大急ぎで家にかえり、いろんな薬をもってきて、頭の手あてをしてやったんじゃと。

 しばらくたって大入道は、ようやく気がついた。そして、うれしそうに顔をあげて、ゆっくりと、こう言うた。
『わしは、この小瀬戸に住む海ぼうずで、むかしから、潮の流れを止める役目をつとめちょるが、傷がなおるまでは、それもできんじゃろう。ほいやけ、きょうから四、五日のあいだは、だれも舟を出さんよう、浜の衆に伝えてくれ』
 言いおわると大入道は、すうっと海に消えてしもうた。

 漁師は家にかえって、村の衆にそのことを伝えたが、誰も信じるものはなかった。それどころか、
『なにを寝ぼけたことを言いよる。潮は、むかしから、決まった時間にとまることになっちょるわい。それ、もうすぐ、その潮どきじゃ』
 と言うて、次々に舟をだして、漁にでかけたそうな。

 ところが、いつもの時間になっても、きょうに限って潮の流れは、いっこうに止まらん。どの舟も、どの舟も、日本一はやい小瀬戸の潮の流れに巻きこまれて、またたくまに海に沈んでしもうた。
 四、五日たつと、大入道の傷がなおったとみえて、いつものように、潮が止まりはじめた。だが浜の人たちは、
『舟が沈んだのは海ぼうずのせいじゃ。こんなおそろしいとこには居れん』
 と言うて、よその土地へ逃げていった。

 たったひとり残された漁師は、ときどき浜辺に遊びにくる大入道を話し相手にして、いつまでも、楽しく暮らしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
私が小学生の頃までは、彦島の老婆たちは『海士郷の海で泳いだら、海坊主に食われる』と、よく言ったものである。
これによく似た『海ヘビ』の話も残されているが、いずれも小瀬戸の急流で遊ぶことを戒めたものであろうか。
ともあれ、この話は、一度、海坊主とやらに会ってみたいと思わせる楽しい物語ではある。
この話について岩国短期大学学長・松岡利夫氏は『山口県の民話』(偕成社刊)で、『海ぼうずは海上にあらわれるという妖怪の一つです。北浦の漁師の間で話されており、海入道とも言っています。そして、海ぼうずが出てもなるべく見ないように、またものを言わないように、ものを言うとたちまち舟をひっくり返されてしまうと言われています。ところが、この本では海ぼうずが漁師に助けられるというふうで、全国的に見ても珍しい話です』と解説しておられる。
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Posted on 2019/02/25 Mon. 12:23 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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平家がに 

平家がに


源平合戦にまつわる伝説はたくさんあります。
これもその一つ。

壇の浦の漁師たちは、魚を釣るとき、かならず船板に正座して釣糸をたれます。
いつのころから、誰がはじめたのかわかりません。漁師たちは、正座しているほうが、釣りの勘がよくはたらくといいます。
また、こうしていれば、なんとなく心も落ち着くといいます。

もう一つは、平家の落人がこの壇の浦に住み着いて漁師をはじめましたが、以前宮中に住んでいたころの作法が身について、正座するようになったともいいます。

この海峡では、平家がにがとれます。中型のカニで、甲の長さ3センチ、脚をのばすと約15センチぐらいになります。
そして背の甲に、人の面ににた隆起があります。が、これが平家の武士たちのうらみの形相そっくりなので、平家がにといっています。

また海に消えていった官女の生まれ変わった姿といわれる10センチぐらいの美しいタイのことを小平家(こべけ)といって、毎年七、八月ごろになると、金色のうろこに白い斑点のあるこのタイが海峡にあらわれます。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/25 Mon. 12:03 [edit]

category: 下関の民話

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農業者の団体組織と生産進歩の過程2 

農業者の団体組織と生産進歩の過程2


日露戦争後に北九州で工業が非常に発達し、人口の増加に伴いまして野菜が売れるようになったので、芋・麦の耕作を減じて野菜作りが盛んになったのであります。
迫・西山地区は砂地で野菜作りに非常に適していたので一面に野菜畑が広がり、その販路は下関はもとより北九州の各市まで及んだのであります。
これに刺激されて他の地区でも一斉に野菜作りに転換をはじめたのであります。

ところが第一次世界大戦後の全国的な好況の波に乗って、彦島に工場の進出が相次ぎ、西山にも日本金属が亜鉛の精錬所を建設することになって、あの広い野菜畑が工場となってしまったのであります。
西山だけでなく彦島各所に工場が次々にできるので、田畑はつぶされて、せっかく野菜に活路を見いだし、販路を拡大していたのが、この時期に頓挫してしまいました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/24 Sun. 12:44 [edit]

category: ひこしま発展誌

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六人武者 

六人武者


 壇ノ浦の合戦で平家が滅び、そして何年かたったころの話です。

 彦島の対岸、小門の王城山に中島四郎太夫正則という悪者が住んでいました。
 もともと平家一門であった四郎太夫は、一門再興を願っていましたが、いつのまにか、その望みもなくなり、とうとう海賊に身をやつしてしまったのです。

