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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/24 Sun. 11:53 [edit]

category: 下関の民話

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24

平家のいっぱい水 

平家のいっぱい水


四国屋島の戦いにひきつづいて、源氏、平氏さいごの一戦がだんのうらでくりひろげられました。

寿永四年三月二十四日、源氏側は九郎判官義経を総大将に武将たちを乗せた舟、およそ千艘は、満珠干珠の沖合いに、平家側は新中納言平知盛を総大将におよそ八百艘が彦島に陣取り、両軍は静かに舟をすすめます。

いよいよ最後の決戦です。
源氏の白旗、平家の赤旗はしだいに近づいてきます。
やがて海峡の真中にきたとき、ちょうど午前十時、両軍の舟からいっせいに矢が飛び交いました。
矢に当たって海に落ちるもの、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とすもの、敵、味方入り交じっての激戦です。

このころん.から潮の流れは平家側に有利になり、次第に源氏側は押され気味で、損害は大きくなりました。
しかし、源氏側には、ちゃんと計画がたててありました。
それは海峡の流れが、いまは源氏側に不利ですが、やがて逆に流れ出し、このときに一気に戦いの結着をつけようとしていたのです。
激戦は続いていました。海に落ちたものは、重たい兜を着ているので、泳ぐこともできず海の底へ沈んでいきました。

そうして戦っているうちに、潮の流れが変りはじめました。
源氏側はこのときとばかりに、ほら貝を吹き、かねを鳴らし、
「いまこそ、平家をたおせ。進め、進め」
と勇気をふるいおこし、勢いをもりかえして、平家の舟を追いかけました。

平家は、ここで源氏に負けると、もう逃げるところがありませんので、負けてはなるものかと最後の力をだして戦いましたが、流れが変ったので、舟を進めることができず、とうとう、源氏に負けてしまいました。

平家側のあるものは捕らえられ、または海に沈み、またあるものは傷を受けてようやく岸にたどりついたものもありました。
そのうちの一人、平家の武将は、肩と足に矢を受けて海に落ちましたが、岸に近いところだったので、命がけで泳ぎ、ようやく岸にたどりつきました。
そこは前田から少し御裳川に寄ったところで、その武将は、のどがからからに渇ききっていました。
ふと見ると、山すそから海岸線におりたところにわずかな水溜りがありました。
武将は痛む体を引きずって水場に近づき、手のひらにすくい水を飲みました。
武将にとっては命の水だったのでした。
夢中になって、また手のひらにすくい二度目に口にしたところ、思わずむせて吐き出してしまいました。
真水は塩水に変っていたのでした。


(注)
前田造船所の横に平家の一杯水という板柱がたっています。

このお話ににたもので「官女の水」というのがあります。
だんのうらの戦いに敗れた官女の一人は、連れにはぐれてしまい、迷いに迷って金比羅付近に身を隠すことができました。
しかしこの戦いで戦死した夫のことや、いままでの楽しい生活のことを思うと、ひとりでに涙がでて、毎晩のように泣き続けました。
そして一滴の水ものどに通らず、みるみるうちに痩せ、ついに涙がかれきった時、淋しく死んでいきました。
その後誰かが、官女の淋しい死を思ってお墓をたててやりました。
もちろん官女の名前もわかりませんので、お墓といっても大きな石を置いただけでしたが、どうしたことか、この石の前に水溜りができました。
その水は、湧き水でも、流れ水でもありません。
人々はこれを「官女の水」といっていましたが、ひょっとすると官女の流した涙かもしれません。

それから誰いうとなく、この水を目につけると必ず眼病が治るという噂がたち、おまいりする人もありました。
しかし、その石は道を広げる工事のさい、取り壊されて今はありません。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/23 Sat. 10:18 [edit]

category: 下関の民話

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23

農業者の団体組織と生産進歩の過程1 

農業者の団体組織と生産進歩の過程1

語り手 植田五作

植田五作氏は迫町において長年農業に従事され、また種々の事業を手がけられてこの地区の発展に寄与しておられる方であります。
かつて彦島の村議会議員・町議会議員としても活躍され、下関と合併後は市議会議員として市政に参与し、彦島の発展のために尽くされておられます。
一方、彦島農業協同組合の組合長として、長年農業者の発展振興のために献身しておられる、人格高潔で住民からの信望も篤い方であります。

