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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

高杉東行像と崑崙丸碑 


高杉東行像と崑崙丸碑

日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。

高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。

高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。

この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。

まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。

売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人

国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す

この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。

これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。

石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。

谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける

まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ

谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。

ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。

この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。

結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。

おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり

さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。

この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。

旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。

高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。

その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。

つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。

関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。

このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。

冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/21 Wed. 11:06 [edit]

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21

日和山と句碑 

日和山と句碑

殿峰墓碑の前に、細いけれども幾らか急な坂道がある。
ここから五・六十メートルくだれば細江の中通りで墓碑の案内柱がある。
しかし、このまま下ってしまうのはまだ早い。
その坂をしばらく喘いでみよう。

つい先ほどまで豊前田町を歩いていたつもりなのに、いつのまにか細江町に入っていて、ここらあたりはもう丸山五丁目。
平坦地が少なく、小丘ばかりが折り重なる港町特有の複雑な地形は、初めて訪れる人を悩ませるという。
そんな道筋がこの付近にも多く入り組んでいる。

だが、何の当てもないぶらたん散歩なら、どの道を辿ろうと気ままなものだ。

左手の雑木が途切れたあたりからこの坂道はかなり角度をますが、急ぐことはない。
ゆっくりとこの谷筋の小道を味わいながら登ろう。
整然とそそり立つ石垣の列とその曲線、城郭を思わせるようなそれらの上に立ち並ぶ家々と、出窓や掛け出しや出格子、そして右手にうずくまるような古い家並みなどは、最も下関らしい風景の一つだ。
さして時折、振り返ってみると海峡の波が眩しく光っているから余計に嬉しくなる。

登りながら、少しづつ海が広がり、対岸の山並みが大きく感じられてくる喜びを味わいたければ、五、六歩のぼってはちょっと振り返って見るのがいい。
そんな時、路地から飛び出してきた子犬に吠えられることもあるだろう。
でも、犬は吠えるのが商売だ。
何も恐れることはありはしない。

登りきったあたりから右側一帯は日和山公園。
下関駅周辺の公園としては最も大きく充実していて、眺望も第一だ。

だが、公園に入る前に左への下り坂も説明しておこう。
右は長崎中央町で左は豊前田町だが少し下ると前方に遠く彦島大橋が見える。
ここから眺める響灘への落日は恐らく素晴らしいにちがいない。
こんなに狭い急坂でもひっきれなしに車が上り下りする。
そして下りきった所は豊前田の谷の峠付近だ。

さて、先ほどの日和山公園に戻ってゆっくり時間を潰してみよう。
この公園の丘上は下関上水の浄水池だから立ち入ることはできない。
その柵のすぐそばに「岡十郎、山田桃作両君記念碑」が建っている。
岡十郎は明治三年に阿武郡で生まれ、山田桃作は安政四年に大津郡で生まれた。
どちらも日本水産の母体となる捕鯨会社の設立者で、わが国における近代捕鯨の先覚者だ。

その柵には「日和山公園碑」があって、さらに東隣に並んで西尾桃支氏の句碑が建っている。

鴎とぶ 春の潮の 秀にふれて

桃支氏は俳句結社「其桃」を主催して四十数年、その句誌も既に三百八十号を超える芭蕉派の俳人である。
彼は毎年、何人か生まれる新しい同人への祝いとして「鴎とぶ春の潮の秀にふれて」の句を揮毫するのを慣しとしているという。
桃支氏の夫人、採菊さんもまた、つつましやかな俳人でその句碑は岬之町の屋敷内に建っていると聞いたことがある。

鴎の句碑からとんと降りて公園の東の隅に回ってみると、ここにも立派な句碑がある。
桃支氏の岳父、西尾其桃の句が刻まれていて、毎年四月に其桃の流れをくむ俳人たちが集まって「墨直し」を催しているので、いつ訪れても墨痕鮮やかに句が浮き出ている。

