08 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の民俗 民間治療法17 

民間治療法17


《腹痛》

センプリに熱湯をかけて飲む。
(蓋井島)

ネズミチョウ(ネズミのふんのような実なる木)の皮と葉をとり、釜で煎じ途中で汁を絞り再び煎じ詰める。
水飴状になったところで、はしに巻きつけて飲む。
残りは瓶にとっておく。
(蓋井島)

《腹膜炎のはれ》

カイモと小麦粉を練って腹部に貼る。
(小月・内日)

かつらの葉を煎じて飲む。
(彦島)

《腸病》

腸を温め、ゲンノショウコを煎じて飲む。
(蓋井島)

《黄疸》

シジミの味噌汁を飲む。


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2018/09/30 Sun. 09:59 [edit]

category: 下関の民俗

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30

下関の方言 せ…の部 

下関の方言 せ…の部

せく
 痛む。
 急ぐ。
 川などをせき止める。

せせかましい
 余裕のないさま。

せせくる
 誹謗する。そしる。

せせくろしい
 うるさい。やかましい。
 狭い。窮屈。

せせる
 そしる。
 いじる。
 いじめる。
 競争する。
 人のアラを探す。

せせん
 しきりに。闇雲に。

せぞ
 背戸。

せっき
 八月旧盆の前の半月間と十二月。

せつく
 促す。催促。督促。

せどぐち
 裏の出入り口。

せなあわせ
 犬猿の仲。

せびる
 ねだる。欲しがる。

せまくろしい
 狭い。

せめる
 親にねだる。

せりご
 とし子。
 貰い子をした後に生まれた子。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/30 Sun. 09:45 [edit]

category: 下関弁辞典

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30

了円寺と高杉療養地跡 

了円寺と高杉療養地跡

国道脇の人道を歩くのはあまり楽しいものではない。
「桜山神社」の標柱のそばの書道具店とお茶屋の間に入ってみよう。
静かな小路がつづく。
かつて小瀬戸の海がこの辺りまで入り込んでいた頃、人々はこの狭い道を行き来していた。
右手は石垣の上に古い家々が並び、左手は道よりも下に家が建っていたりして旧八幡町に似た風情がある。

屋根が足元にうずくまっているような錯覚を起こしながら、のんびり歩いて行くと、横断歩道橋のそばに出ることになるが構わず右へ折れて小路を辿ることにしよう。
やがて、いやでも国道に出てしまう。
そのあたりからが了円寺坂で、その名の寺院は坂の登りかけた途中に堂々とした山門を据えて白塀と石垣の曲線が美しい。

本堂、方丈、庫裡、鐘楼とすべて揃っていて、大きなイチョウの木が二本、桜も墓地のネムノキも共に大きい。
しかし、幕末に志士たちが屯所としていた面影は何もなく、また、それを記した立て札さえもないのはやはり寂しい。
同じことは西の光明寺でもいえるが。

ところで、了円寺の明治時代の住職、丘道徹は私財を投じて、代用感化院薫育寮を二十数年間経営していたが、これは大正元年に山口市にある「山口県立育成学校」に改組移管された。
すなわち丘住職はこの方面のパイオニアという訳である。

境内を出て横手のゆるい石段のある坂を下ると、途中に「了円寺参道」と書かれた碑が雑草に埋もれていた。
ということは参道は山門をくぐらずにその左手を登っていたことになる。
そういえば、了円寺の山門は長府毛利家の勝山御殿から移したものだという話を聞いたことがある。

さて下駄ばきぶらたんも、下関駅周辺という制約があれば、この辺りから引き返すべきであろう。
了円寺坂を登ってしまうと、金比羅、武久、幡生と先は広くつい帰りそびれてしまう恐れがある。
とりあえず、厳島さんの信号まで戻って神社手前の小路を左に入ろう。

