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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下駄ばきぶらたん あとがき 


下駄ばきぶらたん あとがき

ある日ある時、ひとは、何の理由もなく、ただ、ぶらっと歩いてみたくなることがある。
それでいて、いざ出かけてみると、ひとは、どこへというあてもないことに気づくのだ。

そんな時、汽車やバスに乗ってみるのもいいだろう。
デパートや商店街でのウィンドショッピングも楽しいに違いない、
だが、たまに趣向を変えて市場の雑踏に紛れ込んだり、城壁のように連なる石垣の狭間を散策したり、お寺の山門に佇ってみると心安まることがある。

それは他でもない。
自分たちの住んでいる最も身近な土地を歩いているというという実感と、見覚えのある辻々に思わぬ風景を見出す喜びが味わえるからだ。

もともと山歩きの好きな話は、少年の頃から暇さえあれば、氣のむくまま足の向くままに、よく歩いた。
小さな丘から眺める海峡の白い軌跡、坂道を登り降りするたびに大きく小さく変化する対岸の企救山塊、峠を越えようとした途端に目に飛び込んできた水平線上の真っ赤な夕陽、それらの一つ一つに私は驚きの声を上げながら歩いた。

だから、この書は観光案内書ではなく、私自身の散歩の手引きのようなものである。

出版社の意向としては、地図と磁石と赤鉛筆を持って自由に歩いてみることのできるオリエンテーリングのような内容を期待したようであるが、車洪水の市街地散策は山野徘徊のようなわけにはゆかない。

私は十数年前に、新聞、機関紙、雑誌などに「ひとりぶらたん」「ゆめぐりぶらたん」「かんもんぶらたん」と、一連の紀行案内らしきものを連載した。
この書もそれにあやかって「下駄ばきぶらたん」としてみたが、あくまでも、ふらっと出かけて、のんびりぶらぶら歩いてみる、といった軽い気持ちに発している。

一応、「下関駅周辺」としたものの了円寺から入江口までを範囲内とし、旧山陽の浜、細江の船溜まり、萩本藩の新地会所跡、戦時中の新幹線たる弾丸列車計画用地(桜山)などは省いた。
また、ロッキード問題に比較されるシーメンス事件の裁判を担当した内田重成中尉の碑(桜山神社内)や、豊前田町出身で神田墓地に眠る山口孤剣なども素通りすることにした。
孤剣の墓にはこう刻んである。

孤剣君、本姓は福田、実名は義三、下関が産出したる最大最初の社会主義者、熱血熱涙、能文雄弁、大正九年九月二日歿す。
年三十八、十三回忌に際してこの墓を建つ。
堺利彦 識。

ところで、この稿を綴るにあたり多くの寺院や神社を訪ね、境内の石文や墓碑銘、辞世句などについて教えを乞うたが、満足な回答はほとんど得られなかった。
住職も神官もそれらの刻字を読めないのである。
また、辞世句を彫りつけた墓の存在てへさえも知らない僧侶にも何人かお会いした。
年代を経るごとに風化していく石文の文字くらいは、それが建つ境内の主が記録してしかるべきではないか、と私は何度も思った。

それから、光明寺、三連寺、妙蓮寺、了円寺などは、幕末攘夷戦の際に諸隊の屯所や血の争いなどで知られているが、それらを記した案内板がなく、些か寂しい。
これは、城下町長府にくらべて、やや片手落ちではないか、と思わずにはいられない。

さて、八月を終わる日、赤間関書房主と岸勤氏と私、それに中学二年になる私の長男を加えて、この書のコースを歩いてみた。

伊崎の旧道にシトミ戸の他にも唐様建築を施した民家が残っていたり、海から遠い了円寺近くに海触の跡を発見したりして楽しい半日であった。
その時、岸氏は、井上靖が小説「氷壁」を連載中に、毎朝、生沢朗の挿絵を見るのが楽しみで、配達を待ちかねて急いで新聞を開いたというが、そのような絵を私も書きたいものです、と言われた。

拙い文章に汗顔しつづけの私は思わず肝を冷やしたが、学期初めのご多忙と、運動会、文化祭などの準備に追われる中で、素晴らしい絵を描いてくださった。
ちなみに同氏は、下関商業高校の教諭でモダンアート協会の会員でもある。
ここに記して感謝の意としたい。

ところどころに配した概念図はその標題に関する周辺図だが、あまり詳しくは描いていない。
それは前述の通り、出版元の意向がオリエンテーリングの形を目指していたため、少しでもそれに近づきたいと思ったからである。
東西南北も明示せず、大きな通りや鉄道だけを中心にして、起伏も曲折も無い平面的な図で、その上、誰でも知っているようなデパートやスーパーなど以外のすべての店舗の名称を省いた。
つまり、読者諸賢は極めて判りにくい不親切な案内図によって散策させられそうだが、これはほんの一例にすぎず、何もこの通りに歩いて欲しいと言っているわけでは決して無い。

そぞろ歩きの散歩に、理屈はいるまい。
ともあれ、この書を企画された藤野幸平氏の意に沿いえたかどうか一抹の不安を抱きながらの欄筆をご寛恕願いたい。

昭和五十一年 秋分の日しるす   著者


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/08/03 Fri. 14:18 [edit]

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03

高杉東行像と崑崙丸碑 

高杉東行像と崑崙丸碑

日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。

高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。

高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。

この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。

まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。

売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人

国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す

この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。

これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。

石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。

谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける

まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ

谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。

ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。

この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。

結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。

おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり

さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。

この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。

旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。

高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。

その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。

つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。

関 釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海 里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし 悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。

このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。

冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/08/02 Thu. 11:57 [edit]

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02

法正院・円通寺・光東寺 


法正院・円通寺・光東寺

関西通りは「カンセイ」と読み、南部町の「ナベ」と同じく下関らしい地名である。
この通りはゆるい坂道だが下関駅方面へ少し行くと右手に「南妙法蓮華経」と書いた大きな石碑が建っていて、立派な石段の上に山門がある。
法正院だ。
ここの住職は山口県児童文化研究会を主宰しているが、そのことは大願寺の項でも述べた。

山門をくぐると正面に庫裏があるが、ここは開放されていて「ひまわり保育園」となっている。
余程、子供達を愛する心やさしいお坊さんなのだろう。

境内に「立正安国」の石碑がある。
その揮毫は「晩翠」となっているから些か気にかかるがその詮索は遠慮した。
すべて知ってしまうと、後の楽しみがなくなる。
いずれ訊ねてみようという宿題があってもいいような気がするのだ。

本堂の横にはセメントで作ったすべり台があって、その横にはもう永い間、苔むした蹲がひっくり返ったままになっている。
なんとなく生活臭さが漂っているようで面白い。

裏門はいつも閉まっていて、鐘楼の鐘はかなり新しく、保育園の子供達が境内せましと走り回っていている実に明るくのどかなお寺さんである。

法正院を出て上条の交差点を横断すると、そこはもう買い物公園グリーンモールだ。
商店と人道と公園と車道、それに街路樹をからませたこの通りは、つい先年まで東の唐戸市場に対する西の長門市場としてその雑踏が市民に親しまれたものであった。
あの狭い土地に物売りと買い物客が溢れて、常にもみ合わなければ通り抜けられぬ市場は、魚と野菜と人いきれ、それに泥やドブ、汗なども入り混じって一種独特の雰囲気を醸し出していた。
だからこのように整然とした公園ができたことに反発する人もいるというが、あまり難しいことは考えまい。
美しい街並みをそぞろ歩くのも、また楽しいものだ。

そのグリーンモール、上条からゆるい坂を下りかけた左手の石垣の中ほどに猿田彦が祀られてあり、こんなところにも庚申信仰が生きているのが嬉しい。
この猿田彦にはユッカやアジサイが植えられていて、季節ごとに開くその花は美しい。

