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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/27 Sat. 12:01 [edit]

category: ぶらたん彦島

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鶴と雁とヒヨドリ 

鶴と雁とヒヨドリ


田ノ首の突端に「カネガツル」と「金のツル」という面白い地名がある。
この「ツル」は、弦、蔓、鶴、釣と、いろいろな字が当てられ、それぞれにふさわしい話がある。

中でも「鶴」にまつわる話は多い。ということは、昔は彦島にも鶴が渡来していたと想像できる。
ところが最近、面白い話を聞いた。
「田ノ首に鶴が来よったのは、つい五、六年前までで、毎年、決まったようにワシの田にやって来たものじゃ。それも、僅か一週間で、たいていは二羽か四羽くらい。
陸塩田でワシが田んぼを打ち起こしていると、必ず10メートルくらい向こうに一定の距離をおいて、ドジョウか何か、エサをついばみよったが、それが可愛ゆうてのう」
必要なこと以外は殆どしゃべらないという無口で有名な田ノ首の中村吉五郎氏が、ポツリポツリと、こんな話をしてくれた。
陸塩田は数年前に埋め立てられて、仮称山中団地として生まれ変わりつつある。

毎年、必ず渡来の途中に立ち寄って遊んでゆく鶴たちの習慣がなくなり「どこでエサを探すものやら、可愛そうにの」と中村氏は嘆息する。
だが、鶴だけではなく、多くの野鳥が彦島から姿を消してしまったのも事実。

雁も、ほとんど見られなくなったものの一つ、つい何年か前までは、夕焼けに染まって雁の編隊飛行が見られたものであった。
元禄時代に書かれた「赤間関十景」にも、彦島の背に飛び立つ雁の群れが描かれ「曳島落雁」と題してある。

毎日新聞の河谷日出男氏が出した「私の博物誌」のヒヨドリの項をひもといてみると、そのコースに彦島が入っている。
そういえば海峡を行き交う大型船の間を縫って、海面すれすれに群がって飛んでいるさまを、よく見かけたものであった。
「秋、かなりの群れが本州から南下して下関の彦島経由、九州に来て冬を越す。そして四月、門司の部崎燈台裏山に集結、下関市の小月で休み北上する。この関門海峡コースが主流のヒヨドリロード」と河谷氏は書いている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/27 Sat. 11:25 [edit]

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杉田古墳 

杉田古墳


江ノ浦桟橋通り、といっても二十年も前から桟橋はなく、バス停だけが残っているに過ぎない。
その停留所から山手に入れば、嘗ての遊郭街の名残を留める桜町。
そこから、杉田へ抜ける急坂は昔の幹道で、地蔵峠(じぞうだお)と呼ばれてきた。それは、本村の地蔵峠と同じ呼び方であるところから、鎌崎の峠とも杉田の坂とも呼ぶが、この峠の東寄りの丘に杉田古墳がある。
大きな石が三つ、肩を寄せ合うように南へ向けて据えられている。

一つは、ほぼ正方形で、絵のようなものが刻まれているが風雨にさらされて何を描いたものか判然としない。
恐らく四人の人物で、中央は女性であろうと推定されている。その東には一段高い位置に臥牛の形をした石が置かれ、前面には三角形の平石が据えてある。
周囲には、3、40センチ程度の石も置かれているが、何か意味ありげに見える。

下関市史によれば、これは「岩刻絵画」と呼ばれ、「墳形不明」となっている。
昭和初年、当時この丘一体を所有していた旧家、百合野忠美氏が、石に刻み込まれた絵を見て、「古墳ではないだろうか」と、彦島町教育委員会に調査を依頼した。
町では、県や市の協力を求めてつぶさに調べた結果、この付近では珍しい岩刻古墳であることが判った。