まっすぐに進むと山陽本線の狭く低いガードをくぐることになり更に左に折れて坂道を登ると左手住宅の玄関先に「高杉東行療養之地」の碑が建っていて鉄扉の中に花立が一本と晋作の詩碑がある。
高杉は短い生涯に何百という詩歌を書き、旅日記なども事細かに書き残しており、平和な時代に生きていれば文人としてその名を高めたかもしれない。

落花斜 日恨無窮 自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下 暮朝欲佛廟前紅

落花斜日恨み窮まりなし
自ら愧ず残骸晩風に泣く
怪しむをやめよ家を華表の下に移すを
暮朝廟前の紅をはらわんと欲す

この詩は慶応二年の作で「桜山七絶」と題し「時に予、家を桜山の下に移す」と副書きがしてある。
病気療養のため白石家からここに移ってきた頃の感傷だ。ちなみに華表とは鳥居のことである。

高杉はここで度重なる入牢と回天義挙などによりボロボロに痛めた体を休めながら、国を憂い、多くの死者たちのことを思って悩み苦しんだ。
そして秋から冬へかけて日に日に衰えてゆく体力を気力はどうすることも出来ず、やがて新地の林邸に移って死期を迎えることになるのです。

己惚れて 世は済ましけり 歳の暮 東行

ところで、この療養地のすぐ上に赤鳥居の「立石稲荷」があり、本当はここで静養したんだという説もかなり広く信じられている。
そういえば拝殿の前の花立に彫られた定紋は高杉家のものと類似しているし、ここからなら招魂社の森も手に取るように近い。

お稲荷さんの上の平坦地は住宅地になっているが、戦前には桜山競馬場といって草競馬ファンにとって懐かしい場所。
この住宅地の突き当たりは河野学園で、幼稚園から女子短大までの各層の賑やかな声が聞かれる。
その少し手前を右に折れると正面に神田小学校があり、前の坂道を東にくだると厳島神社の横に出ることになる。
しかし、坂を下りきったあたりから左に折れて、適当な小路を右に入り細い坂道をぐんぐん登るとやがて下りとなって山手町から関西通りへ出ることができる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2018/09/30 Sun. 09:25 [edit]

category: ぶらたん

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30

下関の民俗 民間治療法16 

民間治療法16


《肋膜炎》

彼岸花の根または水仙の根をおろし、飯粒で練り、布に伸ばして土踏まずに貼る。
(安岡・内日)

マムシを蒸し焼きにして飲ませる。
(安岡)

ミミズを煎じたものを解熱のために飲ませる。
(王司・彦島・安岡・内日)

青ガエルの小さいのを生きたまま飲む。
(清末)

マムシの生かし焼酎を飲ませる。
(安岡)

墓の骨壷にたまった上澄みを飲む。
(秋根)

《心臓・血圧》

カキの葉を煎じて飲む。
(小月・安岡・吉母)

青ジソの焼酎漬に砂糖を加え、三ヶ月たったものを飲む。
(小月・長府・内日)

卵の黄身の油を飲む。
(旧市内・安岡・彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2018/09/29 Sat. 10:51 [edit]

category: 下関の民俗

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29

下関の方言 す…の部 

下関の方言 す…の部

すまし
 すまし汁。清汁。吸い物。

すまもち
 上棟式の餅まきで東西南北の四本柱から放る大きな餅。

すまんやったな
 すまなかったな。
 お世話になりましたね。
 ありがとう。

すまる
 つらら。

すみざけ
 婚約の印の酒。

すみだあら
 炭俵。

すもとり
 オオバコ。

すら
 嘘。デタラメ。
 空籤。ハズレ。

すらごと
 嘘。絵空事。

すりぎ
 すりこぎ。
 マッチの棒。

すりきり
 器に丁度一杯。

ずるずる
 だらしない。
 そのまま居ついてしまう。

すわ
 いざ。

ずわた
 ハラワタ。内蔵。

ずんぐり
 背が低く太っている人。

ずんと
 一段と。かなり。

すんな
 するな。やめろ。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/29 Sat. 10:28 [edit]

category: 下関弁辞典

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29

厳島さんと桜山招魂社(下) 

厳島さんと桜山招魂社(下)