明治の中頃までの彦島の農家は、生産物としては米麦が主体であって、それに雑穀・生姜などを交えた農業であったのであります。
これが明治末期の日露戦争のころは野菜もかなり栽培されるようになりました。
その当時の耕作面積は田が百十町歩、山林が三百町歩ぐらいで、これを耕作している農家は二百五十戸内外であったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:37 [edit]

category: ひこしま発展誌

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22

引接寺の龍 

引接寺の龍


江戸時代の終わりごろの話です。

引接寺の山門を下って出たところは、外浜の浜で、ここは当時山陽道の終着駅として本土から九州へいたる重要な土地でありました。
したがって船番所もあり、旅館もたくさん軒をならべていました。

ある年のことです。
夜中の二時ごろ、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が、何者かのために殺されてしまいました。
番所の役人がやっきになって犯人を捜しましたが、とうとう見つかりません。
殺された旅人のふところにはお金が残っており、ものとりの仕業ではないとすると、鬼か大蛇の仕業だという噂がたち、近所の人は危害を恐れて、日暮れともなれば雨戸をしっかりと閉めてしまうありさまです。

それから何度となく同じ時間、同じ場所で人が殺され、土地の人を恐怖のどん底におとしいれました。

そうしたあるとき、船着場の旅館に泊まっていた侍が、女中からその話を聞かされました。
侍は、みるからに強そうな男で、その話を聞くと
「それはおもしろそうじゃのう。よし、拙者がひとつ退治してやろうかのぅ…」
「おやめくだされ、めっそうもない。いくらあなたが強くても、相手は正体もわからぬ怪物…、殺されにいくだけですよ」
「まあそう心配するな」
と侍は、女中から着物を借り、夜中の一時過ぎから怪物退治にでかけました。

いつも怪物が現れるという、午前二時の丑の刻が迫ってきました。
大胆なその侍は、わざと怪物に目立つように女中から借りた着物を頭からかぶり、石段下の広場に立ちました。
やがて生ぬるい風がどこからともなく吹き、シャー、シャーという音がしてきました。
そすがの侍も少し緊張して、刀の柄に手をかけ、いつでも抜けるかまえをとりました。

そのときです。
パッと黒い大きなものが侍めがけて襲ってきました。
侍はとっさに腰をひねると、目にもとまらぬ早業で刀を抜き、怪物めがけて切りつけました。
確かに手ごたえがあったとみえ、熱気の中にものすごいうめき声が聞こえました。
侍はさらに二振り目をおろそうとしましたが、しかしその時にはすでに怪物の姿は見えませんでした。

あくる朝早く、侍がお寺の下の広場に来てみると、黒々と流れている血筋が、お寺の方に向かって石段をはいあがっています。
その血の跡をたどっていくと、ちょうど山門の下で消えて…

不思議に思って、ふと山門の天井を見上げると、そこに彫り込んである龍の胴体が真っ二つに割れているではありませんか…。

毎夜人を殺していた怪物は、実はこの龍であったということが、これではっきりわかりました。


(注)
戦災で引接寺は焼けましたが、山門だけは今でも昔のままの姿で残っています。
そして龍は真っ二つになった胴体を山門の天井に巻きつけています。
昔からこの龍は、喉が渇くとよく用水に飲みに出るといわれたくらい、彫刻は非常に立派で、一部の人はこの彫刻を江戸時代の名工左甚五郎の作といっていますが本当のことはわかりません。
その真っ二つになった切り口も、実は二つの木を継ぎ合わせたものですが、あまりに立派な龍の彫刻なので、このような伝説ができたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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22