ゆるい坂を下りきったあたりに右に山陽本線をくぐる細いガードがある。
今浦の裏通りと呼ばれているが、昔はこの小さな道が本通りであった。
時代の流れは如何ともし難い。

その通りの右手丘の上に円通寺がある。
昔は海峡を一望して素晴らしい景観が楽しめたことだろうが今では古い家並みの間や前方にビルが林立して青い空を眺めるくらいのもの。
すぐそばを山陽本線が走っていて、ひっきりなしに列車が轟音をこだまさせて通過する。

本堂の右手には朽木を扁額にした瑠璃殿があり、その横には半跏像の地蔵菩薩が祀られている。
「南無大師遍生金剛」と書いた弘法大師像はさらにその横に建てられていて、八十八ヶ所ならぬ三十三ヶ所も境内にまとめられている。
第一番は紀伊国那智で三十三番霊所は美濃国谷汲寺となっていて、それぞれの仏様が肩を寄せ合っているのは満員電車を見るようで痛ましいが、京都念佛寺の千体佛のひしめきに較べれば、まだましだろう。

庫裏の裏手には稲荷神社の祠があり、そばの林に分け入ると丘の上に墓地が並ぶ。
海峡と漁港と響灘が見渡せる。

さて、ここからはもう駅も近い。
円通寺の石段を下ってグリーンモールへ戻り、そのまま買い物公園沿いに旧邦楽座通りをぶらついてもいいし、茶山の坂を登って豊前田へ行くのも楽しいだろう。
あるいは、直接、円通寺から長門市場の雑踏に紛れ込んで魚の匂いを嗅ぎ、買い物カゴにぶっつかりながら、ニチイのそばに出るコースもある。

ここまで戻れば、もう急ぐこともあるまい。
下関駅に最も近いお寺さん、光東寺にお詣りしてみよう。
ニチイのそばから竹崎の旧道を少し入った右手の丘にある曹洞宗の寺院で山号は海潮山。
小瀬戸の流れが参道の石段を洗っていた頃に想いを馳せると、この山号もまたふさわしい。

山門から本堂まではわずか十メートル足らずで境内は狭いが、本堂や鐘楼の屋根瓦には一に三つ星の毛利家の定紋が浮き出ている。
左手の墓地には百日紅、夾竹桃、枇杷、柿、梨などの木が植えられていて八十八ヶ所の霊場が順不同で墓群れの間を縫っている。
おびただしい石佛の大半は風化して頭部が落ちたり、お顔が崩れたものも多い。
しかし、ほとんどの台座は大正年間に赤レンガとセメントで補修されているので些か救われる。
墓地の奥と鐘楼の横に旅館があり、参道脇には飲み屋などもある。
そして周囲は大きなビルがジャングルの様相を呈して、先ほどの円通寺以上に眺望がせばめられているのが何とも物悲しい。
しかし、駅前の喧騒がまるで嘘のように、この境内はいつ来ても静かで心の休まる思いがする。

時折、遠く海峡を往来する船舶の汽笛が長く尾を引いて流れる。
列車の発着を告げる下関駅のマイクロフォンの声なども、この山門に行って聞くと、何かしら淡い夢に包まれたように耳をくすぐる。
ぶらたん氏、下駄のはき心地の良さに任せて歩き疲れたのであろうか。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/08/01 Wed. 11:06 [edit]

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01

了円寺と高杉療養地跡 


了円寺と高杉療養地跡

国道脇の人道を歩くのはあまり楽しいものではない。
「桜山神社」の標柱のそばの書道具店とお茶屋の間に入ってみよう。
静かな小路がつづく。
かつて小瀬戸の海がこの辺りまで入り込んでいた頃、人々はこの狭い道を行き来していた。
右手は石垣の上に古い家々が並び、左手は道よりも下に家が建っていたりして旧八幡町に似た風情がある。

屋根が足元にうずくまっているような錯覚を起こしながら、のんびり歩いて行くと、横断歩道橋のそばに出ることになるが構わず右へ折れて小路を辿ることにしよう。
やがて、いやでも国道に出てしまう。
そのあたりからが了円寺坂で、その名の寺院は坂の登りかけた途中に堂々とした山門を据えて白塀と石垣の曲線が美しい。

本堂、方丈、庫裡、鐘楼とすべて揃っていて、大きなイチョウの木が二本、桜も墓地のネムノキも共に大きい。
しかし、幕末に志士たちが屯所としていた面影は何もなく、また、それを記した立て札さえもないのはやはり寂しい。
同じことは西の光明寺でもいえるが。

ところで、了円寺の明治時代の住職、丘道徹は私財を投じて、代用感化院薫育寮を二十数年間経営していたが、これは大正元年に山口市にある「山口県立育成学校」に改組移管された。
すなわち丘住職はこの方面のパイオニアという訳である。

境内を出て横手のゆるい石段のある坂を下ると、途中に「了円寺参道」と書かれた碑が雑草に埋もれていた。
ということは参道は山門をくぐらずにその左手を登っていたことになる。
そういえば、了円寺の山門は長府毛利家の勝山御殿から移したものだという話を聞いたことがある。

さて下駄ばきぶらたんも、下関駅周辺という制約があれば、この辺りから引き返すべきであろう。
了円寺坂を登ってしまうと、金比羅、武久、幡生と先は広くつい帰りそびれてしまう恐れがある。
とりあえず、厳島さんの信号まで戻って神社手前の小路を左に入ろう。

まっすぐに進むと山陽本線の狭く低いガードをくぐることになり更に左に折れて坂道を登ると左手住宅の玄関先に「高杉東行療養之地」の碑が建っていて鉄扉の中に花立が一本と晋作の詩碑がある。
高杉は短い生涯に何百という詩歌を書き、旅日記なども事細かに書き残しており、平和な時代に生きていれば文人としてその名を高めたかもしれない。

落花斜 日恨無窮 自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下 暮朝欲佛廟前紅

落花斜日恨み窮まりなし
自ら愧ず残骸晩風に泣く
怪しむをやめよ家を華表の下に移すを
暮朝廟前の紅をはらわんと欲す

この詩は慶応二年の作で「桜山七絶」と題し「時に予、家を桜山の下に移す」と副書きがしてある。
病気療養のため白石家からここに移ってきた頃の感傷だ。ちなみに華表とは鳥居のことである。

高杉はここで度重なる入牢と回天義挙などによりボロボロに痛めた体を休めながら、国を憂い、多くの死者たちのことを思って悩み苦しんだ。
そして秋から冬へかけて日に日に衰えてゆく体力を気力はどうすることも出来ず、やがて新地の林邸に移って死期を迎えることになるのです。

己惚れて 世は済ましけり 歳の暮 東行

ところで、この療養地のすぐ上に赤鳥居の「立石稲荷」があり、本当はここで静養したんだという説もかなり広く信じられている。
そういえば拝殿の前の花立に彫られた定紋は高杉家のものと類似しているし、ここからなら招魂社の森も手に取るように近い。

お稲荷さんの上の平坦地は住宅地になっているが、戦前には桜山競馬場といって草競馬ファンにとって懐かしい場所。
この住宅地の突き当たりは河野学園で、幼稚園から女子短大までの各層の賑やかな声が聞かれる。
その少し手前を右に折れると正面に神田小学校があり、前の坂道を東にくだると厳島神社の横に出ることになる。
しかし、坂を下りきったあたりから左に折れて、適当な小路を右に入り細い坂道をぐんぐん登るとやがて下りとなって山手町から関西通りへ出ることができる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/31 Tue. 10:25 [edit]

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31

高杉終焉の地かいわい 


高杉終焉の地かいわい

利慶寺の前の小路は幾つもの路地に分かれていて、かつての新地遊郭の名残りも感じられるが、それを横目にしばらく西へ歩き、少し大きな通りを右折して北へ出よう。
国道191号線はすぐそこだ。
目の前に信号があったらボタンを押して国道を横断しよう。
そのまま山手に向かって小路を入る。
古い家並みの十字路の角に「左こんぴら北うら」と彫った標柱が建っている。
「左は金比羅から北浦街道へ」という意味で、この道は藩制時代の往還だったから当時のものがそのままの形で残っているわけだ。

