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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下駄ばきぶらたん あとがき 

下駄ばきぶらたん あとがき

ある日ある時、ひとは、何の理由もなく、ただ、ぶらっと歩いてみたくなることがある。
それでいて、いざ出かけてみると、ひとは、どこへというあてもないことに気づくのだ。

そんな時、汽車やバスに乗ってみるのもいいだろう。
デパートや商店街でのウィンドショッピングも楽しいに違いない、
だが、たまに趣向を変えて市場の雑踏に紛れ込んだり、城壁のように連なる石垣の狭間を散策したり、お寺の山門に佇ってみると心安まることがある。

それは他でもない。
自分たちの住んでいる最も身近な土地を歩いているというという実感と、見覚えのある辻々に思わぬ風景を見出す喜びが味わえるからだ。

もともと山歩きの好きな話は、少年の頃から暇さえあれば、氣のむくまま足の向くままに、よく歩いた。
小さな丘から眺める海峡の白い軌跡、坂道を登り降りするたびに大きく小さく変化する対岸の企救山塊、峠を越えようとした途端に目に飛び込んできた水平線上の真っ赤な夕陽、それらの一つ一つに私は驚きの声を上げながら歩いた。

だから、この書は観光案内書ではなく、私自身の散歩の手引きのようなものである。

出版社の意向としては、地図と磁石と赤鉛筆を持って自由に歩いてみることのできるオリエンテーリングのような内容を期待したようであるが、車洪水の市街地散策は山野徘徊のようなわけにはゆかない。

私は十数年前に、新聞、機関紙、雑誌などに「ひとりぶらたん」「ゆめぐりぶらたん」「かんもんぶらたん」と、一連の紀行案内らしきものを連載した。
この書もそれにあやかって「下駄ばきぶらたん」としてみたが、あくまでも、ふらっと出かけて、のんびりぶらぶら歩いてみる、といった軽い気持ちに発している。

一応、「下関駅周辺」としたものの了円寺から入江口までを範囲内とし、旧山陽の浜、細江の船溜まり、萩本藩の新地会所跡、戦時中の新幹線たる弾丸列車計画用地(桜山)などは省いた。
また、ロッキード問題に比較されるシーメンス事件の裁判を担当した内田重成中尉の碑(桜山神社内)や、豊前田町出身で神田墓地に眠る山口孤剣なども素通りすることにした。
孤剣の墓にはこう刻んである。

孤剣君、本姓は福田、実名は義三、下関が産出したる最大最初の社会主義者、熱血熱涙、能文雄弁、大正九年九月二日歿す。
年三十八、十三回忌に際してこの墓を建つ。
堺利彦 識。

ところで、この稿を綴るにあたり多くの寺院や神社を訪ね、境内の石文や墓碑銘、辞世句などについて教えを乞うたが、満足な回答はほとんど得られなかった。
住職も神官もそれらの刻字を読めないのである。
また、辞世句を彫りつけた墓の存在てへさえも知らない僧侶にも何人かお会いした。
年代を経るごとに風化していく石文の文字くらいは、それが建つ境内の主が記録してしかるべきではないか、と私は何度も思った。

それから、光明寺、三連寺、妙蓮寺、了円寺などは、幕末攘夷戦の際に諸隊の屯所や血の争いなどで知られているが、それらを記した案内板がなく、些か寂しい。
これは、城下町長府にくらべて、やや片手落ちではないか、と思わずにはいられない。

さて、八月を終わる日、赤間関書房主と岸勤氏と私、それに中学二年になる私の長男を加えて、この書のコースを歩いてみた。

伊崎の旧道にシトミ戸の他にも唐様建築を施した民家が残っていたり、海から遠い了円寺近くに海触の跡を発見したりして楽しい半日であった。
その時、岸氏は、井上靖が小説「氷壁」を連載中に、毎朝、生沢朗の挿絵を見るのが楽しみで、配達を待ちかねて急いで新聞を開いたというが、そのような絵を私も書きたいものです、と言われた。