 ある寒い冬のことです。

 四郎太夫は、息子とその家来四人をつれて竹ノ子島を襲い、略奪のかぎりをつくしました。その上陸地は今でも『六人武者の江良』と呼ばれ、竹ノ子島は古く『鬼ヶ島』と呼ばれたものでした。
 六人武者は彦島へも足を伸ばし、あちこちで悪事を働きました。西山の『波高』という地名は、住民の殆どが裸にされてしまったからで、『渡瀬』は『有り金ぜんぶ渡せ』とおどされた所からきているといいます。
 また、迫の『荒田』は、住民をここに集めて財産の有無をあらためた所で、その隣の『絞』は、何もかも絞り取られた人びとの集落となった地名だということです。


 やがて、四郎太夫ら六人の海賊は、彦島だけでは飽きたらず、九州にまで勢力を伸ばしはじめました。そこで豊前の人びとが海賊征伐に立ち上がり、兵百五十人と船六十三隻が福浦の海に集結しました。

 福浦には今でも『六十三隻江良』という磯が残っており、対岸の塩浜には『海賊島』や『海賊泊り』も現存しています。
 その時、豊前の兵は、南風泊の漁師たちに海賊の様子を訊ね歩きましたが、どの漁師も後難を恐れて『聞かぬ』『聞かぬ』と首を振るばかりでした。南風泊の沖には、今でも『きかんが藻』という岩礁があります。

 いよいよ海賊征伐の火ぶたは切られましたが、四郎太夫たちは、さまざまな奇襲戦法を用いて、それに抵抗しました。
 しかし、百五十人対六人では殆ど戦にならず、四郎太夫と息子は一目散に伊崎の山へ逃げてしまいました。

 それでも、あとに残された四人の家来、つまり、鶴五郎、仁蔵、雁次、市太郎らは、最期まで勇敢に闘って死にました。
 今、彦島に残っている『仁蔵の江良』『鶴の江良』『雁谷迫堤』『太郎ヶ鼻の瀬』などの地名は、彼らが討ち死にした場所だということです。


 戦いすんで日は暮れて、豊前の兵は意気揚々と引きあげて行きましたが、島びとたちは斬り殺された四人の海賊の首を一箇所に集めて田の中に埋め、手あつく供養しました。その地を今でも『田の首』と呼んでいます。

 島の人びとにとっては、それはそれは憎い海賊たちではありましたが、四郎太夫父子の逃走後も、なお、勇敢に闘って死んだ四人への哀れみから、六人武者にまつわる地名があちこちに付けられたのだといわれています。
 そして人びとは四人の武者が最期にたてこもっていた場所を『武者田(むしゃだ)』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話には、ずいぶん多くの地名が出て来る。中でも『六十三隻江良』には、この他に諸説がある。
その一つは弘安四年(1281年)のことだ。元軍十四万の兵と軍船四千四百隻の襲来にそなえ、日本海沿岸はすべて防塁を築いたが、その際、彦島にも小福浦に六十三隻の船を集結させて待機したという。
その二は、永享二年(1430年)のこと、筑前の秋月三郎雅春、原田二郎信朝ら二万八千騎が火ノ山城を攻撃した時、大内氏は、小福浦に船六十三隻を集結させたというのである。

また『雁次』が死んで『雁谷迫』になったという話も、合点がゆかないが、これなどは、永年の間に転化していったものであろうか。

『武者田』は往古は『毘沙田』と書き、毘沙門天が祀られてあったといわれている。
その後、平知盛がこの島に城を築いたので『武士田』となったという。『武士田』が『武者田』に変わったいきさつには、次の説がある。
むかし平家の落武者が、その名を明かさず、武士田の奧で山を伐り開き農耕に励んでいたが、嫁も迎えなかった為、一代で絶えてしまった。そこで、人びとはその死を悲しみ、武士田の峠近くにその死体を埋めて、手厚く葬り、地名を『武者田』と改めた。
というのである。因みに彦島警察署の小字は『虫田』である。
ところで、落武者を埋めたと伝えられる場所は、その後、福浦、長崎、荒田地区の埋葬地となり、大正以降には、火葬場が作られた。しかし、今では、そのあとかたもなく、ただ『焼けあがり』という呼称だけが残されている。

