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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下駄ばきぶらたん あとがき 

下駄ばきぶらたん あとがき

ある日ある時、ひとは、何の理由もなく、ただ、ぶらっと歩いてみたくなることがある。
それでいて、いざ出かけてみると、ひとは、どこへというあてもないことに気づくのだ。

そんな時、汽車やバスに乗ってみるのもいいだろう。
デパートや商店街でのウィンドショッピングも楽しいに違いない、
だが、たまに趣向を変えて市場の雑踏に紛れ込んだり、城壁のように連なる石垣の狭間を散策したり、お寺の山門に佇ってみると心安まることがある。

それは他でもない。
自分たちの住んでいる最も身近な土地を歩いているというという実感と、見覚えのある辻々に思わぬ風景を見出す喜びが味わえるからだ。

もともと山歩きの好きな話は、少年の頃から暇さえあれば、氣のむくまま足の向くままに、よく歩いた。
小さな丘から眺める海峡の白い軌跡、坂道を登り降りするたびに大きく小さく変化する対岸の企救山塊、峠を越えようとした途端に目に飛び込んできた水平線上の真っ赤な夕陽、それらの一つ一つに私は驚きの声を上げながら歩いた。

だから、この書は観光案内書ではなく、私自身の散歩の手引きのようなものである。

出版社の意向としては、地図と磁石と赤鉛筆を持って自由に歩いてみることのできるオリエンテーリングのような内容を期待したようであるが、車洪水の市街地散策は山野徘徊のようなわけにはゆかない。

私は十数年前に、新聞、機関紙、雑誌などに「ひとりぶらたん」「ゆめぐりぶらたん」「かんもんぶらたん」と、一連の紀行案内らしきものを連載した。
この書もそれにあやかって「下駄ばきぶらたん」としてみたが、あくまでも、ふらっと出かけて、のんびりぶらぶら歩いてみる、といった軽い気持ちに発している。

一応、「下関駅周辺」としたものの了円寺から入江口までを範囲内とし、旧山陽の浜、細江の船溜まり、萩本藩の新地会所跡、戦時中の新幹線たる弾丸列車計画用地(桜山)などは省いた。
また、ロッキード問題に比較されるシーメンス事件の裁判を担当した内田重成中尉の碑(桜山神社内)や、豊前田町出身で神田墓地に眠る山口孤剣なども素通りすることにした。
孤剣の墓にはこう刻んである。

孤剣君、本姓は福田、実名は義三、下関が産出したる最大最初の社会主義者、熱血熱涙、能文雄弁、大正九年九月二日歿す。
年三十八、十三回忌に際してこの墓を建つ。
堺利彦 識。

ところで、この稿を綴るにあたり多くの寺院や神社を訪ね、境内の石文や墓碑銘、辞世句などについて教えを乞うたが、満足な回答はほとんど得られなかった。
住職も神官もそれらの刻字を読めないのである。
また、辞世句を彫りつけた墓の存在てへさえも知らない僧侶にも何人かお会いした。
年代を経るごとに風化していく石文の文字くらいは、それが建つ境内の主が記録してしかるべきではないか、と私は何度も思った。

それから、光明寺、三連寺、妙蓮寺、了円寺などは、幕末攘夷戦の際に諸隊の屯所や血の争いなどで知られているが、それらを記した案内板がなく、些か寂しい。
これは、城下町長府にくらべて、やや片手落ちではないか、と思わずにはいられない。

さて、八月を終わる日、赤間関書房主と岸勤氏と私、それに中学二年になる私の長男を加えて、この書のコースを歩いてみた。

伊崎の旧道にシトミ戸の他にも唐様建築を施した民家が残っていたり、海から遠い了円寺近くに海触の跡を発見したりして楽しい半日であった。
その時、岸氏は、井上靖が小説「氷壁」を連載中に、毎朝、生沢朗の挿絵を見るのが楽しみで、配達を待ちかねて急いで新聞を開いたというが、そのような絵を私も書きたいものです、と言われた。

拙い文章に汗顔しつづけの私は思わず肝を冷やしたが、学期初めのご多忙と、運動会、文化祭などの準備に追われる中で、素晴らしい絵を描いてくださった。
ちなみに同氏は、下関商業高校の教諭でモダンアート協会の会員でもある。
ここに記して感謝の意としたい。

ところどころに配した概念図はその標題に関する周辺図だが、あまり詳しくは描いていない。
それは前述の通り、出版元の意向がオリエンテーリングの形を目指していたため、少しでもそれに近づきたいと思ったからである。
東西南北も明示せず、大きな通りや鉄道だけを中心にして、起伏も曲折も無い平面的な図で、その上、誰でも知っているようなデパートやスーパーなど以外のすべての店舗の名称を省いた。
つまり、読者諸賢は極めて判りにくい不親切な案内図によって散策させられそうだが、これはほんの一例にすぎず、何もこの通りに歩いて欲しいと言っているわけでは決して無い。

そぞろ歩きの散歩に、理屈はいるまい。
ともあれ、この書を企画された藤野幸平氏の意に沿いえたかどうか一抹の不安を抱きながらの欄筆をご寛恕願いたい。

昭和五十一年 秋分の日しるす   著者


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/10 Sun. 09:40 [edit]