児童公園の石段を下って右へ行けば山陽本線のガードをくぐり高杉晋作の療養地跡に行くことができるが、もし時間があるならば、桜山招魂社を先に訪ねよう。

厳島神社参道脇の信号まで戻って国道191号線にそい西へ行くことになるが、車の多い国道を避けたければ、すぐ先のガソリンスタンドのそばを右折すればよい。
約二メートルの小道が続いて桜山小学校の前に出る。
右手は山陽本線だ、
学校と線路の間の道をしばらく行くと左手にこんもり繁った森がある。
「桜山招魂社」し書かれた石柱が建っていて、鳥居には扁額がない。
そこから長い石段が鬱蒼とした樹林に包まれて暗いたたずまいで登る。
十五段ばかり登ると大きな椎木が天をついて聳え立っている。
市の環境保全条例により「保存樹木」に指定されていることはいうまでもない。

招魂場はそこからさらに百段近くも登らねばならないが、この参道の桜並木は実に見事である。
登りきった台地の正面に拝殿があり、その前に明治天皇勅宣碑というのが建っている。

拝殿の裏手に回ってみると石の鳥居が建っていて、鉄門扉に閉じられた霊標群が祀られている。
明治維新の大事業のために散った三百七十余柱の霊を慰めるもので、中央に吉田松陰、両側に高杉晋作、久坂玄瑞という松蔭門下の双璧が並んでいる。
後列には苗字を持たない小者の名前もあるが、ここに霊標が建てられた志士はまだましだと言えるかもしれない。
小倉や越後、東北あたりで倒れたものも多く、また生死さえも判らぬまま葬れさられた人もあったことだろう。

もともとこの招魂場を作ったのは高杉晋作だが、彼は常に自分より先に死んでいった者のことを想い続けて、
おくれても おくれてもまた 君たちに
誓いしことを 吾忘れめや
とむらわる 人に入るべき 身なりしに
とむらう人と なるぞはずかし
などと歌っている。
いかに国のためだとはいえ自分の作戦や命令により死んだ者に対して、限りない愛惜の念を抱き続けて高杉は悶々とした夜を過ごしたふしがある。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されて豪放磊落な高杉というイメージの陰には、このような人情味厚い一面も隠されていた訳である。

さて、石段を下って桜山小学校に沿いながら国道に出ると信号のそばに「明治維新殉国の士を祀る桜山神社」の大標柱が建っている。
つまり桜山招魂社はここが表坂という訳である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2018/09/29 Sat. 10:05 [edit]

category: ぶらたん

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29

下関の方言 せ…の部 

下関の方言 せ…の部


 瀬。暗礁。

せー
 …しなさい。
 …のせい。
 張り合い。
 気力。息切れ。
 精。

せーぎれ
 息がきれる。

せーさい
 精一杯。

せーずくない
 かごみすぎて腹が苦しい。呼吸が苦しい。難儀な。

せーで
 …しないで。
 それで。

せーろ
 セイロ。蒸し器。

せがう
 からかう。冷やかす。

せからしい
 うるさい。騒々しい。やかましい。

せき
 下関。

せきだ
 雪駄。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/29 Sat. 09:11 [edit]

category: 下関弁辞典

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29

下関の方言 す…の部 

下関の方言 す…の部

すてんくら
 嘘つき。テンクラ。

すと
 藁で包んだ食べ物。藁で包んだかまぼこ。

すどい
 素早い。
 悪賢い。

すどうし
 広く開けっ放しの家。
 戸や障子のない家。

ずねる
 すねる。

すばえる
 戯れる。
 小雨。

すばぶる
 すする。しゃぶる。舐める。

すばぬける
 すり抜ける。

すべくる
 すべる。
 流産。

すぼ
 藁で包んだかまぼこ。
 包茎。

すま
 角。隅。

すまー
 …しますまい。…しないだろう。

すまーがー
 …しないだろうよ。

すまーやー
 しますまい。やめましょう。

すまくら
 炭を貯蔵する倉庫。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/27 Thu. 10:29 [edit]

category: 下関弁辞典

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27

下関の民俗 民間治療法15 

民間治療法15


《肺炎》

コイの生き血を飲む。
(小月・王司・内日・彦島)