拙い文章に汗顔しつづけの私は思わず肝を冷やしたが、学期初めのご多忙と、運動会、文化祭などの準備に追われる中で、素晴らしい絵を描いてくださった。
ちなみに同氏は、下関商業高校の教諭でモダンアート協会の会員でもある。
ここに記して感謝の意としたい。

ところどころに配した概念図はその標題に関する周辺図だが、あまり詳しくは描いていない。
それは前述の通り、出版元の意向がオリエンテーリングの形を目指していたため、少しでもそれに近づきたいと思ったからである。
東西南北も明示せず、大きな通りや鉄道だけを中心にして、起伏も曲折も無い平面的な図で、その上、誰でも知っているようなデパートやスーパーなど以外のすべての店舗の名称を省いた。
つまり、読者諸賢は極めて判りにくい不親切な案内図によって散策させられそうだが、これはほんの一例にすぎず、何もこの通りに歩いて欲しいと言っているわけでは決して無い。

そぞろ歩きの散歩に、理屈はいるまい。
ともあれ、この書を企画された藤野幸平氏の意に沿いえたかどうか一抹の不安を抱きながらの欄筆をご寛恕願いたい。

昭和五十一年 秋分の日しるす   著者


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/10 Sun. 09:40 [edit]

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10

法正院・円通寺・光東寺 

法正院・円通寺・光東寺

関西通りは「カンセイ」と読み、南部町の「ナベ」と同じく下関らしい地名である。
この通りはゆるい坂道だが下関駅方面へ少し行くと右手に「南妙法蓮華経」と書いた大きな石碑が建っていて、立派な石段の上に山門がある。
法正院だ。
ここの住職は山口県児童文化研究会を主宰しているが、そのことは大願寺の項でも述べた。

山門をくぐると正面に庫裏があるが、ここは開放されていて「ひまわり保育園」となっている。
余程、子供達を愛する心やさしいお坊さんなのだろう。

境内に「立正安国」の石碑がある。
その揮毫は「晩翠」となっているから些か気にかかるがその詮索は遠慮した。
すべて知ってしまうと、後の楽しみがなくなる。
いずれ訊ねてみようという宿題があってもいいような気がするのだ。

本堂の横にはセメントで作ったすべり台があって、その横にはもう永い間、苔むした蹲がひっくり返ったままになっている。
なんとなく生活臭さが漂っているようで面白い。

裏門はいつも閉まっていて、鐘楼の鐘はかなり新しく、保育園の子供達が境内せましと走り回っていている実に明るくのどかなお寺さんである。

法正院を出て上条の交差点を横断すると、そこはもう買い物公園グリーンモールだ。
商店と人道と公園と車道、それに街路樹をからませたこの通りは、つい先年まで東の唐戸市場に対する西の長門市場としてその雑踏が市民に親しまれたものであった。
あの狭い土地に物売りと買い物客が溢れて、常にもみ合わなければ通り抜けられぬ市場は、魚と野菜と人いきれ、それに泥やドブ、汗なども入り混じって一種独特の雰囲気を醸し出していた。
だからこのように整然とした公園ができたことに反発する人もいるというが、あまり難しいことは考えまい。
美しい街並みをそぞろ歩くのも、また楽しいものだ。

そのグリーンモール、上条からゆるい坂を下りかけた左手の石垣の中ほどに猿田彦が祀られてあり、こんなところにも庚申信仰が生きているのが嬉しい。
この猿田彦にはユッカやアジサイが植えられていて、季節ごとに開くその花は美しい。

ゆるい坂を下りきったあたりに右に山陽本線をくぐる細いガードがある。
今浦の裏通りと呼ばれているが、昔はこの小さな道が本通りであった。
時代の流れは如何ともし難い。

その通りの右手丘の上に円通寺がある。
昔は海峡を一望して素晴らしい景観が楽しめたことだろうが今では古い家並みの間や前方にビルが林立して青い空を眺めるくらいのもの。
すぐそばを山陽本線が走っていて、ひっきりなしに列車が轟音をこだまさせて通過する。