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10

法正院・円通寺・光東寺 

法正院・円通寺・光東寺

関西通りは「カンセイ」と読み、南部町の「ナベ」と同じく下関らしい地名である。
この通りはゆるい坂道だが下関駅方面へ少し行くと右手に「南妙法蓮華経」と書いた大きな石碑が建っていて、立派な石段の上に山門がある。
法正院だ。
ここの住職は山口県児童文化研究会を主宰しているが、そのことは大願寺の項でも述べた。

山門をくぐると正面に庫裏があるが、ここは開放されていて「ひまわり保育園」となっている。
余程、子供達を愛する心やさしいお坊さんなのだろう。

境内に「立正安国」の石碑がある。
その揮毫は「晩翠」となっているから些か気にかかるがその詮索は遠慮した。
すべて知ってしまうと、後の楽しみがなくなる。
いずれ訊ねてみようという宿題があってもいいような気がするのだ。

本堂の横にはセメントで作ったすべり台があって、その横にはもう永い間、苔むした蹲がひっくり返ったままになっている。
なんとなく生活臭さが漂っているようで面白い。

裏門はいつも閉まっていて、鐘楼の鐘はかなり新しく、保育園の子供達が境内せましと走り回っていている実に明るくのどかなお寺さんである。

法正院を出て上条の交差点を横断すると、そこはもう買い物公園グリーンモールだ。
商店と人道と公園と車道、それに街路樹をからませたこの通りは、つい先年まで東の唐戸市場に対する西の長門市場としてその雑踏が市民に親しまれたものであった。
あの狭い土地に物売りと買い物客が溢れて、常にもみ合わなければ通り抜けられぬ市場は、魚と野菜と人いきれ、それに泥やドブ、汗なども入り混じって一種独特の雰囲気を醸し出していた。
だからこのように整然とした公園ができたことに反発する人もいるというが、あまり難しいことは考えまい。
美しい街並みをそぞろ歩くのも、また楽しいものだ。

そのグリーンモール、上条からゆるい坂を下りかけた左手の石垣の中ほどに猿田彦が祀られてあり、こんなところにも庚申信仰が生きているのが嬉しい。
この猿田彦にはユッカやアジサイが植えられていて、季節ごとに開くその花は美しい。

ゆるい坂を下りきったあたりに右に山陽本線をくぐる細いガードがある。
今浦の裏通りと呼ばれているが、昔はこの小さな道が本通りであった。
時代の流れは如何ともし難い。

その通りの右手丘の上に円通寺がある。
昔は海峡を一望して素晴らしい景観が楽しめたことだろうが今では古い家並みの間や前方にビルが林立して青い空を眺めるくらいのもの。
すぐそばを山陽本線が走っていて、ひっきりなしに列車が轟音をこだまさせて通過する。

本堂の右手には朽木を扁額にした瑠璃殿があり、その横には半跏像の地蔵菩薩が祀られている。
「南無大師遍生金剛」と書いた弘法大師像はさらにその横に建てられていて、八十八ヶ所ならぬ三十三ヶ所も境内にまとめられている。
第一番は紀伊国那智で三十三番霊所は美濃国谷汲寺となっていて、それぞれの仏様が肩を寄せ合っているのは満員電車を見るようで痛ましいが、京都念佛寺の千体佛のひしめきに較べれば、まだましだろう。

庫裏の裏手には稲荷神社の祠があり、そばの林に分け入ると丘の上に墓地が並ぶ。
海峡と漁港と響灘が見渡せる。

さて、ここからはもう駅も近い。
円通寺の石段を下ってグリーンモールへ戻り、そのまま買い物公園沿いに旧邦楽座通りをぶらついてもいいし、茶山の坂を登って豊前田へ行くのも楽しいだろう。
あるいは、直接、円通寺から長門市場の雑踏に紛れ込んで魚の匂いを嗅ぎ、買い物カゴにぶっつかりながら、ニチイのそばに出るコースもある。

ここまで戻れば、もう急ぐこともあるまい。
下関駅に最も近いお寺さん、光東寺にお詣りしてみよう。
ニチイのそばから竹崎の旧道を少し入った右手の丘にある曹洞宗の寺院で山号は海潮山。
小瀬戸の流れが参道の石段を洗っていた頃に想いを馳せると、この山号もまたふさわしい。

山門から本堂まではわずか十メートル足らずで境内は狭いが、本堂や鐘楼の屋根瓦には一に三つ星の毛利家の定紋が浮き出ている。
左手の墓地には百日紅、夾竹桃、枇杷、柿、梨などの木が植えられていて八十八ヶ所の霊場が順不同で墓群れの間を縫っている。
おびただしい石佛の大半は風化して頭部が落ちたり、お顔が崩れたものも多い。
しかし、ほとんどの台座は大正年間に赤レンガとセメントで補修されているので些か救われる。
墓地の奥と鐘楼の横に旅館があり、参道脇には飲み屋などもある。
そして周囲は大きなビルがジャングルの様相を呈して、先ほどの円通寺以上に眺望がせばめられているのが何とも物悲しい。
しかし、駅前の喧騒がまるで嘘のように、この境内はいつ来ても静かで心の休まる思いがする。

時折、遠く海峡を往来する船舶の汽笛が長く尾を引いて流れる。
列車の発着を告げる下関駅のマイクロフォンの声なども、この山門に行って聞くと、何かしら淡い夢に包まれたように耳をくすぐる。
ぶらたん氏、下駄のはき心地の良さに任せて歩き疲れたのであろうか。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/09 Sat. 11:12 [edit]