春の日の きらめく蘭の 葉尖かな 其桃

明治元年兵庫県明石で生まれた其桃は、本名を西尾弥三郎、三千堂と号して芭蕉の流れを継ぐ正統派。
いづれは大津市にある無名庵の第十七世を継承することに決まっていたが、昭和六年四月、旅先の白浜で没した。六十五歳であった。

その少し南寄りには戦時教育の名残り「遥拝所」がある。
石段を上がると東へ向かって皇大神宮、橿原神宮、宮城、明治神宮、靖国神社などが列記されていて、南側には宮崎神宮だけが刻まれている。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/20 Tue. 10:34 [edit]

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20

東光寺と殿峰墓碑 

東光寺と殿峰墓碑

紅葉稲荷の参道に面した福仙寺の脇門に「露涼し 身は撫子の…」という俳句の一部が刻んであることは前にも書いた。
このそばの鳥居から山手へ向かって小道が登っている。
行き着く先は東光寺の墓地。
この細いのぼりもまた、趣があっていい。
だが、お寺さんの訪問はやはり表坂からからが本当だろう。

豊前田の谷を下るとそこは商店街。
四つ角の食料品店のそばに大きな門柱が建っている。
右には「浄瑠璃山」左の石柱には「禅宗 東光寺」と大書してある。
突き当たりの石段を登り右に折れてさらに登ると竜宮城の絵にも似た山門がある。
この様式は唐風というのか、あるいは中国風とでもいうのであろうか。
白く厚いどっしりとした感じがなかなか好もしい。

山門のすぐ下に古ぼけた立て札がある。
「長州藩海軍五戦士の墓碑」と書いてあって、幕末維新の足音が聞こえるような気がする。
「墓碑」というのは次のような経緯があるのだ。

文久三年五月長州藩は「五月十日をもって攘夷期限とする」という京都よりの指示に従って、関門海峡を通航する外国船を砲撃した。
その第四次光線は六月一日であったが、その日、長州藩の壬戌丸が撃たれて乗務員に八名の死傷者をだした。
そのうちの死者五名は手厚く葬られたが、それらの名前は次の通りである。
山本弥八、斉藤亀蔵、堀寅蔵、藤吉、條八、
ここには、その五名の墓が建てられていたが、昭和四十七年に、諸隊士の顕彰墓地を吉田の東行庵に建設する際、墓石と共に移転されたという。

さて、山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏、左手には大師堂があって、その扁額はかつて文化市長と評判の高かった木下友敬の揮毫である。

本堂と大師堂の間に寛政七年に奉納した地蔵尊がある。
その前を通って脇に出ると包丁塚がある。
そこから本堂裏手の墓地群に入って一つ一つ墓標を眺めて歩くのもいいだろう。
その前の小道をとんとんと下ると、先ほど歩いた紅葉稲荷の境内だが、それよりも東光寺山門のそばに立って九州の山塊や海峡を行き交う船の航跡を追ってたのしもう。

さて、東光寺の東側、ここもまた墓地がつづいている。
細江町の興禅寺の墓地である。
しかし、興禅寺なるお寺はどこにもない。
今は丸山一町の光禅寺に合流されているからだ。
南禅寺派臨済宗の光禅寺はもともと光明寺といった。
細江町に同じ光明寺があるので、丸山光明寺と呼び分けたが、興禅寺と龍興寺を同山に合して光禅寺と改めた、となかなか解りにくい。

話を興禅寺の墓地にもどそう。
ここには、明治末期の衆議院議員で下関の政財界で幾多の功績を残した松尾寅三の墓もある。
しかし、この墓地の見所は広江殿峰の墓標だろう。

殿峰は宝暦六年の生まれで絵と印章彫刻に秀でており。多くの文人墨客と交わりがあった。
例えば頼山陽、田能村竹田、原田柳庵、武元登々庵らで、ことに頼山陽は、文政元年三月に殿峰宅に杖を止めて約四十日間世話になっている。

