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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

海のいのち・海といのち3 

海のいのち・海といのち3

その後も整備充実は続けられたが施設の老朽化も進み、各地に規模の大きい斬新な水族館が誕生するなかで、結局水族館の建て替えが進められ「海響館」の誕生となった。
そしてクジラ館のみが長府の山に残されたのである。

「海響館」は、鉄骨鉄筋コンクリート4階建、延べ床面積12,300平方メートル、水槽数65槽、展示水族は400種15,000点。
なかでも注目されるのは、ノルウェー・トロムソ大学の好意により展示が実現した、世界的にも希少で日本では唯一のシロナガスクジラの骨格標本、世界から50種を集めたフクの水槽、そして水槽の両端に高さ2m以上の渦を再現する関門海峡潮流水槽、二枚貝カキそのほか山口県ならではの本物の化石と擬岩とを組み合わせた岩組の展示などである。
1日4回開催されるアクアシアターでのイルカのジャンプや芸は人気の的であるが、このイルカたちが夏の期間の閉館後、自閉症の子供たちの相手を務め、アニマルセラピーにひと役かっていることはあまり知られていない。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/20 Tue. 10:53 [edit]

category: 下関の歴史論文

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20

海のいのち・海といのち2 

海のいのち・海といのち2

昭和31年6月、長府の外浦海岸に総工費7600万円を投じた三階建の水族館が竣工。
景勝地に33000平方メートルの敷地面積をもち、当時として東洋一の規模を誇った。

さらに昭和33年3月、関門国道トンネルの完成を機に、水族館を主会場として下関大博覧会を開催することになり、新たにペンギン館とクジラ館が増設された。
なかでもクジラ館は他に例を見ないもので、博覧会の呼び物の一つとなった。
これは当時、下関に本社を置いた大洋漁業が市制70周年と国道トンネルの開通を記念して市に寄贈したもので、かつて長府藩の城があった関見台の上にシロナガスクジラの実物そのままの大きさに、鉄筋鉄骨コンクリートで再現したものである。
5本の柱で空中に支えられ、高さ15m、長さ27m、胴まわり10m、館内の広さ98平方メートルという雄大さで、内部にはクジラや捕鯨の資料を展示、口の部分はガラス張りで、展望台となっている。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/19 Mon. 12:05 [edit]

category: 下関の歴史論文

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19

海のいのち・海といのち1 

海のいのち・海といのち1

平成13年4月、下関駅と唐戸地区を結ぶ新たな賑わいの空間、あるかぽーとの一角に、新しい水族館「海響館」が華々しく開館した。
下関の街の成り立ちが海と深く関わっていることから「海のいのち・海といのち」をメインコンセプトとして、水の生き物たちの生態を通じ、自然と人間の関わり合いや、生命の素晴らしさ、自然保護の大切さについて理解を深めようという意図によるものであった。

下関と水族館の関わりの歴史は古い。
昭和26年、松尾守治市長の在任時に、戦時中に鉄材不足で試作されたコンクリート船を活用して水族館にする案が出されたが、構想が貧弱と批判されて頓挫。
そうこうするうちに対岸の門司市が下関に先駆けて和布刈海岸の景勝地に水族館を建てて人気を呼んだことから、水産都市下関の面目にかけても立派な水族館をということで建設工事が始まった。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/18 Sun. 10:38 [edit]

category: 下関の歴史論文

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18

旧長府藩家老宅に咲くハスの花2 

旧長府藩家老宅に咲くハスの花2

その後文久3年8月18日の京都政変によって長州藩が汚名を被ると、冤罪を晴らすべく大阪にあって諸藩への陳情周旋に努めるが、幕府に監視護送され帰藩。
高杉晋作の功山寺挙兵による内訌戦の前後処理、功山寺潜居の三条実美らの筑前渡海にも尽力した。
翌慶応2年の小倉戦争においては大隊長として活躍、次いで加判役に任じられて藩政を掌握した。