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09

了円寺と高杉療養地跡 

了円寺と高杉療養地跡

国道脇の人道を歩くのはあまり楽しいものではない。
「桜山神社」の標柱のそばの書道具店とお茶屋の間に入ってみよう。
静かな小路がつづく。
かつて小瀬戸の海がこの辺りまで入り込んでいた頃、人々はこの狭い道を行き来していた。
右手は石垣の上に古い家々が並び、左手は道よりも下に家が建っていたりして旧八幡町に似た風情がある。

屋根が足元にうずくまっているような錯覚を起こしながら、のんびり歩いて行くと、横断歩道橋のそばに出ることになるが構わず右へ折れて小路を辿ることにしよう。
やがて、いやでも国道に出てしまう。
そのあたりからが了円寺坂で、その名の寺院は坂の登りかけた途中に堂々とした山門を据えて白塀と石垣の曲線が美しい。

本堂、方丈、庫裡、鐘楼とすべて揃っていて、大きなイチョウの木が二本、桜も墓地のネムノキも共に大きい。
しかし、幕末に志士たちが屯所としていた面影は何もなく、また、それを記した立て札さえもないのはやはり寂しい。
同じことは西の光明寺でもいえるが。

ところで、了円寺の明治時代の住職、丘道徹は私財を投じて、代用感化院薫育寮を二十数年間経営していたが、これは大正元年に山口市にある「山口県立育成学校」に改組移管された。
すなわち丘住職はこの方面のパイオニアという訳である。

境内を出て横手のゆるい石段のある坂を下ると、途中に「了円寺参道」と書かれた碑が雑草に埋もれていた。
ということは参道は山門をくぐらずにその左手を登っていたことになる。
そういえば、了円寺の山門は長府毛利家の勝山御殿から移したものだという話を聞いたことがある。

さて下駄ばきぶらたんも、下関駅周辺という制約があれば、この辺りから引き返すべきであろう。
了円寺坂を登ってしまうと、金比羅、武久、幡生と先は広くつい帰りそびれてしまう恐れがある。
とりあえず、厳島さんの信号まで戻って神社手前の小路を左に入ろう。

まっすぐに進むと山陽本線の狭く低いガードをくぐることになり更に左に折れて坂道を登ると左手住宅の玄関先に「高杉東行療養之地」の碑が建っていて鉄扉の中に花立が一本と晋作の詩碑がある。
高杉は短い生涯に何百という詩歌を書き、旅日記なども事細かに書き残しており、平和な時代に生きていれば文人としてその名を高めたかもしれない。

落花斜 日恨無窮 自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下 暮朝欲佛廟前紅

落花斜日恨み窮まりなし
自ら愧ず残骸晩風に泣く
怪しむをやめよ家を華表の下に移すを
暮朝廟前の紅をはらわんと欲す

この詩は慶応二年の作で「桜山七絶」と題し「時に予、家を桜山の下に移す」と副書きがしてある。
病気療養のため白石家からここに移ってきた頃の感傷だ。ちなみに華表とは鳥居のことである。

高杉はここで度重なる入牢と回天義挙などによりボロボロに痛めた体を休めながら、国を憂い、多くの死者たちのことを思って悩み苦しんだ。
そして秋から冬へかけて日に日に衰えてゆく体力を気力はどうすることも出来ず、やがて新地の林邸に移って死期を迎えることになるのです。

己惚れて 世は済ましけり 歳の暮 東行

ところで、この療養地のすぐ上に赤鳥居の「立石稲荷」があり、本当はここで静養したんだという説もかなり広く信じられている。
そういえば拝殿の前の花立に彫られた定紋は高杉家のものと類似しているし、ここからなら招魂社の森も手に取るように近い。

お稲荷さんの上の平坦地は住宅地になっているが、戦前には桜山競馬場といって草競馬ファンにとって懐かしい場所。
この住宅地の突き当たりは河野学園で、幼稚園から女子短大までの各層の賑やかな声が聞かれる。
その少し手前を右に折れると正面に神田小学校があり、前の坂道を東にくだると厳島神社の横に出ることになる。
しかし、坂を下りきったあたりから左に折れて、適当な小路を右に入り細い坂道をぐんぐん登るとやがて下りとなって山手町から関西通りへ出ることができる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/08 Fri. 09:42 [edit]

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08

厳島さんと桜山招魂社(下) 

厳島さんと桜山招魂社(下)

児童公園の石段を下って右へ行けば山陽本線のガードをくぐり高杉晋作の療養地跡に行くことができるが、もし時間があるならば、桜山招魂社を先に訪ねよう。

厳島神社参道脇の信号まで戻って国道191号線にそい西へ行くことになるが、車の多い国道を避けたければ、すぐ先のガソリンスタンドのそばを右折すればよい。
約二メートルの小道が続いて桜山小学校の前に出る。
右手は山陽本線だ、
学校と線路の間の道をしばらく行くと左手にこんもり繁った森がある。
「桜山招魂社」し書かれた石柱が建っていて、鳥居には扁額がない。
そこから長い石段が鬱蒼とした樹林に包まれて暗いたたずまいで登る。
十五段ばかり登ると大きな椎木が天をついて聳え立っている。
市の環境保全条例により「保存樹木」に指定されていることはいうまでもない。

