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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の地名24 弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
弟子待という地名の起こりについては、次の説がある。
『類聚国史』の天長七年(830年)の頃に、『淳和天皇、天長七年五月乙未、長門外島一処為勅旨田』の字句があり、外島というのは舟島のことであるというのである。
この付近では『田』を『マチ』と言うので、『勅旨田』は『テシマチ』であろう。
従って、武蔵・小次郎の決闘よりも八百年も前に、既にこの名は付けられていたとみるべきで、その後、この果たし合いをきっかけに『弟子待』という字が当てられたのであろうか。
それにしても、武蔵を呼び捨てにし、小次郎を佐々木様と語り継いだところに、「小次郎びいき」の思いが伝わって来るようである。
尚、巌流島の決闘は四月十二日のほかに十三日とも二十一日とも言われている。

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Posted on 2019/01/29 Tue. 10:09 [edit]

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教育施設の変遷6 

教育施設の変遷6


第二小学校のことについても少しお願いいたします。

この彦島第二尋常小学校は、彦島尋常高等小学校の校舎新築と時を同じくして、彦島杉田の土地に敷地2637坪土地を選び、明治39年9月に工事にとりかかり、翌40年10月に224坪の校舎が落成したものであります。
これはいうまでもなく、就学児童の激増および教育普及の理念を考え合わせた結果、どうしても一校を新設する必要を痛感したからにほかならないわけであります。
開校式は明治40年11月15日、この校舎に江の浦、弟子待、田の首、福浦の尋常四年以下の児童を収容したわけであります。
彦島の産業の発達するにつれまして、本校の通学区域内にも大小の会社・工場が続々と設置されまして、戸数も急激に増加してまいりました。
このため第二尋常小学校もたちまち狭隘を告げる結果となって、ついに大正10年9月に塩谷に3200余坪の土地を選定して、校舎を移転増築するための敷地の地ならし工事に取り掛かり、翌大正11年から建設工事を始めました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/28 Mon. 11:36 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名23 弟子待 

弟子待


彦島の南東にある“弟子待(でしまつ)”の地名の発祥は、俗説に宮本武蔵と佐々木小次郎が舟島で決闘したとき、小次郎が弟子たちを待機させた場所だから…というのがありますが、菅原道真が寛平四年に完成したといわれる『類聚国史』には、
「淳和天皇天長七年五月以来長門外島一処為勅旨田」という記述があり、『防長地名淵艦』という書物では、これを解説し、
「“外島”とあるのは、実は“引島”のことで、外と引との草書体が良く似ているので間違ったものである。また、“勅旨”はテシと読むので、もともと勅旨町だったものを“弟子待”と誤って使うようになったのだ…」
としています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/28 Mon. 10:50 [edit]

category: 下関の地名

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教育施設の変遷5 

教育施設の変遷5


そうすると明治7年開校の志磨小学校というのが現在の本村小学校になるのですか。
そのつながりというのがあったら、そのお話をお願いします。

お話がちょっと戻りますが、志磨小学校については面白い話があります。
もとは本村の専立寺で寺子屋のようにして、明治の初めに子供の教育がおこなわれていたのであります。
この専立寺のお坊さんの名前が志満さんと申しました。
当時お世話になっていた人たちが、新しく出来上がる学校を志満さんにちなんだ名前にしたいと考えまして、この方の姓をとりまして「志を磨く」を当てはめまして志磨小学校が出来上がり、これがずっと彦島の教育普及の大きな力になってきたわけであります。
明治40年に志磨尋常高等小学校が彦島尋常高等小学校となった後、またまた校舎増築の必要に迫られまして、大正6年に仮校舎四教室を一棟、同じく7年に同様の一棟をさらに増築する有様でありましたが、児童の就学率の増加は校舎の増築をさらに上回りまして、ついに大増築の必要に迫られました。
そこで大正13年の4月に増築工事に着手し、同年12月に大講堂と新校舎八教室が出来上がったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/27 Sun. 13:11 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名21 彦島(ひこしま)7 

彦島(ひこしま)7


「山口県地名明細書」には、彦島の“小字”を次のように収録しています。

海士郷
牛が鼻(うしがはな) 脇ノ田(わきのた)

本村
大江(おおえ) 鋒江(ほこえ) 鋒崎(ほこざき)

後山
長崎(ながさき) 安藤田(あんどうだ) 江向(えむかい)

堀越
鎌崎(かまさき) 杉田(すぎた)江ノ浦(えのうら)

弟子待
行田(おこなで) 山中(やまなか) 角倉(すまくら)

田ノ首
塩田(しおた) 山床(やまとこ) 生板(なまいた) 西ノ脇(にしのわき) 大山(おおやま) 生板瀬(なまいたせ) 鳴瀬(なるせ)

福浦
硴崎(かきざき) 塩谷(しおや) 安舎(あんじゃ) 鋤崎(すきざき)


荒田(あらた) 萩原(はぎわら) 佐崎(さざき) 小迫(こざこ) 飛渡(とびわたり) 中西(なかにし)

西山
阿武(あぶ) 山合(やまごう) 波高(はだか) 長無田(ながむた) 伊無田(いむた) 

南風泊
渡瀬(わたせ) 瀬戸(せと)

宮ノ原
出口(でぐち) 老(おい) 田尻(たじり) 小戸(おど)


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/27 Sun. 12:48 [edit]

category: 下関の地名

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