人口増加の趨勢について3 

人口増加の趨勢について3


昭和7年、かねてより政府の手によって彦島東部沖の「沖の洲」海面に進められていた十六万坪の埋め立てが完工するとともに、彦島と下関が運河渡しで行き来できるようになりました。
それまでは海士郷、伊崎間を船で往来していたのでありましたが、小戸海峡の潮流を止め彦島と伊崎、竹崎、大和町で囲み、東洋一の漁港が出来上がりました。
その上、本土・九州間を繋ぐところの鉄道海底トンネルが完成し、線路が大和町の中央を走るようになり、これと並行して下関駅の移転もありました。

このような埋立地の利用度の増加と共に、大漁港の出現によりまして、漁船の管理・造船・修理の必要上から、多くの造船所またはこれに関連の工場が幾多建設せられ、彦島は発展に発展を重ねたのであります。
しかし、彦島に上水道がなく工場誘致には、この水が問題でありますために、ついに彦島発展のためとして昭和8年3月、下関市と合併いたしました。
当時の戸数は4700戸、人口は21651人となりました。

現在、昭和32年10月1日調査では、戸数は10208戸、人口は44508人となりまして、産業経済共に下関市の心臓部として脈々と活動しておる次第であります。
人口も日に日に増加の一途をたどっております。

以上で私に与えられた人口増加の趨勢についてのお話を終わりたいと思います。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/21 Thu. 12:30 [edit]

category: ひこしま発展誌

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21

宗の御前 

宗の御前


竹崎町の光東寺の石段を上り山門をくぐって左側に石仏があります。
青黒くさびた様に見える九十センチばかりの円筒の石仏で、一般に「オチモヤサン」といわれています。

このお寺の古いことを記した書き物によりますと、いまから約七百数十年前の建長のころ、宗助という漁師がこの竹崎の浦に住んでいました。
宗助夫婦には、それは可愛い男の子が生まれましたが、お乳が不足がちで生まれながらにひ弱く、宗助夫婦は心配して夜も寝られません。
とうとう心配のあまり、近くの光東寺の薬師如来に、お乳がよく出るようにと願をかけました。

二十一日間お参りしたその満願の日、一心に祈っている宗助の耳に、
「豊前柳ヵ浦の松の根元に石仏があるから、それにお願いすれば必ず願いごとがかなう」
とのおつげがあった。

それを聞いた宗助は、さっそく遠く柳ヶ浦にかけつけ、おつげの場所にいってみると、まさしくその場所にあやしく光を放つ石仏がありました。
喜んだ宗助は、それを大事にかかえて下関に帰り、光東寺に納めて一心不乱に祈願をこめたところ、不思議に乳が吹くように出始め、その後子どもはすくすくと育ちました。

宗助は非常に喜び、この石仏のことを自分の名前の「助」をはぶいて「宗の御前」と呼びました。
それから乳の出ない人は、米のとぎ汁、出すぎて困る人は乳をしぼって石仏に供え、祈願したといいます。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/21 Thu. 12:15 [edit]

category: 下関の民話

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21

人口増加の趨勢について2 

人口増加の趨勢について2


彦島が独立しました明治22年の戸数・人口については、第二次世界大戦で下関市役所が空襲を受けて、彦島の記録が焼失してしまったので正確な数は分かりませんが、おおよそ戸数500戸、人口3500人程度の農漁村でありました。
明治40年にいたり戸数1516戸、人口6554人となりました。

当初村役場庁舎は本村の民家を借り入れてこれに充てていたのでありますが、42年に現在の庁舎を新築し同43年に移転いたしました。
その時の戸数は1529戸、人口が8584人でありました。