招魂場はそこからさらに百段近くも登らねばならないが、この参道の桜並木は実に見事である。
登りきった台地の正面に拝殿があり、その前に明治天皇勅宣碑というのが建っている。

拝殿の裏手に回ってみると石の鳥居が建っていて、鉄門扉に閉じられた霊標群が祀られている。
明治維新の大事業のために散った三百七十余柱の霊を慰めるもので、中央に吉田松陰、両側に高杉晋作、久坂玄瑞という松蔭門下の双璧が並んでいる。
後列には苗字を持たない小者の名前もあるが、ここに霊標が建てられた志士はまだましだと言えるかもしれない。
小倉や越後、東北あたりで倒れたものも多く、また生死さえも判らぬまま葬れさられた人もあったことだろう。

もともとこの招魂場を作ったのは高杉晋作だが、彼は常に自分より先に死んでいった者のことを想い続けて、
おくれても おくれてもまた 君たちに
誓いしことを 吾忘れめや
とむらわる 人に入るべき 身なりしに
とむらう人と なるぞはずかし
などと歌っている。
いかに国のためだとはいえ自分の作戦や命令により死んだ者に対して、限りない愛惜の念を抱き続けて高杉は悶々とした夜を過ごしたふしがある。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されて豪放磊落な高杉というイメージの陰には、このような人情味厚い一面も隠されていた訳である。

さて、石段を下って桜山小学校に沿いながら国道に出ると信号のそばに「明治維新殉国の士を祀る桜山神社」の大標柱が建っている。
つまり桜山招魂社はここが表坂という訳である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/07 Thu. 10:24 [edit]

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07

厳島さんと桜山招魂社(上) 

厳島さんと桜山招魂社(上)

妙蓮寺の山門を出て左へ行けば大通りに出るが、そこに石の鳥居が建っている。
道路を隔てた正面は厳島神社。
石段を少し登ると右手に句碑がある。
作者名はなく建立は明治時代となっているが、その刻字は残念ながら読めない。
「草の名は」に始まって「初野菊」あるいは「晴野菊」で終わるような気がするのだが、読めなければよけいにイライラすると、ぶらたん氏の弁。

さらに石段を登ってゆくと境内の中央に大きな太鼓堂が建っている。
そばには台石も含めれば三メートル以上もある大石柱に公爵山県伊三郎の撰になる太鼓の由来文が刻まれているが、楼の中にもやさしい説明板があってこれは親切で良い。
せっかくだから読んでみよう。

ここに安置してある大太鼓は、小倉城の櫓太鼓であったものを、慶応三年、当時の奇兵隊長高杉東行晋作が藩主に謝罪せしめた折、戦利品として得たものを、当時、萩毛利忠正公の領土たりし新地浦の守護神、厳島神社に奉納せる由緒あるものであります。
この太鼓はケヤキ材のくり抜きで、直径三尺六寸、重さ九十貫もある天下の一品であります。

小倉城は戦後、鉄筋コンクリートで復元され、天守閣の最上部には大きな太鼓も据えられているが、小倉戦争から百何年も経過した今日でも小倉人にとっては小笠原藩の大太鼓が長州下関にあるという事実が我慢できないらしい。
だから時折、厳島神社の太鼓を返せ、とか、東行庵の石燈篭を返せ、などと執念深く迫ってくる訳である。

しかし長州人にとっては、はいそうですか、と素直に返せるシロモノではない。
先人が維新革命を成し遂げた際の貴重な遺産であってみれば、これは単なる戦利品ではないことがはっきりする。
北方領土の問題と同一視する訳にはゆかないのだ。

さて、拝殿の裏手は児童公園になっているが、その片隅に藤棚などがあって、そこにも小さな句碑がある。
御多分に洩れずここもまた達筆で書かれているため、なかなか読みづらい。
しかし表参道の「草の名」の句碑の仇を、この辺りで討たねばなるまい。
ぶらたん氏、紅葉稲荷の句碑と歌碑同様に、何度も足を運んでようやく判読したという。

春もやや けしきととのふ 月と梅 ばせを

驚いた。
こんなところにも芭蕉の句碑がひっそり建っていたのである。
「山口県近代文学年表」という本の巻末には県内の文学碑をことごとく拾い集めて列記してあるが、紅葉稲荷の「月代や」と、ここの「春もやや」の二つの芭蕉句碑は載っていない。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/06 Wed. 10:19 [edit]

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06

高杉終焉の地かいわい 

高杉終焉の地かいわい

利慶寺の前の小路は幾つもの路地に分かれていて、かつての新地遊郭の名残りも感じられるが、それを横目にしばらく西へ歩き、少し大きな通りを右折して北へ出よう。
国道191号線はすぐそこだ。
目の前に信号があったらボタンを押して国道を横断しよう。
そのまま山手に向かって小路を入る。
古い家並みの十字路の角に「左こんぴら北うら」と彫った標柱が建っている。
「左は金比羅から北浦街道へ」という意味で、この道は藩制時代の往還だったから当時のものがそのままの形で残っているわけだ。

その標柱から少し下関駅方向に戻ると左手に「小田海仙宅跡」の石柱がある。
萩毛利藩の御用絵師で、江戸、京都、大阪などで広くその名を知られた海仙は、頼山陽とも親しく分筆にも秀れていたというが、文久二年に七十八歳で世を去っている。

