10 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

わが国で最初のシールド工法2 

わが国で最初のシールド工法2

しかしその後も本州と九州を結ぶ連絡道建設を求める声は高まり、鉄道大臣内田信也が下関を訪れた昭和10年5月以降、海底鉄道敷設への対策が迅速に進められた。
まず鉄道省内に関門隧道技術委員会、ついで下関の鉄道改良事務所内に関門隧道工事事務所が設置され、コース二案のなかから、下関彦島弟子待と門司小森江を結ぶ路線が選ばれた。
待望の起工式は翌11年9月19日、門司側においておこなわれた。

ちなみに、関門連絡道はトンネルだけでなく、「架橋」あるいは「一大鉄橋を」などの構想も明治27年頃からたびたび論じられたが、結局戦時下では橋は敵に狙われやすいということで、トンネル設置に落ち着いた。

掘削はテムズ川のトンネル工事で威力を発揮したシールド工法が日本初の試みとして採用され、昭和16年7月にトンネル貫通、翌17年11月に下り線の公式運転が開始され、下関駅も細江町から竹崎町へと移転、祝賀会は東海林太郎らを招いて下関で行われた。

(冨田義弘)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/15 Thu. 10:36 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

15

わが国で最初のシールド工法1 

わが国で最初のシールド工法1

本州と九州を隔てる海峡をひとっ飛びに越えたいという夢は古くからあったようで、下関には大人、門司にも巨人の文字をあてる伝説や地名が残されている。
どちらも天を衝く大男が海峡を大またぎで渡る話であるが、海峡の潮流にトンネルを通そうという案が公式に出たのは、明治29年に博多で開催された第5回全国商工会議所連合会の折であったという。
この議案は政府にも提出されたのち何度も浮上しては消え、ようやく鉄道院総裁の後藤新平が調査に乗り出したのが、同44年のことであった。
その調査結果により、10カ年継続事業の予算が組まれて夢の実現に近づいたが、第一次世界大戦後の物価高騰や関東大震災、昭和初年の大恐慌などで、保留や中止のやむなきに至っていた。

(冨田義弘)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/14 Wed. 12:45 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

14

わが国オペラ界の草分け3 

わが国オペラ界の草分け3

義江が、本格的なオペラの拠点をつくろうとして「藤原歌劇団」を開設したのは、昭和9年最初の音楽修行帰国して十年後である。
義江は資金を集め、自らも全資金を投入して日本音楽界の荒地を耕した。

高名な作曲家の團伊玖磨は「不毛の原であった日本の歌劇界を、今日の隆盛に高められた情熱、そのような時代に藤原義江先生のような方が倦まず弛まぬ実践活動を続けて下さったからこそ、音楽は今日に続いた」と賛辞を捧げている。

義江と同じく下関が生んだ音楽家に、二村定一がいる。
「浅草オペラ」でエノケンと活躍。
日本ジャズボーカルの草分け的名歌手といわれる。
レコード吹込み総数は300曲に近い。
名曲「宵闇せまれば」は今も歌い継がれている。
一時はエノケンと同格のスターとして「エノケン・二村定一劇団」の座頭も務めた定一であったが、大陸生活など晩年は不運が続いた。
戦後、エノケンに迎えられ、懐かしい東京の劇場に出演したが、病が進み舞台で倒れ、不帰の人となった。

(武部忠夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/13 Tue. 15:01 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

13

わが国オペラ界の草分け2 

わが国オペラ界の草分け2

義江の音楽修行は、イタリアで天賦の才能が磨かれ、幸運にも恵まれてロンドンで花開いた。
父の祖国スコットランドで歌い、パリを経て、さらに渡米。
その美貌と歌唱力が話題となりニューヨークタイムスに掲載され、朝日新聞が「我らのテナー」の定冠詞をつけて連載した。
3年ぶりに帰国した義江は、横浜港でおびただしいファンの群れに囲まれ、歓迎をうけた。
帰国後の「藤原義江リサイタル」は熱狂的なブームを巻き起こし、独特のビロードの歌声は観衆を魅了した。
その後は日本全国でのリサイタル、赤盤レコード吹込みなど、音楽人として最高峰の道を歩み続けた。

義江のすぐれた功績は、単にヨーロッパ修行の成果としての外国の歌曲に偏らず、むしろ北原白秋の詩、山田耕筰のの作曲などによる日本の歌曲・民謡に独自の魂を吹込んで響かせたことである。

(武部忠夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/12 Mon. 12:34 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

