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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

教育施設の変遷4 

教育施設の変遷4


次に明治の末から大正年間にかけての、本島の学校教育あるいは学級増加の模様を一つお願いいたします。

明治34年4月に志磨尋常高等小学校に30坪の校舎一棟を増築いたしましたが、当局のいろいろの応急措置にもかかわらず、村勢の伸長が著しく、人口の増加と教育への関心の増大は、さらに就学児童の急激なる増加を招きまして、教室の増築だけでは全児童を収容することができない有様になりました。
この解決策として、大規模な新校舎を建てる計画が起こりまして、幾多の紆余曲折を経て、39年9月から本村石ヶ原に校舎新築の工事に取り掛かったわけであります。
翌40年10月に敷地の坪数が3065坪、建坪が610坪の校舎が落成いたしました。
これを彦島尋常高等小学校と改称したのでありますが、これが現在の本村小学校に及ぶわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/25 Fri. 12:07 [edit]

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下関の地名20 彦島(ひこしま)6 

彦島(ひこしま)6


この彦島の“字”を「山口県地名明細書」によると

海士郷(あまのごう)

本村(本村)

後山(うしろやま)

堀越(ほりこし)

弟子待(でしまつ)

田ノ首(たのくび)

福浦(ふくうら)

迫(さこ)

西山(にしやま)

南風泊(はえどまり)

宮ノ原(みやのはら)

竹ノ子島(たけのこじま)

船島(ふなしま)

となります。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/25 Fri. 11:39 [edit]

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教育施設の変遷3 

教育施設の変遷3


学制領布後の彦島の諸学校および教育はどのようになりましたか。

まず明治7年に志磨・富観・迫西・田の首・竹の子島と、この五つの小学校が設置されましたが、明治19年に富観と迫西の両方の学校は志磨小学校の分校となり、竹の子島小学校は仮教場と改められ、田の首小学校は廃止されたわけであります。
さらに明治20年には、富観と迫西の両方の分校を廃止して志磨小学校に合併して、教科を四科学級に編成されました。
この結果、校舎が非常に手狭になりましたから、翌21年本村の棚田に450坪余りの土地を選んで、ここに建坪220坪余りの校舎を新築し、旧校舎の児童を収容して授業を開始したのであります。
さらに翌々23年4月からは、2カ年程度の補習科を設置しまして補修教育をほどこすことになったわけであります。
ずっと後になりまして、明治30年4月からは修業年限四カ年の高等科を併置し、尋常科四学級、高等科一学級を編成いたしました。
このころから島民一般も、教育に対する関心が次第に高まってまいりまして、就学する児童数も増加してまいりまして、またまた校舎が狭くてならないという状態になったわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/24 Thu. 11:42 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名30 海士郷 

海士郷


小瀬戸をはさんで本土の伊崎の対岸にある“海士郷(あまのごう)”は、もともと“天川(あまかわ)”と呼ばれました。

「道ゆきぶり」には、
「ふくらの島よりつかひきたり、小舟にて天川といふわたしをして参りたいと申ししかば…」
と記述されています。
また、「長門国志」の中には、
「天川は海部郷なり、三代実録貞観元年の条に長門国医師従八位下海部種麿と見ゆ、この氏人の祖此国の海人部に定められて此所に住せられし故に地名になりけん」
と記されています。

そうした伝説もあってか、保元元年の頃、河野通次が彦島に根拠地を求めてから、水軍にかかわりのあった人々が、この地を中心として漁業に従事するようになり、現在の海士郷を形成したものと思われます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/24 Thu. 10:21 [edit]

category: 下関の地名

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教育施設の変遷2 

教育施設の変遷2


学制領布が行われたのはいつ頃でございましょうか。

学校教育制度が定められたのは、明治5年でございます。

それより先と後を二つに分けまして、彦島の教育について学制領布より前のお話をお願いいたします。

学制領布前の彦島の教育については、特に徳川時代の教育となりますと、その状況を知るための文献がありませんからはっきりいたしませんが、本村、福浦、西山などの所々に寺子屋式の教育が行われておって、番所の役人や僧侶が教えていたと言われています。
私の聞くところによりますと、だいたい明治の3年から4年頃に、人々の名字と名前がはっきりと決まりまして、明治4年から5年頃に寺子屋の形をとったものも多くなったと申されております。
なにしろ周りが海で囲まれている島のことでございますから、どうしても外からの刺激を受けることが少ないため、自然文教施設の必要性について顧みられることがすくなかったであろうと想像されます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/23 Wed. 10:47 [edit]