金魚の肝を丸飲みにする。
(内日)

コイの肝を丸飲みにする。
(彦島)

鰻の生き血を飲む。
(彦島)

カラシをとかし、厚い布に伸ばして胸に貼る。
氷で頭を冷やす。
(蓋井島)

《肺結核》

スッポンの生き血を飲む。

コイの肝を丸飲みにする。

鰻の肝を毎日飲む。
(彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2018/09/27 Thu. 10:18 [edit]

category: 下関の民俗

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27

下関の方言 す…の部 

下関の方言 す…の部

すけもの
 敷物。

すける
 手を差し伸ばす。手を添える。
 物の下に敷く。

すごい
 ものすごい。甚だしい。
 素晴らしい。

すじひく
 遺伝。血筋。
 痙攣。

すさ
 壁土の中に入れる小さく刻んだ藁。

すずしだな
 蝿入らず。水屋。食器戸棚。

すする
 飲む。

すそ
 末っ子。
 腰。
 女性性器。

すたる
 なくなる。紛失。

すだる
 後ずさり。

すってんきゅう
 嘘つき。

すで
 素手。
 一文無しで事業を始めること。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/27 Thu. 10:08 [edit]

category: 下関弁辞典

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27

厳島さんと桜山招魂社(上) 

厳島さんと桜山招魂社(上)

妙蓮寺の山門を出て左へ行けば大通りに出るが、そこに石の鳥居が建っている。
道路を隔てた正面は厳島神社。
石段を少し登ると右手に句碑がある。
作者名はなく建立は明治時代となっているが、その刻字は残念ながら読めない。
「草の名は」に始まって「初野菊」あるいは「晴野菊」で終わるような気がするのだが、読めなければよけいにイライラすると、ぶらたん氏の弁。

さらに石段を登ってゆくと境内の中央に大きな太鼓堂が建っている。
そばには台石も含めれば三メートル以上もある大石柱に公爵山県伊三郎の撰になる太鼓の由来文が刻まれているが、楼の中にもやさしい説明板があってこれは親切で良い。
せっかくだから読んでみよう。

ここに安置してある大太鼓は、小倉城の櫓太鼓であったものを、慶応三年、当時の奇兵隊長高杉東行晋作が藩主に謝罪せしめた折、戦利品として得たものを、当時、萩毛利忠正公の領土たりし新地浦の守護神、厳島神社に奉納せる由緒あるものであります。
この太鼓はケヤキ材のくり抜きで、直径三尺六寸、重さ九十貫もある天下の一品であります。

小倉城は戦後、鉄筋コンクリートで復元され、天守閣の最上部には大きな太鼓も据えられているが、小倉戦争から百何年も経過した今日でも小倉人にとっては小笠原藩の大太鼓が長州下関にあるという事実が我慢できないらしい。
だから時折、厳島神社の太鼓を返せ、とか、東行庵の石燈篭を返せ、などと執念深く迫ってくる訳である。

しかし長州人にとっては、はいそうですか、と素直に返せるシロモノではない。
先人が維新革命を成し遂げた際の貴重な遺産であってみれば、これは単なる戦利品ではないことがはっきりする。
北方領土の問題と同一視する訳にはゆかないのだ。

さて、拝殿の裏手は児童公園になっているが、その片隅に藤棚などがあって、そこにも小さな句碑がある。
御多分に洩れずここもまた達筆で書かれているため、なかなか読みづらい。
しかし表参道の「草の名」の句碑の仇を、この辺りで討たねばなるまい。
ぶらたん氏、紅葉稲荷の句碑と歌碑同様に、何度も足を運んでようやく判読したという。