12

わが国オペラ界の草分け1 

わが国オペラ界の草分け1

関門海峡を見下ろす高台に藤原義江記念館は、下関に赴任していた義江り父リードの宿舎でもあったゆかりの場所である。
「我らのテナー」と呼ばれた日本オペラ界の開拓者藤原義江は、幼い頃この宿舎に父を訪ねている。
父はイギリス人で瓜生商会の総支配人。
母は下関稲荷町の琵琶芸者、坂田キク。
イギリス人と琵琶芸者の間に生を受けた運命の子義江は、幼少期から母とともに関門・九州各地を転々として、大分県杵築で養子先の藤原姓を名乗るようになった。
その後、保証人を得て上京、明治学院中等部、早稲田実業に学ぶ機会をもったが、独立と洒落込んで青春放浪。
舞台に憧れ、沢田正二郎の「新国劇」を経て、大正7年に20歳で全盛期の「浅草オペラ」の世界に入り、本格的な音楽の道を目指した。

21歳の秋、父の支援でイタリア音楽修行が決まったが、出発直前に父が急死。
義江は渡欧を前に下関の父の墓をーに参り、大正9年春、傷心を抱いて門司港から旅立った。

(武部忠夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/10 Sat. 11:37 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

10

郡部にも洋風建築の新風2 

郡部にも洋風建築の新風2

一方、豊北町滝部の豊北町歴史民俗資料館の建物は、木造二階建て、寄せ棟造り桟瓦葺き、延べ床面積1041.25平方メートルとかなりの規模を持ち、正面のドリス式の柱に支えられた三連アーチ、上部バルコニーのイオニア式列柱、その上部に楕円形窓、屋上の塔屋にも変化があるなど、ルネッサンス様式の西洋建築を木造で構成した代表的な大正建築である。

我が国の明治・大正時代における近代化遺産ともいうべき洋風建築物は、学校建築に多く見られることがひとつの特徴ともなっているが、この建築もその事例のひとつである。
しかも学校の統廃合の中で消えていくべき運命にあった建物が、昭和55年11月以降、整備されて歴史民俗資料館として再活用されていることの意義は大きい。

なお旧滝部小学校の校舎としてのこの建物が、地元出身の大実業家中山太一兄弟の寄贈によって建てられたもので、ドイツ人技師が設計し、宮大工として有名であった阿川の大工棟梁、橋本銀之助が建築にあたっているという歴史も忘れてはならない。

旧殿居郵便局とともに、山口県の有形文化財に指定されている。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/09 Fri. 10:41 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

09

郡部にも洋風建築の新風1 

郡部にも洋風建築の新風1

大正時代となると、洋風建築への志向は、都市部ばかりでなく、しだいに周辺の郡部にも波及していった。
その代表的な遺産が豊田町の殿居の国道435線沿って建つ旧殿居郵便局と、豊北町滝部の旧滝部小学校校舎を整備再活用した豊北町歴史民俗資料館であり、ともに大正13年の完成である。

豊田町に郵便局が開設されたのは、明治6年5月のことで、当初は西市郵便取扱所として、山口県下で30番目の開設であった。
これに次いで開局したのが殿居郵便局で、同35年12月に集配業務を開始。
その後、同44年に電信業務も取り扱うようになった。

そうした業務拡張に伴って局舎も狭隘となってきたため、当時の局長であった河田寛は、大正10年頃から局舎の改築を計画し、まず地元の大工の棟梁山本安一を同道して上京し、洋風建築を見学してまわった。

そして帰郷後、その棟梁に建築を依頼し、大正13年3月、1500円の総工費をもって新局舎の完成をみたのである。

局舎の母屋は木造平屋で、基礎が花崗岩布石、外壁が横目板張り、屋根は鉄板葺き、破風に美しい意匠が施され、内部は事務室、宿直室、作業室で、その母屋に連なる木造八角塔屋二階建ての局長室の部分に特別な趣向がみられ、腰および小壁がモルタル塗りで、ほかは横羽目板張り、屋根が八角ドーム銅板葺きとなっているのが特に印象的である。

小規模ながらその洋風ぶりはモダンで、全体的な外観、構造ともに無理なくまとめられており、メルヘン風な雰囲気もあって、地方の風土にもよくとけあった好建築である。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/09 Fri. 09:45 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

09

豊かな歴史に彩られた関門航路2 

豊かな歴史に彩られた関門航路2

関門連絡航路で重要な役割を果たしたのが国鉄関門連絡船で、明治・大正・昭和と三代にわたって、下関ー門司間で旅客輸送に携わった。

山陽鉄道が赤間関まで開通する以前は、本州から九州方面へ西下する旅客は、瀬戸内の海路を利用した。
明治34年、山陽鉄道の全線開通とともに、それまで運航していた徳山ー下関間の航路は閉鎖されて、下関ー門司間の航路だけが残されることになった。
これが関門連絡航路の発祥である。