その標柱から少し下関駅方向に戻ると左手に「小田海仙宅跡」の石柱がある。
萩毛利藩の御用絵師で、江戸、京都、大阪などで広くその名を知られた海仙は、頼山陽とも親しく分筆にも秀れていたというが、文久二年に七十八歳で世を去っている。

さて、ぶらたん氏のコースはここから再び先ほどの指導標まで戻ることになる。
だが、そのまま引き返しては面白くない。
途中の小路の奥をちょっと覗いてみよう。
そこはかつてのの新富座、戎座の跡地だが、嬉しいことに今でも「戎座」の看板だけが残っている。
そして懐かしい「新富湯」も依然として健在である。
だから、戎座の看板や新富湯の暖簾を眺めに遠くから杖をついてやってくる老人が何人かいる、という話を聞いたりすると、さもありなん、と、ついうなずきたくなろうというもの。

新地には江戸時代末期に芝居の掛小屋としての新地小屋があった。
それは明治になってから少し離れた場所に戎座と改めて開業されたがまもなくして、それは新富座となった。

「下関市の新地新開作新宅新田の新富座の障子の下にシラミが四匹、敷居の下にもシラミが四匹、尻を並べて舌出して芝居の最中に死んでいた」と唄っては、「シの字がナンボあったかあ」と当て合う他愛ない語呂遊びが流行るほど繁盛し市民に親しまれた新富座は、戦後間もなく全焼した。
その跡にできたのが明治時代の名前を引き継いだ戎座だが、これも約二十年間娯楽の灯をともし続けたものの、数年前にその営業を閉じた。
しかし、幕末の新地小屋から脈々と続いた「シントミ」と「エビス」の二つの名前は、裏町の弁天座、細江の稲荷座と共に下関市民の郷愁をそそるものがある。

先ほどの指導標の前にあるボーリング場は下関のボーリング熱の草分けで、その後、市内には十幾つのボーリング場が乱立した。
その大きな建物の裏には「高杉晋作終焉の地」と書かれた大標柱が建っている。
周囲に玉垣を巡らし鉄扉が閉じられているが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。

文久三年六月奇兵隊結成のために下関に出てきた高杉東行は、若い命の燃焼のままに藩を動かし国を揺さぶり、そして国を救う大活躍をしたが、無理がたたって結核を患って倒れた。
「白石正一郎日記」によれば慶応二年七月、小倉戦争の指揮中に病気を訴えた、とある。
高杉はその後も門司に渡って野営をしたり陣頭に立って指揮をとったが、過労は病状を悪化させ、ついには起き上がれぬ体になってしまった。
小倉攻めの作戦会議は高杉の枕辺に集まって開かれたりした。

そのうち小倉城が燃え落ちるとその方面の参謀職を前原一誠に譲って、桜山の奇兵隊営所とは名ばかりのあばら家へ移った。
そこで秋から厳しい冬へかけて、高杉は療養の身を横たえ、翌三年の正月すぎに新地の酒造家、林算九郎の屋敷に移ってきた。
そして四月十四日、満二十七歳と何ヶ月かの短い生涯をここで終えたのであった。

その終焉の地を隔てて建つ山門は中島名左衛門ゆかりの妙蓮寺である。
山門の二階には太鼓が奉納されていて、正面に方丈と庫裏、右手に本堂があり、親鸞上人像と茶筅塚もある。

中島名左衛門は幕末の洋式砲術家で、もともと長崎の出身だが長州藩に招かれて砲術指南役をつとめていた人物。
文久三年五月、軍議の席上で長州藩の海岸防備の不足を力説したが、庚申丸の艦長らは長州海軍を過信していたために論議は物別れとなり、その夜、新地の藤屋という旅館で何者とも知れぬ三人の刺客によって殺された。
遺体はこの妙蓮寺に葬られ、その墓も本堂の裏手に建てられているが、簡単に参拝できないのが残念だ。
いつでもお詣りできるように本堂の前あたりに移すことはできないものか、と、ぶらたん氏、ここを訪れるたびに嘆く。

ところで、妙蓮寺がなぜこの小路に面して建っているか、ということはつまり国道を背にしているということになるのだが、それは先にも書いたようにここが江戸時代の往還であったからだ。
すなわち現在の国道は了円寺あたりまで海が入り込んでいて人々は伊崎へ行くには渡し舟によるか、あるいは了円寺坂のたもとを巻いていかねばならなかった。
その後、埋め立てにより新地開作が出来上がると、今の新地の中心地あたりに橋が作られた。
それがあの懐かしい思案橋で、別名を永代橋とも呼んでいたという。

今では流行歌などにより思案橋といえば長崎と相場が決まっているが、「行こか戻ろか思案橋」の歌は下関が元祖だと胸を張る老人などもいて、この付近は実に楽しい。
稲荷町、豊前田、新地とつづく歓楽の名残りは、時折このような形でひょいと顔をだすこともある訳だ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/30 Mon. 11:48 [edit]

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30

三蓮寺・海晏時・利慶寺 


三蓮寺・海晏時・利慶寺

蔀戸は平安時代の貴族建築の一種で、寝殿造りの「跳ね上げ式の建具」である。
一般住宅としては引き違い戸ができる安土桃山時代頃までに造られたが、江戸時代に入ってからは神社仏閣以外では使われなくなったといわれている。
その蔀戸は戦前には市内のあちこちで何軒か残っていたが、今ではここ伊崎と彦島福浦の一軒くらいのものだろう。

時代の流れと共に玄関や引き戸が次々とアルミサッシに変えられていく昨今、その風潮を拒否して蔀戸が生き続けているということは何よりも嬉しい。

三連寺は文久三年五月の攘夷決行に際して。萩本藩から下関入りした正規兵たちの一部の宿舎にあてられたお寺である。
しかし、本堂は最近、鉄筋造りに改装されて当時の面影はない。
その本堂の横から裏手へかけては墓地になっているが「権中僧正随空上人の碑」とか、「諸魚諸餌供養塚」が建っている。
裏面には嘉永五年とあるが横には安政四年十一月となっていて、この意味は判らない。

供養塚には鯛の絵が浮き彫りされてある。
「諸魚」はここが漁師町である関係からで、「諸餌」は人間にとってのあらゆる食べ物という意味であろうか、それとも魚を釣るための単なるエサであろうか。
いずれにしても供養塚は宗教的な匂いの他に、日本人らしいやさしさが感じられて心なごむ。

下関の河豚供養は俳句歳時記にも収録されていて全国的にも名高いが、その他にも雲丹供養もあれば包丁供養もあり、長門市には鯨の墓まである。
なんというあたたかさであろう。

三連寺の少し東よりの石鳥居は伊崎の鈴ヶ森さんと呼び親しまれている鈴ヶ森稲荷神社。
約九十段登ってあとの四十段は男坂といい右へそれて登る坂道は女坂という。
しかし、この男坂を登った正面の社殿は厳島神社である。
だから本当は伊崎の厳島さんと呼ぶべきところだが、新地にも同じ呼び名の神社があるので隣り合わせのお稲荷さんの名前をとって鈴ヶ森さんと呼びならしてきたのだ。

このお宮の裏山は、おどろ山とか茶臼山と名付けられた王城山で、平家の砦、つまり、お城があった丘陵だと伝えられる。
だから厳島神社は安芸の宮島と同じく平家の守護神だと古老たちは言う。

ところで鈴ヶ森という名は幡随院長兵衛と白井権八を思い出しそうだが、ここでは関門海峡の別名「硯の海」がなまったものとか、「鈴ふり海」が転じたものだとか、その伝えられるところは多い。
そんな古くからの話を聞くだけでも石段を喘いだ甲斐はあろうていうもの。
そして、もっと詳しく知りたいとお思いなら「下関二千年史」や「長門国志」「下関御開作風土記」などを繙けばいい。

