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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

教育施設の変遷9 

教育施設の変遷9


お話をしておりますとキリがございませんが、彦島に実業補修学校というのがあったように聞いておりますが、これはいつ頃でございましょうか。

この学校は山口県訓令に基づいて設置された、彦島青年団の修養機関としまして、大正7年4月に彦島尋常高等小学校内に併置されたものであります。
この学校の分教場をさらに彦島第二小学校、西山青年会館、六連島簡易小学校の3カ所に設けました。
翌8年には女子部が設置されまして、さらに11年5月には山口県訓令により学則が改正されて、男子部・女子部ともに予科・本科をそれぞれ2年と、随時年限の研究科を置いております。
だいたい中等程度の教育機関となり、彦島といたしましては、まことに適切な補修教育機関というべきでありまして、女子部は昼間授業を行いまして、男子部は夜間の授業をおこなったのであります。
教科は農業のほかに修身、国語、数学を課し、就学生徒数は多い時は百名を超え、少ない時は40名程度と振るわない状態の時もあったと申されております。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/31 Thu. 11:07 [edit]

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鬼の墓 

鬼の墓


 舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
 むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。

 そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
 その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
 鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
 ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。

 それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
 と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
 しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。

 やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
舞子島近くの海岸線は、約三千万年前の浸蝕がそのまま残されていて、奇岩怪礁の地であるが、この付近は、今でも『鬼崎』と呼ばれ、『テトリガンス』を『鬼穴』と呼んでいる。
眼鏡岩や『丸山』は、通称、ドックの浜に、現在もそのままの形で残っている。
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Posted on 2019/01/31 Thu. 10:54 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名25 福浦 

瓢六(ひょうろく)ばなし


 福浦金比羅宮の下の港は、むかしから天然の良港として栄えて来ました。江戸時代末期には船宿が何十軒も並び、遊女は二百五十人以上も居たといわれています。


 これは、そのころの話です。

 ある船宿に瓢六という生まれつき少し脳の弱い息子が居ました。船宿の主人は、あと取り息子がこんなことでは、と心配のあまり夜も眠れない日がつづきました。

 瓢六が十五歳になった春、主人は息子を呼んでこう言いました。
『お前ももう十五、いつまでも親に甘えていては大成しない。この船宿を継ぐ為には、もう少し勉強しなきゃあ駄目だ。番頭をつけてやるから、都へ行ってみっちり学問を仕込んで来い』
 もともと少し足りない瓢六、勉強ということよりも、何彼とうるさい父親のそばを離れる喜びで上機嫌。胸をふくらませて福浦を発ちました。

 都は、話に聞く以上のにぎわいで、見るもの聞くものみな珍しく、瓢六はキョロキョロ。ウロウロ、浮き浮きの毎日でした。だから、ともすれば都に来た目的など忘れがちでしたが、時々、尻を叩く番頭さんの忠告で、しぶしぶ聞き覚えの言葉を紙に書き留めました。

 都に着いた夜、宿に入った瓢六に、女中さんがにこにこして、むつかしいことを聞きました。
『お客さん、どこから上洛しやはりましたん』
 瓢六は、キョトンとして番頭さんを振り返りました。すかさず、番頭さんが答えてくれました。
『ヘイ、馬関からです』

 夜、寝床に入ってから、瓢六は気にかかってならないことを、番頭さんに訊ねました。
『上洛って、一体、何や』
『のぼる、つまり、都にのぼることです』
 番頭さんは、ただそれだけ言って眠ってしまいました。瓢六は、ごそごそ起き出ると紙を取り出して『のぼること 上洛』と書きました。

 あくる日、町を歩いていると、大きな屋敷の門前に人だかりがあって、みんな、オイオイと声をあげて泣いています。
『あれは何で、泣くんやろう』
『誰方か亡くなったんでしょうな。これから葬儀が始まるようです』
 と、番頭さんが答えました。瓢六は、紙を出して『泣くこと 葬儀』と書きました。