本堂の右手には朽木を扁額にした瑠璃殿があり、その横には半跏像の地蔵菩薩が祀られている。
「南無大師遍生金剛」と書いた弘法大師像はさらにその横に建てられていて、八十八ヶ所ならぬ三十三ヶ所も境内にまとめられている。
第一番は紀伊国那智で三十三番霊所は美濃国谷汲寺となっていて、それぞれの仏様が肩を寄せ合っているのは満員電車を見るようで痛ましいが、京都念佛寺の千体佛のひしめきに較べれば、まだましだろう。

庫裏の裏手には稲荷神社の祠があり、そばの林に分け入ると丘の上に墓地が並ぶ。
海峡と漁港と響灘が見渡せる。

さて、ここからはもう駅も近い。
円通寺の石段を下ってグリーンモールへ戻り、そのまま買い物公園沿いに旧邦楽座通りをぶらついてもいいし、茶山の坂を登って豊前田へ行くのも楽しいだろう。
あるいは、直接、円通寺から長門市場の雑踏に紛れ込んで魚の匂いを嗅ぎ、買い物カゴにぶっつかりながら、ニチイのそばに出るコースもある。

ここまで戻れば、もう急ぐこともあるまい。
下関駅に最も近いお寺さん、光東寺にお詣りしてみよう。
ニチイのそばから竹崎の旧道を少し入った右手の丘にある曹洞宗の寺院で山号は海潮山。
小瀬戸の流れが参道の石段を洗っていた頃に想いを馳せると、この山号もまたふさわしい。

山門から本堂まではわずか十メートル足らずで境内は狭いが、本堂や鐘楼の屋根瓦には一に三つ星の毛利家の定紋が浮き出ている。
左手の墓地には百日紅、夾竹桃、枇杷、柿、梨などの木が植えられていて八十八ヶ所の霊場が順不同で墓群れの間を縫っている。
おびただしい石佛の大半は風化して頭部が落ちたり、お顔が崩れたものも多い。
しかし、ほとんどの台座は大正年間に赤レンガとセメントで補修されているので些か救われる。
墓地の奥と鐘楼の横に旅館があり、参道脇には飲み屋などもある。
そして周囲は大きなビルがジャングルの様相を呈して、先ほどの円通寺以上に眺望がせばめられているのが何とも物悲しい。
しかし、駅前の喧騒がまるで嘘のように、この境内はいつ来ても静かで心の休まる思いがする。

時折、遠く海峡を往来する船舶の汽笛が長く尾を引いて流れる。
列車の発着を告げる下関駅のマイクロフォンの声なども、この山門に行って聞くと、何かしら淡い夢に包まれたように耳をくすぐる。
ぶらたん氏、下駄のはき心地の良さに任せて歩き疲れたのであろうか。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/09 Sat. 11:12 [edit]

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09

了円寺と高杉療養地跡 

了円寺と高杉療養地跡

国道脇の人道を歩くのはあまり楽しいものではない。
「桜山神社」の標柱のそばの書道具店とお茶屋の間に入ってみよう。
静かな小路がつづく。
かつて小瀬戸の海がこの辺りまで入り込んでいた頃、人々はこの狭い道を行き来していた。
右手は石垣の上に古い家々が並び、左手は道よりも下に家が建っていたりして旧八幡町に似た風情がある。

屋根が足元にうずくまっているような錯覚を起こしながら、のんびり歩いて行くと、横断歩道橋のそばに出ることになるが構わず右へ折れて小路を辿ることにしよう。
やがて、いやでも国道に出てしまう。
そのあたりからが了円寺坂で、その名の寺院は坂の登りかけた途中に堂々とした山門を据えて白塀と石垣の曲線が美しい。

本堂、方丈、庫裡、鐘楼とすべて揃っていて、大きなイチョウの木が二本、桜も墓地のネムノキも共に大きい。
しかし、幕末に志士たちが屯所としていた面影は何もなく、また、それを記した立て札さえもないのはやはり寂しい。
同じことは西の光明寺でもいえるが。

ところで、了円寺の明治時代の住職、丘道徹は私財を投じて、代用感化院薫育寮を二十数年間経営していたが、これは大正元年に山口市にある「山口県立育成学校」に改組移管された。
すなわち丘住職はこの方面のパイオニアという訳である。