本当の目的は九州遊歴であったが、下関の酒と魚の美味しさに魅せられてか、思わぬ長逗留となったようである。
もともと酒を飲まなかった山陽は三十八歳のこの時から味を覚え始めたという。
だから徳富蘇峰「山陽下ノ關広江殿峰の家に初めて酒徒たる洗礼を受けた」という意味のことを書き残している。

山陽はまた、よほど下関が気に入ったとみえ、九州からの帰りにまた立ち寄って殿峰宅に四十数日間も滞在している。
殿峰は文政五年に没したが、その墓碑銘と碑文は山陽の真筆を宮内省の某書記が写し取り、それを刻んだものである。

ところで、この墓碑への案内碑は細江町中通りの一角にある高さ一メートル弱の小さな石柱だが、
広江殿峯墓碑
此の上 六十米 頼山陽 選並書
ときざまれている。
この石柱は殿峯となっており、墓碑には殿峰という字が当てられている。
人間は他人のこととなると、案外あいまいなままにやり過ごしてしまうものらしい。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/19 Mon. 10:42 [edit]

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19

紅葉稲荷と福仙寺 

紅葉稲荷と福仙寺

地蔵堂の前の道をまっすぐに下れば西尾病院の前を通って豊前田通りへ出るが、地蔵堂のそばの石段を下ると、一人がやっと通れる軒下の路地で茶山通りの商店街に出る。

真向かいのベット屋と呉服屋の間の小路を登れば笹山で、勝安寺裏の大銀杏のそばをなおも登っていくと、左手は古い昔ながらの家並みが続く、そして右手は御影石の立派な石垣が美しい。
やがて峠へ出て左へ並ぶ軒下をくぐれば旧東方司だが、まっすぐに下れば豊前田の谷に出る。

谷筋のゆるやかな坂道を少し下って左手の米屋の角を折れて入ると大鳥居がある。
豊前田繁栄の守り神、紅葉稲荷神社の参道がそれで、左の小さな石段は福仙寺の山門に続く。

紅葉稲荷の玉垣に松旭斉天勝の名前が刻まれているのは、このお稲荷さんがもっと下方にあった頃、その境内の一角に稲荷座が華やかな一時期を送った名残である。

稲荷座は明治の初年から昭和初年までの約五十年間、東の弁天座と西の戎座(のち新富座となり戦後再び戎座)にはさまれながら市川八百蔵、菊五郎、左団次、歌右衛門、吉右衛門など一流の歌舞伎や松井須磨子や沢田正二郎らを招いて親しまれてきた。
しかし、三度に渡る大火によってついに身売りする羽目になり、それが後に大山劇場に変わって戦後はセントラル劇場となった。
今ではその跡地にセントラルビル、銀行、証券会社などが建っている。

豊前田通り近くにあった紅葉稲荷がこの山手に遷座されたのも、やはり三度に渡る大火が原因だった。

約五十年前までは、現在のお稲荷さんの森あたりに料亭が建っていて日夜夜毎、芸妓の笑顔や三味線の音が響いていた。
ところが三度目の大火の際に、焼け残った中村という家の屋根に稲荷大明神が立って、本殿の上方がうるさすぎる、と告げられたという。
そこで近在の住民が協議して、お稲荷さんを料亭よりも上の方、つまり現在地にお移し申し上げたところ、それ以来豊前田には火災が無くなったと、このお宮を守る浜上さんが話してくれた。

さて、ぶらたん氏、石鳥居と玉垣の刻字に見とれ過ぎたきらいがある。
天勝のそばには川棚芝居で鳴らした若島座が奉納した玉垣もあるが、石鳥居をくぐって約四十段の石段をのぼろう。
そこにも鳥居がある。
その脇に福仙寺への入り口があるが、その小さな門柱には、右側に
露涼し 身は撫子の… と彫ってある。
しかし左側の柱には下の句が無い。
よく見ると左右の石柱の大きさが違う。
だから一方が何かの事情で消え失せ、代わりの石を据えたものであろう。
この句の作者は「力」となっているが、無いとなれば何とかして下の句が知りたいと、ぶらたん氏、なかなかあきらめが悪い。