 少し歩いて行くと、大きな卸問屋の前で、一人の乞食が、何やらぶつぶつ言いながら、店の中をのぞき込んでいました。
『あの、ゴニャゴニャ言いよる男は、何をしょるんやろう』
『何か食べるものを貰おうと思って、ああして、ぶつぶつ独り言を言ってるんですよ。あんな人間を乞食と言います』
 瓢六は、また、紙を出しました。そして、下手くそな字で書きました。『貰うこと ゴニャゴニャ』

 宿に帰り着いて、裏木戸から入ろうとすると、女中さんが、イリコの頭ばかりをざるに入れているのが眼につきました。
『それは、何ですか』
『煮出しです。おつゆを作った残りかすですよって、もう捨てようと思いまして』
 瓢六は部屋に帰って大急ぎで書きました。『頭のこと 煮出し』

 さて、楽しい夕食です。昨晩と同じように赤いお椀、赤いお皿、そして赤いお膳に、おいしそうなご馳走が並べられていました。
『きれいやなあ。この茶碗は何というんですか』
『それは茶碗ではありません。赤いでしょう。だから、朱椀といいます』
 番頭さんは、やさしく教えてやりました。ご飯がすんで、瓢六は『赤いもの 朱椀』と書いて、ニーッと笑いました。

 そのまたあくる日、町を歩いていると、十人ばかりの男女が、牛ほどもある大きな石に網をかけて、
『エンヤラヤ、エンヤラヤ』
 と引っぱっていました。瓢六は眼をパチクリさせて、
『都ちゅう所は、面白い所じゃのう。あんな石にまで、別の呼び名があるんじゃけえ』
 と、ぶつぶつ言いながら『石のこと エンヤ』と書きました。

 また、ある日、いつものようにぶらぶらと町を見物していると、道ばたで母親が五、六歳くらいの男の子の尻を叩いていました。
『痛いよう、痛いよう』
 と、しきりに男の子は泣いていましたが、母親はなかなか許そうともしません。瓢六は、珍しそうに口を開けたまま眺めていました。すると番頭さんが寄って来て、そっと小さな声で言いました。
『あまり見るものではありません。あの子は何かいたずらをして叱られているのですよ。あれほど折檻しなくても良さそうなものを』
 おしまいのほうは独り言のようでしたが、瓢六は耳ざとく聞きつけて『痛いこと 折檻』と書きました。
 どんなことを書いても、番頭さんはもう諦めているのか、ただ笑うだけで、何も言いません。

 そして何ヶ月かが夢のように過ぎて、いよいよ都ともお別れの日が来ました。瓢六は番頭さんに連れられて、名残惜しそうに宿を出ました。二人は川舟に乗って、だんだん遠くなってゆく都を、悲しそうにじっと眺めていましたが、ふと思い出したように瓢六が紙を取り出しました。
『のぼることの反対は、くだること。うん、よし、解ったぞ、上洛の反対やから下洛やな。わしも偉ろうなったもんや』
 小声で、そんなことをつぶやきながら『くだること 下洛』と書いて、ふところに入れました。


 さて、久し振りに福浦の港に帰って来た瓢六は、風待ちで停泊中の千石船がひっくり返るような大声で、
『おとっつあん、ようけ勉強して、今帰ったぞっ』
 と、叫んで家に入りました。ちょうど屋根にあがって、瓦の手入れをしていた父親はその声に驚いて、思わず足を踏みはずし、すってーん、と裏庭に落ちて頭を打ちました。

 さあ大変、瓢六は、駆け寄ろうとする番頭さんを蹴飛ばして医者を呼びに走りました。あわてふためいて医者の玄関を大きな音を立てて開けると、見たこともないような美しい娘さんが出てきました。
 とっさに瓢六は、せっかく勉強して来たから、都の言葉で話してやろう、と思い、ふところから紙を出して、ゆっくり拾い読みをしながら娘に言いました。

『お父さんが、屋根に上洛し、下洛して、エンヤに煮出しを砕き、朱腕かっかと散り、折檻、折檻と葬儀ゆえ、くすり一服ゴニャゴニャ』

 すると、さすがは利口そうな美しい娘さん、都の言葉が通じたのか、ニコッと笑って、ていねいに頭をさげました。
『わかりました。少々お待ちを…』
 そう言って奧に消えましたが、とたんに、廊下をころぶように走って叫びました。