春もやや けしきととのふ 月と梅 ばせを

驚いた。
こんなところにも芭蕉の句碑がひっそり建っていたのである。
「山口県近代文学年表」という本の巻末には県内の文学碑をことごとく拾い集めて列記してあるが、紅葉稲荷の「月代や」と、ここの「春もやや」の二つの芭蕉句碑は載っていない。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2018/09/27 Thu. 09:38 [edit]

category: ぶらたん

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27

下関の方言 す…の部 

下関の方言 す…の部

すがやす
 畳を返す。
 着物を裏替えして縫う。

すかん
 好かん。嫌い。
 嫌味な。

すかんぴん
 一文無し。貧乏人。

すく
 田畠を耕す。
 綱や毛糸を編む。

ずく
 そのまま途切れている状態。
 センズクとも、

ずくし
 熟柿。

すくど
 松の落ち葉。

すくねる
 すねる。むずかる。

すくばる
 竦む。立ちすくむ。硬直。

ずくばれる
 膿む。化膿する。

すくも
 籾殻。

すぐる
 藁の外皮を取り除いて整える。

すけない
 少ない。

すげもない
 すげない。
 無愛想。
 味もそっけもない。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/26 Wed. 11:35 [edit]

category: 下関弁辞典

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26

下関の民俗 民間治療法14 

民間治療法14


《シャックリ》

柿のへた、または種を煎じて飲む。
(王司・長府・彦島)

砂糖、あめ、サイダーなどを飲む。
(長府)

びっくりさせる。

《心臓病》

卵の油を飲む。
(旧市内・彦島・内日)

サフランの汁を飲む。
(内日)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2018/09/26 Wed. 11:17 [edit]

category: 下関の民俗

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26

下関の方言 す…の部 

下関の方言 す…の部


 洲。暗礁。
 穴。
 腐敗。

すーっとした
 すっきりした。胸のつかえがおりた。

すいー
 酸っぱい。
 腐っている。

すいがえり
 邪魔をする人。

すいじんさん
 水神。
 井戸。
 湧き水。
 アメンボウ。

すいすいば
 スイバ

すいち
 酢醤油。ポン酢。

すいのう
 篩の目の小さなもの。

すいばり
 トゲ。

すうどん
 かけうどん。

すえる
 腐る。

すか
 空籤。ハズレ。
 当て外れ。


冨田義弘著「下関の方言」赤間関書房刊より
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Posted on 2018/09/26 Wed. 10:59 [edit]

category: 下関弁辞典

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26

高杉終焉の地かいわい 

高杉終焉の地かいわい

利慶寺の前の小路は幾つもの路地に分かれていて、かつての新地遊郭の名残りも感じられるが、それを横目にしばらく西へ歩き、少し大きな通りを右折して北へ出よう。
国道191号線はすぐそこだ。
目の前に信号があったらボタンを押して国道を横断しよう。
そのまま山手に向かって小路を入る。
古い家並みの十字路の角に「左こんぴら北うら」と彫った標柱が建っている。
「左は金比羅から北浦街道へ」という意味で、この道は藩制時代の往還だったから当時のものがそのままの形で残っているわけだ。

その標柱から少し下関駅方向に戻ると左手に「小田海仙宅跡」の石柱がある。
萩毛利藩の御用絵師で、江戸、京都、大阪などで広くその名を知られた海仙は、頼山陽とも親しく分筆にも秀れていたというが、文久二年に七十八歳で世を去っている。

さて、ぶらたん氏のコースはここから再び先ほどの指導標まで戻ることになる。
だが、そのまま引き返しては面白くない。
途中の小路の奥をちょっと覗いてみよう。
そこはかつてのの新富座、戎座の跡地だが、嬉しいことに今でも「戎座」の看板だけが残っている。
そして懐かしい「新富湯」も依然として健在である。
だから、戎座の看板や新富湯の暖簾を眺めに遠くから杖をついてやってくる老人が何人かいる、という話を聞いたりすると、さもありなん、と、ついうなずきたくなろうというもの。