くだりはお稲荷さんの朱塗りの鳥居をくぐろう。
石段を降りたところの駐車場を左に折れてしばらく行くと海晏寺の参道下に出る。

山門のそばに「禁不葷酒」と書いてあるが、現在では「ネギを食べて」どころではなく、境内にニンニクを植えたり酒場を経営したりしても誰もとがめはしないに違いない。
これもご時世か、と言っても禅宗のお寺には「禁葷酒入山門」と大きく刻んだ石柱はふさわしい。
そのそばに「小笠原流 盛花 瓶花教授」の看板がさがっているが、ここのお花教室の歴史は古い。
昔から多くのお嬢さんが花束を提げてこの山門をくぐっては花嫁修行に勤しんだ。

石段を登ると正面が本堂。
その屋根瓦や「海晏寺」と書かれた扁額、そしてふすま絵などに毛利家の定紋が描かれたり浮き出ていたりする。
殿様の厚い庇護を受けていたのだろう。
そういえばここの仏様は平家の守護仏だと伝えられている。
下関市内では彦島西楽寺の阿弥陀様が平重盛の守護仏だといわれているので双璧ということができようか。
その本堂には達磨大師の軸や驚くほどデカイ木魚などもあって、外に出ると墓地の前に豊川稲荷が祀られている。
神仏合体がここでも生きているわけだ。
そして、そばに聳え立つ大イチョウは当然のことながら下関市の保存樹木に指定されている。

鐘楼は、参道を登った右手にある。
その奥に建っている顕彰碑は約二百年前に詩や俳句や茶道の世界に広く名を知られ、寺子屋を開いて庶民教育にも力をつくした鈴木由己を讃えるものである。
この碑文は長府藩の儒学者、小田亨叔が書いたが、それは由己と亨叔の学問的なつながりを示すものとして貴重な資料となっている。
由己は寛政七年に八十七歳で歿し、亨叔は寛政十三年に五十五歳で入寂。

さて、海晏寺の参道を下って左の小路へ入ろう。
子供達の歌声などが聞こえて浄土真宗本願寺派の利慶寺が近い。
本当は「リケイジ」と読むのだが、市内の古い人々の中には「リキエイジ」と呼ぶ人も多い。
東の赤間神宮の古刹「阿弥陀寺」を「アミダイジ」と呼ぶのに似て、利慶寺の呼び方も懐かしいものの一つに数えられるべきだろう。

子供達の明るいはしゃぎや歌声は境内の一角に建てられた慈光保育園で、その右に本堂と庫裏が並んでいる。
山門は本堂の真正面にあるが、狭い境内に下関市の保存樹木に指定されている大イチョウが繁っているためか、いつ来てもイメージはなんとなく暗い。
それを救ってくれるのは園児たちの底抜けな明るさだろう。
お寺と保育園…和尚さんと子供達…
それは、実に日本的な情景で心がなごむ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/29 Sun. 11:25 [edit]

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29

竹崎の渡し場と伊崎(下) 


竹崎の渡し場と伊崎(下)

だから先ほどの報済園あたりまで引き返してみよう。
その少し竹崎よりの空き地には石灯籠などなどが幾つも雑然と置かれていて阿弥陀寺町、神宮司町、外濱町などと彫った御影石が放置されている。
ここは赤間神宮の先帝祭における御旅所で、かつては網掛けの松とよばれる名松があったが、今はない。

御旅所は、源平合戦の翌日、ここに住む中島という漁師たちが安徳幼帝を網で引き上げたという伝説によって設けられたものだ。
その隣は観音堂と呼び名だけが残っているが、ここにも観音堂の松という枝振りの美しい松があったという。

その少し東側の小路を 山手に折れて入ると、そこからは往時の伊崎の本通り、約二メートルの狭い路地をはさんで古い家並みがどこまでも続く。
その突き当たりの白塀は天台宗の古寺、雲海院で、地元の人々にはゼンカイさんとか、デンカイさんなどと呼ばれ親しまれている。

雲海院の東側の急坂は文洋中学や無線中継所の丘へと続くが、今は伊崎の漁師町を味わった方が楽しい。
たとえば、ここには格子戸の家や、ベンガラ色の出格子の家、狐格子などが建ち並び、たこつぼや船の櫓などが玄関先にころがっていたりするのだ。

しばらくそのような町並みを楽しみながら歩いていると蛭子神社がある。
「急傾斜地崩壊危険区域」と書かれた看板が立っているが、これは竹崎町や丸山町などと共に伊崎町の特色で、この付近一帯、至る所に危険区域の標識が見られる。
何年か前の大豪雨でも、かなり広い範囲の崖が崩れて、多くの犠牲者を出した。

この辺り、時折磯の匂いが漂ってきて、軒先からは焼き魚の煙も鼻をついてくる。
珍しく共同水道が残っていて、玄関の表札のそばには「英霊の家」とか「水道専用」などの札も貼られたままであるところもなんとなく懐かしい。
こんなところが伊崎散策の良さでもあろうか。

しばらく行くとこの通りにはふさわしくない六階建ての大きなビルがあり、その角から山手に大きな岩と赤い鳥居や社が見える。
登ってみよう。
真下からの直登はかなり古い石段に頼ることになるが、登りきったところは文洋中学へ通ずる車道だ。
そこに建つ赤鳥居は福徳稲荷で海峡の眺めは実に素晴らしい。

福徳稲荷の足元の岩陰にも「正一位鈴ヶ森」と書かれた祠がある。
ここへは、岩にくっつくようにして家が建てられているため、蟹の横這いですり抜けるようにしなければ詣ることもできない。

もう一度、伊崎の町筋に下るには、先ほどの石段を戻ってもいいし、車道を鼻歌でも唄いながらのんびり歩いてもいい。
下りきった少し東側には三蓮寺がある。
そして、よく注意して歩けば、珍しい蔀戸を見つけ出すこともできる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/27 Fri. 17:50 [edit]

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27

竹崎の渡し場と伊崎(上) 


竹崎の渡し場と伊崎(上)

白石正一郎宅跡の少し向こうに信号がある。
国道を横切ってガソリンスタンドと日冷の冷蔵庫との間を海風に誘われて出ると下関漁港のはずれに桟橋がある。
彦島海士郷と六連島へ通う渡船の発着場だ。
かっては西細江、岬之町、唐戸、竹崎、黄紺川、本村、江の浦、弟子待、田の首、竹の子島など、港町らしくあちこちにあった渡し場は、次々に姿を消して今ではここと唐戸だけになってしまった。

彦島渡船は江戸時代からという永い歴史を持っていて明治時代には二丁櫓、三丁櫓による和船で五厘船とも呼ばれていた。
下関側の渡し場は現在のニチイのそば、長泉寺の山門の下や、伊崎の鈴ヶ森神社の石段下など何度か変わり、戦時中に今の場所に落ち着いた。

そして、個人経営から村営、町営、市営と変遷を重ねるたびに和船は汽船となり、船の大きさも二十トン、二十五トン、三十トンと形を変えたが、最近は市が手放したために私営渡船に逆戻りしている。
但し、同じ浮き桟橋を使う六連島渡船は依然として市営である。

この二つの渡船は下関漁港を彩る詩情をほうふつとさせ、NHKテレビも「小瀬戸昨今」と題して広く紹介したこともあった。

小瀬戸海峡は桟橋の右手前方にS字状に広がる静かな海で、かつては濁流さかまく急潮の瀬戸であった。
漁港や大和町の造成により往時の潮の流れは偲ぶべくもないが、ここから右岸に沿ってのびる伊崎の町には、古き良き時代の風情がそこここに残っている。

桟橋近くの県漁連冷蔵庫の横を海岸線に沿って西へ行こう。
鐵工所や造船所などが並びやがて行く手に彦島大橋が見え始める。
橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルでコンクリート橋としては世界第一の橋だ。