『先生、大変です。船宿から借金取りが来ました。それもポルトガル人で、オランダ語をしゃべり、急いで払えと怒鳴っています。ふところには証文も持っていますので、もう駄目です。どうしましょう』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/31 Thu. 10:52 [edit]

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教育施設の変遷8 

教育施設の変遷8


大正10年に教育費の節減と、教育内容を統一するという意味合いのもとに、彦島町議会の決議を経まして山口県知事の認可を受け、簡易小学校の名称を廃しまして、大正11年の7月1日から彦島尋常高等小学校六連島分教場と改称されたわけであります。

それと同じように、竹の子島にもやはり分教場があったように聞いておりますが。

これもまた歴史が古うございまして、前に述べましたが、明治7年に竹の子島小学校として創設されたものでございます。
明治19年4月1日に志磨小学校の仮教場として改称されまして、さらに同25年には竹の子島分校と改称され、同年5月1日に新校舎が落成し移転開校したものでございます。
その後は、尋常科三年までの児童を収容するとともに、裁縫科を設置したものであります。
ずっと後になりまして、明治34年には校舎や屋内体操場をそれぞれ増築いたしましたが、昭和2年にこの分校は廃止されて彦島尋常高等小学校に併合されたわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/30 Wed. 10:46 [edit]

category: ひこしま発展誌

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お夏だこ 

お夏だこ


彦島の西山に、お夏という十八歳になる娘がいました。
娘の家は漁師をしていましたが、家が貧しく、そのうえ両親が病気がちで寝込むことが多く、その分だけ、お夏は人の倍も働き家計を助けていました。
海が荒れている日は、仕事も出来ず、そのためお天気になりそうな日は、まだ暗いうちから起き、支度をし人より早く海に出て仕事をしはじめました。

そのうち父親の病気が悪くなり、もう命もあとわずかというとき、父親は、やせ細った手で娘をまねき、
「娘や、わしはもう一度あのおいしいタコが食べたい。すまないが、タコを捕ってきておくれ」
「でもお父さん、そんなに弱った体に、タコは無理ですよ」
と娘は心配そうにいいましたが、父親は、どうしてもタコが食べたい、死ぬまでにもう一度食べておきたいと、何度も娘に頼みました。

そこで娘は、あくる日、銛を持って海岸に出ました。
箱眼鏡をのぞいてタコを探しますが、なかなか見つかりません。
父親があれほど食べたがっているタコです。
どうしても一匹でも捕って帰らねばと、とうとうお日様が水平線に消えかかる頃まで探しまわりました。

しかし、見つけることができません。
娘はガッカリして帰り支度をしていて、ふと四、五メートル先の岩場を見ると、その向こう側にタコの足らしいものがのぞいています。
しめたと思って娘は静かに岩の反対側に回ってみて驚きました。

そのタコは、タコには違いありませんが、なんと人間より大きいタコでした。
娘はとっさにこう考えました。
「たこは眠っているようだから、足を一本だけ切り取っていこう。そうすれば、また父親が食べたいといったときに捕りにこられる」

娘は用意していた刃物で、用心しながら足を切り取り、持ち帰りました。
あまりに大きかったので、近所の漁師にも分けましたが、一番に、父親は
「あー、これはうまいタコじゃ」といって喜んで食べてくれました。

それから二、三日たつとまた父親は、タコが食べたいといいだしました。
娘はいつかの大ダコのいた場所に行き、また足を一本切り取って帰りました。

こうしたことが何回かあって、あの大ダコの足は、たった一本になってしまいました。
はじめのタコの足を捕ってから、二十日ばかり過ぎていました。

娘はまた父親の願いで、タコのいる場所へでかけました。
娘は、いつもタコが逃げもしないで、眠っているようすなので、今日も安心してタコに近づき、最後の一本を切り取ろうとしました。

