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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

杉田古墳 

杉田古墳


江ノ浦桟橋通り、といっても二十年も前から桟橋はなく、バス停だけが残っているに過ぎない。
その停留所から山手に入れば、嘗ての遊郭街の名残を留める桜町。
そこから、杉田へ抜ける急坂は昔の幹道で、地蔵峠(じぞうだお)と呼ばれてきた。それは、本村の地蔵峠と同じ呼び方であるところから、鎌崎の峠とも杉田の坂とも呼ぶが、この峠の東寄りの丘に杉田古墳がある。
大きな石が三つ、肩を寄せ合うように南へ向けて据えられている。

一つは、ほぼ正方形で、絵のようなものが刻まれているが風雨にさらされて何を描いたものか判然としない。
恐らく四人の人物で、中央は女性であろうと推定されている。その東には一段高い位置に臥牛の形をした石が置かれ、前面には三角形の平石が据えてある。
周囲には、3、40センチ程度の石も置かれているが、何か意味ありげに見える。

下関市史によれば、これは「岩刻絵画」と呼ばれ、「墳形不明」となっている。
昭和初年、当時この丘一体を所有していた旧家、百合野忠美氏が、石に刻み込まれた絵を見て、「古墳ではないだろうか」と、彦島町教育委員会に調査を依頼した。
町では、県や市の協力を求めてつぶさに調べた結果、この付近では珍しい岩刻古墳であることが判った。

この丘には同じような石があちこちに建てられていたが明治の頃、宅地造成などによって破壊されたと、百合野氏は古老に聞いたことがあるというが、それでも同氏が幼少の頃いは、まだ何ヶ所か残っていたそうである。
それも、どの場所も共通して大岩が三つずつ置かれてあって、その中央には丘の頂から母屋へ向けて殆ど一直線となるように八つの平石が、ある間隔をおいて並べてあったので、不思議でならなかったと述懐していた。
しかし、それからも、大正の半ば頃から、心ない石屋たちによって密かに持ち去られはじめ、かろうじて残されたのが、彦島唯一のこの古墳である。

多くの貴重な文化遺産は、いつの時代でもひとびとの無知と無関心と、利害によって失われるもので、かつては、老の山の西麓や、福浦の鋤崎あたりにも、それらしい墳墓があったと云われているが、今となっては探すすべもない。

現在、杉田古墳には「高貴古墳之霊石」と書いた立て札が設けられ、板囲いも施されて近寄ることは出来ない。
炎暑に照らされ、雨に打たれ、雹に叩かれ、千五百年という永い年月に耐えてきたこの古墳の絵画は、これからも風雨にさらされて、ますます識別しにくくなるに違いないが、一応、往古のままに保存だけはされている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2019/08/14 Wed. 09:35 [edit]

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化石層を守る 

化石層を守る


おそまきながら、ほんの一部分だけ下関の文化財に指定はされたが、他は荒れるにまかされ、あるいは埋め立てられ、年々減少しつつある彦島の貝化石が、秋吉台の一角で大切に保存されていることを知り、何だか身内のものが旅先で思わぬ親切を受けたような感激に胸を熱くした。

ところで、彦島西山地区の化石床で現在までに確認されている古生物の化石は31種類以上を数えることができるという。
その主なものは二枚貝、巻貝、つの貝、まて貝、サメの歯や背骨、それにウニなどがあげられる。
中でも「ビカリヤ」と呼ばれる巻貝の仲間は、もともと南方の海に棲んでいた貝であるから、2500万年前のこの付近の海は、かなり暖かかったと推定されるのである。

この化石床の規模の大きさに驚き、その愛護運動にいち早く取りかかったのが地元の玄洋中学で、昭和35年のことであった。
それは、市が文化財に指定する十年も前のことで、生徒会や学区会が中心となって『西山化石層愛護班』を作り、巡回を繰り返してきたという。
中学生たちによる自発的な愛護運動を知ってか知らずでか、西山地区の海浜地形が急速に変っていったのは、その十年近い年月の中であった。

舞子島も丸山も、削られ埋められて、天下の良港と呼ばれた南風泊も漁港団地に造成され、「驚くべき規模の化石層」の大部分はその下に眠ってしまった。
だから「化石を採取すれば罰せられます」と書いた立て札がやけにしらじらしく見えるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2019/08/13 Tue. 08:58 [edit]

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縄文遺跡 

縄文遺跡


彦島に人間が住み着いたのは、一体、いつ頃であろうか。
今、はっきり確認しているところでは、縄文時代の前期の前半の遺跡として現在の彦島八幡宮附近に住居の跡があるので、紀元前七千年頃ということが出来よう。