さて、ぶらたん氏のコースはここから再び先ほどの指導標まで戻ることになる。
だが、そのまま引き返しては面白くない。
途中の小路の奥をちょっと覗いてみよう。
そこはかつてのの新富座、戎座の跡地だが、嬉しいことに今でも「戎座」の看板だけが残っている。
そして懐かしい「新富湯」も依然として健在である。
だから、戎座の看板や新富湯の暖簾を眺めに遠くから杖をついてやってくる老人が何人かいる、という話を聞いたりすると、さもありなん、と、ついうなずきたくなろうというもの。

新地には江戸時代末期に芝居の掛小屋としての新地小屋があった。
それは明治になってから少し離れた場所に戎座と改めて開業されたがまもなくして、それは新富座となった。

「下関市の新地新開作新宅新田の新富座の障子の下にシラミが四匹、敷居の下にもシラミが四匹、尻を並べて舌出して芝居の最中に死んでいた」と唄っては、「シの字がナンボあったかあ」と当て合う他愛ない語呂遊びが流行るほど繁盛し市民に親しまれた新富座は、戦後間もなく全焼した。
その跡にできたのが明治時代の名前を引き継いだ戎座だが、これも約二十年間娯楽の灯をともし続けたものの、数年前にその営業を閉じた。
しかし、幕末の新地小屋から脈々と続いた「シントミ」と「エビス」の二つの名前は、裏町の弁天座、細江の稲荷座と共に下関市民の郷愁をそそるものがある。

先ほどの指導標の前にあるボーリング場は下関のボーリング熱の草分けで、その後、市内には十幾つのボーリング場が乱立した。
その大きな建物の裏には「高杉晋作終焉の地」と書かれた大標柱が建っている。
周囲に玉垣を巡らし鉄扉が閉じられているが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。

文久三年六月奇兵隊結成のために下関に出てきた高杉東行は、若い命の燃焼のままに藩を動かし国を揺さぶり、そして国を救う大活躍をしたが、無理がたたって結核を患って倒れた。
「白石正一郎日記」によれば慶応二年七月、小倉戦争の指揮中に病気を訴えた、とある。
高杉はその後も門司に渡って野営をしたり陣頭に立って指揮をとったが、過労は病状を悪化させ、ついには起き上がれぬ体になってしまった。
小倉攻めの作戦会議は高杉の枕辺に集まって開かれたりした。

そのうち小倉城が燃え落ちるとその方面の参謀職を前原一誠に譲って、桜山の奇兵隊営所とは名ばかりのあばら家へ移った。
そこで秋から厳しい冬へかけて、高杉は療養の身を横たえ、翌三年の正月すぎに新地の酒造家、林算九郎の屋敷に移ってきた。
そして四月十四日、満二十七歳と何ヶ月かの短い生涯をここで終えたのであった。

その終焉の地を隔てて建つ山門は中島名左衛門ゆかりの妙蓮寺である。
山門の二階には太鼓が奉納されていて、正面に方丈と庫裏、右手に本堂があり、親鸞上人像と茶筅塚もある。

中島名左衛門は幕末の洋式砲術家で、もともと長崎の出身だが長州藩に招かれて砲術指南役をつとめていた人物。
文久三年五月、軍議の席上で長州藩の海岸防備の不足を力説したが、庚申丸の艦長らは長州海軍を過信していたために論議は物別れとなり、その夜、新地の藤屋という旅館で何者とも知れぬ三人の刺客によって殺された。
遺体はこの妙蓮寺に葬られ、その墓も本堂の裏手に建てられているが、簡単に参拝できないのが残念だ。
いつでもお詣りできるように本堂の前あたりに移すことはできないものか、と、ぶらたん氏、ここを訪れるたびに嘆く。

ところで、妙蓮寺がなぜこの小路に面して建っているか、ということはつまり国道を背にしているということになるのだが、それは先にも書いたようにここが江戸時代の往還であったからだ。
すなわち現在の国道は了円寺あたりまで海が入り込んでいて人々は伊崎へ行くには渡し舟によるか、あるいは了円寺坂のたもとを巻いていかねばならなかった。
その後、埋め立てにより新地開作が出来上がると、今の新地の中心地あたりに橋が作られた。
それがあの懐かしい思案橋で、別名を永代橋とも呼んでいたという。

今では流行歌などにより思案橋といえば長崎と相場が決まっているが、「行こか戻ろか思案橋」の歌は下関が元祖だと胸を張る老人などもいて、この付近は実に楽しい。
稲荷町、豊前田、新地とつづく歓楽の名残りは、時折このような形でひょいと顔をだすこともある訳だ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/05 Tue. 10:00 [edit]

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05

三蓮寺・海晏時・利慶寺 

三蓮寺・海晏時・利慶寺

蔀戸は平安時代の貴族建築の一種で、寝殿造りの「跳ね上げ式の建具」である。
一般住宅としては引き違い戸ができる安土桃山時代頃までに造られたが、江戸時代に入ってからは神社仏閣以外では使われなくなったといわれている。
その蔀戸は戦前には市内のあちこちで何軒か残っていたが、今ではここ伊崎と彦島福浦の一軒くらいのものだろう。

