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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の方言 て…の部 

下関の方言 て…の部

てご
 手伝い。

でこ
 でく。土人形。

てこにあわん
 手にあまる。始末に負えぬ。

てしょう
 焼き物の皿。焼き物の小皿。

てじょうゆ
 自家製の醤油。

でたち
 花嫁の出発前の祝宴。
 旅への出発の祝宴。
 出棺。

てだま
 思いのままに操る。

でっかん
 大頭。

てにおえん
 手に負えぬ。始末に負えぬ。

てぬくみ
 懐手。

てねる
 束ねる。

てのごい
 手ぬぐい。

てのはら
 手のひら。

ではいり
 出入り。

てばしこい
 すばしこい。何をしても素早い。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/10/16 Tue. 10:10 [edit]

category: 下関弁辞典

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与次兵衛ヶ瀬と太閤岩1 

与次兵衛ヶ瀬と太閤岩1

かつて海峡には多くの岩礁が波間に見え隠れしていたが、下関側から「死の瀬」小倉側からは「篠瀬」と呼ばれる暗礁は最も大きく、海上を往来する人々に恐れられていた。

文禄元年七月、海外出兵のために肥前名護屋城にいた豊臣秀吉は母危篤の報を受けて大急ぎで帰阪、その途中、彼を乗せた日本丸が死の瀬で座礁してしまった。
約60メートルもある大きな船が今にも転覆しそうなありさまに船内も両岸も大騒ぎとなり、彦島、竹崎、伊崎などから多くの船が漕ぎ出して救出に向かった。
そのとき秀吉のそばについて離れず沈着な行動をとったのが、のちに長府の初代藩主となる毛利秀元で、わずか14歳であったという。

関門海峡を通航する巨船には今でも水先案内人が乗船することになっているが、日本丸を操縦したのは明石与次兵衛という瀬戸内海きっての名船頭であった。
彼については、責任を感じて切腹した、あるいは難所航行の第一人者が操船を誤るはずはなく、秀吉に恨みを持つ男として打ち首となったなど、諸説が伝えられている。

(冨田義弘)


図説「下関の歴史」より
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Posted on 2018/10/16 Tue. 09:57 [edit]

category: 下関の歴史論文

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