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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の地名17 福浦 

金比羅狐


 むかし、下関の港は、北前船西廻り航路の寄港地として栄えていました。
 それは、奥羽、北陸地方から米や、にしん、こんぶなど数多くの塩干魚などをなどを積んだ船が、日本海を西下し、瀬戸内海を東上して大阪に向かう際に、この港が最も重要な役割を果たしていたからです。そのころの下関は兵庫の港と共に西国一を競う程の繁昌ぶりだったと言われています。

 一般には、下関の港、と表現されていますが、その中には、彦島の南風泊りと福浦の両港も当然含まれていました。
 南風泊港は、文字通り南の風を避ける為の港で、福浦港は、今の江浦小学校から姫の水あたりまでが海という大きな入江となっていましたので、風待ちには天然の良港でした。


 福浦港の入口には、地元の人びとが、
『ふくらの金比羅さんの石段は、日本一の急坂じゃ。こねえに急な石段はどこにもありゃあせん』
 と自慢する金比羅神社があります。

 その石段の数は、むかしから二百七十七段、二百七十九段、二百八十一段と、登る人によって違っていました。それは、金比羅狐のいたずらによるものだと言われています。

 ある日、その話を聞いた肥前屋の客が、
『ワシが、石段の数を確かめてやろう』
 と出かけて行きました。船宿の人びとはそのあとに続き、石段の下で様子をみることにしました。
『ひとつ、ふたつ、みっつ……』
 肥前屋の客は、大声に数えながら登って行きました。うっそうとした森に囲まれて、金比羅さんの石段は三分の二から上は殆ど見えません。その見えないあたりに男が登って行って、かなり経ちました。

『おーい、やったぞーッ。二百七十九段が本当じゃ』
 森の中から男の喜び勇んだ声が降りて来ました。人びとは、顔を見合わせて笑いました。しばらくすると、ずっと上の方に男の姿が見えはじめ。何やらつぶやき乍ら下って来ました。
『二百三十六、二百三十七、二百三十八』
 男は下り坂でも、また石段の数を数えていたのです。

『二百七十九、二百八十、二百八十一、あれっ、さっきより二段多いぞ。おかしいな』
 参道の石鳥居まで下って来て、男は眼をまるくしました。
『八合目で狐に会うたじゃろうが』
 見物の中から一人の男が訊ねました。
『うんにゃ、会わん』
『狐の声を聞いたろうが』
『いんにゃ、聞かん。鳥は鳴いたがのう』
『なんちゅうて鳴いたい』
『ぎゃおーっ、小さかったけど、そんな声じゃった』
 人びとはまた顔を合わせて笑いました。

『クソッ、もう一回登って来る』
 男は、再び、一つ、二つと数えながら石段を登って行きましたが、何度数えても上りは二百七十九段、下りは二百八十一段でした。その日だけで、この急坂を十往復もした男は、船宿に戻って、とうとう寝込んでしまいました。

 また、ある日のこと、薩摩屋に泊まっていた客が、金比羅さんの石段を数えながら十往復しましたが、この時は上りが二百八十一段で、下りは二百七十七段しかありませんでした。
 その後も、船木屋の客、淡路屋の客などが噂を聞いてこの石段を上り下りしましたが、誰も同じ数を言い当てた人は居ません。

 福浦の人びとは、いつも笑って見守るだけでした。

 それは、誰もが一度は経験していることで、金比羅狐が居る限り、この石段の数は皆目わからない、と諦めているからでした。
 たった一人で登って行っても、あるいは、多数の人びとであっても、八合目にある脇道まで来ると、必ず何かが起こって数を間違えてしまうのです。
 それは、さっと眼の前を走る狐の影であったり、ゴソッと藪に物音がしたり、ギャォーと雌狐が鳴いたりして、気を散らしてしまうのでした。

 だから、船宿の客が石段の数を確認するという噂が流れると、福浦の人びとはみんな集まって冷ややかに笑い乍ら見守るだけでした。
 そして口々に、こう言ったと伝えられています。

『よそ者の狐ごかしが始まった』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
福浦を、古老たちは今でも『ふくら』と呼んでいる。
金比羅山の八合目には、森の中に小道が走っていて、山に鉢巻きをしたように、グルッと一巻きしている。
言い伝えによれば、金比羅狐はこの脇道あたりに出没したそうで、かなり年代を経た古狐ではあるが、その体は小猫くらいしかなかったという。
『よそ者の狐ごかし』というのは『地元の者でさえ判らないのに、よそ者に確かめられてたまるものか。それを小馬鹿にしたからバチが当たって騙されたんだ』という嘲笑だろうと、ある古老は話していた。
余談ではあるが、嘗て私は、冬山シーズンが近づくと、山仲間を集めて、この石段でトレーニングに励んだものであった。本書の版画を担当してくれた勝山光治氏にも同じ思い出がある筈。
しかし、私は、この石段を数えながら登ったことはない。

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Posted on 2018/03/17 Sat. 11:03 [edit]

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柳井家 

写真集 奇兵隊より
柳井家
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絵堂戦勝碑 

写真集 奇兵隊より
絵堂戦勝碑
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伊佐本陣池田屋 

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伊佐本陣池田屋
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吉田宿本陣島田家日記 

写真集 奇兵隊より
吉田宿本陣島田家日記
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小月 

写真集 奇兵隊より
小月
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吉富藤兵衛旧宅 

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吉富藤兵衛旧宅
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変電所 

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変電所
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危険物貯蔵所 

回天記念館 概要・収蔵目録より
危険物貯蔵所
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飛行科控所 

回天記念館 概要・収蔵目録より
飛行科控所
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トンネル 

回天記念館 概要・収蔵目録より
トンネル
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発射訓練基地跡 

回天記念館 概要・収蔵目録より
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唐門橋 

北九州思い出写真館より
唐門橋(昭和30年代)
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小倉駅前 

北九州思い出写真館より
小倉駅前(昭和12年)
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Posted on 2018/03/17 Sat. 10:39 [edit]

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平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。
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Posted on 2018/03/17 Sat. 10:36 [edit]

category: 下関の民話

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