維新後は、豊浦藩副執政となって藩政改革を実施。
さらに豊浦藩大参事となり、公議人として上京し新政施行に参与するが、明治4年1月にこれを辞し、同8年5月30日、この長府邸で病没。
享年53歳であった。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/17 Sat. 11:04 [edit]

category: 下関の歴史論文

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旧長府藩家老宅に咲くハスの花1 

旧長府藩家老宅に咲くハスの花1

城下町長府を観光資源とする下関市が、平成元年に9億2000万円で購入して整備し、同5年5月に正式な開園を見た「長府庭園」は、敷地面積約3万800平方メートルのうち、約7000平方メートルが庭園部分でなかには約1100平方メートルの池もあり、木造入母屋造二階建て約225平方メートルの書院や茶室を備えるなど、本格的な回遊式日本庭園である。

この屋敷は、下関を発祥の地とする大洋漁業株式会社の初代社長中部幾次郎が昭和4年に購入。
以来、中部家の人たちが住んで、地元では中部邸の名で知られてきたが、もともとは長府藩の家老職西家の屋敷であった。

特に幕末期の当主の西運長は、長府藩史に大きな足跡をとどめる人物である。
運長は文政6年、萩本藩寄組士児玉縫殿邦行の三男として生まれ、長府藩家老職西義定の養子となって家督を継いだ。

そして幕末の激動期を迎え、下関攘夷戦の直前に海防掛を命じられ、海峡防備の任にあたり敢闘。
さらに江戸藩邸の改革にも成果を上げて、藩主から右馬氶の名を賜ったが、憚る所あってみずからは小豊後を名乗った。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/16 Fri. 09:52 [edit]

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16

さよなら路面電車3 

さよなら路面電車3

電車利用者数は、昭和19年に1381万7187人の戦前最高数を記録、戦後は同33年に2470万3793人を記録しピークを迎えた。
しかし昭和40年代に入ってからは利用者数は減少の一途をたどり、経営状態も次第に悪化していった。
モータリゼーションが進行し、低速運行の電車は、利用者が少なくなっていったと考えられる。

山陽電軌では、経営の立て直しをはかるため、昭和44年10月に比較的利用者の少ない唐戸ー長府間、下関駅ー彦島口の路線を廃止、翌年からは、運転手のみのワンマン電車を運行させるなどの方策を取ったが、黒字経営への妙手とはなり得なかった。

そしてついに昭和46年2月6日、路面電車は全面撤退することになり、下関駅前を午後10時40分に出発した東駅行きが最終便となった。
こうして、市民の足として長く親しまれた路面電車は、45年間の歴史に幕を閉じたのである。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/15 Thu. 09:18 [edit]

category: 下関の歴史論文

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15

さよなら路面電車2 

さよなら路面電車2

昭和7年9月には鳥居前ー長府駅前間が開通、その翌年には10月に壇之浦ー唐戸間が連絡され、市街電車としての体裁を整えた。
また同13年11月には唐戸ー細江間も開通して、市民の足として電車は重宝され、大いに利用された。
電車から伸びたポールが架線からはずれて立ち往生することもあったが、出発合図のチンチンと鳴る号令から「チンチン電車」の愛称で呼ばれ、市民に親しまれた。

路線は東駅を起点に西細江までの唐戸線、幡生線、長府駅前と西細江までの長関線があり、のちに大和線が加わった。

戦後も路線拡張が行われ、西細江ー下関駅間、下関駅ー彦島口間の運行がかいしされ、営業路線の延べキロ数は17.7キロに達した。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/14 Wed. 09:39 [edit]

category: 下関の歴史論文

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14

さよなら路面電車1 

さよなら路面電車1

大正15年12月、山陽電軌株式会社によって、市街電車が初めて長府松原ー壇之浦間の5.4kmを走行した。
このときの電車は、日本車輌の製作したもので、当時の購入金額は7,000円、40人乗りの電車8輌が購入された。
車輌は山陽本線で長府駅まで輸送され、そこからは大型の牛車に乗せて、松原の車庫まで、三日がかりで運ばれたという。