この丘には同じような石があちこちに建てられていたが明治の頃、宅地造成などによって破壊されたと、百合野氏は古老に聞いたことがあるというが、それでも同氏が幼少の頃いは、まだ何ヶ所か残っていたそうである。
それも、どの場所も共通して大岩が三つずつ置かれてあって、その中央には丘の頂から母屋へ向けて殆ど一直線となるように八つの平石が、ある間隔をおいて並べてあったので、不思議でならなかったと述懐していた。
しかし、それからも、大正の半ば頃から、心ない石屋たちによって密かに持ち去られはじめ、かろうじて残されたのが、彦島唯一のこの古墳である。

多くの貴重な文化遺産は、いつの時代でもひとびとの無知と無関心と、利害によって失われるもので、かつては、老の山の西麓や、福浦の鋤崎あたりにも、それらしい墳墓があったと云われているが、今となっては探すすべもない。

現在、杉田古墳には「高貴古墳之霊石」と書いた立て札が設けられ、板囲いも施されて近寄ることは出来ない。
炎暑に照らされ、雨に打たれ、雹に叩かれ、千五百年という永い年月に耐えてきたこの古墳の絵画は、これからも風雨にさらされて、ますます識別しにくくなるに違いないが、一応、往古のままに保存だけはされている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/26 Fri. 11:06 [edit]

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水雷発射管 

水雷発射管


この浜辺は、水雷発射管の跡地として、戦前まではかなり知られていたところである。
また、幕末攘夷戦に於いて活躍した弟子待砲台や山床砲台も、すぐこの近くにあった。

水雷発射管は、ロシアのバルチック艦隊襲来にそなえて明治35年に建造されたものである。
それはロシア艦隊が関門海峡に近づくことに対しての、いわば本土決戦体制であった。
即ち、バ艦隊が本土に近づいた場合には、まず老ノ山砲台がこれを撃破するが、もし突破された場合には、田ノ首の砲台山と海軍山で砲撃し、次に弟子待の水雷発射管が活躍する。
それでも駄目な場合には火ノ山砲台と門司の和布刈が撃滅する手筈になっていた。

そのため、弟子待では、一度だけ実弾演習を行ったところ、兵隊の多くが鼓膜を破ってしまったので、和布刈では演習を取りやめる羽目になったという。
因みに、門司の和布刈は、当時、下関要塞司令部の管轄であった。

結局、日露戦争は日本海海戦で終止符を打ち、関門海峡へ敵艦を迎えることはなかったが、老ノ山砲台や六連島砲台はかなり活躍した。

その時の模様を明治29年生まれという竹ノ子島の瓜生さんは記憶をたどりながら、こう話してくれた。
「何人か忘れたがのう。ロシアの兵隊が溺れて、この瀬戸を流れたもんじゃ。そこの突き出しの浜でも一人打ち上げられてのう」

ところで、現存の発射管は、赤レンガ造りの短いトンネルだけで、その前面には幅3メートル、長さ約50メートルの突堤が海峡に延びているにすぎないが、七十余年前の当時としては帝国海軍の頭脳を集めた堅固な要塞の一つであったことであろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

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Posted on 2018/01/25 Thu. 11:57 [edit]

category: ぶらたん彦島

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専立寺 

専立寺


本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。

その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。

その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。

その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/24 Wed. 10:49 [edit]

category: ぶらたん彦島

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西楽寺 

西楽寺


専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。

その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。

時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。


ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/23 Tue. 10:29 [edit]

category: ぶらたん彦島

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老ノ山公園 

老ノ山公園


「関のドンガラガンは、どこから流行る  大里、赤坂、老ノ山…」

明治二十年代の関門北九州で、このような唄がはやった。
明治新政府による沿岸防備の槌音である。

彦島老ノ山砲台は、火ノ山砲台と並ぶ下関重砲連隊の要塞で、海峡を睥睨していた。
第二次世界大戦では、本土空襲の際に大いに活躍し、B29やロッキードを響灘に撃墜させたこともある。

その老ノ山砲台は、戦後、一般市民に開放されて農園化したが、それもほんの数年で、その後、市の手によって逐次整備され、今では立派な老ノ山公園に生まれ変わっている。
もともと要塞であった老ノ山は、当然のことながら国有地。その23万平方メートルを下関市がそっくり無償で借り受け、旧兵舎、壕舎、高射砲基地などがあった頂上付近約5万平方メートルを公園化したものである。

