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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

地域の史実と口碑伝説4 

地域の史実と口碑伝説4


次に佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘について述べたいと思います。

佐々木小次郎は越前の国宇阪の庄、浄教寺村、佐々木源左衛門の子でありまして、幼少の頃から剣豪富田勢源について修行をし、ツバメ返しといって敵の足を払う独特の剣技を編み出しまして、名を巌流と呼ぶようになりました。
その時十七歳の少年でありましたが、この剣法はじつに恐るべきものでありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2018/12/31 Mon. 11:45 [edit]

category: ひこしま発展誌

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豊関ことばについて 6 

豊関ことばについて 6

「その本、買ったのかい」「うん借ったよ」
「これは、借りたんだろ」「いんにゃ、買うたんや」

これなどは、字に書けば納得いくものの、会話だけならどこまでも意志が通じない。
しかし、「買う」が「買った」と変化するだけではあまりにも単純すぎはしないだろうか。
ここはやはり「買う」は「こうた」と活用されてこそ言葉の味が出ようというものだ。

「行っチョル、見チョル、しチョル」
「ええっチャ、いけんっチャ、駄目っチャ」

これらの「チョル」と「チャ」は、下関だけの言葉でなく、山口県全域で使う。
それは前項の「軍隊で云々」の所でも書いた。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/12/31 Mon. 11:36 [edit]

category: 下関弁辞典

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フクが踊る【南風泊漁港】 

フクが踊る【南風泊漁港】


奇岩に根をからませた野菊が、冷たさを増した潮風に全身を揺らせながら、行く秋と名残を惜しんでいました。

竹ノ子島は一周およそ2キロメートル、彦島とは「昭和橋」で結ばれています。
この島は、彦島の西端に位置するため、灯台や潮流信号所があり、関門海峡に出入りする船舶にとっては、大切な所です。

台場ヶ鼻の潮流信号所は、明治42年に創設されたもので、図形や色によって潮流を表示していましたが、現在では電光板へと変っています。

潮が引いた海辺には、小さなニナが無数に見られ、あちこちの岩場では、釣りを楽しむ人の姿がありました。

竹ノ子島をめぐって、フクの水揚げ量が全国の九割を占める南風泊漁港へ進むと、ちょうど接岸中の船からフクを水揚げ作業中でした。
船の生簀から網ですくわれたフクは、手早く市場内の活魚槽に運ばれ、午前3時20分からのセリを待ちます。

トラフクの大きなものは、一匹五万円もするという説明には一同驚きの声をあげたものです。

市場内の見学を終え、市指定文化財の貝化石層が見られる西山海岸へ。
下関の海岸線の中でも特異な景観です。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2018/12/31 Mon. 11:21 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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地域の史実と口碑伝説3 

地域の史実と口碑伝説3

《巌流島》

巌流島は昔の地形と変わっていますが、いまだに古い名残を留めておる懐かしいところであります。
この島はご存知のように佐々木巌流と宮本武蔵が決闘したところであまりにも有名であります。
巌流島は昔は舟島と申しまして、伝説によれば太古に穴戸、すなわち今の国道海底トンネル付近が門司と地続きでありまして、その間が大きな穴となって舟が通っていたということであります。
その穴の天井が落ちまして西に流れて、今の舟島ができたというのであります。

とにかく古い島で昔は小さいながらも丘が連なり、それに老松が青々と繁り、遠くから見てまことに美しい印象的な島でありました。
昔は大きい島であったのが潮流のために年々侵蝕されて、だんだん小さくなったということであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2018/12/30 Sun. 11:04 [edit]

category: ひこしま発展誌

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豊関ことばについて 5 

豊関ことばについて 5

その二 下関弁の特徴

「下関に来て最初に腹が立ったのは、あいづちを打つのに『ああそうだ』と言わずに『アア、ソレソレ』と言われた時ですよ。まるで自分がからかわれているように思えてねぇ」

国鉄のSさんは遠い昔を思い出すような眼で私にこう言った。
何気なく口をついて出る言葉「アアソレカネ」とか「ソレソレ」とか「ホントデスカ」などは、聞きなれない人にとっては馬鹿にされているように聞こえるものらしい。

「行くホ」「どうするソ」などのように語尾に付ける「ホ」や「ソ」は、疑問、否定、肯定、いずれの場合にも使い分けるが、これはアクセントによって区分する。
「行くの、行かないの」と言う場合の「の」が、「ソ」「ホ」にあたる訳である。

「フン好き」という言葉も最近では死語になりつつあるが、下関らしいものの一つであろう。
この場合の「フン」は「とても」という意味である。
「フン好かん」となれば「大嫌い」。

「頭がワルイし、体はエライ」と言えば関東の人は驚くが、これなどは、頭痛はするし、体はだるい、という意味で愛嬌がある。

「壊れたラジオ、なおしとけよ」と言われて、
「ああ、洗濯物と一緒に、なおしたよ」と答えが返ってくれば、まるで通じていなかったことになる。
これは「修理しておけ」と言われて、「取り込んだ洗濯物と一緒に片付けた」と答えたからだ。