当時、下関ー長府間の交通機関としては、土井、中林のふたつの乗合自動車が走っていた。
運賃は40銭から50銭であったが、新説の電車は1区4銭、全線4区16銭という格安の料金で、電車の珍しさとも相まって、多数の乗客を獲得した。

その後の路線の拡張をみると、昭和3年4月に長府松原ー鳥居前間が開通、同年12月には長州鉄道が敷設していた幡生ー東下関駅の路線を買収し、さらに翌4年には東駅ー唐戸間が開通して、幡生ー唐戸間が全通した。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/13 Tue. 11:18 [edit]

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13

旧要塞地の一般開放3 

旧要塞地の一般開放3

昭和35年3月には「火の山ユースホステル」同44年5月には国民宿舎「海関荘」、同47年11月「火の山パークウェイ」と立体駐車場をそれぞれ開設、これより先、同年9月には火の山山頂へ1.5kmの遊歩道を整備した。
桜並木、市の花木つつじの植栽などによって四季折々の景観を楽しむことができ、さらに同年48年頂上に回転展望台を建設、二階の回転レストランは、食事をしながら360度の展望を楽しむことができる人気の施設となった。
この年には国民宿舎の東側に、老人休養ホーム「満珠荘」も建設され、下関の代表的な公園に、また観光の中心施設に育ったのである。

火の山公園に次いで大規模な公園施設となったのが老の山公園である。
対岸の北九州工業地帯、六連島から響灘の景観、特に落日の眺めは別格である。
ほかには椋野一里山の青年の家、霊鷲山の仏舎利塔、「思い出の森」を開設した金毘羅公園など、戦後市民に開放された旧要塞地は見事に蘇って市民に親しまれている。

なお、火の山ロープウェイは平成15年3月から運休していたが、期間を限り運行を再開している。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/12 Mon. 11:09 [edit]

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12

旧要塞地の一般開放2 

旧要塞地の一般開放2

昭和25年頃より、関門海峡の国立公園編入運動が起こり、同30年8月には、火の山公園の設置を市議会で議決した。
翌31年5月1日に、長府沖の満珠・干珠両島と火の山を含めての関門海峡が瀬戸内海国立公園に編入されると、これを機に火の山の公園化が具体化した。
市民運動も盛り上がり、同31年7月25日に、火の山の山開きが行われ、大勢の市民が参加、山頂からの眺望を満喫した。

昭和33年は、関門国道トンネルの開通、下関大博覧会の開催など大きな事業が次々に行われ、それをしめくくるかたちとなったのが、3月30日火の山ロープウェイの開設だった。
下駅から山頂駅までの2分40秒の空中散歩は、見渡す海峡の眺望の素晴らしさによって多くの観光客を集め、本格的な火の山公園の幕開けとなった。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/11 Sun. 11:52 [edit]

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11

旧要塞地の一般開放1 

旧要塞地の一般開放1

昭和20年の終戦とともに、長い間、近づくことのできなかった旧要塞地が開放された。
眺望の権利も失っていた市民は、景観の素晴らしさを再認識できるようになった。

火の山、彦島老の山、戦場ヶ原、椋野一里山、霊鷲山、金毘羅山などが、秘密のベールを脱ぎ、それぞれ特徴のある公園整備が進められていった。
なかでも代表的な公園が火の山公園である。

関門海峡の最狭部を挟んで、北九州門司区の古城山に相対し、市内みもすそ川町から椋野町一帯にそびえる標高268.2mの火の山は、中世に、戦略の要地として厚東氏、大内氏、毛利氏の諸将が城を築き、覇権を競い合った。
また古代より都との連絡のための「のろし場」が置かれ、いわばのろし山としても知られていた。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/10 Sat. 14:50 [edit]

category: 下関の歴史論文

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10

戦災を免れたのちの不幸な火災3 

戦災を免れたのちの不幸な火災3

長府大火における東、西、南の各方向については火災のさらなる拡大を防いだ主たる要因がしてきできるが、北方向はどうであったろうか。
信じる信じないは別として、そこには興味深い話が存在した。