海を隔てた対岸に大きな岩が突き出ているが、これが伝説で知られる「きぬかけ岩」で平家の哀史を秘めている。「身投げ岩」とも呼ばれ、苔むした地蔵尊などが祀られており、この近郊では珍しい六面地蔵もある。

さて、こちらは伊崎。
突き当たりは小門造船で行き止まりとなる。
右手の丘の上には門柱に報済園と書かれてあるが、この屋敷と造船所の間を入ると月見稲荷が静かな佇まいをみせている。
ここの藤棚は開花期には訪れる人も多く、文化五年の鳥居や寛政年間に奉納された灯篭などがこの稲荷神社の歴史を物語ってくれる。

かつて小瀬戸海峡には、カタクチイワシが多く泳ぎ、これは「小門鰯」と呼ばれて下関の名物であったが、これを獲る漁法に「小門の夜炊き」が有名だった。
全国的にも岐阜長良川の鵜飼とともに広く知られていたという。
瀬戸の流れが月見稲荷の玉垣を洗っていた頃、この境内で盃を傾けながら眺めた夜炊きは、そざ壮観であっただろう。
しかし今は、造船所の塀に遮られて海は見えず、薄暗い境内は月見のイメージさえも打ち消してしまう。
造船所の機械音と油の匂いは実に不粋だ。

月見稲荷の奥は低い丘陵地帯に立ち並ぶ民家と、海岸沿いの工場群だけで何も見るべきものはない。
強いて言えば、根嶽岬の突端に架かる彦島大橋の威容と、そこから望む響灘の海の碧さや北九州工業地帯の煙突の林立くらいなものだろう。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/27 Fri. 17:35 [edit]

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27

駅西口と白石正一郎宅跡 


駅西口と白石正一郎宅跡

都市は東から西へ開かれてゆく…
と何かの本に書いてあった。
下関もまた例外ではない。

豊浦の宮が置かれた長府は別にして、藩制時代から明治へかけての市の中心は唐戸であったし、鉄道の開通は山陽の浜を埋め立ててできた一帯、入江、細江、豊前田方面にその賑わいを移した。
更に海底トンネル開通による駅の移転は、竹崎、彦島間の急潮を堰き止め、沖の洲という岩礁の列を埋め立てた造成地を基盤に拓かれた大和町、東大和町一帯に商工業の町を作り、商港、漁港の二つの国際港を東西において、今ではここが下関の玄関。
市の中心は時代と共に随分西に移行したわけだ。

さて、下関駅は東西二つの入口を持っている。
新しい民衆駅はともかくとして、一般に駅というものは線路を背にした形で駅舎が建てられているものだ。
高架線を抱いた駅でもほとんどが一方だけ乗降口を持っていて片側の町へ行くには駅内の細い通路か遠く駅を離れてガードをくぐらなければならないようだ。
先隣の小倉駅でさえ、ついこの間までは北口から南口へ抜けるために人々は入場券を買ったものである。

東口と西口が同じ規模であり、そして広大なコンコースによって結ばれている下関駅は戦時中に建てられたとは思えない重厚さがある。
そして、旅慣れた人なら、改札、出札、待合室などを一目見て大阪駅の構内に似ていると思うに違いない。
それもそのはず、大阪駅は下関駅を模して建てられたからだ。
この際、両駅の規模を比較することはやめよう。
人口比だけでもまったくお話にならないから。

下関駅の西口に立ってみると東口ほどの広々とした景観はない。
だが、正面には昔ながらの国鉄下関工事局がある。
西日本全域をその管轄下に置いて、建設省第四港湾や日本銀行などと共にかつての下関の地位を誇示する数少ない名残りである。

工事局の右は大洋漁業下関支社でで、左のビルは下関大丸。
このデパートはやがて東口の超大ビル「シーモール」に移ることになっているという。

ところで、駅西口の真正面を走る車の流れは彦島に至る幹線道路で、左右には映画館や貿易会館、水産会館などが並び立っている。

かつて東洋一を誇った下関国際漁港はこれらのビルの西側にあって、魚市場を含めた延々と続く上屋の長さは約二キロ、これは圧巻だ。
しかし、近年、入り船がめっきり少なくなって往時の面影はない。

大洋漁業の北側には国道が走っていて、その真向かいにあるスーパーニチイへは日食西口前の地下道をくぐって行くのがいい。
この地下道には横幅二十五メートルのある大きなタイル画がはめ込まれている。
それも下関という土地にふさわしい源平合戦図だから旅行者にもかなり人気があるそうな。

地下道を出てニチイの前を少し行きすぎると、中国電力営業所の前に「白石正一郎宅跡」の石柱と「高杉晋作・奇兵隊結成の地」と刻まれた記念碑がある。
石柱はもともとこの裏通りに建っていたもので、だから本当は裏側が藩制時代の往来であったことがわかる。

当然白石家の表門もそちらを向いていたわけで、現在、石柱や碑が建っているあたりから国道一帯は小瀬戸の急流が洗う海であった。
かつてここに建っていた白石家の浜門は多くの勤皇の志士たちの密かな出入りに使われたが、維新後は調布松小田に移されて今も健在である。

白石正一郎は廻船問屋の主人で、この近郊きっての豪商だが、商人には珍しく鈴木重胤に国学を学び、尊王攘夷論の実践者となった人。
文久三年にはこの屋敷で高杉晋作が奇兵隊を結成し、青年晋作と親子ほども違う正一郎との人間的な結びつきはこの日から始まった。
そして白石家には実に四百人もの志士たちが世話になっているが、晋作も愛人おうのと共に何度も匿ってもらい結局は死水までとってもらうことになった。
正一郎の晩年は案外知られていないが、赤間神宮の初代宮司である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/26 Thu. 09:50 [edit]

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26

勝安寺と高台の町々 

勝安寺と高台の町々

旧下関駅前の市営駐車場一帯には戦後しばらくまで豪華なグリーンベルトが造られていた。
ここに立って正面の丘を見るとあの特徴ある長刀を握りしめた高杉晋作の銅像が見下ろしていた。
人々はその像を見上げては、本州の最果てにやってきた感慨に耽り、あるいは祖国への別れを惜しんだ。

また、関釜航路で帰国する人は六連島のあたりから台上の高杉像を探し求め、ようやく帰り着いたという喜びにしたるのであった。

それは高杉の銅像が下関の駅前に建っていたからこそ、市民にも馴染み深く、旅人たちには高杉と下関の結びつきが強く印象づけられたのであろう。
上野の西郷、土佐桂浜の龍馬とともに下関の高杉はこうして全国に知られるようになったが、駅が遠く西へ移ったというそれだけの理由で、シンボルとしての存在が薄れ始めたと思えてならない。
それは何も、銅像が陶像に変わったということではなく、やはり旅行者にとっての立地条件が悪くなったせいであろう。

もし、そうだとすれば、下関駅、唐戸、赤間神宮、火の山、長府城下町とつづく観光コースに、この日和山をぜひ加えて、歩いてでも登ってみたいと思わせる魅力づくりを検討する必要がありはしないか。

などと、ぶらたん氏、もっともらしい顔つきになるが、そんなことはどうでもいい。
さあ、先を急ごう。

文化会館の前の信号を渡る。
要通りを抜ける。
裏通りから更に中通りへ出て下関駅へ向かって歩こう。
右手に殿峰墓碑の案内柱があり、東光寺参道も岐れている。
その少し先は豊前田の谷だ、
そこから茶山口まではアーケードが続く商店街。
その少し西よりの婦人服店の真正面に真宗本願寺派の勝安寺がある。
もともと彦島にあった寺院だが、元禄年間にここに移ったと伝えられている。

約二十段の石段を登って山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏があって、商店街のど真ん中とは思えない静かさだ。
泰山木とザクロの古木が四季折々にその濃度を変えて、開花期のひそやかな美しさもまた格別である。