明治39年、山陽鉄道が国有になると、関門連絡航路も鉄道省の経営下に加えられた。
利用者の増加に伴い、大正14年には就航船の大型化がはかられ、門司丸、豊水丸、長水丸、下関丸といった400トンから500トン級の船四隻が就航した。
輸送のピークは太平洋戦争の始まった昭和16年で、一日に関門間を53往復し、年間約880万人が海峡を渡っている。

しかし、昭和17年の関門鉄道トンネルの開通、同33年関門国道トンネルの完成などによって、連絡船利用の旅客数は次第に減少していった。
そしてついに同39年10月31日、長水丸が最後の航海を行い、63年間の国鉄関門航路の歴史に幕が降ろされた。

関門海峡横断航路には、貨車専用の航送船や自動車専用の航送船などが運航した歴史があり、今も当時の海峡談義に、話がはずむ。

現在も下関ー門司間の関門航路は健在である。
また、巌流島への定期航路や海峡フェリーによる小倉への航路などといった新しい海の道の開発も進められており、下関はこれからも海と共生していく宿命にある。

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/08 Thu. 08:55 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

08

豊かな歴史に彩られた関門航路1 

豊かな歴史に彩られた関門航路1

関門連絡航路は、下関と門司の人々にとって、生活に密着した海上交通手段であった。
現在では、関門鉄道トンネル、関門国道トンネル、関門橋、新幹線トンネルなどの開通によって本州と九州の往来が容易になり、乗船客が減少したが、それでも今もなお通勤通学者にとっては必要な航路である。
そして一般客や観光客にとっては、短時間ながら本州から九州へ、あるいはその逆の海峡横断は、じつに魅力的な船旅である。

下関・門司間の定期航路は、市制施行と時を同じくして明治23年9月に門司の石田平吉によって創業された。
定期航路とはいいながら、使用された船は手漕ぎの和船で、片道の運賃は5銭であった。
その後間もなく、自念組、いろは組などが競ってこの航路に船便を出すようになったため、石田は汽船を投入して対抗し、同29年9月には、下関の土井重吉が創設した関門汽船株式会社と共同経営に乗り出し、事実上航路の独占を果たした。
その頃、下関の西南部にあった回漕店「肥後又」は、汽船に対し和船で対抗、乗客の獲得合戦に火花を散らし、9銭の運賃を5銭に値下げし、ついに無料にしたあげく、景品に手拭いまで添えるという珍事に発展したこともあった

(野村忠司)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/07 Wed. 11:11 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

07

海峡硝煙の海と化す3 

海峡硝煙の海と化す3

戦闘は8日の正午まで続いた。
連合軍側の撃ち込んだ弾丸はじつに2500発といわれ、長州側の敗北は動かしがたいものとなり、長州藩から講和を申し入れて使節を送った。
その使節に立ったのが高杉晋作で、急遽家老宍戸刑馬と名乗っての登場であった。

連合軍側の講和条件は、第一に海峡通航の安全確保、第二が300万ドルの賠償金、そして第三が海峡の西口を扼する彦島の租借で、これに対して第一点は承認、第二点は幕府の外艦打ち払い令に従ったもので責任は幕府にあると突っぱね、第三点は断固拒絶したとされている。
通訳として立ち会ったアーネスト・サトウには毅然たる高杉の態度が印象的であったようだが、ただ彦島租借については、後年に伊藤博文が思い出として語ったもので、各国の相互牽制もあって、正式に表に出たかどうか議論のあるところである。

いずれにしても8月13日の第三回会議で講和が成立。
下関市では。この第一点の承認をもって実質的な下関港の開港として、昭和39年に馬関開港100周年記念祭が行われた。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/06 Tue. 14:34 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

06

海峡硝煙の海と化す2 

海峡硝煙の海と化す2

そしてイギリス艦からは艦長ほか水兵20人ほどが上陸、前田砲台に侵入して大砲を壊し、あるいは海に投げ込み、陣屋に火を放って引き上げた。
そのため、いったん前田砲台を放棄した長州軍は夜陰に乗じて再び持ち場に戻り、陣容を立て直した。

翌6日が最大の激戦となった。
この日は早朝から海峡に濃霧がたちこめ、これを利用した長州軍が善戦し、相手方を大いに悩ませた。
このため連合軍は砲台の奪取を決意し、2600人にも及ぶ兵を前田海岸に上陸させ、激しい陸上戦を展開。
この戦闘でも奇兵隊は勇敢に戦ったが、武器の差の前に対等の戦いを望むべくもなく砲台は占領され、この地に外国の旗が翻ったのである。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/05 Mon. 10:07 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