しかし、その時、タコは残りの一本を娘の胴に巻きつけ、そのまま海底深く引きずっていきました。

お夏の帰りが、あまり遅いので、母親をはじめ近所の漁師たちが海に出て一日中探しましたが、ついにお夏の姿を見つけることはできませんでした。

それからは、この海岸にあがってくるタコを「お夏だこ」といって、漁師たちは祟りを恐れ、タコを捕らなくなったといいます。


(注)
伝説として語り伝えられているお話の中には、心の優しい孝行な娘の話がいろいろありますが、この「お夏だこ」の話や、「幽霊祭」「福笹」などの話も、そうしたものの一つです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/01/30 Wed. 10:33 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名26 巌流島 

巌流島


宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした島とされる“巌流島(がんりゅうじま)”は、昔、島の形が舟のようだったことから“舟島(ふなしま)”と呼ばれていました。
“巌流”というのは、この島で、宮本武蔵に敗れた佐々木小次郎の号“巌流”からきています。

『西遊雑記』の中では、
「岩龍島といふは昔舟島と称せしを、宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩龍武芸の論をして、この島において刀術のしあいをして、岩龍、宮本のために打殺さる。ゆかりの者ありて岩龍が墓を建てしより土人、岩龍島と云」
と記述しています。

この島は、約十万平方メートルの広さがあり、下関市によって護岸や、多目的広場などの整備が行われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/30 Wed. 10:30 [edit]

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教育施設の変遷7 

教育施設の変遷7


翌12年1月にその一部が落成したので、旧校舎から移転し授業を開始しました。
続いて4月の末には全部の工事が終わり竣工をみましたので落成式を挙げました。
校舎の建坪は780坪余り、建築の総工費が11万余円であったと思われます。
この彦島第二尋常小学校は昭和2年の4月に高等科を併置し、彦島第二尋常高等小学校と改称されたわけであります。

これが今の江の浦小学校になるわけですね。

そうです。
その頃の児童数の記録を見ますと、男子560名、女子518名、計1078名で、16学級に編成されたと記録されています。

現在の3300名に比べるとずいぶん開きがあるようですね。

そうですね。
その後の発展の状況をつくづく感じることができます。

江の浦小学校は現在角倉に分校をもっていますが、本村小学校でも確か六連島に分教場があったと思いますが。
これについて何かひとつ。

これはまた非常に古い歴史を持っていまして、六連島の分教場の起こりというのは、明治9年に遡るわけであります。
これは六連島小学校と称しておりましたが、明治20年3月の教育機関統一の時にあたりまして、六連島簡易小学校と改称されたのですが、その後明治43年に敷地坪数300坪に校舎70坪を新築したわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/29 Tue. 10:51 [edit]

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29

おおひと 

おおひと


 むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
 もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。

 彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
 島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。


  大江屋敷の おおひとは

  けんのう飛びで どこ行った

  和尚さんに聞いたれば

  和尚さんは知っちゃあない

  タイヨさんに聞いたれば

  タイヨさんも知っちゃあない

  どーこー行った どこ行った

  地下の山を けんのうで

  大江山を 飛び越えた


 けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
 このわらべ唄については、面白い話があります。

 むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
 その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
 それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
 大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/29 Tue. 10:26 [edit]

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29

下関の地名24 弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
弟子待という地名の起こりについては、次の説がある。
『類聚国史』の天長七年(830年)の頃に、『淳和天皇、天長七年五月乙未、長門外島一処為勅旨田』の字句があり、外島というのは舟島のことであるというのである。
この付近では『田』を『マチ』と言うので、『勅旨田』は『テシマチ』であろう。
従って、武蔵・小次郎の決闘よりも八百年も前に、既にこの名は付けられていたとみるべきで、その後、この果たし合いをきっかけに『弟子待』という字が当てられたのであろうか。
それにしても、武蔵を呼び捨てにし、小次郎を佐々木様と語り継いだところに、「小次郎びいき」の思いが伝わって来るようである。
尚、巌流島の決闘は四月十二日のほかに十三日とも二十一日とも言われている。

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Posted on 2019/01/29 Tue. 10:09 [edit]