「背中をスッテやろうか」と親切に言って、
「スルんじゃなくて、流すんだろッ」と言われたことがある。
確かに「流す」が標準語になっているが、タオルに石鹸をなすりつけて「スッテ」から、湯で洗い「流す」から、「スル」という言葉もあやまりではない筈だ。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/12/30 Sun. 10:57 [edit]

category: 下関弁辞典

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輝く海辺を行く【田の首】 

輝く海辺を行く【田の首】


潮の香りに囲まれた彦島の海辺は、人の通行をかたく拒んで、寄せつけないところもあります。
弟子待から田の首への海岸線も、通り抜けができません。

そこで、日露戦争当時、海軍の兵舎があったことから「海軍山」とよばれる高台を経て、田の首へと向かいます。

途中、昭和57年4月開校した向井小学校や、田の首八幡宮、造船所の巨大なクレーンをながめながら下って行くと彦島田の首町で、小さな船溜まりがあります。

波打ち際には、完成間近な貨物船の壮大さを、一層強調するかのように、小さな漁船がつながれていました。

運輸省の検潮基準点の標識を後に、家並みを通り抜け、再び海へ出ると、彦島の最南端です。

近くに、昭和46年12月に完成した南霊園の墓標がアベリアの可憐な花に囲まれて、静かな秋の光をいっばいに受けたやすらかな光景を見せてくれます。

ここからは塩浜町へは、干潮の時のみ探訪することができますが、海岸線コースの中でも難所の一つです。

大小の岩伝いにえよそ1キロメートル。
海峡の流れを隔て、戸畑、若松の工場群がせまってくる眺めを左に、岬をまわると、福浦金刀比羅宮の森、入り江に浮かぶ輸入木材の群列、福浦町の連なる甍が、眺めを一変させてくれます。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2018/12/30 Sun. 10:55 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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地域の史実と口碑伝説2 

地域の史実と口碑伝説2


古い時代に遡りますと、源平壇之浦決戦に平知盛が彦島城を築いた場所が、地形から考えて、この江の浦一帯ではないかと推測されます。

また三菱造船所の沖合は潮流の関係で浅瀬になっておりました。
干潮のときは広々とした砂州が現れまして、これを沖の洲と申していまして貝拾いのできるところでありましたが、もはや今日では埋め立てられて昔の面影はまったくありません。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2018/12/29 Sat. 10:01 [edit]

category: ひこしま発展誌

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豊関ことばについて 4 

豊関ことばについて 4

それは、下関と門司との間を流れるものが、川でなく、海であることを強く感じさせる。
もしもこの海峡が川であったなら、川岸をどこまでも上流へ向かって進み、水源へ達すれば、そこは一つの地続きになる筈だ。
だが、海はどこまでも二つのものを切り離して一つにはしない。
そこに、川と海との違いがあり、住む人々の心を無意識のうちに大きく引き離してしまうものがあるのかもしれない。

また、下関という土地は早くからひらけ、藩制時代には北前船の寄港地であった。
大阪の堺港や長崎と共に栄華を誇った港町だから都会的な雰囲気や植民地的な要素もあって、土着語の上に、共通語が定着していったと考えられないことも無い。

全国共通語… それが下関では早くから使われていたのだ。
だから、抑揚の少ない平板な言葉が下関の特徴となったのであろう。
例えば、北海道や、終戦前の台湾や満州で共通語が使われていたように。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/12/29 Sat. 09:49 [edit]

category: 下関弁辞典

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360度の展望【老の山公園】 

360度の展望【老の山公園】


戦前は「要塞地」現在は平和のシンボル「公園」というところが多くありますが、その一つに老の山公園があります。

彦島の県立下関第一高校入口バス停、徒歩で約15分登ると、360度の展望が開けます。

下関市街、関門海峡、西山と北九州の工業地帯、六連島から響灘、足元には彦島と本州を結ぶ日本第二のコンクリート橋「彦島大橋」が見えます。

この公園は、昭和44年から本格的に整備がすすめられ、芝生広場、展望台、休憩広場、植栽や遊戯施設を整えているほか、勤労青少年ホームも設置されており、次代をになう青少年の情操教育の場となっています。

また、本格的な野外ステージ、外周園路の整備、藤棚の設置、花木植栽など魅力ある公園整備が進められ、火ノ山公園に次いで大規模な公園となっています。

明治以降、砲台陣地が構築され、要塞の地であったこの地が、憩いの場として市民に利用されている意味を味わってみたいものです。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2018/12/29 Sat. 09:47 [edit]

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地域の史実と口碑伝説1 

地域の史実と口碑伝説1

語り手 西 浜一


《江の浦》

彦島でもっとも繁華な町は江の浦であります。
しかし三菱造船所ができるまでは寂しい村で、かつ地形も現在とずいぶん異なっていました。

現在は県道が後山町からまっすぐに延びていますが、以前は堀越口あたりまではとくに寂しい場所でありまして、海岸に沿って松並木がありました。
そこを通行していたのでございます。
なおずっと古い時代は鎌崎のところが海に突き出していたとのことでありますが、長府藩のときに堀越の沖合を埋め立てたのであります。

その後明治28年に土地の有志が海面約三万坪を埋め立てましたが、これは早速貯炭場として役立てたのであります。
そして大正三年に三菱造船所がここにドックを建設することになりましたので、一躍今日の繁栄を来すことになったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

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Posted on 2018/12/28 Fri. 10:25 [edit]

category: ひこしま発展誌

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