そして前期の中葉にかけて使用されたと思われる多くの土器も出土しているが、この前半および中葉の遺跡は「彦島の宮ノ原遺跡」と呼ばれている。

また、六連島南端からも縄文時代の出土品や遺構が発見されているが、こちらは縄文後期及び晩期に属するものと見られ、「六連島遺跡」と名付けられている。
縄文後期末は紀元前四千年頃に当たる。

宮ノ原遺跡は、老の山山麓から西にのびた砂州で、彦島八幡宮の境内がその中心である。
ここに初めて発掘調査のメスを入れたのは山口大学の小野博士で、昭和34年のことであった。
宮ノ原遺跡の特長は、当時この住居地では何度か地盤沈下が繰り返され、その度に新しい文化が、礫層、海成砂層、風成層、地表などの上に根付いたことで、小野博士はこれを大きく二分し、「宮ノ原下層式土器」と、「上層式土器」と、それぞれ命名した。

すなわち縄文早期の末頃は磯浜であったものが、前期の前半には砂が堆積して老の山の西麓には低い砂嘴が出来て、ここに九州の曽畑式土器を携えた民族が住み着いた。
その後、海水上昇により住居は水没したが、やがて海退して以前よりも大きな砂嘴が出来上がると、また中期後半の人々が住み着き、狩や漁業を営んだ。

ところがまた、後期前半の頃、再び海面が上昇し彼らの住居は水没した。
このようなことが何度か繰り返されて現在の迫、西山地区の地形がつくられたのではあるが、ここで特筆すべきは、姫島産の黒曜石による石器の破片が、実に135点も発見されたことである。
更に、伊万里産と推定される破片も若干ながら出土しているという。

これらの発掘品に完全なものは全くなく、破片ばかりで、その文様も極めて単純なものが多く、しかし、土器の焼成は比較的良好であるといわれている。
宮ノ原遺跡も六連遺跡も、瀬戸内海の縄文文化と、朝鮮から九州に渡来したした文化とが合流していたことが考えられ、度重なる局地的な地盤運動によって、人々は絶えては栄え、栄えては絶えて弥生時代に入っていった。

しかし、彦島では現在まで、弥生遺跡は全く発見されていない。
藩制時代から開発されつづけてきたこの島は、いつの頃か、無頓着のままに破壊されてしまったのかもしれない。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2019/08/12 Mon. 10:10 [edit]

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平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2019/08/11 Sun. 09:46 [edit]

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鶴と雁とヒヨドリ 

鶴と雁とヒヨドリ


田ノ首の突端に「カネガツル」と「金のツル」という面白い地名がある。
この「ツル」は、弦、蔓、鶴、釣と、いろいろな字が当てられ、それぞれにふさわしい話がある。

中でも「鶴」にまつわる話は多い。ということは、昔は彦島にも鶴が渡来していたと想像できる。
ところが最近、面白い話を聞いた。
「田ノ首に鶴が来よったのは、つい五、六年前までで、毎年、決まったようにワシの田にやって来たものじゃ。それも、僅か一週間で、たいていは二羽か四羽くらい。
陸塩田でワシが田んぼを打ち起こしていると、必ず10メートルくらい向こうに一定の距離をおいて、ドジョウか何か、エサをついばみよったが、それが可愛ゆうてのう」
必要なこと以外は殆どしゃべらないという無口で有名な田ノ首の中村吉五郎氏が、ポツリポツリと、こんな話をしてくれた。
陸塩田は数年前に埋め立てられて、仮称山中団地として生まれ変わりつつある。

毎年、必ず渡来の途中に立ち寄って遊んでゆく鶴たちの習慣がなくなり「どこでエサを探すものやら、可愛そうにの」と中村氏は嘆息する。
だが、鶴だけではなく、多くの野鳥が彦島から姿を消してしまったのも事実。

雁も、ほとんど見られなくなったものの一つ、つい何年か前までは、夕焼けに染まって雁の編隊飛行が見られたものであった。
元禄時代に書かれた「赤間関十景」にも、彦島の背に飛び立つ雁の群れが描かれ「曳島落雁」と題してある。

毎日新聞の河谷日出男氏が出した「私の博物誌」のヒヨドリの項をひもといてみると、そのコースに彦島が入っている。
そういえば海峡を行き交う大型船の間を縫って、海面すれすれに群がって飛んでいるさまを、よく見かけたものであった。
「秋、かなりの群れが本州から南下して下関の彦島経由、九州に来て冬を越す。そして四月、門司の部崎燈台裏山に集結、下関市の小月で休み北上する。この関門海峡コースが主流のヒヨドリロード」と河谷氏は書いている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2019/08/10 Sat. 09:41 [edit]

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