category: ひこしま発展誌

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下関の地名17 福浦 

金比羅狐


 むかし、下関の港は、北前船西廻り航路の寄港地として栄えていました。
 それは、奥羽、北陸地方から米や、にしん、こんぶなど数多くの塩干魚などをなどを積んだ船が、日本海を西下し、瀬戸内海を東上して大阪に向かう際に、この港が最も重要な役割を果たしていたからです。そのころの下関は兵庫の港と共に西国一を競う程の繁昌ぶりだったと言われています。

 一般には、下関の港、と表現されていますが、その中には、彦島の南風泊りと福浦の両港も当然含まれていました。
 南風泊港は、文字通り南の風を避ける為の港で、福浦港は、今の江浦小学校から姫の水あたりまでが海という大きな入江となっていましたので、風待ちには天然の良港でした。


 福浦港の入口には、地元の人びとが、
『ふくらの金比羅さんの石段は、日本一の急坂じゃ。こねえに急な石段はどこにもありゃあせん』
 と自慢する金比羅神社があります。

 その石段の数は、むかしから二百七十七段、二百七十九段、二百八十一段と、登る人によって違っていました。それは、金比羅狐のいたずらによるものだと言われています。

 ある日、その話を聞いた肥前屋の客が、
『ワシが、石段の数を確かめてやろう』
 と出かけて行きました。船宿の人びとはそのあとに続き、石段の下で様子をみることにしました。
『ひとつ、ふたつ、みっつ……』
 肥前屋の客は、大声に数えながら登って行きました。うっそうとした森に囲まれて、金比羅さんの石段は三分の二から上は殆ど見えません。その見えないあたりに男が登って行って、かなり経ちました。

『おーい、やったぞーッ。二百七十九段が本当じゃ』
 森の中から男の喜び勇んだ声が降りて来ました。人びとは、顔を見合わせて笑いました。しばらくすると、ずっと上の方に男の姿が見えはじめ。何やらつぶやき乍ら下って来ました。
『二百三十六、二百三十七、二百三十八』
 男は下り坂でも、また石段の数を数えていたのです。

『二百七十九、二百八十、二百八十一、あれっ、さっきより二段多いぞ。おかしいな』
 参道の石鳥居まで下って来て、男は眼をまるくしました。
『八合目で狐に会うたじゃろうが』
 見物の中から一人の男が訊ねました。
『うんにゃ、会わん』
『狐の声を聞いたろうが』
『いんにゃ、聞かん。鳥は鳴いたがのう』
『なんちゅうて鳴いたい』
『ぎゃおーっ、小さかったけど、そんな声じゃった』
 人びとはまた顔を合わせて笑いました。

『クソッ、もう一回登って来る』
 男は、再び、一つ、二つと数えながら石段を登って行きましたが、何度数えても上りは二百七十九段、下りは二百八十一段でした。その日だけで、この急坂を十往復もした男は、船宿に戻って、とうとう寝込んでしまいました。

 また、ある日のこと、薩摩屋に泊まっていた客が、金比羅さんの石段を数えながら十往復しましたが、この時は上りが二百八十一段で、下りは二百七十七段しかありませんでした。
 その後も、船木屋の客、淡路屋の客などが噂を聞いてこの石段を上り下りしましたが、誰も同じ数を言い当てた人は居ません。

 福浦の人びとは、いつも笑って見守るだけでした。

 それは、誰もが一度は経験していることで、金比羅狐が居る限り、この石段の数は皆目わからない、と諦めているからでした。
 たった一人で登って行っても、あるいは、多数の人びとであっても、八合目にある脇道まで来ると、必ず何かが起こって数を間違えてしまうのです。
 それは、さっと眼の前を走る狐の影であったり、ゴソッと藪に物音がしたり、ギャォーと雌狐が鳴いたりして、気を散らしてしまうのでした。

 だから、船宿の客が石段の数を確認するという噂が流れると、福浦の人びとはみんな集まって冷ややかに笑い乍ら見守るだけでした。
 そして口々に、こう言ったと伝えられています。