時代の流れと共に玄関や引き戸が次々とアルミサッシに変えられていく昨今、その風潮を拒否して蔀戸が生き続けているということは何よりも嬉しい。

三連寺は文久三年五月の攘夷決行に際して。萩本藩から下関入りした正規兵たちの一部の宿舎にあてられたお寺である。
しかし、本堂は最近、鉄筋造りに改装されて当時の面影はない。
その本堂の横から裏手へかけては墓地になっているが「権中僧正随空上人の碑」とか、「諸魚諸餌供養塚」が建っている。
裏面には嘉永五年とあるが横には安政四年十一月となっていて、この意味は判らない。

供養塚には鯛の絵が浮き彫りされてある。
「諸魚」はここが漁師町である関係からで、「諸餌」は人間にとってのあらゆる食べ物という意味であろうか、それとも魚を釣るための単なるエサであろうか。
いずれにしても供養塚は宗教的な匂いの他に、日本人らしいやさしさが感じられて心なごむ。

下関の河豚供養は俳句歳時記にも収録されていて全国的にも名高いが、その他にも雲丹供養もあれば包丁供養もあり、長門市には鯨の墓まである。
なんというあたたかさであろう。

三連寺の少し東よりの石鳥居は伊崎の鈴ヶ森さんと呼び親しまれている鈴ヶ森稲荷神社。
約九十段登ってあとの四十段は男坂といい右へそれて登る坂道は女坂という。
しかし、この男坂を登った正面の社殿は厳島神社である。
だから本当は伊崎の厳島さんと呼ぶべきところだが、新地にも同じ呼び名の神社があるので隣り合わせのお稲荷さんの名前をとって鈴ヶ森さんと呼びならしてきたのだ。

このお宮の裏山は、おどろ山とか茶臼山と名付けられた王城山で、平家の砦、つまり、お城があった丘陵だと伝えられる。
だから厳島神社は安芸の宮島と同じく平家の守護神だと古老たちは言う。

ところで鈴ヶ森という名は幡随院長兵衛と白井権八を思い出しそうだが、ここでは関門海峡の別名「硯の海」がなまったものとか、「鈴ふり海」が転じたものだとか、その伝えられるところは多い。
そんな古くからの話を聞くだけでも石段を喘いだ甲斐はあろうていうもの。
そして、もっと詳しく知りたいとお思いなら「下関二千年史」や「長門国志」「下関御開作風土記」などを繙けばいい。

くだりはお稲荷さんの朱塗りの鳥居をくぐろう。
石段を降りたところの駐車場を左に折れてしばらく行くと海晏寺の参道下に出る。

山門のそばに「禁不葷酒」と書いてあるが、現在では「ネギを食べて」どころではなく、境内にニンニクを植えたり酒場を経営したりしても誰もとがめはしないに違いない。
これもご時世か、と言っても禅宗のお寺には「禁葷酒入山門」と大きく刻んだ石柱はふさわしい。
そのそばに「小笠原流 盛花 瓶花教授」の看板がさがっているが、ここのお花教室の歴史は古い。
昔から多くのお嬢さんが花束を提げてこの山門をくぐっては花嫁修行に勤しんだ。

石段を登ると正面が本堂。
その屋根瓦や「海晏寺」と書かれた扁額、そしてふすま絵などに毛利家の定紋が描かれたり浮き出ていたりする。
殿様の厚い庇護を受けていたのだろう。
そういえばここの仏様は平家の守護仏だと伝えられている。
下関市内では彦島西楽寺の阿弥陀様が平重盛の守護仏だといわれているので双璧ということができようか。
その本堂には達磨大師の軸や驚くほどデカイ木魚などもあって、外に出ると墓地の前に豊川稲荷が祀られている。
神仏合体がここでも生きているわけだ。
そして、そばに聳え立つ大イチョウは当然のことながら下関市の保存樹木に指定されている。

鐘楼は、参道を登った右手にある。
その奥に建っている顕彰碑は約二百年前に詩や俳句や茶道の世界に広く名を知られ、寺子屋を開いて庶民教育にも力をつくした鈴木由己を讃えるものである。
この碑文は長府藩の儒学者、小田亨叔が書いたが、それは由己と亨叔の学問的なつながりを示すものとして貴重な資料となっている。
由己は寛政七年に八十七歳で歿し、亨叔は寛政十三年に五十五歳で入寂。

さて、海晏寺の参道を下って左の小路へ入ろう。
子供達の歌声などが聞こえて浄土真宗本願寺派の利慶寺が近い。
本当は「リケイジ」と読むのだが、市内の古い人々の中には「リキエイジ」と呼ぶ人も多い。
東の赤間神宮の古刹「阿弥陀寺」を「アミダイジ」と呼ぶのに似て、利慶寺の呼び方も懐かしいものの一つに数えられるべきだろう。

子供達の明るいはしゃぎや歌声は境内の一角に建てられた慈光保育園で、その右に本堂と庫裏が並んでいる。
山門は本堂の真正面にあるが、狭い境内に下関市の保存樹木に指定されている大イチョウが繁っているためか、いつ来てもイメージはなんとなく暗い。
それを救ってくれるのは園児たちの底抜けな明るさだろう。
お寺と保育園…和尚さんと子供達…
それは、実に日本的な情景で心がなごむ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/04 Mon. 09:28 [edit]

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04

竹崎の渡し場と伊崎(下) 

竹崎の渡し場と伊崎(下)