新地には江戸時代末期に芝居の掛小屋としての新地小屋があった。
それは明治になってから少し離れた場所に戎座と改めて開業されたがまもなくして、それは新富座となった。

「下関市の新地新開作新宅新田の新富座の障子の下にシラミが四匹、敷居の下にもシラミが四匹、尻を並べて舌出して芝居の最中に死んでいた」と唄っては、「シの字がナンボあったかあ」と当て合う他愛ない語呂遊びが流行るほど繁盛し市民に親しまれた新富座は、戦後間もなく全焼した。
その跡にできたのが明治時代の名前を引き継いだ戎座だが、これも約二十年間娯楽の灯をともし続けたものの、数年前にその営業を閉じた。
しかし、幕末の新地小屋から脈々と続いた「シントミ」と「エビス」の二つの名前は、裏町の弁天座、細江の稲荷座と共に下関市民の郷愁をそそるものがある。

先ほどの指導標の前にあるボーリング場は下関のボーリング熱の草分けで、その後、市内には十幾つのボーリング場が乱立した。
その大きな建物の裏には「高杉晋作終焉の地」と書かれた大標柱が建っている。
周囲に玉垣を巡らし鉄扉が閉じられているが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。

文久三年六月奇兵隊結成のために下関に出てきた高杉東行は、若い命の燃焼のままに藩を動かし国を揺さぶり、そして国を救う大活躍をしたが、無理がたたって結核を患って倒れた。
「白石正一郎日記」によれば慶応二年七月、小倉戦争の指揮中に病気を訴えた、とある。
高杉はその後も門司に渡って野営をしたり陣頭に立って指揮をとったが、過労は病状を悪化させ、ついには起き上がれぬ体になってしまった。
小倉攻めの作戦会議は高杉の枕辺に集まって開かれたりした。

そのうち小倉城が燃え落ちるとその方面の参謀職を前原一誠に譲って、桜山の奇兵隊営所とは名ばかりのあばら家へ移った。
そこで秋から厳しい冬へかけて、高杉は療養の身を横たえ、翌三年の正月すぎに新地の酒造家、林算九郎の屋敷に移ってきた。
そして四月十四日、満二十七歳と何ヶ月かの短い生涯をここで終えたのであった。

その終焉の地を隔てて建つ山門は中島名左衛門ゆかりの妙蓮寺である。
山門の二階には太鼓が奉納されていて、正面に方丈と庫裏、右手に本堂があり、親鸞上人像と茶筅塚もある。

中島名左衛門は幕末の洋式砲術家で、もともと長崎の出身だが長州藩に招かれて砲術指南役をつとめていた人物。
文久三年五月、軍議の席上で長州藩の海岸防備の不足を力説したが、庚申丸の艦長らは長州海軍を過信していたために論議は物別れとなり、その夜、新地の藤屋という旅館で何者とも知れぬ三人の刺客によって殺された。
遺体はこの妙蓮寺に葬られ、その墓も本堂の裏手に建てられているが、簡単に参拝できないのが残念だ。
いつでもお詣りできるように本堂の前あたりに移すことはできないものか、と、ぶらたん氏、ここを訪れるたびに嘆く。

ところで、妙蓮寺がなぜこの小路に面して建っているか、ということはつまり国道を背にしているということになるのだが、それは先にも書いたようにここが江戸時代の往還であったからだ。
すなわち現在の国道は了円寺あたりまで海が入り込んでいて人々は伊崎へ行くには渡し舟によるか、あるいは了円寺坂のたもとを巻いていかねばならなかった。
その後、埋め立てにより新地開作が出来上がると、今の新地の中心地あたりに橋が作られた。
それがあの懐かしい思案橋で、別名を永代橋とも呼んでいたという。

今では流行歌などにより思案橋といえば長崎と相場が決まっているが、「行こか戻ろか思案橋」の歌は下関が元祖だと胸を張る老人などもいて、この付近は実に楽しい。
稲荷町、豊前田、新地とつづく歓楽の名残りは、時折このような形でひょいと顔をだすこともある訳だ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2018/09/26 Wed. 10:05 [edit]

category: ぶらたん

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