境内を出て横手のゆるい石段のある坂を下ると、途中に「了円寺参道」と書かれた碑が雑草に埋もれていた。
ということは参道は山門をくぐらずにその左手を登っていたことになる。
そういえば、了円寺の山門は長府毛利家の勝山御殿から移したものだという話を聞いたことがある。

さて下駄ばきぶらたんも、下関駅周辺という制約があれば、この辺りから引き返すべきであろう。
了円寺坂を登ってしまうと、金比羅、武久、幡生と先は広くつい帰りそびれてしまう恐れがある。
とりあえず、厳島さんの信号まで戻って神社手前の小路を左に入ろう。

まっすぐに進むと山陽本線の狭く低いガードをくぐることになり更に左に折れて坂道を登ると左手住宅の玄関先に「高杉東行療養之地」の碑が建っていて鉄扉の中に花立が一本と晋作の詩碑がある。
高杉は短い生涯に何百という詩歌を書き、旅日記なども事細かに書き残しており、平和な時代に生きていれば文人としてその名を高めたかもしれない。

落花斜 日恨無窮 自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下 暮朝欲佛廟前紅

落花斜日恨み窮まりなし
自ら愧ず残骸晩風に泣く
怪しむをやめよ家を華表の下に移すを
暮朝廟前の紅をはらわんと欲す

この詩は慶応二年の作で「桜山七絶」と題し「時に予、家を桜山の下に移す」と副書きがしてある。
病気療養のため白石家からここに移ってきた頃の感傷だ。ちなみに華表とは鳥居のことである。

高杉はここで度重なる入牢と回天義挙などによりボロボロに痛めた体を休めながら、国を憂い、多くの死者たちのことを思って悩み苦しんだ。
そして秋から冬へかけて日に日に衰えてゆく体力を気力はどうすることも出来ず、やがて新地の林邸に移って死期を迎えることになるのです。

己惚れて 世は済ましけり 歳の暮 東行

ところで、この療養地のすぐ上に赤鳥居の「立石稲荷」があり、本当はここで静養したんだという説もかなり広く信じられている。
そういえば拝殿の前の花立に彫られた定紋は高杉家のものと類似しているし、ここからなら招魂社の森も手に取るように近い。

お稲荷さんの上の平坦地は住宅地になっているが、戦前には桜山競馬場といって草競馬ファンにとって懐かしい場所。
この住宅地の突き当たりは河野学園で、幼稚園から女子短大までの各層の賑やかな声が聞かれる。
その少し手前を右に折れると正面に神田小学校があり、前の坂道を東にくだると厳島神社の横に出ることになる。
しかし、坂を下りきったあたりから左に折れて、適当な小路を右に入り細い坂道をぐんぐん登るとやがて下りとなって山手町から関西通りへ出ることができる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/08 Fri. 09:42 [edit]

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08

厳島さんと桜山招魂社(下) 

厳島さんと桜山招魂社(下)

児童公園の石段を下って右へ行けば山陽本線のガードをくぐり高杉晋作の療養地跡に行くことができるが、もし時間があるならば、桜山招魂社を先に訪ねよう。

厳島神社参道脇の信号まで戻って国道191号線にそい西へ行くことになるが、車の多い国道を避けたければ、すぐ先のガソリンスタンドのそばを右折すればよい。
約二メートルの小道が続いて桜山小学校の前に出る。
右手は山陽本線だ、
学校と線路の間の道をしばらく行くと左手にこんもり繁った森がある。
「桜山招魂社」し書かれた石柱が建っていて、鳥居には扁額がない。
そこから長い石段が鬱蒼とした樹林に包まれて暗いたたずまいで登る。
十五段ばかり登ると大きな椎木が天をついて聳え立っている。
市の環境保全条例により「保存樹木」に指定されていることはいうまでもない。

招魂場はそこからさらに百段近くも登らねばならないが、この参道の桜並木は実に見事である。
登りきった台地の正面に拝殿があり、その前に明治天皇勅宣碑というのが建っている。

