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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

教育施設の変遷9 

教育施設の変遷9


お話をしておりますとキリがございませんが、彦島に実業補修学校というのがあったように聞いておりますが、これはいつ頃でございましょうか。

この学校は山口県訓令に基づいて設置された、彦島青年団の修養機関としまして、大正7年4月に彦島尋常高等小学校内に併置されたものであります。
この学校の分教場をさらに彦島第二小学校、西山青年会館、六連島簡易小学校の3カ所に設けました。
翌8年には女子部が設置されまして、さらに11年5月には山口県訓令により学則が改正されて、男子部・女子部ともに予科・本科をそれぞれ2年と、随時年限の研究科を置いております。
だいたい中等程度の教育機関となり、彦島といたしましては、まことに適切な補修教育機関というべきでありまして、女子部は昼間授業を行いまして、男子部は夜間の授業をおこなったのであります。
教科は農業のほかに修身、国語、数学を課し、就学生徒数は多い時は百名を超え、少ない時は40名程度と振るわない状態の時もあったと申されております。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/31 Thu. 11:07 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名25 福浦 

瓢六(ひょうろく)ばなし


 福浦金比羅宮の下の港は、むかしから天然の良港として栄えて来ました。江戸時代末期には船宿が何十軒も並び、遊女は二百五十人以上も居たといわれています。


 これは、そのころの話です。

 ある船宿に瓢六という生まれつき少し脳の弱い息子が居ました。船宿の主人は、あと取り息子がこんなことでは、と心配のあまり夜も眠れない日がつづきました。

 瓢六が十五歳になった春、主人は息子を呼んでこう言いました。
『お前ももう十五、いつまでも親に甘えていては大成しない。この船宿を継ぐ為には、もう少し勉強しなきゃあ駄目だ。番頭をつけてやるから、都へ行ってみっちり学問を仕込んで来い』
 もともと少し足りない瓢六、勉強ということよりも、何彼とうるさい父親のそばを離れる喜びで上機嫌。胸をふくらませて福浦を発ちました。

 都は、話に聞く以上のにぎわいで、見るもの聞くものみな珍しく、瓢六はキョロキョロ。ウロウロ、浮き浮きの毎日でした。だから、ともすれば都に来た目的など忘れがちでしたが、時々、尻を叩く番頭さんの忠告で、しぶしぶ聞き覚えの言葉を紙に書き留めました。

 都に着いた夜、宿に入った瓢六に、女中さんがにこにこして、むつかしいことを聞きました。
『お客さん、どこから上洛しやはりましたん』
 瓢六は、キョトンとして番頭さんを振り返りました。すかさず、番頭さんが答えてくれました。
『ヘイ、馬関からです』

 夜、寝床に入ってから、瓢六は気にかかってならないことを、番頭さんに訊ねました。
『上洛って、一体、何や』
『のぼる、つまり、都にのぼることです』
 番頭さんは、ただそれだけ言って眠ってしまいました。瓢六は、ごそごそ起き出ると紙を取り出して『のぼること 上洛』と書きました。

 あくる日、町を歩いていると、大きな屋敷の門前に人だかりがあって、みんな、オイオイと声をあげて泣いています。
『あれは何で、泣くんやろう』
『誰方か亡くなったんでしょうな。これから葬儀が始まるようです』
 と、番頭さんが答えました。瓢六は、紙を出して『泣くこと 葬儀』と書きました。

 少し歩いて行くと、大きな卸問屋の前で、一人の乞食が、何やらぶつぶつ言いながら、店の中をのぞき込んでいました。
『あの、ゴニャゴニャ言いよる男は、何をしょるんやろう』
『何か食べるものを貰おうと思って、ああして、ぶつぶつ独り言を言ってるんですよ。あんな人間を乞食と言います』
 瓢六は、また、紙を出しました。そして、下手くそな字で書きました。『貰うこと ゴニャゴニャ』

 宿に帰り着いて、裏木戸から入ろうとすると、女中さんが、イリコの頭ばかりをざるに入れているのが眼につきました。
『それは、何ですか』
『煮出しです。おつゆを作った残りかすですよって、もう捨てようと思いまして』
 瓢六は部屋に帰って大急ぎで書きました。『頭のこと 煮出し』

 さて、楽しい夕食です。昨晩と同じように赤いお椀、赤いお皿、そして赤いお膳に、おいしそうなご馳走が並べられていました。
『きれいやなあ。この茶碗は何というんですか』
『それは茶碗ではありません。赤いでしょう。だから、朱椀といいます』
 番頭さんは、やさしく教えてやりました。ご飯がすんで、瓢六は『赤いもの 朱椀』と書いて、ニーッと笑いました。

 そのまたあくる日、町を歩いていると、十人ばかりの男女が、牛ほどもある大きな石に網をかけて、
『エンヤラヤ、エンヤラヤ』
 と引っぱっていました。瓢六は眼をパチクリさせて、
『都ちゅう所は、面白い所じゃのう。あんな石にまで、別の呼び名があるんじゃけえ』
 と、ぶつぶつ言いながら『石のこと エンヤ』と書きました。

 また、ある日、いつものようにぶらぶらと町を見物していると、道ばたで母親が五、六歳くらいの男の子の尻を叩いていました。
『痛いよう、痛いよう』
 と、しきりに男の子は泣いていましたが、母親はなかなか許そうともしません。瓢六は、珍しそうに口を開けたまま眺めていました。すると番頭さんが寄って来て、そっと小さな声で言いました。
『あまり見るものではありません。あの子は何かいたずらをして叱られているのですよ。あれほど折檻しなくても良さそうなものを』
 おしまいのほうは独り言のようでしたが、瓢六は耳ざとく聞きつけて『痛いこと 折檻』と書きました。
 どんなことを書いても、番頭さんはもう諦めているのか、ただ笑うだけで、何も言いません。