なお、赤間神宮の先帝祭では、上ろう道中の先頭に立って参拝する特権を持っている中島家の祖先と伝えられる四郎太夫が、彦島では、悪者扱いにされていて、そのため、伊崎と海士郷、南風泊の漁師は、昔から仲が悪かったということである。
六人武者のうち、四郎太夫父子が四人の家来を残して逃走したというくだりに、彼らの憎しみが感じられてならない。
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Posted on 2019/02/24 Sun. 12:20 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/24 Sun. 11:53 [edit]

category: 下関の民話

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明神さん 

明神さん


 西山波高バス停の海寄りに『明神さん』と呼ばれる小さな祠が建っている。背後に大きな石を置き、何本かの老松が海風にゆれているが、明神さんのいわれについてはあまり知られていないようだ。


 むかし、伊予の商人が、風待ちで入港した南風泊の宿で、明神さんを信仰すればどんな願いごとでも叶う、という噂を聞いて、むしょうに欲しくなり、ある夜そっと明神さんを盗み出して小舟で海峡を渡り、門司の鼻にかくして、何食わぬ顔で宿に戻った。
翌朝、ようやく波風も静まったので、船は南風泊を出帆したが、門司の沖にさしかかった時、商人はふと思い出したように、
『そうじゃ。門司に嫁いじょるワシの妹は永いこと患ろうちょるらしい。一晩見舞うてからすぐあとを追うけえここで下船させてくれや』
 と言って船を下りた。そして門司に渡り、前夜ひそかに隠しておいた明神を取り出そうとしたところ、急に頭が割れるように痛くなり、おまけに、腹痛まで起こす始末。
『これは、おかしい』と、その夜は門司の宿に泊り、翌日、回復したので再び取りに行くと、また腹痛、頭痛が同時に襲ってきた。
 商人は驚いて『これは明神さんのたたりじゃろうかい』と大慌てで、御神体を海に放り投げ、痛む腹と頭をかかえながら小舟で周防灘へ漕ぎ出した。だが、何町も進まないうちに発狂して、近くの岩礁にぶつかって死んでしまった。

 だから、門司の鼻のことを、今でも明神の鼻と呼び、その沖には明神の瀬もあるという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
『明神』さんの祭礼は古くは十月二十四、五日の二日間であったが、現在は十月十五日に変わっている。
彦島八幡宮の祭礼が、甘酒を供えて『濁酒(どぶ)まつり』と呼ぶのに対して、『明神さん』は、『あめ湯』を作って供え、部落中にふるまうことから『あめ湯まつり』と呼ばれているようだ。
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Posted on 2019/02/23 Sat. 11:31 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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平家のいっぱい水 

平家のいっぱい水


四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。

寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。

いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。

このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。

そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、
「いまこそ、平家をたおせ。進め、進め」
と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。

平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。

平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。


(注)
前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。

このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。

それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。


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Posted on 2019/02/23 Sat. 10:18 [edit]

category: 下関の民話

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農業者の団体組織と生産進歩の過程1 

農業者の団体組織と生産進歩の過程1

語り手 植田五作

植田五作氏は迫町において長年農業に従事され、また種々の事業を手がけられてこの地区の発展に寄与しておられる方であります。
かつて彦島の村議会議員・町議会議員としても活躍され、下関と合併後は市議会議員として市政に参与し、彦島の発展のために尽くされておられます。
一方、彦島農業協同組合の組合長として、長年農業者の発展振興のために献身しておられる、人格高潔で住民からの信望も篤い方であります。

明治の中頃までの彦島の農家は、生産物としては米麦が主体であって、それに雑穀・生姜などを交えた農業であったのであります。
これが明治末期の日露戦争のころは野菜もかなり栽培されるようになりました。
その当時の耕作面積は田が百十町歩、山林が三百町歩ぐらいで、これを耕作している農家は二百五十戸内外であったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:37 [edit]

category: ひこしま発展誌

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六人武者 

六人武者


源平合戦で敗れたのち、平家再興を願っていました中島四郎太夫正則の子と、その家来は、小門王城山に隠れていましたが、その希望も消え、ついに海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、ここを占領してしまいました。
その時上陸したところを今でも“六人武者の江良”と呼び、この島を“鬼が島”ともいいました。

六人武者の海賊は次第に力を持ち、近くの土地や舟を襲うようになりました。
そこでとうとう攻め撃つことになり、九州豊前から兵百五十人、船六十三隻が福浦の江良に上陸しました。
福浦に“六十三隻江良”という地名が残っていますが、これはその時、船が着いたところをいいます。
また南風泊の“きかんが藻”という地名は、戦が始まる前、六人武者の様子を調べに来た豊前の兵が、一隻の漁船に、
「竹ノ子島に海賊はいるか」
と、たずねたところ、その漁師は後の祟りが恐ろしいので、何をたずねられても“聞かぬ、聞かぬ”というふうに首を振って答えなかったところからつけられたといわれます。