しかし、いま老ノ山公園に登ってみると、かつての砲台の面影はどこにも見られない。
山頂直下に整然と横穴の口を開けていた火薬庫や壕舎もフタをされて、高射砲が座っていた窪地もセメントやタイルで固められれ、ベンチが置かれている。


「こうまで立派に整備されてしまうと、公園とは一体何だろうか、と思ってしまう。もう少し自然を壊さないで、地形の特徴などを活かしたユニークな公園づくりは出来ないものだろうか」
二、三年前のある機関紙に「老ノ山にて」という随想が載っていて、老ノ山公園の変身ぶりを嘆いていた。
明治時代から関門の要塞として同じ道を歩き、戦後公園化された火ノ山は、要塞址を随所に残しているが、老ノ山にはそれが無い、とその女性は悲しげに筆を進めて、次のように続けている。
「せめて高射砲の円いレールと、火薬庫入口の赤煉瓦だけでも、往時のままに残していて欲しかった。平和平和で、何もかも埋め立てて花ばかり植えてしまう愚かさが悲しい。
戦争の悲惨さは、再びあってはならなすとして語り聞かせるのが大人の責任だと思うけれど、戦時中の体験談を伝説的な、こっけいな事柄のようにすら聞く子供たちに、あの厚い赤煉瓦の色は何かを感じさせるた゜ろうか。
千の言葉にも換えがたい事実の厳しさを語りかけてくれたのではないだろうか」

下関の大きな公園のほとんどは、老ノ山と同じ旧陸軍の高射砲陣地に造られている。
関門海峡をかかえた立地条件の良さは、幕末時代の台場から、日清、日露、今次大戦と、その眺望の一等地がすべて要塞のヴェールに包まれていた。
火ノ山、千畳ヶ原、一里山、金比羅山と同じように、老ノ山もそのヴェールの部分を少しでも残して欲しかったと、残念に思う。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/22 Mon. 09:47 [edit]

category: ぶらたん彦島

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地名の読み方 

地名の読み方


彦島の地名には、約八百年近い歴史と、それにまつわる開拓の物語が秘められている。
地形的に見て実にふさわしい地名もあれば、素直には読めそうにない難解な名もある。
現在すでに安易な読み方に変えられつつある所もあって、そのような土地は、まず最初に勝手な名に改められるのではないかと思えば、やはり気が気でなくなる。

下関でいえば『阿弥陀寺』が『あみだじ』と変り、『外浜(とぱま)』が『そとはま』と呼ばれはじめたように彦島でも『武者田(びしゃで)』は最近、『むしゃだ』と呼ばれるしまつ。
そこで新住居表示に何かの参考になるのではないかと、難解な地名や、誤読され易いものを少しばかり拾ってみた。