「村上先生感恩碑」と書かれた台座を含めば約三メートルの石碑は、下関の初等教育の基礎を作った功労者の一人、村上正介の頌徳碑。
村上正介は広井良図と共に多くの子弟を育てたが明治初年に開いた赤間義塾は現在の関西小学校の前身である。

その横に文政八年と刻まれた石灯籠が一対、その真ん中にはかなり風化した石文がある。
しかし、刻んであるものが俳句か和歌か判読できない。

また、ここの墓地には、文政元年に「長門国志」三十三巻を書き残した中村徳美の墓があると伝えられているが、見当たらない。

本堂左手の墓地のイチョウの木はかなり高く大きいし、それよりもっと高く聳え立っている大イチョウは本堂の裏手にあるが、そのことは先に笹山への道筋にも書いた。

勝安寺に遊んだ後は、そのまま下関駅へ向かってもいいだろう。
だが、もしも、まだ歩き足りないなとお思いなら、豊前田の谷まで戻って、笹山、東方司、八幡町などの複雑な高台の辻々を歩いてみるのもまた楽しい。

まず、谷筋の坂道を登ってみよう。
紅葉稲荷への参道を右手に、笹山から下ってきた小道を左にやり過ごし、少し登ると古い家並みに挟まれて朱塗りの鳥居が立っている。
扁額には「最上位政徳天王」と書かれてあるが、鳥居の奥の突き当たりの家には「最上稲荷」となっていて、なんとなくその由緒などを訊ねてみたい雰囲気がある。

鳥居の前を更に登るとやがて峠に出るが、その少し手前の酒屋の角を左に入ってみよう。
正面に天理教硯海分教会への矢印があり、それに沿って登ればインマヌエルキリスト教会が右手奥にあるが、そのまままっすぐに進むと下り坂となる。

その下りかけたあたりの角の店を左に折れると笹山一-27の標識のそばに庚申塚がひっそりと立っている。
町に住む人々にとってはすでに伝説的でさえある庚申信仰がこのような台地の一角では、まだまだ立派に生き続けているのだ。

そこは変則四差路となっていて、どの路地を歩いてもそれぞれに趣があって楽しいが、再び先ほどの店まで戻って旧東方司の長い下り坂を味わうのもいい。
狭く細い急坂で、最も下関らしい風情を醸し出してくれる町筋でもある。

このまま下れば茶山市場の少し上の理髪店のそばに出るが、途中から左手の大きく生い茂った樹へつづく石段を登って安政年間と書かれた童女を供養する地蔵尊を拝んで薬剤師会館前から茶山商店街へ出てもいい。

また、旧八幡町を楽しみたいと思うなら、豊前田町の谷の峠近く、長崎町と関西町との境界の小路を左へ折れてみるのがよかろう。
細く入り組んだ道で、とんとんと石段を登るとすぐに下り始める。
その途中、右手の石段の上に小さな鳥居が見える。
ついでに登ってみよう。
「正一位勇覚稲荷、松川稲荷、古川稲荷」と一つの石に三つの名前を併記した祠がある。
他に社殿はなく実にあっけらかんとしているが、鳥居のそばには文政年間に奉納された手洗鉢があるので、藩制時代には多くの信者を集めた由緒あるお稲荷さんであったのだろう。

すぐ下には関西小学校、右手の丘は日和山で、遠くに火の山や竜王山が望める。
そして、鳥居の下の小路を西へ行けば突き当たりに本願寺派の大願寺、ここの住職は法正院や常楽院の住職らと共に山口県児童文化研究会を主宰し、児童の健全育成のために献しつづけている。
しかし極めて地道な活動であり売名でないことをモットーにしているところから、案外、知られていない。

大願寺の前の石段を下って右に折れると、笹山や旧東方司と同じように長い下り坂がつづく。
右側は明るくどっしりした石垣の列で、左側は道路の高さに家の屋根が並んでいたりしてこの風景は珍しい。

そんな坂道をのんびり下っていけば、やがて上条の交差点に出るが、その少し手前の風呂屋の煙突の脇へ向かって路地に入り込めば、茶山と長門市場の間に出る。
買い物公園「グリーンモール」を通って下関駅へはそこから五分もあれば充分。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/25 Wed. 10:00 [edit]

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25

光明寺と旧駅かいわい 

光明寺と旧駅かいわい

日和山の表坂は石段が約二百四十段、下ったところに「日和山公園入口」の標識がある。
だから、本当はこの石段を登るべきですよ、と意味している訳だ。
しかし、そこは気ままなぶらたん氏、もう随分昔から、この階段は帰り道として利用する事にしている。

やはりこの丘は、殿峰墓碑前の坂道や、豊前田の谷、入江の丸山通り一角、高尾の交差点などから放射状に集まったいくつもの小路を辿りながら登るに限る。

そうだ、高杉さんの立つこの公園へは、光明寺の横の小路に迷い込んで静かな宅地の雰囲気を味わいながら行く事ができる。

その光明寺は細江町の中通り、日和山公園入口の東側約百メートルの所に建つ浄土真宗のお寺だ。
もともと豊浦郡の西市にあったが、内日、幡生と転じ、享保十七年、今から二百四十年前にここに移ったという。

山門下の石段は重量感のある立派な参道であったが、今は下半分がセメントに替えられ、その両脇も駐車場と、かつての風格が薄らいだのが惜しい。

境内に入ると正面の入母屋造りの本堂が覆いかぶさるように迫ってくる。
そばの大イチョウも負けじと天高く聳え立っていて、実はこれも市の指定による保存樹木だ。

右手の墓地に入ってみると、昭和二年と書かれた燈籠などもなどもあるが、何よりそこから眺める本堂の大屋根の美しさがたまらない。
扇を描いた見事な鬼瓦、そこから前後に伸びる両翼は優雅な曲線を作り出していて鳥の羽ばたきにも似ている。

扇面は、同寺の定紋に対する裏の紋ともいうべきもので、これは本堂屋根の大棟にも浮き出ていて印象的である。
本堂の左手は庫裏だが、その横にはひかり保育園があって、園児たちの明るい笑顔や歌声の震源地となっている。

また、山門のそばに建つ大きな石碑は、幕末から明治にかけての下関の教育界に鮮明な足跡を残した広井良図の顕彰碑である。
しかし、ところどころ損傷したりして極めて読みにくい。
良図は清末藩士で、萩明倫館や清末育英館の舎頭をつとめたほどの人物。
明治時代には現在の下関商高、豊浦高校などで教鞭をとり、西細江に硯湾学舎という私塾を開いたりした。

だが、こうして読めなくなった顕彰碑の前に立ってみると、今度はその脇に解説碑を建てなければならなくのではないかと思えてくる。

ところで光明寺といえば、少し幕末の事に詳しい人なら大抵思い出すのが、光明寺党であろう。
久坂玄瑞以下六十余名の有志隊で、文久三年五月の攘夷決行では先頭に立って外艦を砲撃した。
彼らはやがて高杉晋作の奇兵隊にその大半が包含されることになるが、急進的公家である中山忠光卿は光明寺党の志士たちを大変好もしく思っていたようで、狐狩りの獲物をさげて同寺に行き召し上がられたと白石正一郎も日記に書いている。

光明寺を出て大通りに出ると国道9号線だ。
この辺りは戦前には「山陽の浜」と呼ばれる下関第一の繁華街があった。
アセチレンガスとバラナの叩き売りがここの名物でもあった。
下関では今でもバナナをバラナと呼ぶ老人が多い。

この国道沿いにある労働会館は昔の山陽百貨店で昭和七年に出来た鉄筋コンクリートの六階建てデパートは当時の下関の自慢であった。
その隣は下関警察署で、かつては下関駅の真ん前に位置して、大いに睨みをきかしていた。

