彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
平家踊り
平家踊り
この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。
この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。
それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。
この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。
それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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20
西楽寺
西楽寺
専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。
その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。
時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。
ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。
その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。
時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。
ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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専立寺
専立寺
本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。
その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。
その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。
その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。
その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。
その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。
その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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高杉晋作
高杉晋作
東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」
その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。
元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。
この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。
相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。
高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。
慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。
彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」
その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。
元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。
この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。
相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。
高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。
慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。
彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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17
清盛塚があった
清盛塚があった
昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」
私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。
翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。
清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。
これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。
「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」
私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。
翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。
清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。
これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。
「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。
冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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