長府中之町から長府金屋町に至る商店街には六つの寺があり、寺町の様相を呈しているが、浄土宗法性山本覚寺もそのひとつ。
平成16年に山門を立て替えて木肌も新しいが、馬頭観音に思いを寄せる濱口住職の考えから、山門を飾る木鼻を珍しく馬の頭とし「天馬門」と称している。
そのうえ、再建前の山門を飾っていた龍も移設され、特異なイメージを醸し出している。
それは、長府大火災の際、隣家まで迫った猛火にこの龍が水を吐いて山門を守ったという伝承があることから、町の安全を願って移し、保存したというのである。
大火の中のエピソードが今に息づいているのは興味深い。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/09 Fri. 09:57 [edit]

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09

戦災を免れたのちの不幸な火災2 

戦災を免れたのちの不幸な火災2

ともあれ火勢は、東方向は国道2号、西方面は忌宮神社の高台、南方向は壇具川がひとつの防火壁となって鎮火。
特に南方向の壇具川の場合は、火災時における川の効果が見事に証明されたわけで、それと同時に、長府地区がこの時点で未だ水道設備がなかったことが、被害を大きくしてしまった要因であったことも明らかになった。

いうまでもなく火災の問題は、江戸時代の方がより深刻であったに違いない。
長府藩では宝永3年3月、府中・赤間関。清末などの防火の法を定め、享保15年8月には、赤間関付近居住の藩士及び農民に対して消防担当の区域を定め、出火時には直ちに協力することを命じ、さらに安永7年3月、長府および清末における消火の法を通告するなど火事への対処が見られるが、長府城下では、消火用の水として壇具川が重視されていたことも伝えられている。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/08 Thu. 10:53 [edit]

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戦災を免れたのちの不幸な火災1 

戦災を免れたのちの不幸な火災1

昭和22年10月の長府の火災は、まさに大火というべきもので、10月17日の午後3時50分頃、長府土居の内町の民家から出火し、土居の内町、中之町、惣社町、南浜から壇具川辺におよぶ広範囲な大火となり、687棟を焼失。
被災面積94120平方メートル、被災者2406人、負傷者21人という大惨事となった。

また終戦後間もなく、進駐軍として駐留していたニュージーランド兵も消火作業に努めてくれたのであるが、この一帯が商店・民家の密集地であったことと、消火機材の不備から、結果として大きな被害を出してしまった。
原因は油の引火で、損害額はおよそ1億5000万円であったという。

下関は、西日本でも広島に次ぐ戦災都市で、昭和20年6月29日と7月2日の大空襲によって焦土と化した。
せっかくそういう状況から免れた長府が、このようなかたちで大火に見舞われたのは、まことに残念なことであった。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/07 Wed. 11:06 [edit]

category: 下関の歴史論文

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07

市街地焦土と化す3 

市街地焦土と化す3

加えて、市街地への焼夷弾攻撃が始まった。
敵機が毎日毎夜来襲しても、いっこうに地上攻撃ががないので、市民は不安のうちに気を緩めていた。
ところが昭和20年6月29日午前1時10分頃、豊後水道より侵入したB29の編隊が、突如壇之浦上空に現れる。
同町から赤間町までの間と、唐戸・南部町方面が焼夷弾攻撃を受け、下関市の東部は焼け野原と化してしまった。

その余韻がまだおさまらない7月2日午前0時10分、再び大空襲に見舞われ、今度は豊前田町から細江町・入江町・丸山町・田中町など市の中心地のほとんどを焼き尽くし、電気・ガス・水道施設なども破壊され、都市機能は完全に麻痺してしまった。
被災した建物は10168件、死傷者1383人、焼け出された人46408人という、下関市始まって以来の大災害であった。

しかし7月6日には戦災復興対策委員会が設置され、仮庁舎を田中町の商工会議所内に設け、応急給食や物資配給、罹災者の避難先、救護状況など10項目にわたって状況を掌握し、対応策を講じた。

空襲はその後途絶えたが、市民の虚無感と恐怖心は、8月15日の終戦を迎えても消えることはなかった。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/02/06 Tue. 14:06 [edit]

category: 下関の歴史論文

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