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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

海のいのち・海といのち3 

海のいのち・海といのち3

その後も整備充実は続けられたが施設の老朽化も進み、各地に規模の大きい斬新な水族館が誕生するなかで、結局水族館の建て替えが進められ「海響館」の誕生となった。
そしてクジラ館のみが長府の山に残されたのである。

「海響館」は、鉄骨鉄筋コンクリート4階建、延べ床面積12,300平方メートル、水槽数65槽、展示水族は400種15,000点。
なかでも注目されるのは、ノルウェー・トロムソ大学の好意により展示が実現した、世界的にも希少で日本では唯一のシロナガスクジラの骨格標本、世界から50種を集めたフクの水槽、そして水槽の両端に高さ2m以上の渦を再現する関門海峡潮流水槽、二枚貝カキそのほか山口県ならではの本物の化石と擬岩とを組み合わせた岩組の展示などである。
1日4回開催されるアクアシアターでのイルカのジャンプや芸は人気の的であるが、このイルカたちが夏の期間の閉館後、自閉症の子供たちの相手を務め、アニマルセラピーにひと役かっていることはあまり知られていない。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/12/05 Wed. 10:32 [edit]

category: 下関の歴史論文

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海のいのち・海といのち2 

海のいのち・海といのち2

昭和31年6月、長府の外浦海岸に総工費7600万円を投じた三階建の水族館が竣工。
景勝地に33000平方メートルの敷地面積をもち、当時として東洋一の規模を誇った。

さらに昭和33年3月、関門国道トンネルの完成を機に、水族館を主会場として下関大博覧会を開催することになり、新たにペンギン館とクジラ館が増設された。
なかでもクジラ館は他に例を見ないもので、博覧会の呼び物の一つとなった。
これは当時、下関に本社を置いた大洋漁業が市制70周年と国道トンネルの開通を記念して市に寄贈したもので、かつて長府藩の城があった関見台の上にシロナガスクジラの実物そのままの大きさに、鉄筋鉄骨コンクリートで再現したものである。
5本の柱で空中に支えられ、高さ15m、長さ27m、胴まわり10m、館内の広さ98平方メートルという雄大さで、内部にはクジラや捕鯨の資料を展示、口の部分はガラス張りで、展望台となっている。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/12/04 Tue. 09:39 [edit]

category: 下関の歴史論文

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海のいのち・海といのち1 

海のいのち・海といのち1

平成13年4月、下関駅と唐戸地区を結ぶ新たな賑わいの空間、あるかぽーとの一角に、新しい水族館「海響館」が華々しく開館した。
下関の街の成り立ちが海と深く関わっていることから「海のいのち・海といのち」をメインコンセプトとして、水の生き物たちの生態を通じ、自然と人間の関わり合いや、生命の素晴らしさ、自然保護の大切さについて理解を深めようという意図によるものであった。

下関と水族館の関わりの歴史は古い。
昭和26年、松尾守治市長の在任時に、戦時中に鉄材不足で試作されたコンクリート船を活用して水族館にする案が出されたが、構想が貧弱と批判されて頓挫。
そうこうするうちに対岸の門司市が下関に先駆けて和布刈海岸の景勝地に水族館を建てて人気を呼んだことから、水産都市下関の面目にかけても立派な水族館をということで建設工事が始まった。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/12/01 Sat. 09:34 [edit]

category: 下関の歴史論文

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旧長府藩家老宅に咲くハスの花2 

旧長府藩家老宅に咲くハスの花2

その後文久3年8月18日の京都政変によって長州藩が汚名を被ると、冤罪を晴らすべく大阪にあって諸藩への陳情周旋に努めるが、幕府に監視護送され帰藩。
高杉晋作の功山寺挙兵による内訌戦の前後処理、功山寺潜居の三条実美らの筑前渡海にも尽力した。
翌慶応2年の小倉戦争においては大隊長として活躍、次いで加判役に任じられて藩政を掌握した。

維新後は、豊浦藩副執政となって藩政改革を実施。
さらに豊浦藩大参事となり、公議人として上京し新政施行に参与するが、明治4年1月にこれを辞し、同8年5月30日、この長府邸で病没。
享年53歳であった。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/30 Fri. 10:34 [edit]

category: 下関の歴史論文

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旧長府藩家老宅に咲くハスの花1 

旧長府藩家老宅に咲くハスの花1

城下町長府を観光資源とする下関市が、平成元年に9億2000万円で購入して整備し、同5年5月に正式な開園を見た「長府庭園」は、敷地面積約3万800平方メートルのうち、約7000平方メートルが庭園部分でなかには約1100平方メートルの池もあり、木造入母屋造二階建て約225平方メートルの書院や茶室を備えるなど、本格的な回遊式日本庭園である。

この屋敷は、下関を発祥の地とする大洋漁業株式会社の初代社長中部幾次郎が昭和4年に購入。
以来、中部家の人たちが住んで、地元では中部邸の名で知られてきたが、もともとは長府藩の家老職西家の屋敷であった。

特に幕末期の当主の西運長は、長府藩史に大きな足跡をとどめる人物である。
運長は文政6年、萩本藩寄組士児玉縫殿邦行の三男として生まれ、長府藩家老職西義定の養子となって家督を継いだ。

そして幕末の激動期を迎え、下関攘夷戦の直前に海防掛を命じられ、海峡防備の任にあたり敢闘。
さらに江戸藩邸の改革にも成果を上げて、藩主から右馬氶の名を賜ったが、憚る所あってみずからは小豊後を名乗った。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/29 Thu. 09:42 [edit]

category: 下関の歴史論文

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