ここからまっすぐにお稲荷さんに向かうと左手に市の保存樹木に指定されている大イチョウがそびえ立っている。
そして右手の広場の片隅には、台座から高さ四メートル弱で幅約七十センチ、奥行三十センチの大きな歌碑が建っている。

一声を高く安け奈ん郭公
久も残土よ利きかしま寸ら舞

一声を高くあげなんほととぎす
雲の上より聞かしますらん

と彫ってあり、作者は為貞となっていて、裏面を見ると明治三十四年に息子さんが建てたことになっている。
為貞という人がどんな人か判らないが、ぶらたん氏はこの歌を判読する為に何度もこの境内に足を運んだ。

ここからまた石段を登ることになるが、その石段のそばにも四季の句を刻んだ碑がある。
読める字もあれば読めない字もかなり多い。
だからあきらめるというのは些か決断が早い。
読めない句碑はひっくり返してでも読んでみよう、と裏面にまわって驚いた。
「ばせを」と書いてあるから紛れもなく芭蕉の句が彫ってあるわけだ。

月代や 膝に手を置く 宵のほど ばせを

芭蕉はこの句を作るにあたって、何度も手を加えている。
「笈日記」を見ると
月代や膝に手を置く宵の宿 となっており、ほかにも、下五が「宵のうち」とか「雲の宿」となっていて、いろいろ迷った末の句であることが判る。

ところで、この句碑は一体なんだろう。
芭蕉の句碑を裏返して蕉風をくむ人たちが四季の句を刻んだものであろうか。
あるいは、何かのはずみで転倒したこの句碑をセメントで固める際に、表裏を間違えてしまったものだろうか。
いずれにしても天下の芭蕉が石垣に鼻をくっつけるようにして建っている句碑とは珍しいかもしれない。
因みに四季の句を彫っている四人は、三原紫幎、山県為静、桝田遊山、菊谷里水の四名だが、この人たちの事績を調べてみるのもまた面白いだろう。

さて、本殿へは、ここからさらに五十段ほど登らねばならない。
宝暦年間の灯篭や天保年間の手洗鉢などがあって本殿は近く屋根を葺き替えるとか。
ここには下関で最も優れた画家といわれた山中月洲の絵がある。

本殿横の朱塗りの鳥居は若宮様を祀っているもので、熱心な信者には、ここに三注の随神がおられ、赤ん坊を抱いた慈母観音の姿がはっきり見えるという。

ところでこのお稲荷さんは伏見稲荷の「わけみたま」だから日本三大稲荷の一つだと、ここにお詣りする人々は鼻が高い。

同じ境内に堀を隔てて並ぶ福仙寺は真言宗のお寺で、紅葉稲荷と同じくらいの大イチョウが本堂の前に繁っている。
大きな手入れのゆきとどいたソテツがあって、鐘楼もあるにはあるが戦時中に献納したままなのか釣鐘が無いのがいささか寂しい。

そして裏山に西国八十八箇所の霊場がある。
この辺り一帯は豊前田商店街からわずか百メートル奥まった場所とは思えないほどの静かな幽境で、まだまだ下関にはこんな聖域も残っているのかと、思わず胸を張りたくなるのである。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/17 Sat. 10:16 [edit]

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茶山口のお地蔵さん 

茶山口のお地蔵さん

下関の人々には、神社や仏閣、あるいは辻々の野仏などをさんづけで呼ぶ習慣がある。
だから大歳神社は大歳さんで、赤間さん、住吉さん、八幡さん、光明寺さんと親しげである。