『よそ者の狐ごかしが始まった』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
福浦を、古老たちは今でも『ふくら』と呼んでいる。
金比羅山の八合目には、森の中に小道が走っていて、山に鉢巻きをしたように、グルッと一巻きしている。
言い伝えによれば、金比羅狐はこの脇道あたりに出没したそうで、かなり年代を経た古狐ではあるが、その体は小猫くらいしかなかったという。
『よそ者の狐ごかし』というのは『地元の者でさえ判らないのに、よそ者に確かめられてたまるものか。それを小馬鹿にしたからバチが当たって騙されたんだ』という嘲笑だろうと、ある古老は話していた。
余談ではあるが、嘗て私は、冬山シーズンが近づくと、山仲間を集めて、この石段でトレーニングに励んだものであった。本書の版画を担当してくれた勝山光治氏にも同じ思い出がある筈。
しかし、私は、この石段を数えながら登ったことはない。

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Posted on 2019/01/23 Wed. 10:19 [edit]

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教育施設の変遷1 

教育施設の変遷1

語り手 山崎弥三郎
語り手 中村 教諭
語り手 飯田 教諭

山崎弥三郎
私は江の浦小学校校長の山崎であります。
かねて彦島教育の沿革について、ご依頼を受けておったわけでございますが、ただ今から本校の教諭である中村・飯田両氏の調査研究に係る、郷土の教育の沿革とその推移について、私の代わりにお話をいたします。

朗読
「教育基本法第一条 教育は人格の完成を目指し、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

昭和22年4月に学校教育法が施行され、六・三制が発足いたしまして、今年はちょうど10周年を迎えました。
現在彦島に小学校が3校、そして中学校が2校ございます。
学んでおります児童数はざっと1万名、男子5535名、女子4750名です。

ずっと昔、彦島の教育はどのようにして行われていたのか、ただいまからお話を進めてまいります。

それでは学制領布を中心に、お話を進めてまいりたいと存じます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/22 Tue. 10:38 [edit]

category: ひこしま発展誌

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22

下関の地名18 福浦 

福浦


冨観台(金比羅神社の地)と貯木場で知られる“福浦(ふくうら)”は、海賊島という異名もあって、昔は海賊の根拠地だったとの伝えも残っています。
福浦が本格的に開発されはじめたのは、天文の頃からとされ、特に江戸中期に北前航路が盛んになると、船の風待ち潮待ちの港として繁盛しました。
入り江へ安全に入港させるため、冨観台には灯台施設の前身といわれる“灯明台”が設けられていました。
こうしたことからも“福浦”という地名は、船乗りたちにとって“福”の浦だ…という意味が込められていたようです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/22 Tue. 09:38 [edit]

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自治行政とその施設の概要5 

自治行政とその施設の概要5


次に校舎増築の主なるものと、講堂の建築について一言触れておきたいと思います。
彦島尋常高等小学校の通学区に大工場建設されまして、急激に人口の増加を来し、大正6年と7年の2カ年に隔年四教室のバラック建ての座間教室の仮建築で、さしあたり児童の収容をしたものでありますが、遂に大正13年に校舎の大増築を実施し、同時にバラック建ての八教室を廃するにいたったわけであります。

この校舎増築と同時に、校庭の南寄りに建築された講堂は、建坪220余坪の煉瓦建鉄骨で美観を呈し、規模も県下一の大講堂と称せられたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/21 Mon. 11:17 [edit]

category: ひこしま発展誌

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彦島の地名 

彦島の地名


彦島の地名が初めて文献に現れるのは、720年に成立した「日本書紀・仲哀紀」であり、引島と書かれています。
さらに「平家物語」では「平家は長門国引島に着くと聞こえしかぱ」と書かれ、「吾妻鏡」に初めて彦島が出てきます。
「源平盛衰記」には、新中納言知盛は長門国彦島と云う所に城を構へたり。是をば引島とも名付けたりとあり、彦島とも引島とも云へり」とそれぞれ記しています。
「彦島」という表記になったいきさつについては諸説ありますが、幕末に外国軍艦を砲撃する為に彦島に砲台を作った際、引くは戦いにとって縁起がよまないという事から「彦島」というようになったといわれています。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
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Posted on 2019/01/21 Mon. 10:43 [edit]

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