だから先ほどの報済園あたりまで引き返してみよう。
その少し竹崎よりの空き地には石灯籠などなどが幾つも雑然と置かれていて阿弥陀寺町、神宮司町、外濱町などと彫った御影石が放置されている。
ここは赤間神宮の先帝祭における御旅所で、かつては網掛けの松とよばれる名松があったが、今はない。

御旅所は、源平合戦の翌日、ここに住む中島という漁師たちが安徳幼帝を網で引き上げたという伝説によって設けられたものだ。
その隣は観音堂と呼び名だけが残っているが、ここにも観音堂の松という枝振りの美しい松があったという。

その少し東側の小路を 山手に折れて入ると、そこからは往時の伊崎の本通り、約二メートルの狭い路地をはさんで古い家並みがどこまでも続く。
その突き当たりの白塀は天台宗の古寺、雲海院で、地元の人々にはゼンカイさんとか、デンカイさんなどと呼ばれ親しまれている。

雲海院の東側の急坂は文洋中学や無線中継所の丘へと続くが、今は伊崎の漁師町を味わった方が楽しい。
たとえば、ここには格子戸の家や、ベンガラ色の出格子の家、狐格子などが建ち並び、たこつぼや船の櫓などが玄関先にころがっていたりするのだ。

しばらくそのような町並みを楽しみながら歩いていると蛭子神社がある。
「急傾斜地崩壊危険区域」と書かれた看板が立っているが、これは竹崎町や丸山町などと共に伊崎町の特色で、この付近一帯、至る所に危険区域の標識が見られる。
何年か前の大豪雨でも、かなり広い範囲の崖が崩れて、多くの犠牲者を出した。

この辺り、時折磯の匂いが漂ってきて、軒先からは焼き魚の煙も鼻をついてくる。
珍しく共同水道が残っていて、玄関の表札のそばには「英霊の家」とか「水道専用」などの札も貼られたままであるところもなんとなく懐かしい。
こんなところが伊崎散策の良さでもあろうか。

しばらく行くとこの通りにはふさわしくない六階建ての大きなビルがあり、その角から山手に大きな岩と赤い鳥居や社が見える。
登ってみよう。
真下からの直登はかなり古い石段に頼ることになるが、登りきったところは文洋中学へ通ずる車道だ。
そこに建つ赤鳥居は福徳稲荷で海峡の眺めは実に素晴らしい。

福徳稲荷の足元の岩陰にも「正一位鈴ヶ森」と書かれた祠がある。
ここへは、岩にくっつくようにして家が建てられているため、蟹の横這いですり抜けるようにしなければ詣ることもできない。

もう一度、伊崎の町筋に下るには、先ほどの石段を戻ってもいいし、車道を鼻歌でも唄いながらのんびり歩いてもいい。
下りきった少し東側には三蓮寺がある。
そして、よく注意して歩けば、珍しい蔀戸を見つけ出すこともできる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/02 Sat. 09:26 [edit]

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02

竹崎の渡し場と伊崎(上) 

竹崎の渡し場と伊崎(上)

白石正一郎宅跡の少し向こうに信号がある。
国道を横切ってガソリンスタンドと日冷の冷蔵庫との間を海風に誘われて出ると下関漁港のはずれに桟橋がある。
彦島海士郷と六連島へ通う渡船の発着場だ。
かっては西細江、岬之町、唐戸、竹崎、黄紺川、本村、江の浦、弟子待、田の首、竹の子島など、港町らしくあちこちにあった渡し場は、次々に姿を消して今ではここと唐戸だけになってしまった。

彦島渡船は江戸時代からという永い歴史を持っていて明治時代には二丁櫓、三丁櫓による和船で五厘船とも呼ばれていた。
下関側の渡し場は現在のニチイのそば、長泉寺の山門の下や、伊崎の鈴ヶ森神社の石段下など何度か変わり、戦時中に今の場所に落ち着いた。

そして、個人経営から村営、町営、市営と変遷を重ねるたびに和船は汽船となり、船の大きさも二十トン、二十五トン、三十トンと形を変えたが、最近は市が手放したために私営渡船に逆戻りしている。
但し、同じ浮き桟橋を使う六連島渡船は依然として市営である。

この二つの渡船は下関漁港を彩る詩情をほうふつとさせ、NHKテレビも「小瀬戸昨今」と題して広く紹介したこともあった。

小瀬戸海峡は桟橋の右手前方にS字状に広がる静かな海で、かつては濁流さかまく急潮の瀬戸であった。
漁港や大和町の造成により往時の潮の流れは偲ぶべくもないが、ここから右岸に沿ってのびる伊崎の町には、古き良き時代の風情がそこここに残っている。

桟橋近くの県漁連冷蔵庫の横を海岸線に沿って西へ行こう。
鐵工所や造船所などが並びやがて行く手に彦島大橋が見え始める。
橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルでコンクリート橋としては世界第一の橋だ。

海を隔てた対岸に大きな岩が突き出ているが、これが伝説で知られる「きぬかけ岩」で平家の哀史を秘めている。「身投げ岩」とも呼ばれ、苔むした地蔵尊などが祀られており、この近郊では珍しい六面地蔵もある。