小戸(おど)
海士郷の西寄り一帯で下関側の小門と相対し、小瀬戸の略。

海士郷(あまのごう)
彦島七浦の一つで古老は「あまにごう」と呼んでいる。

老(おい)
海士郷と本村との間で、戦前まで老村と呼んだ。老ノ山がある。

本村(ほんむら)
本町、新町、中町、卯月町、後山、長崎町を包含する。

石ヶ原(こがばら)
現在、本村小学校が建っている付近一帯。

藤ヶ迫(ふじがさと)
本村小学校裏山から第一高校付近一帯。

脇田(わきんた)
老町の貴船神社と、その裏山付近。

名合浦(なごーら)
本村本町の山手、百段の峠付近の住宅地。

東山(ひがしやま)
本村本町、卯月町と迫町に挟まれた丘陵地帯。第二中学予定地。

里(さと)
卯月峠を西山へ向かって下り切った辺りの左側一帯。彦島開拓発祥の地。

迫(さこ)
本村と西山に挟まれ、荒田方面に急速に伸びている。

西山(にしやま)
迫の西、彦島の最西端で、波高(はたか)、渡瀬(わたせ)、栄螺瀬(さざえのせ)などがある。

南風泊(はえどまり)
西山の一角で、国際漁港。現在はフクの水揚地で有名。

竹ノ子島(たけのこじま)
西山の最西端から橋によって陸続きとなっている。

絞(しぼり)
荒田と本村長崎町との中間で、昔はロータリーからここまで海だった。

武者田(びしゃで)
本村長崎町の一部で福浦を結ぶ谷あい一帯。

江向(えむか)
ロータリー付近から彦島中学辺りまで。

塩谷(しゅうや)
彦島中学付近から江の浦小学校へ至る一円。

福浦(ふくら)
硴崎(かけざき)安舎(あんじゃ)鋤崎(すきさき)中ノ浜などを包含する。

塩浜(しおはま)
福浦の対岸。大山(おおやま)沖塩田(おきのしおた)陸塩田(やかのしおた)竜宮島を含む。

角倉(すまくら)
福浦口から段地堤(だんじつづみ)へ至る角倉小学校一帯。

田ノ首(たのくび)
彦島の最南端。山床鼻(やまとこはな)神田(じんで)雁谷迫(かりやがさこ)などを含む。

弟子待(でしまつ)
田ノ首と江ノ浦に挟まれた海岸で、姫の水(ひめのみず)も含んでいる。

杉田(すぎた)
江ノ浦の一部で、弟子待、山中への分岐点一帯。鯉ノ巣(こいのす)も含む。

江ノ浦(えのうら)
杉田(すぎた)鎌崎(かまさき)堀越(ほりこし)塩谷(しゅうや)などを包含する。

六連島(むつれじま)
下関の西、彦島の北西五キロの海上に浮かぶ島。

船島(ふなしま)
古くは舟島と書き、今は巌流島の方が通りが良い。


以上が彦島の主な地名とその呼び方であるが、小字として残っているもので、比較的誤読され易いものを少しばかり拾って羅列してみよう。

牛ヶ鼻(うしがはな)棚田(たんだ 丹田とも書く)峠(たお)打石(うつし)伊無田(えびた)伊佐浦(いさうら いさんだ とも言う)沖ノ通(おけんた 桶無田とも書く)笠石(かさし)遠磯(とうそ)海賊泊(かいぞくどまり)生板(まないた)金弦(かねがつる)

これらの地名について、それぞれ考証を記述すべきかとも考えたが、スペースが許さないので、それは後日、稿を改めて『彦島地名考』とでも題して発表したいと思う。


彦島の地名を古記録や伝承などをもとにいろいろ調べてみると、いずれも二度、あるいは三、四度と呼び名が変っている。
それは、八百年前の開拓時代から、藩制に於ける埋め立てや造成を積み重ねる度に地名を変えたものと考えられ、そこにも血の通う歴史が感じられるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/19 Fri. 09:54 [edit]

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彦島大橋 

彦島大橋


下関の伊崎と彦島の老の山を結ぶ「彦島大橋」は、橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルで、コンクリート橋としては世界第一の橋である。
世界第十位のつり橋、関門橋と共に、下関の自慢の一つになったことは確かだ。
彦島大橋が出来るまでは、高知県の浦戸大橋が中央径間230メートルで、コンクリート橋世界第一位を誇っていた。

彦島大橋は山口県道路公社の発足第一号の工事で、彦島有料道路の一部に含まれ、その全延長は4.460メートル。
大橋の他に、小迫から長崎町まで山をくり抜いて860メートルのトンネルも通された。
有料道路の工事は暫定二車線であるが、用地買収だけは四車線とし、昭和46年に着手した。そして大橋の着工は昭和48年3月で、昭和50年4月には完工し供用を開始する予定が、例のオイルショックのあおりを受けて約半年、その開通が遅れた。
この工事は、関門橋ほどではないにしても着工からドッキング、開通までにたびたび新聞に報じられたが、各紙とも、彦島上空から撮影して彦島大橋と関門橋の二つを画面に配するという決まった構図が多かった。
「世界一と東洋一が勢ぞろい」と説明をつけた新聞もあって、しきりにその完工が待たれた。