その大歳さんの石段を十段ばかり下って左に20メートル、更に左へ折れ右に折れて坂を下ると「お地蔵さん」の祠に出る。
いつお詣りしても必ず線香が燃えていて何人かの信者が祈っている。
それもほとんどが女性だからその方面に効能があるのかもしれない。
そのことを信者の一人に訊ねてみると、どんなことでも聞いてくださいますよ、という返事が返ってきた。

だが不思議なことに、このお地蔵さんの名前を知る人がいない。
二十年も三十年も前からここにお詣りしているという老婆でさえも「このお地蔵さんは、お地蔵さんという名前で、他にはありませんよ」と、今更変なことを聞くなとでも言いたげであった。

そしてある老女などは別に願い事があって参詣するのではなく、昨日も無事でしたとお礼にきているんだ、と嬉しそうに話してくれるのである。
そんな所に本当の素朴な信仰の姿が感じられるお地蔵さんだがずいぶん昔のこと、ぶらたん氏は何かの本で、このお地蔵さんと法正院との関係について読んだような気がする。

法正院は新地の上条にあるので、出かけて行って訊ねればよさそうなものだが、知りたいと思いつつ何年も過ごしてしまう魅力も捨てがたいから厄介だ。

この地蔵堂には多くの仏像が祀られているが正面の地蔵尊が最も大きく、黒くつやつやと光ったお顔はたくましい。
そして右脇に四体と入口の両側には各三体の地蔵尊が向き合って座っていらっしゃる。
「抱え地蔵」と書かれた木札もある。
その他には観音、阿弥陀、釈迦、仁王、大日、不動明王など、小さな仏像群が線香の煙をあびて、次々に訪れる信者たちにご利益を施しておられる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/16 Fri. 12:12 [edit]

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16

大歳さん 

大歳さん

おーさら、大歳神社は竹崎
二見ヶ浦は伊勢参宮
参拝すまして帰りましょう
おう皆さん、こんばんは
手々のせ一個で、おーさら

女の子たちの、お手玉遊びの唄である。
ずいぶん長い唄だが、ここに歌われる大歳神社は住友銀行横の鳥居をくぐって百二十段近い石段を登ったところにある。

参道の大鳥居は文久二年に幕末の勤王の志でもあり豪商でもあった白石正一郎が奉納したもので、銅製の扁額もかかっている。
そして鳥居の裏側には「白石正一郎智資興建」と大きく彫ってある。

石段を登りきると正面に本殿、左手には八坂神社と蛭子神社があって玉垣には播州明石・中部幾次郎という名前も見える。
本殿の右手の赤鳥居の列は正一位稲荷五社大明神と書いてある。

本殿の前の「遷座碑」には、このお宮は文治二年正月に下関郵便局とニチイの中間あたりにあった丘の上に建てられたが、山陽本線の移動により昭和十五年二月、この地へ遷座されたとの説明。

境内の東側には社務所があってその右に大きな石碑が建っている。
「明治維新萌漸之史跡」と大書きしてあるが、これは白石正一郎兄弟が幕末から維新へかけて果たした大きな役割と献身について感謝の思いが込められた文章が刻まれている。
この種の石文としては読みやすく解りやすい碑文である。

その右には風雨にさらされてかなり傷められているが「七卿潜寓の画碑」がある。
大正五年に関門史談会が寄贈したものだから、このように損傷するとは考えられないが、材質が砂岩と聞けば、なるほどとうなづける。

七卿の都落ちについてはあまりにも有名であるため、ここでは触れまい。
ただ、文久三年夏の政変によって朝廷を追われた攘夷派の七卿のうち沢宣嘉卿を除く六卿が元治元年白石正一郎の家に入った。

そのことについては、画碑のそばに次の説明板が建っているのでそれを読むことにしよう。

「七卿画碑由来」
この画碑は三条実美公等の七卿が政変をさけ長州に下向の途中、編笠姿の実景を画碑に写刻して一時、当時竹崎の豪商白石正一郎宅に滞在せられし因縁の所、大歳神社境内に大正五年関門史談会が建立、後世長く七卿の顕彰を伝えんとしたものである。