さて、こちらは伊崎。
突き当たりは小門造船で行き止まりとなる。
右手の丘の上には門柱に報済園と書かれてあるが、この屋敷と造船所の間を入ると月見稲荷が静かな佇まいをみせている。
ここの藤棚は開花期には訪れる人も多く、文化五年の鳥居や寛政年間に奉納された灯篭などがこの稲荷神社の歴史を物語ってくれる。

かつて小瀬戸海峡には、カタクチイワシが多く泳ぎ、これは「小門鰯」と呼ばれて下関の名物であったが、これを獲る漁法に「小門の夜炊き」が有名だった。
全国的にも岐阜長良川の鵜飼とともに広く知られていたという。
瀬戸の流れが月見稲荷の玉垣を洗っていた頃、この境内で盃を傾けながら眺めた夜炊きは、そざ壮観であっただろう。
しかし今は、造船所の塀に遮られて海は見えず、薄暗い境内は月見のイメージさえも打ち消してしまう。
造船所の機械音と油の匂いは実に不粋だ。

月見稲荷の奥は低い丘陵地帯に立ち並ぶ民家と、海岸沿いの工場群だけで何も見るべきものはない。
強いて言えば、根嶽岬の突端に架かる彦島大橋の威容と、そこから望む響灘の海の碧さや北九州工業地帯の煙突の林立くらいなものだろう。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/11/01 Fri. 10:04 [edit]

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01

駅西口と白石正一郎宅跡 

駅西口と白石正一郎宅跡

都市は東から西へ開かれてゆく…
と何かの本に書いてあった。
下関もまた例外ではない。

豊浦の宮が置かれた長府は別にして、藩制時代から明治へかけての市の中心は唐戸であったし、鉄道の開通は山陽の浜を埋め立ててできた一帯、入江、細江、豊前田方面にその賑わいを移した。
更に海底トンネル開通による駅の移転は、竹崎、彦島間の急潮を堰き止め、沖の洲という岩礁の列を埋め立てた造成地を基盤に拓かれた大和町、東大和町一帯に商工業の町を作り、商港、漁港の二つの国際港を東西において、今ではここが下関の玄関。
市の中心は時代と共に随分西に移行したわけだ。

さて、下関駅は東西二つの入口を持っている。
新しい民衆駅はともかくとして、一般に駅というものは線路を背にした形で駅舎が建てられているものだ。
高架線を抱いた駅でもほとんどが一方だけ乗降口を持っていて片側の町へ行くには駅内の細い通路か遠く駅を離れてガードをくぐらなければならないようだ。
先隣の小倉駅でさえ、ついこの間までは北口から南口へ抜けるために人々は入場券を買ったものである。

東口と西口が同じ規模であり、そして広大なコンコースによって結ばれている下関駅は戦時中に建てられたとは思えない重厚さがある。
そして、旅慣れた人なら、改札、出札、待合室などを一目見て大阪駅の構内に似ていると思うに違いない。
それもそのはず、大阪駅は下関駅を模して建てられたからだ。
この際、両駅の規模を比較することはやめよう。
人口比だけでもまったくお話にならないから。

下関駅の西口に立ってみると東口ほどの広々とした景観はない。
だが、正面には昔ながらの国鉄下関工事局がある。
西日本全域をその管轄下に置いて、建設省第四港湾や日本銀行などと共にかつての下関の地位を誇示する数少ない名残りである。

工事局の右は大洋漁業下関支社でで、左のビルは下関大丸。
このデパートはやがて東口の超大ビル「シーモール」に移ることになっているという。

ところで、駅西口の真正面を走る車の流れは彦島に至る幹線道路で、左右には映画館や貿易会館、水産会館などが並び立っている。

かつて東洋一を誇った下関国際漁港はこれらのビルの西側にあって、魚市場を含めた延々と続く上屋の長さは約二キロ、これは圧巻だ。
しかし、近年、入り船がめっきり少なくなって往時の面影はない。

大洋漁業の北側には国道が走っていて、その真向かいにあるスーパーニチイへは日食西口前の地下道をくぐって行くのがいい。
この地下道には横幅二十五メートルのある大きなタイル画がはめ込まれている。
それも下関という土地にふさわしい源平合戦図だから旅行者にもかなり人気があるそうな。

地下道を出てニチイの前を少し行きすぎると、中国電力営業所の前に「白石正一郎宅跡」の石柱と「高杉晋作・奇兵隊結成の地」と刻まれた記念碑がある。
石柱はもともとこの裏通りに建っていたもので、だから本当は裏側が藩制時代の往来であったことがわかる。

当然白石家の表門もそちらを向いていたわけで、現在、石柱や碑が建っているあたりから国道一帯は小瀬戸の急流が洗う海であった。
かつてここに建っていた白石家の浜門は多くの勤皇の志士たちの密かな出入りに使われたが、維新後は調布松小田に移されて今も健在である。

白石正一郎は廻船問屋の主人で、この近郊きっての豪商だが、商人には珍しく鈴木重胤に国学を学び、尊王攘夷論の実践者となった人。
文久三年にはこの屋敷で高杉晋作が奇兵隊を結成し、青年晋作と親子ほども違う正一郎との人間的な結びつきはこの日から始まった。
そして白石家には実に四百人もの志士たちが世話になっているが、晋作も愛人おうのと共に何度も匿ってもらい結局は死水までとってもらうことになった。
正一郎の晩年は案外知られていないが、赤間神宮の初代宮司である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房

Posted on 2019/10/31 Thu. 09:42 [edit]

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