 そして何ヶ月かが夢のように過ぎて、いよいよ都ともお別れの日が来ました。瓢六は番頭さんに連れられて、名残惜しそうに宿を出ました。二人は川舟に乗って、だんだん遠くなってゆく都を、悲しそうにじっと眺めていましたが、ふと思い出したように瓢六が紙を取り出しました。
『のぼることの反対は、くだること。うん、よし、解ったぞ、上洛の反対やから下洛やな。わしも偉ろうなったもんや』
 小声で、そんなことをつぶやきながら『くだること 下洛』と書いて、ふところに入れました。


 さて、久し振りに福浦の港に帰って来た瓢六は、風待ちで停泊中の千石船がひっくり返るような大声で、
『おとっつあん、ようけ勉強して、今帰ったぞっ』
 と、叫んで家に入りました。ちょうど屋根にあがって、瓦の手入れをしていた父親はその声に驚いて、思わず足を踏みはずし、すってーん、と裏庭に落ちて頭を打ちました。

 さあ大変、瓢六は、駆け寄ろうとする番頭さんを蹴飛ばして医者を呼びに走りました。あわてふためいて医者の玄関を大きな音を立てて開けると、見たこともないような美しい娘さんが出てきました。
 とっさに瓢六は、せっかく勉強して来たから、都の言葉で話してやろう、と思い、ふところから紙を出して、ゆっくり拾い読みをしながら娘に言いました。

『お父さんが、屋根に上洛し、下洛して、エンヤに煮出しを砕き、朱腕かっかと散り、折檻、折檻と葬儀ゆえ、くすり一服ゴニャゴニャ』

 すると、さすがは利口そうな美しい娘さん、都の言葉が通じたのか、ニコッと笑って、ていねいに頭をさげました。
『わかりました。少々お待ちを…』
 そう言って奧に消えましたが、とたんに、廊下をころぶように走って叫びました。


『先生、大変です。船宿から借金取りが来ました。それもポルトガル人で、オランダ語をしゃべり、急いで払えと怒鳴っています。ふところには証文も持っていますので、もう駄目です。どうしましょう』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/31 Thu. 10:52 [edit]

category: 下関の地名

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教育施設の変遷8 

教育施設の変遷8


大正10年に教育費の節減と、教育内容を統一するという意味合いのもとに、彦島町議会の決議を経まして山口県知事の認可を受け、簡易小学校の名称を廃しまして、大正11年の7月1日から彦島尋常高等小学校六連島分教場と改称されたわけであります。

それと同じように、竹の子島にもやはり分教場があったように聞いておりますが。

これもまた歴史が古うございまして、前に述べましたが、明治7年に竹の子島小学校として創設されたものでございます。
明治19年4月1日に志磨小学校の仮教場として改称されまして、さらに同25年には竹の子島分校と改称され、同年5月1日に新校舎が落成し移転開校したものでございます。
その後は、尋常科三年までの児童を収容するとともに、裁縫科を設置したものであります。
ずっと後になりまして、明治34年には校舎や屋内体操場をそれぞれ増築いたしましたが、昭和2年にこの分校は廃止されて彦島尋常高等小学校に併合されたわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/30 Wed. 10:46 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名26 巌流島 

巌流島


宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした島とされる“巌流島(がんりゅうじま)”は、昔、島の形が舟のようだったことから“舟島(ふなしま)”と呼ばれていました。
“巌流”というのは、この島で、宮本武蔵に敗れた佐々木小次郎の号“巌流”からきています。

『西遊雑記』の中では、
「岩龍島といふは昔舟島と称せしを、宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩龍武芸の論をして、この島において刀術のしあいをして、岩龍、宮本のために打殺さる。ゆかりの者ありて岩龍が墓を建てしより土人、岩龍島と云」
と記述しています。

この島は、約十万平方メートルの広さがあり、下関市によって護岸や、多目的広場などの整備が行われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/30 Wed. 10:30 [edit]

category: 下関の地名

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教育施設の変遷7 

教育施設の変遷7


翌12年1月にその一部が落成したので、旧校舎から移転し授業を開始しました。
続いて4月の末には全部の工事が終わり竣工をみましたので落成式を挙げました。
校舎の建坪は780坪余り、建築の総工費が11万余円であったと思われます。
この彦島第二尋常小学校は昭和2年の4月に高等科を併置し、彦島第二尋常高等小学校と改称されたわけであります。

これが今の江の浦小学校になるわけですね。

そうです。
その頃の児童数の記録を見ますと、男子560名、女子518名、計1078名で、16学級に編成されたと記録されています。

現在の3300名に比べるとずいぶん開きがあるようですね。

そうですね。
その後の発展の状況をつくづく感じることができます。

江の浦小学校は現在角倉に分校をもっていますが、本村小学校でも確か六連島に分教場があったと思いますが。
これについて何かひとつ。

これはまた非常に古い歴史を持っていまして、六連島の分教場の起こりというのは、明治9年に遡るわけであります。
これは六連島小学校と称しておりましたが、明治20年3月の教育機関統一の時にあたりまして、六連島簡易小学校と改称されたのですが、その後明治43年に敷地坪数300坪に校舎70坪を新築したわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/29 Tue. 10:51 [edit]

category: ひこしま発展誌

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