旧下関駅はこの警察署と文化会館の間の海より真正面にあった。
東海道から続く山陽本線のレールはこの駅で波型に曲げられ、本州の最端であることを示していた。

この駅前の古ぼけたビルは明治三十六年五月に我が国の鉄道ホテル第一号として開業した山陽ホテルで、大正十三年に再建されたものである。
九州や大陸への橋渡しとして、このホテルはほとんどの有名人が宿泊した。
ベーブルースも、ヘレンケラーもここに泊まったと、古い馬関っ子たちは自慢するが、この旧山陽ホテルの真正面、つまり警察署の南側にも、当時の駅前旅館がそのままの形で残っている。
木造三階建のこの宿には、今でも郷愁を抱く人が多いという。
歌舞伎座の玄関を思わせるような佇まいを、じっと眺めていると、この旧浜吉旅館と旧山陽ホテルの相対する二つの宿は、いつまでも残して欲しいものと思わずにはいられない。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/24 Tue. 10:16 [edit]

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24

高杉東行像と崑崙丸碑 


高杉東行像と崑崙丸碑

日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。

高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。

高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。

この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。

まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。

売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人

国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す

この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。

これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。

石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。

谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける

まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ

谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。

ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。

この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。

結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。

おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり

さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。

この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。

旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。

高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。

その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。

つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。

関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。

このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。

冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/23 Mon. 10:19 [edit]

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23

日和山と句碑 

日和山と句碑

殿峰墓碑の前に、細いけれども幾らか急な坂道がある。
ここから五・六十メートルくだれば細江の中通りで墓碑の案内柱がある。
しかし、このまま下ってしまうのはまだ早い。
その坂をしばらく喘いでみよう。

つい先ほどまで豊前田町を歩いていたつもりなのに、いつのまにか細江町に入っていて、ここらあたりはもう丸山五丁目。
平坦地が少なく、小丘ばかりが折り重なる港町特有の複雑な地形は、初めて訪れる人を悩ませるという。
そんな道筋がこの付近にも多く入り組んでいる。

だが、何の当てもないぶらたん散歩なら、どの道を辿ろうと気ままなものだ。

左手の雑木が途切れたあたりからこの坂道はかなり角度をますが、急ぐことはない。
ゆっくりとこの谷筋の小道を味わいながら登ろう。
整然とそそり立つ石垣の列とその曲線、城郭を思わせるようなそれらの上に立ち並ぶ家々と、出窓や掛け出しや出格子、そして右手にうずくまるような古い家並みなどは、最も下関らしい風景の一つだ。
さして時折、振り返ってみると海峡の波が眩しく光っているから余計に嬉しくなる。

登りながら、少しづつ海が広がり、対岸の山並みが大きく感じられてくる喜びを味わいたければ、五、六歩のぼってはちょっと振り返って見るのがいい。
そんな時、路地から飛び出してきた子犬に吠えられることもあるだろう。
でも、犬は吠えるのが商売だ。
何も恐れることはありはしない。

登りきったあたりから右側一帯は日和山公園。
下関駅周辺の公園としては最も大きく充実していて、眺望も第一だ。

だが、公園に入る前に左への下り坂も説明しておこう。
右は長崎中央町で左は豊前田町だが少し下ると前方に遠く彦島大橋が見える。
ここから眺める響灘への落日は恐らく素晴らしいにちがいない。
こんなに狭い急坂でもひっきれなしに車が上り下りする。
そして下りきった所は豊前田の谷の峠付近だ。

さて、先ほどの日和山公園に戻ってゆっくり時間を潰してみよう。
この公園の丘上は下関上水の浄水池だから立ち入ることはできない。
その柵のすぐそばに「岡十郎、山田桃作両君記念碑」が建っている。
岡十郎は明治三年に阿武郡で生まれ、山田桃作は安政四年に大津郡で生まれた。
どちらも日本水産の母体となる捕鯨会社の設立者で、わが国における近代捕鯨の先覚者だ。

その柵には「日和山公園碑」があって、さらに東隣に並んで西尾桃支氏の句碑が建っている。

鴎とぶ 春の潮の 秀にふれて

桃支氏は俳句結社「其桃」を主催して四十数年、その句誌も既に三百八十号を超える芭蕉派の俳人である。
彼は毎年、何人か生まれる新しい同人への祝いとして「鴎とぶ春の潮の秀にふれて」の句を揮毫するのを慣しとしているという。
桃支氏の夫人、採菊さんもまた、つつましやかな俳人でその句碑は岬之町の屋敷内に建っていると聞いたことがある。

鴎の句碑からとんと降りて公園の東の隅に回ってみると、ここにも立派な句碑がある。
桃支氏の岳父、西尾其桃の句が刻まれていて、毎年四月に其桃の流れをくむ俳人たちが集まって「墨直し」を催しているので、いつ訪れても墨痕鮮やかに句が浮き出ている。

春の日の きらめく蘭の 葉尖かな 其桃

明治元年兵庫県明石で生まれた其桃は、本名を西尾弥三郎、三千堂と号して芭蕉の流れを継ぐ正統派。
いづれは大津市にある無名庵の第十七世を継承することに決まっていたが、昭和六年四月、旅先の白浜で没した。六十五歳であった。

その少し南寄りには戦時教育の名残り「遥拝所」がある。
石段を上がると東へ向かって皇大神宮、橿原神宮、宮城、明治神宮、靖国神社などが列記されていて、南側には宮崎神宮だけが刻まれている。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/21 Sat. 10:13 [edit]

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21

東光寺と殿峰墓碑 

東光寺と殿峰墓碑

紅葉稲荷の参道に面した福仙寺の脇門に「露涼し 身は撫子の…」という俳句の一部が刻んであることは前にも書いた。
このそばの鳥居から山手へ向かって小道が登っている。
行き着く先は東光寺の墓地。
この細いのぼりもまた、趣があっていい。
だが、お寺さんの訪問はやはり表坂からからが本当だろう。

豊前田の谷を下るとそこは商店街。
四つ角の食料品店のそばに大きな門柱が建っている。
右には「浄瑠璃山」左の石柱には「禅宗 東光寺」と大書してある。
突き当たりの石段を登り右に折れてさらに登ると竜宮城の絵にも似た山門がある。
この様式は唐風というのか、あるいは中国風とでもいうのであろうか。
白く厚いどっしりとした感じがなかなか好もしい。

山門のすぐ下に古ぼけた立て札がある。
「長州藩海軍五戦士の墓碑」と書いてあって、幕末維新の足音が聞こえるような気がする。
「墓碑」というのは次のような経緯があるのだ。

文久三年五月長州藩は「五月十日をもって攘夷期限とする」という京都よりの指示に従って、関門海峡を通航する外国船を砲撃した。
その第四次光線は六月一日であったが、その日、長州藩の壬戌丸が撃たれて乗務員に八名の死傷者をだした。
そのうちの死者五名は手厚く葬られたが、それらの名前は次の通りである。
山本弥八、斉藤亀蔵、堀寅蔵、藤吉、條八、
ここには、その五名の墓が建てられていたが、昭和四十七年に、諸隊士の顕彰墓地を吉田の東行庵に建設する際、墓石と共に移転されたという。

さて、山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏、左手には大師堂があって、その扁額はかつて文化市長と評判の高かった木下友敬の揮毫である。

本堂と大師堂の間に寛政七年に奉納した地蔵尊がある。
その前を通って脇に出ると包丁塚がある。
そこから本堂裏手の墓地群に入って一つ一つ墓標を眺めて歩くのもいいだろう。
その前の小道をとんとんと下ると、先ほど歩いた紅葉稲荷の境内だが、それよりも東光寺山門のそばに立って九州の山塊や海峡を行き交う船の航跡を追ってたのしもう。

さて、東光寺の東側、ここもまた墓地がつづいている。
細江町の興禅寺の墓地である。
しかし、興禅寺なるお寺はどこにもない。
今は丸山一町の光禅寺に合流されているからだ。
南禅寺派臨済宗の光禅寺はもともと光明寺といった。
細江町に同じ光明寺があるので、丸山光明寺と呼び分けたが、興禅寺と龍興寺を同山に合して光禅寺と改めた、となかなか解りにくい。