さて、いよいよ竹ノ子島の戦となりました。
百五十人対六人でしたが、六人の武者は、いろいろな戦法で敵を引っ掻き回し、さんざん懲らしめ、豊前側の死傷者はみるまに増えていきました。
“鶴の江良”“仁蔵の江良”という地名は、その時六人武者から殺された、鶴五郎、仁蔵の死んだ場所といわれます。
こうして総崩れした敵兵は、あわてふためいて田の首の岬まで逃れ、ようやく豊前方の助け舟に乗り、九州に逃げ帰りました。

六人武者は、これ以上追い討ちはしませんでしたが、この戦で勇敢に戦って死んだ、鶴五郎、仁蔵の首をこの地に埋め、手厚く供養しました。
“田の首”の地名はそこからきているといわれます。

その後、六人武者は、ひとまず王城山に引きあげましたが、今度の戦で、平家残党ということが知れたため、必ず大きな逆襲のあることを予想し、五人の家来は、それぞれ姿を変えて、遠くの地へ別れ別れに離れていき、四郎太夫の子だけが、この地に残り、のちついに漁師となって一生を送ったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:25 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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引接寺の龍 

引接寺の龍


江戸時代の終わりごろの話です。

引接寺の山門を下って出たところは、外浜の浜で、ここは当時山陽道の終着駅として本土から九州へいたる重要な土地でありました。
したがって船番所もあり、旅館もたくさん軒をならべていました。

ある年のことです。
夜中の二時ごろ、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が、何者かのために殺されてしまいました。
番所の役人がやっきになって犯人を捜しましたが、とうとう見つかりません。
殺された旅人のふところにはお金が残っており、ものとりの仕業ではないとすると、鬼か大蛇の仕業だという噂がたち、近所の人は危害を恐れて、日暮れともなれば雨戸をしっかりと閉めてしまうありさまです。

それから何度となく同じ時間、同じ場所で人が殺され、土地の人を恐怖のどん底におとしいれました。

そうしたあるとき、船着場の旅館に泊まっていた侍が、女中からその話を聞かされました。
侍は、みるからに強そうな男で、その話を聞くと
「それはおもしろそうじゃのう。よし、拙者がひとつ退治してやろうかのぅ…」
「おやめくだされ、めっそうもない。いくらあなたが強くても、相手は正体もわからぬ怪物…、殺されにいくだけですよ」
「まあそう心配するな」
と侍は、女中から着物を借り、夜中の一時過ぎから怪物退治にでかけました。

いつも怪物が現れるという、午前二時の丑の刻が迫ってきました。
大胆なその侍は、わざと怪物に目立つように女中から借りた着物を頭からかぶり、石段下の広場に立ちました。
やがて生ぬるい風がどこからともなく吹き、シャー、シャーという音がしてきました。
そすがの侍も少し緊張して、刀の柄に手をかけ、いつでも抜けるかまえをとりました。

そのときです。
パッと黒い大きなものが侍めがけて襲ってきました。
侍はとっさに腰をひねると、目にもとまらぬ早業で刀を抜き、怪物めがけて切りつけました。
確かに手ごたえがあったとみえ、熱気の中にものすごいうめき声が聞こえました。
侍はさらに二振り目をおろそうとしましたが、しかしその時にはすでに怪物の姿は見えませんでした。

あくる朝早く、侍がお寺の下の広場に来てみると、黒々と流れている血筋が、お寺の方に向かって石段をはいあがっています。
その血の跡をたどっていくと、ちょうど山門の下で消えて…

不思議に思って、ふと山門の天井を見上げると、そこに彫り込んである龍の胴体が真っ二つに割れているではありませんか…。

毎夜人を殺していた怪物は、実はこの龍であったということが、これではっきりわかりました。


(注)
戦災で引接寺は焼けましたが、山門だけは今でも昔のままの姿で残っています。
そして龍は真っ二つになった胴体を山門の天井に巻きつけています。
昔からこの龍は、喉が渇くとよく用水に飲みに出るといわれたくらい、彫刻は非常に立派で、一部の人はこの彫刻を江戸時代の名工左甚五郎の作といっていますが本当のことはわかりません。
その真っ二つになった切り口も、実は二つの木を継ぎ合わせたものですが、あまりに立派な龍の彫刻なので、このような伝説ができたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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