七卿の白石邸到着は元治元年三月二十七日で宅跡はこれより先西約一町半の所にあり。

七卿名
三條実美卿
三條西季知卿
東久世通禧卿
壬生基修卿
錦小路頼徳卿
四条隆謌卿
沢宜嘉卿

さて、読み終わったら四周を眺めて、関門の明るく大きな景観を楽しもう。
この辺りでは日和山に次ぐ絶好の展望地だから。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/14 Wed. 10:05 [edit]

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14

航送船の碑 

航送船の碑

フェニックスが生い茂る三角緑地には「ふく笛」をあしらった歓迎塔に「おいでませ」の文字が旅人を待っている。
フク笛は下関を代表するユーモラスな郷土玩具だから、これは駅前にふさわしい。
しかし「おいでませ」というのは「山口ことば」として広く宣伝されてはいても、ここ下関で使う人はまずいない。
むしろ「おいでなんせえ」とか「よう来ちゃったのう」などと書くべきだろう。
そんなことを考えながら散歩の足を進めてみよう。

緑地の横を国道が走っていて下関郵便局あたりから山口銀行近くへかけて。いつも車が渋滞している。
四十年ごろまで、ここには山陽本線の踏切があった。
列車の通過で一度び閉まると、なかなか開かなくて通行人はイライラしながら踏切警手の手旗を見つめていた。

その踏切の少し駅より、専門大店とサンデン営業所のあたりであったろうか、ここには国鉄の機関区があった。
旧下関駅に入ってくるSLたちは、この円型工場で整備点検され、元気一杯、山陽本線、山陰本線をひた走った。
そして、機関区といえば野球で鳴らした関鉄を思い出す人も多い。
関鉄は正式には下関鉄道管理局で、大洋漁業、全下関などのノンプロ球団とともに活躍し、中等野球の下関商業と並んで熱狂的なファンを集めていた。

機関区の少し南側は海であった。
このあたりの地形は度重なる埋め立てにより、人々の記憶もその年代によって異なる。

ここには、ついこの間まで鉄道病院があったが、今は下関駅のブラットフォーム寄りに移っている。
「シーモール」という大規模商店街が建設されるために立ち退いたものだが、その旧鉄道病院の玄関脇に建っていた「準鉄道記念物・車両航送発祥の地」の大きな石碑も一緒に片付けられてしまった。

下関駅の話によれば、この記念碑の位置だけは変えるわけにゆかないので、シーモールが完成した暁には、元の場所に建てることになっているとか。

さて「車両航送」というのは、貨物航送船、関門航送船、あるいは外輪船などと呼ばれ親しまれた関門海峡の風物詩のことである。
まず、碑面の説明文を読んでみよう。

「本州・九州間の国鉄貨物輸送に大変革をもたらした貨車航送は、下関・小森江間の航送作業を請け負った宮本高次が明治四十四年三月一日から試航送を行い同年十月一日鉄道院はこの航路を関森航路として正式に営業を開始しました。
宮本高次は、かねてから貨車航送について深い関心を寄せ航送作業を請け負うに当たり私財を投じて七トン貨車三両を積載する艀三隻とこれを曳航する小発蒸気汽船三隻を建造し当時の困難な海陸連絡輸送を打開しました。
この貨車航送は我が国の車両航送のはじまりであり、当時の下関側発着場がこの地点です。

現在、日本はフェリー時代を迎えているが、これは今から約七十年前も前の画期的な事業であった。
それまでの本州から九州への貨物輸送は、下関で貨車からおろした荷物がほとんど人力によって艀に移された。
艀は小さな蒸気船に引っ張られ門司に渡り、そこで再び人力によって貨車に積み込まれるというこの繰り返しであった。
それを一挙に解消したのが、我が国におけるフェリーの第一号、関門貨車航送船である。