別名ヤジロベエ工法と呼ばれるディビダーク工法は昭和25年西ドイツのミュンヘン市で開発。33年我が国に導入し、神奈川県の相模湖嵐山橋で初めて採用された。

ネズミ色の大きなTの字が二つ、下関側の小門と彦島側の小戸にそびえ立ったのが二年前、それ以来、二つの橋台を軸にして、左右のバランスをとりながらコンクリートブロックを伸ばしていく工法で、「弥次郎兵衛の腕」に似ているところから、ディビダーク工法と呼ばず、ヤジロベエで通っている。

こうして出来上がった大橋は老の山の中腹を巻く関連道路に直結され、泥田堤をまたいでそのままトンネルに入る。
トンネル出口は本村長崎町の通称、篠栗山の山すそにあるが、隊道工事にかかるまでは、ここにこんこんと清水の湧き出る穴があった。
かつてはこの水を利用して清涼飲料水や豆腐の製造工場があったが工事で涸れてしまった。
この湧き水は篠栗の水、あるいは平家水と呼ばれ、昭和の初頭まではその周辺に幾つもの五輪塔が苔むしていたという。
そして、どのような旱魃にも決して涸れることがなかったと伝えられ、平家の引島城はこの丘にあったのではないかと推測する人もいる。

ドイツで生まれたディビダーク工法による彦島大橋は、私どもに八百年の一大絵巻を彷彿させてくれる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/18 Thu. 11:08 [edit]

category: ぶらたん彦島

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学校は七つ 

学校は七つ


彦島第二中学校の新築用地がようやく決まった。
昭和49年暮れのことである。
現在、彦島には彦島中学と玄洋中学の二つがあるのに、第二中学とはおかしいと思っていた所、いずれ玄洋中学は新中学に統合し、その跡地に西山小学校が入る予定とか。
当初、第二中学は、荒田の佐々崎山一帯が候補にあげられたが、老、海士郷の生徒には彦島中学よりも遠くなるとのことで、本村と迫を隔てる鉾江山の西方、東佐山に落ち着いた。

現在、彦島には公立学校が、七里七浦にあやかった訳ではないが、丁度、七つある。
即ち、小学校四、中学校二、高等学校一がそれであるが、中でも明治7年創立の本村小学校は、在校児童千余名を数え、下関の豊浦小学校などと共にマンモス校と呼ばれている。

また、49年1月、校舎の殆どを焼失した彦島中学は千八百余名、一学年のクラスが13を数える程のふくれようである。
江ノ浦小学校は明治40年10月、本村小学校から分かれたもので、当時は、堀越、鎌崎を除く南部地域の四年生以下を収容した。
そして逐次、校区を広め、五年生、六年生と児童をふやして完全に独立したのは、杉田から現在の塩谷に新築移転した大正12年のことであった。

その江ノ浦小学校から分かれて開校したのが角倉小学校で、西山小学校もまた本村小学校から独立して出来た学校である。

彦島中学は、本村小学校の高等科が昭和13年に単独校として創設された彦島高等小学校を前身とし、昭和30年、迫、西山地区の生徒を収容して発足したのが玄洋中学である。
また、現在の桜山小学校六連分校は、明治9年、当時、志磨小学校と呼ばれていた本村小学校の分教場として発足し、のち、簡易小学校となったが、大正11年、再び本村小学校分校に復して戦後まで続いた。

県立下関第一高校は、昭和37年の創立である。この学校は、昭和8年、関彦合併に際して取り決めた協定事項の「彦島地内に中等程度の工業高校及び実科高等女学校、県立水産高校を設置」と書かれた条項を市がなかなか実行しないため、地元が立ち上がり、約30年近く経って、ようやくその一つが実現したものである。
因みに「中等程度」とは、現在の高等教育に相当する。
開校当時は市立であったが、校舎、運動場、図書館などの諸施設を完備した後、県に移管された。