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教育施設の変遷6 

教育施設の変遷6


第二小学校のことについても少しお願いいたします。

この彦島第二尋常小学校は、彦島尋常高等小学校の校舎新築と時を同じくして、彦島杉田の土地に敷地2637坪土地を選び、明治39年9月に工事にとりかかり、翌40年10月に224坪の校舎が落成したものであります。
これはいうまでもなく、就学児童の激増および教育普及の理念を考え合わせた結果、どうしても一校を新設する必要を痛感したからにほかならないわけであります。
開校式は明治40年11月15日、この校舎に江の浦、弟子待、田の首、福浦の尋常四年以下の児童を収容したわけであります。
彦島の産業の発達するにつれまして、本校の通学区域内にも大小の会社・工場が続々と設置されまして、戸数も急激に増加してまいりました。
このため第二尋常小学校もたちまち狭隘を告げる結果となって、ついに大正10年9月に塩谷に3200余坪の土地を選定して、校舎を移転増築するための敷地の地ならし工事に取り掛かり、翌大正11年から建設工事を始めました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/28 Mon. 11:36 [edit]

category: ひこしま発展誌

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七本足のタコ 

七本足のタコ


 西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。

 むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
 と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。

 四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。

 その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
これも一般には『お夏ダコ』として伝えられている話である。
ところで、お夏は、話す人によって、女であったり、娘であったり、老婆であったり、それぞれ違っているようである。
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Posted on 2019/01/28 Mon. 11:21 [edit]

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下関の地名23 弟子待 

弟子待


彦島の南東にある“弟子待(でしまつ)”の地名の発祥は、俗説に宮本武蔵と佐々木小次郎が舟島で決闘したとき、小次郎が弟子たちを待機させた場所だから…というのがありますが、菅原道真が寛平四年に完成したといわれる『類聚国史』には、
「淳和天皇天長七年五月以来長門外島一処為勅旨田」という記述があり、『防長地名淵艦』という書物では、これを解説し、
「“外島”とあるのは、実は“引島”のことで、外と引との草書体が良く似ているので間違ったものである。また、“勅旨”はテシと読むので、もともと勅旨町だったものを“弟子待”と誤って使うようになったのだ…」
としています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/28 Mon. 10:50 [edit]

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教育施設の変遷5 

教育施設の変遷5


そうすると明治7年開校の志磨小学校というのが現在の本村小学校になるのですか。
そのつながりというのがあったら、そのお話をお願いします。

お話がちょっと戻りますが、志磨小学校については面白い話があります。
もとは本村の専立寺で寺子屋のようにして、明治の初めに子供の教育がおこなわれていたのであります。
この専立寺のお坊さんの名前が志満さんと申しました。
当時お世話になっていた人たちが、新しく出来上がる学校を志満さんにちなんだ名前にしたいと考えまして、この方の姓をとりまして「志を磨く」を当てはめまして志磨小学校が出来上がり、これがずっと彦島の教育普及の大きな力になってきたわけであります。
明治40年に志磨尋常高等小学校が彦島尋常高等小学校となった後、またまた校舎増築の必要に迫られまして、大正6年に仮校舎四教室を一棟、同じく7年に同様の一棟をさらに増築する有様でありましたが、児童の就学率の増加は校舎の増築をさらに上回りまして、ついに大増築の必要に迫られました。
そこで大正13年の4月に増築工事に着手し、同年12月に大講堂と新校舎八教室が出来上がったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/27 Sun. 13:11 [edit]

category: ひこしま発展誌

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親クジラの願い 

親クジラの願い


下関彦島田ノ首町。
1000メートルそこそこの海峡をはさんで、対岸の門司側にも工場の煙突や倉庫群。
すぐ目の前を一日千隻もの大小のタンカー、貨物船が右へ左へひっきりなしに通る。
このにぎやかな海を、戦前までクジラの群れが泳いでいた。

日本沿岸からザトウクジラ、セミクジラなどの小型クジラが姿を消したのは昭和になってから。
幕末から明治にかけては、紀伊半島沖、壱岐、対馬、五島と並んで瀬戸内海はクジラの好漁場だった。