このころから彦島工業化が進み、やがて神戸以西の西日本屈指の大工業地帯となり、戸数・人口とも飛躍的に増加したのであります。
この工場進出について申し上げますと、明治38年に福浦に大日本人造肥料株式会社、現在の日東硫曹が建設され、続いて大正3年12月に江の浦の三菱合資会社の埋め立てに、同社船舶部彦島造船所が建設され、同じく大正5年の3月には西山に日本金属株式会社彦島精錬所の建設、同5年10月に老に林兼商店が鉄工所を建設、なお冷蔵庫ならびに製缶部、製鋼部を新設いたしました。
その後も小工場の施設が続々と増えまして、人口も著しく増加し大正10年10月の町制施行時の戸数は3543戸、人口は15922人となりました。

大正12年、字迫にクロード式窒業株式会社の建設がありました。
かくのごとく大工場の新設でますます人口が増え、大正15年の調査によりますと、戸数は4147戸、人口は18140人となりました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/20 Wed. 11:02 [edit]

category: ひこしま発展誌

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20

青山の馬姫 

青山の馬姫


勝山にある青山は、むかし篠と蓬におおわれた草山でした。

村人たちは、毎年冬の終わりに野焼きをしますが、こうすると春になって若草が元気よく伸びだし、またたくまに山全体を緑でつつむようになります。
そして、この若草を牛や馬の飼料にするため、形山村の若者たちは、毎朝早くから草刈に登りました。

そして、お昼のにぎりめいを食べ終わると、やわらかい草の上に寝そべり、村のおもしろい話や、そこから見える豊前や門司の町の様子などを楽しそうに話しました。
しかし一人だけ、みんなから離れて、まだにぎりめしをほうばっている若者がいました。
この若者はよその国から流れてきて、下男として働いている茂作という男でした。
茂作は体が大きく働き者でしたが、気が小さく動作がのろいので、いつもみんなから馬鹿にされ“モッソリ”というあだ名で呼ばれていました。

ある日の朝、まだ空に星が消えないころに目を覚ました茂作は、馬小屋から孫太郎を引き出して青山に登りました。
もちろん、誰も来ていません。さっそく茂作は草刈をはじめました。
やがて茂作の背から、真っ赤なお日様がのぼりはじめるころ、馬の背には、もうほとんどいっぱいに草が積まれていました。
それからしばらくして、茂作は自分の背にもいっぱいの草を背負い、山をおりはじめたのです。

ちょうどその時です。
村では評判の美しくて気立ての良いお登代が目の前に立っていました。
お登代は、働き者の茂作に密かに思いを寄せていましたから、今朝早く山へ登っていく茂作を見て、登代はみんなより先に山に登ってきたのです。
「茂作さん、おはよう…」
と、あいさつをしましたが、茂作は日ごろ村人に道に出会っても、ものを言うことができない“ヨソ者”それに、だれもいない山中のことで、驚きと恥ずかしさで、何も言わず大急ぎで孫太郎にムチをあて山をおりはじめました。
しかし孫太郎は、背負った草の重さと急な山道ではどうすることもできず、足を踏み外して崖から落ち、かわいそうに死んでしまいました。

茂作は呆然としていました。
大事な馬を殺しては主人からどんな仕打ちをうけるか知れません。
孫太郎が落ちた崖に座って、ぼんやり考え込んでいました。登代も茂作のそばに座り、何度もなぐさめますが、茂作にはいっこう聞こえるふうではありません。
やがて下のほうから登ってくる若者たちの姿に気がつかなければ、茂作はいつまでもぼんやりそこに座っていました。

若者たちの賑やかな声が近づいてきました。
茂作は、ハッとして大急ぎで山をおりはじめました。若者たちは、駆け下りていく茂作を見て、
「おーう、モッソリ。なにを急いでいるのだ。もちっと、モッソリ、モッソリ歩かんかい」
と、冷やかしました。
しかし、若者たちは、そこにお登代の姿を見つけて急にだまってしまいました。
それは、お登代の美しい目に、涙がいまにもこぼれそうにあふれていたからです。