この船は、前にも書いたように外輪船とも呼ばれ、船体の両側に約五メートルに近い大きな水車を取り付けて、それを回して操船する珍しい船…。
だから旅人の多くは、まるでミシシッピー川を下る映画の風景がそこに現出した気がして、しばし岸壁に佇んだものであった。

それが関門トンネルが開通したために昭和十七年に姿を消し、戦後二十五年に自動車航送船として再び活躍することになったものの、さらに関門国道トンネル開通の三十三年、時代の波に勝つことはできず、ついに海峡から姿を消してしまった。
関門民芸会の佐藤治氏は、それを惜しんで次のように詩っている。

この船は私たちの郷愁であった
この船は海峡のシンボルであった
どうしてもこの海峡におきたかった船


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/13 Tue. 09:44 [edit]

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曲がってなお行けず 

曲がってなお行けず

懐古趣味に浸ってか、ぶらたん氏、いささか下関駅で時間を潰した感がある。
ぼつぼつ駅の外へ出てみよう。

東口に立つと、タクシーの行列、有料駐車場、黒っぽい銀行のビルなどが眼に飛び込んで、車の流れの手前に小さな三角緑地が見える。
観光案内板があってフェニックスとソテツが植えられている。
以前はもっと広い、ゆったりとした憩いの場であったが、駐車場や地下道入り口などに取られて見るからに肩身の狭い思いをしているように感じられる。

この中のソテツは西細江の旧駅前に、明治四十年前後に植えられたものだというから、すでに六十数年もの間、市民を見つめてきたということになる。
それをここに移植したのは戦後のことで、「全通記念木・明治三十四年五月」と彫られている石碑も一緒に移されている。

二本のフェニックスは昭和二十四年に三本十万円で宮崎県の業者から購入したものだが、一本は間もなく枯れてしまったという。

フェニックスは、今でこそ宇部市などの街路樹で、立派に育ち珍しく無くなってしまったが、当時、本州でフェニックスを植えたのは下関だけであった。

ところで、このフェニックスの蔭に川柳を刻んだ句碑があることは、毎日ここを何度も通る市民でさえ知らない人が多い。
「人生の行路」と題したその句碑には、藤井米三という人の次の川柳が彫られている。

真っ直ぐに行けず  曲がってなおいけず

これには、関門トンネル開通以前の下関という土地柄を、人生の機微に照らし合わせた面白さが感じられて、市内の数多い句碑の中でも、ぶらたん氏が好む碑のひとつである。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/12 Mon. 10:45 [edit]

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ミニ水族館 

ミニ水族館

駅のコンコースの東口寄り、押しボタン式の市内観光案内板のそばに大きな水槽があり、鯛や黒鯛、カレイ、タコ、伊勢海老などが悠然と泳いでいる。

駅の水族館とか豆水族館、あるいはミニ水族館などと呼ばれて多くの市民に親しまれているが、駅裏の海岸が埋め立てらりてからは、汐水が遠くなったせいか時々故障するようだ。
それでも駅舎の近くに貯水槽と濾過器を設置しているので、常に四トンの水が循環している。

この水槽の魚の世話は、長府にある下関水族館の職員が責任を持って当たっている。
そして時折、魚の入れ替えもしているが、冬と夏とでは水温の関係でその種類は殆ど一変してしまうらしい。
つまり、夏になると熱帯性の魚を入れるわけである。

「もしもし、夕方六時に駅の水族館のそばで待ってるワ」
という声は、あちらこちらの公衆電話でよく聞かれる。
かなり以前にも、相手が長府の水族館と間違えて、ついに逢えなかったというまるで映画でも見るような悲劇もあったらしいが、今ではすっかり市民にお馴染みとなったようだ。