かくして、このちっぽけな島に学校は七つ… 

しかし、彦島中学、本村小学校と共に、他の小学校も年々マンモス化しつつある。
そのための対策も早くから講じておかねばならないだろうし、また、「関彦合併協定事項」にある水産高校や女学校実現も促すべきであろう。早くも四十年が過ぎただから。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
昭和50年9月30日 赤間書房発行

Posted on 2018/01/17 Wed. 10:48 [edit]

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フク供養 

フク供養


春分の日は、別に「お大師さん」とも呼び、下関近郊では「旗貰いの日」として、子供たちに喜ばれている。
米を一つまみ程度、和紙に包んだ「おひねり」を幾つも作り、地蔵尊をまつる家を回って、旗菓子と交換するのだが、昔は、ぜんざいや、おはぎで接待する家もあった。

昭和50年3月21日、子供たちが旗貰いに走り回っている頃、南風泊市場では、「河豚供養」が行われていた。
前年秋、唐戸から引っ越したこの市場は、日本一のフク市場を目指して意気軒昂たるものがあったが、幕を開けてみると、思わぬ話題が渦巻いた。
フク漁のスタートは例年に比べ、約二十日も早く、関係者は「幸先よし」と喜んだものであった。
ところが、シーズンに入ってまもなく、黄海で「軍事警戒ライン侵犯」という事件が起こり、中国側の厳重な抗議によって業者も自粛したため、水揚げが激減した。

水揚げが減れば当然セリ値は高くなるが、石油ショック以来の不況は益々深刻化して、フク需要は落ち込む一方であった。
それでも年末の需要最盛期だけは、例年とほぼ同じ水揚げと出荷のバランスを取り戻し、業者をほっとさせたものであった。
しかし、それもほんの束の間の喜びでしかなかった。

食通で知られる人間国宝の坂東三津五郎丈がフクのキモに当たって亡くなったからである。
いわゆる三津五郎ショック。そのショックで京阪神方面の需要が激減し、相場はトラフクの白生きがキロ当たり七、八千円の高値から、千円台にガタ落ちしたから、下関市と関係業者は大慌てで打開策に乗り出した。

調理師講習会を開いたり、フク料理の安全PRを全国に展開し、ようやくその努力が実って相場が例年並みに回復したのは、二月も下旬のことであった。
それにしても、京都の料理屋で起こった三津五郎さんの死は、「調理師の料理なら絶対当たらない」と自信を持ち続けてきた下関の業者にとっては、実に迷惑な出来事であったといわれても仕方があるまい。

フクの本場を自認する下関では、昔からシラコ(精巣)は食べても、マコ(卵巣)とキモ(肝臓)は絶対に食べてはならないとされている。
「シビレルくらいがフクの醍醐味だ」とか、「下関のフクはキモを食わせないから美味しくない」など通ぶる声には耳を貸さず、下関の業者は敢えて、内臓の調理を拒否しつづけてきた。

フクの異名に鉄砲とかカセンバ(棺桶)とかがあるが、下関ではそんな呼び名はなく、「絶対に当たらんものはフクと天気予報」。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/16 Tue. 11:41 [edit]

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こびんおおひと 

こびんおおひと


彦島には、どういう訳か「おおひと」にまつわる伝説が多い。
おおひとというのは大男のことで、「大人」と書いている。
これと同じような話は対岸の門司にもあるが、このほうは「巨人」の字を当てている。

西山の「明神さん」の祠のそばに、これはまた実に可愛い「おおひと」の足跡が残っているが、案外、知る人は少ない。
門司の足跡が二畝もある大きなもので、彦島本村のそれは大江の谷が出来るほどの大足だというのに、明神さんのおおひとは、80センチ四方の自然石に20センチ程度の足跡を残している。
それが伝説の「こびんおおひと」の踏み石である。

むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が「おなか、へったあ」といって座り込んでしまった。
父親のおおひとは驚いて「すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気だせ」と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。
止む無く、おおひとは、すぐ近くの海辺でタコ、サザエ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を「江尻」といい、南風泊から西山へかけての海岸には、「タコ岩」「エラ瀬(サザエの瀬ともいう)」「エビタ」「イサンダ」などという地名が残った。
たらふく食べて、ようやく元気になった娘は「ヨイショ」と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ「ヤッ」と玄界灘めがけて旅立って行った。
父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追ったが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。