茂作は、だれにも知られずに村を去りました。

お登代も“ヨソ者”の茂作が好きだったことが、村人たちの噂にのぼることを恐れ、青山から身を投げて死んでしまいました。

そのお登代の霊は、馬に生まれ変わり“青山の馬姫”として、村人たちは不思議な馬を見るようになりました。
ところが“青山の馬姫”のいななきを、ほかの馬が聞いてなくと、必ずその馬は死んでしまいます。
そこで村の人は、青山の馬姫のいななきを、自分の馬に聞かすまいと、馬の耳にたくさんの鈴をつけて野にでるようになったということです。


(注)
茂作の引いていた足を踏み外した岩は、今は馬不越(うまこえず)の岩と語りつたえられています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/20 Wed. 10:31 [edit]

category: 下関の民話

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人口増加の趨勢について1 

人口増加の趨勢について1

語り手 安光清一

彦島の人口増加の趨勢について安光清一氏からお話を伺います。
安光氏は現市議会議員、山口県地方都市計画常任理事、下関市第十六連合会自治会長として地域の発展に活躍しておられます。

ただいまから彦島の人口増加の趨勢について、申し述べることにいたします。
これは過去の記録ならびに、現存の長老の方から承ったお話を参考にして申し上げたいと思います。

彦島は明治4年の区制実施に従いまして、山口県豊浦郡第九区第三小区に編入せられ、超えて明治16年赤間関区に編入せられまして、彦島および六連島を治めるために戸長役場が置かれ、時の戸長に植田謙輔氏が命ぜられました。
さらに明治19年に赤間関区の直轄に移され、区長の指揮下に入ったわけであります。

その後明治22年、町村制の実施に伴いまして、再び豊浦郡の管轄下へ移されました。
赤間関より分離して豊浦郡彦島村として、同列の自治体となった次第であります。

その当時、大字彦島、大字六連島の二つの大字に分けて、彦島を「海士郷、老、本村、江の浦、弟子待、田の首、福浦、迫、西山、竹の子島」の十字とせられたそうであります。
元来、天恵の地形であるため、各種の会社・工場の建設をみるにいたりまして人口も著しく増加しました。
大正10年10月1日に彦島町として町制が施行せられるようになりました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/19 Tue. 11:43 [edit]

category: ひこしま発展誌

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耳無芳一の話 

耳無芳一の話
THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI
小泉八雲 Lafcadio Hearn
戸川明三訳


 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。
この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。
しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。
これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然(ちゃん)と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。

 芳一には出世の首途(かどで)の際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。
後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

 ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。
芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。
底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下(したじた)を呼びつけるような風に――
『芳一!』
 芳一はあまりに吃驚(びっくり)してしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
 見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許(とこ)へ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。
ところで、お前がその戦争(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』
 当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。
武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居(とのい)の衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。
やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。
「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後(しまい)の段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭(ふ)き込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。
 芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
 さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下(くさり)を語れという殿様の御所望で御座いますか?』
 女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦(いくさ)の話をお語りなされ――その一条下(ひとくさり)が一番哀れの深い処で御座いますから』
 芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧(うま)い琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。
しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦(おのの)き慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
 その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前(ごぜん)で演奏(わざ)をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』

 芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。

 芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
 芳一は言い※(「しんにゅう+官」、第3水準1-92-56)れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
 住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。

 すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。
二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後(うしろ)と周囲(まわり)と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅(ばか)されているのだ!……芳一さん!』
 しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚※(「口+戛」、第3水準1-15-17)※(「口+戛」、第3水準1-15-17)と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
 叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
 事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅(ばか)されていたのは確かなので、一同は芳一を捕(つかま)え、その身体(からだ)をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。
 芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
 すると住職は云った……
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ! もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった! お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影(まぼろし)だ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為(す)るがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』

 日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐(こ)わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』

 日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
 すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
 芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……
 縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。
 遂に自分のすぐ傍(そば)であらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』
 その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……

 日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞっ)として声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……
 住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ ――出来るだけ早く、その傷を治(なお)すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』

 深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。

底本:「小泉八雲全集第八卷家庭版」第一書房
   1937(昭和12)年1月15日発行
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Posted on 2019/02/19 Tue. 11:22 [edit]

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