関門海峡を通って波静かな瀬戸内海へ出入りするクジラは、たいてい子連れだったという。
田ノ首町に伝わる「親クジラの願い」も、子連れクジラにまつわるあわれな話だ。


明治40年ごろ、彦島田の首に貧しい漁師がいた。
五つになる男の子があったが、生まれつき体が弱く、病気がちだった。

ある夜、漁師はまくらもとの気配で目がさめた。
部屋の中に真っ黒く大きなものが立ちふさがっている。
よく見るとクジラだった。
驚く漁師にクジラは
「私たち夫婦クジラは、明日の昼ごろ、一人息子の子クジラを連れてこの海峡を通ります。
しかし子クジラは病気です。
どうか息子だけは見逃してやって下さい」
クジラは哀れみをこうように弱々しく頼み終わるとスーッと消えた。

夜が明けた。
漁師はさっそく浜の仲間を集めてこの不思議な出来事を話した。
半信半疑の仲間たちも、クジラが本当にとれれば、いい収入になる。
みんな銛や太綱を用意して待った。

クジラは前夜の話のとおりに親子三頭でやってきた。
たちまち海峡は修羅場になった。
大波をたてて暴れる親クジラ、飛び交う銛。
そのときどうしたはずみか一本の銛が、両親に守られていた子クジラの胴にグサリと命中してしまった。
海を血で真っ赤に染めながら、のたうち回る子クジラ。

突然、父クジラが今までに倍して暴れ始めた。
激しくはね、漁師たちの小舟を次々と大きな尾びれでたたいた。
船はこわれ、漁師たちは海へ投げ出された。
もはやクジラ捕りどころではない。
みんな命からがら泳いで逃げた。

モリ傷を負った子クジラが、その後どうなったかだれも知らない。
そして“夢”を見た漁師が疲れ果てた体を引きずってわが家へ帰り着くと、その少し前に息子が息を引きとっていた。
ちょうど、モリが子クジラに突き刺さったころ高熱を出し、もがきながら死んだという。
(冨田義弘著「彦島の民話」から)


当時、沿岸捕鯨の漁民が最も喜んだ獲物は、子連れのセミクジラだった。
セミクジラは肉がうまく、油も多かった。
しかも子連れの場合、動きの鈍い子クジラを先に仕留めれば、母クジラは決してそのそばを離れず、たやすく二頭とれたからだという。

貧しい漁師が、うまく親クジラをとっていたら、まっ先に病弱な息子に薬を買い、医者を呼んだにちがいない。
クジラに通じる親の情がこの民話を生んだのだろうか。
全く同じ話が、かつて沿岸捕鯨で栄えた各地の浦にいまも伝えられているという。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より
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Posted on 2019/01/27 Sun. 12:50 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名21 彦島(ひこしま)7 

彦島(ひこしま)7


「山口県地名明細書」には、彦島の“小字”を次のように収録しています。

海士郷
牛が鼻(うしがはな) 脇ノ田(わきのた)

本村
大江(おおえ) 鋒江(ほこえ) 鋒崎(ほこざき)

後山
長崎(ながさき) 安藤田(あんどうだ) 江向(えむかい)

堀越
鎌崎(かまさき) 杉田(すぎた)江ノ浦(えのうら)

弟子待
行田(おこなで) 山中(やまなか) 角倉(すまくら)

田ノ首
塩田(しおた) 山床(やまとこ) 生板(なまいた) 西ノ脇(にしのわき) 大山(おおやま) 生板瀬(なまいたせ) 鳴瀬(なるせ)

福浦
硴崎(かきざき) 塩谷(しおや) 安舎(あんじゃ) 鋤崎(すきざき)


荒田(あらた) 萩原(はぎわら) 佐崎(さざき) 小迫(こざこ) 飛渡(とびわたり) 中西(なかにし)

西山
阿武(あぶ) 山合(やまごう) 波高(はだか) 長無田(ながむた) 伊無田(いむた) 

南風泊
渡瀬(わたせ) 瀬戸(せと)

宮ノ原
出口(でぐち) 老(おい) 田尻(たじり) 小戸(おど)


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/27 Sun. 12:48 [edit]

category: 下関の地名

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