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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

教育施設の変遷3 

教育施設の変遷3


学制領布後の彦島の諸学校および教育はどのようになりましたか。

まず明治7年に志磨・富観・迫西・田の首・竹の子島と、この五つの小学校が設置されましたが、明治19年に富観と迫西の両方の学校は志磨小学校の分校となり、竹の子島小学校は仮教場と改められ、田の首小学校は廃止されたわけであります。
さらに明治20年には、富観と迫西の両方の分校を廃止して志磨小学校に合併して、教科を四科学級に編成されました。
この結果、校舎が非常に手狭になりましたから、翌21年本村の棚田に450坪余りの土地を選んで、ここに建坪220坪余りの校舎を新築し、旧校舎の児童を収容して授業を開始したのであります。
さらに翌々23年4月からは、2カ年程度の補習科を設置しまして補修教育をほどこすことになったわけであります。
ずっと後になりまして、明治30年4月からは修業年限四カ年の高等科を併置し、尋常科四学級、高等科一学級を編成いたしました。
このころから島民一般も、教育に対する関心が次第に高まってまいりまして、就学する児童数も増加してまいりまして、またまた校舎が狭くてならないという状態になったわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/24 Thu. 11:42 [edit]

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下関の地名30 海士郷 

海士郷


小瀬戸をはさんで本土の伊崎の対岸にある“海士郷(あまのごう)”は、もともと“天川(あまかわ)”と呼ばれました。

「道ゆきぶり」には、
「ふくらの島よりつかひきたり、小舟にて天川といふわたしをして参りたいと申ししかば…」
と記述されています。
また、「長門国志」の中には、
「天川は海部郷なり、三代実録貞観元年の条に長門国医師従八位下海部種麿と見ゆ、この氏人の祖此国の海人部に定められて此所に住せられし故に地名になりけん」
と記されています。

そうした伝説もあってか、保元元年の頃、河野通次が彦島に根拠地を求めてから、水軍にかかわりのあった人々が、この地を中心として漁業に従事するようになり、現在の海士郷を形成したものと思われます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/24 Thu. 10:21 [edit]

category: 下関の地名

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