だから、この水槽の周りには、いつも人待ち顔が寄り集まっていて、泳ぐ魚たちも心なしか面映ゆげである。

人々の待ち合わせの場所、このミニ水族館は、東京でいえばさしずめ渋谷のハチ公というところか。

さて、この下関駅は、市内のほぼ中央にあって東と西に玄関を有している。
従って市民には駅に用事がなくとも、東から西、西から東へと往来するたびに駅を通ることになる。
ということは、これほど多くの市民に親しまれ利用され、愛されている駅は全国でも稀ではないかと考えたくもなるのだ。

水槽の魚たちは毎日、何万人という人々に眺められて倖せと迷惑のどちらを感じているであろうが。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/11 Sun. 10:21 [edit]

category: ぶらたん

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下関駅と壁画 

下関駅と壁画

駅はその町の顔。
駅はその土地の玄関だという。
とすれば下関駅は、下関の顔であり、そして玄関でもある。

他に一ノ宮地区には山陽新幹線の新下関駅もあるが、ここは在来線の下関駅について書こう。

山陽本線の前身、山陽鉄道が厚狭から赤間関市まで全線開通したのは明治三十四年五月で、その時、赤間関駅も同時に開業した。
それは、まもなく下関駅と改めることになるが、今の西細江の海岸沿いに門司港駅によく似た駅舎が建っていた。

わが国最初の展望車付きの特急列車もこの駅を基点として走り、関門連絡船や関釜航路の乗客もこの駅に足跡を残した。
下関駅は本州最西端の終着駅であると同時に九州への橋渡しと、大陸への玄関口として華やかな四十余年を過ごした訳であった。

その下関駅が西細江から現在地に移ったのは関門鉄道トンネル開通の昭和十七年秋。
そして駅移転の日から下関駅は「新駅」、西細江の跡地は「旧駅」とそれぞれ呼び分けられることになる。

海底トンネルは、下関・門司間を西日本における電化第一号で結んだ。
だから人々は電気機関車のピーッと鳴らす警笛を珍しがって、わざわざその音を聞きに出かけたものであった。

また新駅は、戦時中の完工にもかかわらず構内の主要な箇所はもとより、ホームの洗面所や便所にまで大理石をふんだんに使って話題をまいた。
さらに豪華な一、二等待合室と広大な三等待合室はこの駅の自慢でもあった。

今、下関駅の中央部にある名店街は、三等待合室の約七十パーセントをつぶして充てたものである。
一、二等待合室も当時に比べればいくらか狭くなっているが、ここには大きな壁画があった。
確か大東亜共栄圏を描いた地図であったような気がするが、今ではそれを見ることはできない。

壁画といえば、駅の日本食堂に関門トンネル掘削工事のたくましい絵がある。
縦約二メートル、横約一メートル五十で、あまり大きくはないが、おでん売り場の湯気に当てられながら食堂のお客を見下ろしている。

素掘りのトンネル内で膝をついて、削岩機を操る工夫と、つるはしを握った二人の男、それにおそらくこれもドリルを使っている後ろ向きの二人の力強い姿が壁に浮き出ている。

トンネル工事は昭和十一年九月の起工で十四年四月に豆トンネルが貫通し、十六年七月には本トンネルが通じた。
そして公式に運転営業を開始したのは十七年十一月十五日であった。

しかし、その時はまだ単線で、そのまま工事を続けて複線になったのは十八年十二月三十日だが、起工から約四年八ヶ月の間に延べ三百四十七万人作業員が従事し、三十四人の殉職者がでた。
その慰霊碑は彦島の関門トンネル入り口に立てられているが、シーズンには河豚刺しが食べられると評判の日食の壁画を鑑賞しながら当時の難工事に想いを馳せるのも意義がある。

また、この絵の右側にもかなり大きな壁画があったと記憶するのだが、二、三の日食従業員に訊ねても覚えていないという。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/08/10 Sat. 10:41 [edit]

category: ぶらたん

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