そして、彦島の東山の近くに「飛び渡り」という地名も残っているが、これと同じ名前の瀬が、玄界灘の孤島、白島にもある。
それは、おおひとと娘が、大股ぎで一つ飛びに渡ったからからだと伝えられている。
ところで「こびんおおひと」というのは彦島ではお転婆娘のことを「こびんちゃん」と呼んでいるので「お転婆で可愛いおおひとの娘」という意味だろう、と古老たちは説明してくれた。

本村のおおひとについては「彦島の民話」に書いたので重複をさけるが、この他にも西山フイキンの浜は、古くから「大人崎」とも呼ばれており、田ノ首生板の瀬には大人岩がある。
また、弟子待付近の浜には、幕末攘夷戦の際に、弟子待砲台、山床砲台の他に「大人足跡砲台」が築かれ大砲も据え付けていたことが、「白石家文書」に書かれている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/15 Mon. 12:13 [edit]

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高杉晋作 

高杉晋作


東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」

その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。

元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。

この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。

相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。

高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。

慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。

彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/14 Sun. 12:52 [edit]

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彦島大橋 

彦島大橋


下関の伊崎と彦島の老の山を結ぶ「彦島大橋」は、橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルで、コンクリート橋としては世界第一の橋である。
世界第十位のつり橋、関門橋と共に、下関の自慢の一つになったことは確かだ。
彦島大橋が出来るまでは、高知県の浦戸大橋が中央径間230メートルで、コンクリート橋世界第一位を誇っていた。

彦島大橋は山口県道路公社の発足第一号の工事で、彦島有料道路の一部に含まれ、その全延長は4.460メートル。
大橋の他に、小迫から長崎町まで山をくり抜いて860メートルのトンネルも通された。
有料道路の工事は暫定二車線であるが、用地買収だけは四車線とし、昭和46年に着手した。そして大橋の着工は昭和48年3月で、昭和50年4月には完工し供用を開始する予定が、例のオイルショックのあおりを受けて約半年、その開通が遅れた。
この工事は、関門橋ほどではないにしても着工からドッキング、開通までにたびたび新聞に報じられたが、各紙とも、彦島上空から撮影して彦島大橋と関門橋の二つを画面に配するという決まった構図が多かった。
「世界一と東洋一が勢ぞろい」と説明をつけた新聞もあって、しきりにその完工が待たれた。

別名ヤジロベエ工法と呼ばれるディビダーク工法は昭和25年西ドイツのミュンヘン市で開発。33年我が国に導入し、神奈川県の相模湖嵐山橋で初めて採用された。

ネズミ色の大きなTの字が二つ、下関側の小門と彦島側の小戸にそびえ立ったのが二年前、それ以来、二つの橋台を軸にして、左右のバランスをとりながらコンクリートブロックを伸ばしていく工法で、「弥次郎兵衛の腕」に似ているところから、ディビダーク工法と呼ばず、ヤジロベエで通っている。

こうして出来上がった大橋は老の山の中腹を巻く関連道路に直結され、泥田堤をまたいでそのままトンネルに入る。
トンネル出口は本村長崎町の通称、篠栗山の山すそにあるが、隊道工事にかかるまでは、ここにこんこんと清水の湧き出る穴があった。
かつてはこの水を利用して清涼飲料水や豆腐の製造工場があったが工事で涸れてしまった。
この湧き水は篠栗の水、あるいは平家水と呼ばれ、昭和の初頭まではその周辺に幾つもの五輪塔が苔むしていたという。
そして、どのような旱魃にも決して涸れることがなかったと伝えられ、平家の引島城はこの丘にあったのではないかと推測する人もいる。

ドイツで生まれたディビダーク工法による彦島大橋は、私どもに八百年の一大絵巻を彷彿させてくれる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/13 Sat. 11:45 [edit]

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平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2018/01/12 Fri. 11:50 [edit]

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