話を興禅寺の墓地にもどそう。
ここには、明治末期の衆議院議員で下関の政財界で幾多の功績を残した松尾寅三の墓もある。
しかし、この墓地の見所は広江殿峰の墓標だろう。

殿峰は宝暦六年の生まれで絵と印章彫刻に秀でており。多くの文人墨客と交わりがあった。
例えば頼山陽、田能村竹田、原田柳庵、武元登々庵らで、ことに頼山陽は、文政元年三月に殿峰宅に杖を止めて約四十日間世話になっている。

本当の目的は九州遊歴であったが、下関の酒と魚の美味しさに魅せられてか、思わぬ長逗留となったようである。
もともと酒を飲まなかった山陽は三十八歳のこの時から味を覚え始めたという。
だから徳富蘇峰「山陽下ノ關広江殿峰の家に初めて酒徒たる洗礼を受けた」という意味のことを書き残している。

山陽はまた、よほど下関が気に入ったとみえ、九州からの帰りにまた立ち寄って殿峰宅に四十数日間も滞在している。
殿峰は文政五年に没したが、その墓碑銘と碑文は山陽の真筆を宮内省の某書記が写し取り、それを刻んだものである。

ところで、この墓碑への案内碑は細江町中通りの一角にある高さ一メートル弱の小さな石柱だが、
広江殿峯墓碑
此の上 六十米 頼山陽 選並書
ときざまれている。
この石柱は殿峯となっており、墓碑には殿峰という字が当てられている。
人間は他人のこととなると、案外あいまいなままにやり過ごしてしまうものらしい。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/20 Fri. 09:38 [edit]

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20

紅葉稲荷と福仙寺 

紅葉稲荷と福仙寺

地蔵堂の前の道をまっすぐに下れば西尾病院の前を通って豊前田通りへ出るが、地蔵堂のそばの石段を下ると、一人がやっと通れる軒下の路地で茶山通りの商店街に出る。

真向かいのベット屋と呉服屋の間の小路を登れば笹山で、勝安寺裏の大銀杏のそばをなおも登っていくと、左手は古い昔ながらの家並みが続く、そして右手は御影石の立派な石垣が美しい。
やがて峠へ出て左へ並ぶ軒下をくぐれば旧東方司だが、まっすぐに下れば豊前田の谷に出る。

谷筋のゆるやかな坂道を少し下って左手の米屋の角を折れて入ると大鳥居がある。
豊前田繁栄の守り神、紅葉稲荷神社の参道がそれで、左の小さな石段は福仙寺の山門に続く。

紅葉稲荷の玉垣に松旭斉天勝の名前が刻まれているのは、このお稲荷さんがもっと下方にあった頃、その境内の一角に稲荷座が華やかな一時期を送った名残である。

稲荷座は明治の初年から昭和初年までの約五十年間、東の弁天座と西の戎座(のち新富座となり戦後再び戎座)にはさまれながら市川八百蔵、菊五郎、左団次、歌右衛門、吉右衛門など一流の歌舞伎や松井須磨子や沢田正二郎らを招いて親しまれてきた。
しかし、三度に渡る大火によってついに身売りする羽目になり、それが後に大山劇場に変わって戦後はセントラル劇場となった。
今ではその跡地にセントラルビル、銀行、証券会社などが建っている。

豊前田通り近くにあった紅葉稲荷がこの山手に遷座されたのも、やはり三度に渡る大火が原因だった。

約五十年前までは、現在のお稲荷さんの森あたりに料亭が建っていて日夜夜毎、芸妓の笑顔や三味線の音が響いていた。
ところが三度目の大火の際に、焼け残った中村という家の屋根に稲荷大明神が立って、本殿の上方がうるさすぎる、と告げられたという。
そこで近在の住民が協議して、お稲荷さんを料亭よりも上の方、つまり現在地にお移し申し上げたところ、それ以来豊前田には火災が無くなったと、このお宮を守る浜上さんが話してくれた。

さて、ぶらたん氏、石鳥居と玉垣の刻字に見とれ過ぎたきらいがある。
天勝のそばには川棚芝居で鳴らした若島座が奉納した玉垣もあるが、石鳥居をくぐって約四十段の石段をのぼろう。
そこにも鳥居がある。
その脇に福仙寺への入り口があるが、その小さな門柱には、右側に
露涼し 身は撫子の… と彫ってある。
しかし左側の柱には下の句が無い。
よく見ると左右の石柱の大きさが違う。
だから一方が何かの事情で消え失せ、代わりの石を据えたものであろう。
この句の作者は「力」となっているが、無いとなれば何とかして下の句が知りたいと、ぶらたん氏、なかなかあきらめが悪い。

ここからまっすぐにお稲荷さんに向かうと左手に市の保存樹木に指定されている大イチョウがそびえ立っている。
そして右手の広場の片隅には、台座から高さ四メートル弱で幅約七十センチ、奥行三十センチの大きな歌碑が建っている。

一声を高く安け奈ん郭公
久も残土よ利きかしま寸ら舞

一声を高くあげなんほととぎす
雲の上より聞かしますらん

と彫ってあり、作者は為貞となっていて、裏面を見ると明治三十四年に息子さんが建てたことになっている。
為貞という人がどんな人か判らないが、ぶらたん氏はこの歌を判読する為に何度もこの境内に足を運んだ。

ここからまた石段を登ることになるが、その石段のそばにも四季の句を刻んだ碑がある。
読める字もあれば読めない字もかなり多い。
だからあきらめるというのは些か決断が早い。
読めない句碑はひっくり返してでも読んでみよう、と裏面にまわって驚いた。
「ばせを」と書いてあるから紛れもなく芭蕉の句が彫ってあるわけだ。

月代や 膝に手を置く 宵のほど ばせを

芭蕉はこの句を作るにあたって、何度も手を加えている。
「笈日記」を見ると
月代や膝に手を置く宵の宿 となっており、ほかにも、下五が「宵のうち」とか「雲の宿」となっていて、いろいろ迷った末の句であることが判る。

ところで、この句碑は一体なんだろう。
芭蕉の句碑を裏返して蕉風をくむ人たちが四季の句を刻んだものであろうか。
あるいは、何かのはずみで転倒したこの句碑をセメントで固める際に、表裏を間違えてしまったものだろうか。
いずれにしても天下の芭蕉が石垣に鼻をくっつけるようにして建っている句碑とは珍しいかもしれない。
因みに四季の句を彫っている四人は、三原紫幎、山県為静、桝田遊山、菊谷里水の四名だが、この人たちの事績を調べてみるのもまた面白いだろう。

さて、本殿へは、ここからさらに五十段ほど登らねばならない。
宝暦年間の灯篭や天保年間の手洗鉢などがあって本殿は近く屋根を葺き替えるとか。
ここには下関で最も優れた画家といわれた山中月洲の絵がある。

本殿横の朱塗りの鳥居は若宮様を祀っているもので、熱心な信者には、ここに三注の随神がおられ、赤ん坊を抱いた慈母観音の姿がはっきり見えるという。

ところでこのお稲荷さんは伏見稲荷の「わけみたま」だから日本三大稲荷の一つだと、ここにお詣りする人々は鼻が高い。

同じ境内に堀を隔てて並ぶ福仙寺は真言宗のお寺で、紅葉稲荷と同じくらいの大イチョウが本堂の前に繁っている。
大きな手入れのゆきとどいたソテツがあって、鐘楼もあるにはあるが戦時中に献納したままなのか釣鐘が無いのがいささか寂しい。

そして裏山に西国八十八箇所の霊場がある。
この辺り一帯は豊前田商店街からわずか百メートル奥まった場所とは思えないほどの静かな幽境で、まだまだ下関にはこんな聖域も残っているのかと、思わず胸を張りたくなるのである。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2018/07/19 Thu. 10:20 [edit]

category: ぶらたん

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