05

海峡硝煙の海と化す1 

海峡硝煙の海と化す1

長州藩の攘夷戦において何ら攻撃を受けていないにもかかわらず、対日政策の主導権をにぎろうとするイギリスが主唱し、元治元年4月25日、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国連合が成立。
その後、6月19日には、連合艦隊による下関襲撃の具体策が決定した。

艦隊は8月2日から3日にかけて大分県の姫島沖に集結、17隻が三縦陣を組んで海峡にその姿を見せたのが8月4日の早朝で、艦隊はまず九州側の門司田野浦沖に停泊して戦機をうかがった。
その全艦が備える大砲の数は、じつに288門に及ぶという強力な布陣であった。

連合艦隊が行動を開始したのは5日の午後2時過ぎで、全艦一斉に艦砲射撃の火ぶたを切った。
もちろん長州側もただちに応戦したが、主力の前田砲台80ポンド以下20門、壇之浦砲台が30ポンド以下14門程度。
しかも外国艦隊からの着弾は極めて正確で、戦力の差は歴然としていた。
午後5時頃には長州側主力砲台のすべてが沈黙させられた。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/03 Sat. 10:07 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

03

維新に身を投じた豪商志士3 

維新に身を投じた豪商志士3

ことに高杉晋作に対する援助は、奇兵隊への資金提供、あるいは愛人おうのを預かるなど公私にわたり、ふたりの信頼関係は深いものがあった。
しかし、その高杉も志半ばで没し、長年蓄積されてきた白石家の資産も、高杉が手紙に「少々蓄え候黄金借り出しつくされ、飲みつくされ」と記しているように、維新の活動に全て投じて家財も傾き、晩年はその功を誇ることもなく、明治10年に赤間神宮の宮司を拝命。
同13年8月21日に病により没した。
享年69歳であった。

白石邸が接していた海も、今は埋め立てられて国道191号線が走り、屋敷跡は中国電力下関支社の社屋となっているが、その一角には高さ1.4メートルの「白石正一郎旧宅趾」の碑と、これに並んで高さ1メートル、幅1.4メートルの「高杉晋作奇兵隊結成の地」の碑が建てられている。

ともあれ安政四年9月12日に始まる正一郎の詳細な日記が、下関に関わる維新史の第一級資料として、貴重な遺産となっている。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/02 Fri. 08:54 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

02

維新に身を投じた豪商志士2 

維新に身を投じた豪商志士2

その功績をたどれば、文久三年四月、急進派中山忠光卿の下関滞在の折にはよく世話をし、同年五月の下関攘夷戦には家をあげて参戦した。
高杉晋作の奇兵隊結成にも屋敷を提供、みずからも弟廉作とともに入隊し、以後物心両面にわたって惜しみなく奇兵隊を援助した。
さらに元治元年三月、政変により西下した三条実美ら七卿が来関した際には七卿を世話、そのうち錦小路頼徳卿は病んで同年四月二十五日に白石邸で逝去している。

このように、幕末維新時に白石邸を訪れ、正一郎の援助を受けた人物は、前記の公家、長州藩士にとどまらず、西郷隆盛、大久保利通、平野国臣、坂本龍馬ら、その数は400人に及ぶ。
いわば諸国の志士にとって最も頼れる宿であり、情報センターでもあったのである。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/11/01 Thu. 09:12 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

01

維新に身を投じた豪商志士1 

維新に身を投じた豪商志士1

下関の明治維新を語るとき、白石正一郎の存在を抜きにして語ることはできない。

白石邸のあった赤間関の竹崎は、長府藩領のなかでの海への玄関として一部清末藩領となっており、白石家ははその清末藩の御用商人、また大年寄で、この地で荷受問屋を営んでいた。
小門の海に面して裏門が開かれていたことから、多くの志士たちが船で裏門から出入りしていた。

白石家は本来、四国越智一族の出で、何代か前に小倉から当地に移ってきたということで、屋号を小倉屋と称した。
幕末時の当主正一郎は文化九年3月7日、白石卯兵衞資陽の長男として生まれ、幼名龍之介で、正一郎、資興と称したが、のちに毛利家に興丸君が誕生したことから「興」の字をはばかって資風と改めた。

正一郎は人となり忠実で気概に富み、若年の頃より鈴木重胤に国学を学び、熱心な尊王家で。また和歌にも優れた文化人であった。
一方で商人としても広い視野を持ち、安政年間より薩摩との交易に尽力、西郷隆盛などの信頼も得て、薩摩藩の御用達も務めた。

(清永唯夫)

図説「下関の歴史」より

Posted on 2018/10/31 Wed. 10:48 [edit]

category: 下関の歴史論文

TB: --    CM: 0

31