拝殿の裏手に回ってみると石の鳥居が建っていて、鉄門扉に閉じられた霊標群が祀られている。
明治維新の大事業のために散った三百七十余柱の霊を慰めるもので、中央に吉田松陰、両側に高杉晋作、久坂玄瑞という松蔭門下の双璧が並んでいる。
後列には苗字を持たない小者の名前もあるが、ここに霊標が建てられた志士はまだましだと言えるかもしれない。
小倉や越後、東北あたりで倒れたものも多く、また生死さえも判らぬまま葬れさられた人もあったことだろう。

もともとこの招魂場を作ったのは高杉晋作だが、彼は常に自分より先に死んでいった者のことを想い続けて、
おくれても おくれてもまた 君たちに
誓いしことを 吾忘れめや
とむらわる 人に入るべき 身なりしに
とむらう人と なるぞはずかし
などと歌っている。
いかに国のためだとはいえ自分の作戦や命令により死んだ者に対して、限りない愛惜の念を抱き続けて高杉は悶々とした夜を過ごしたふしがある。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されて豪放磊落な高杉というイメージの陰には、このような人情味厚い一面も隠されていた訳である。

さて、石段を下って桜山小学校に沿いながら国道に出ると信号のそばに「明治維新殉国の士を祀る桜山神社」の大標柱が建っている。
つまり桜山招魂社はここが表坂という訳である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/07 Thu. 10:24 [edit]

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07

厳島さんと桜山招魂社(上) 

厳島さんと桜山招魂社(上)

妙蓮寺の山門を出て左へ行けば大通りに出るが、そこに石の鳥居が建っている。
道路を隔てた正面は厳島神社。
石段を少し登ると右手に句碑がある。
作者名はなく建立は明治時代となっているが、その刻字は残念ながら読めない。
「草の名は」に始まって「初野菊」あるいは「晴野菊」で終わるような気がするのだが、読めなければよけいにイライラすると、ぶらたん氏の弁。

さらに石段を登ってゆくと境内の中央に大きな太鼓堂が建っている。
そばには台石も含めれば三メートル以上もある大石柱に公爵山県伊三郎の撰になる太鼓の由来文が刻まれているが、楼の中にもやさしい説明板があってこれは親切で良い。
せっかくだから読んでみよう。

ここに安置してある大太鼓は、小倉城の櫓太鼓であったものを、慶応三年、当時の奇兵隊長高杉東行晋作が藩主に謝罪せしめた折、戦利品として得たものを、当時、萩毛利忠正公の領土たりし新地浦の守護神、厳島神社に奉納せる由緒あるものであります。
この太鼓はケヤキ材のくり抜きで、直径三尺六寸、重さ九十貫もある天下の一品であります。

小倉城は戦後、鉄筋コンクリートで復元され、天守閣の最上部には大きな太鼓も据えられているが、小倉戦争から百何年も経過した今日でも小倉人にとっては小笠原藩の大太鼓が長州下関にあるという事実が我慢できないらしい。
だから時折、厳島神社の太鼓を返せ、とか、東行庵の石燈篭を返せ、などと執念深く迫ってくる訳である。

しかし長州人にとっては、はいそうですか、と素直に返せるシロモノではない。
先人が維新革命を成し遂げた際の貴重な遺産であってみれば、これは単なる戦利品ではないことがはっきりする。
北方領土の問題と同一視する訳にはゆかないのだ。

さて、拝殿の裏手は児童公園になっているが、その片隅に藤棚などがあって、そこにも小さな句碑がある。
御多分に洩れずここもまた達筆で書かれているため、なかなか読みづらい。
しかし表参道の「草の名」の句碑の仇を、この辺りで討たねばなるまい。
ぶらたん氏、紅葉稲荷の句碑と歌碑同様に、何度も足を運んでようやく判読したという。

春もやや けしきととのふ 月と梅 ばせを

驚いた。
こんなところにも芭蕉の句碑がひっそり建っていたのである。
「山口県近代文学年表」という本の巻末には県内の文学碑をことごとく拾い集めて列記してあるが、紅葉稲荷の「月代や」と、ここの「春もやや」の二つの芭蕉句碑は載っていない。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/06 Wed. 10:19 [edit]

category: ぶらたん

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