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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

平 知盛の墓 

平 知盛の墓


赤間神宮の七盛塚の中に、宗盛や二位尼とともに、知盛の塚があることは、よく知られていますが、別の地にもあります。
場所は門司区で、関門国道トンネル車道出口から、すぐ右に折れると、間もなく右に甲宗八幡宮があります。

平知盛の墓は、この神社の社務所裏にあります。

以前は、神社裏山のもっと高い場所にあったそうですが、昭和28年の大水害で山が崩れ落ち、現在地になったと、神職のかたが教えてくれました。

この地に知盛の墓があることは、昭和55年に下関市民会館で行われた「海峡シンポジウム」で、北九州市歴史博物館の有川学芸員(当時)が、紹介され、知ることとなりました。

平知盛は、彦島を本陣として源氏を迎え撃つ手はずでしたが、武運つたなく壇之浦で、イカリを背負って最期を遂げた、とされています。

壇之浦合戦の前、彦島に城を構えていた、との説もありますが、海峡を見渡せる場所などで、いずれの地かは、さだかではありません。
由緒らしきものは、後年、清盛を弔って建てられたと伝えられる「清盛塚」が、江の浦町三丁目の山中にあるのみです。

赤間神宮下の海辺には、「碇知盛」の能や歌舞伎の説明板とともに、大きなイカリが据え付けてあり、その存在の偉大さを、今なお物語っています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/21 Thu. 11:20 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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最古級の六連島灯台 

海峡の安全を守る

最古級の六連島灯台

六連島灯台は、お雇い外国人灯台技師R.H.ブラントンが、明治元年、日本に着任して間もなく、関門海峡の西に六連島灯台の必要を進言し、明治3年10月29日に起工、翌4年11月28日に完成しています。

六連島灯台の点灯は、明治4年8月の伊王島灯台、11月の佐多岬灯台に次ぎ、西日本では三番目のことです。

明治5年6月12日、19歳の明治天皇が、西郷隆盛の先導で行幸しています。
わざわざ六連島灯台へ行幸、というのは、当時、最先端の灯台であったことを物語っています。
灯台近くには、行幸記念の碑も建っています。

このとき、明治天皇の宿泊所となったのが、春帆楼下にあった伊藤家で、お世話したのが白石正一郎でした。
西郷隆盛は、安政4年11月12日、白石正一郎邸を訪れており、すでに顔見知りであったことからと思われます。

関門海峡の東には、部崎灯台が明治5年1月22日に点灯しています。

いずれも、国内最古級で、関東地方の灯台が関東大震災で破壊したことから、原型をとどめる洋式灯台として貴重な存在で、それぞれ下関市、北九州市の指定文化財となっています。

灯台は、15秒に一回、あるいは10秒に一回などの閃光の間隔がそれぞれ違っています。
船舶はその閃光間隔によって、どの場所の灯台かを確認できるようになっています。

関門海峡から北に約50キロ、角島灯台は全国でも有数の大型灯台で、その姿も美しく、明治9年3月1日に初点灯し、現在も、当時設置された巨大なレンズがつけられています。

これらの灯台や浮標・信号所などは、下関市彦島塩浜町二丁目の第七管区海上保安本部の関門航路標識事務所・関門浮標基地が管理し、敷地内には灯台の貴重な資料を保管する灯台資料館があります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/20 Wed. 11:02 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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大和町の誕生 

大和町の誕生

竹崎町と彦島の間は、大正年代に埋め立て事業が始まり、一応の完成をみたのは昭和19年で、大和町が誕生しました。

町の名前は、大正から昭和にかけて埋め立てが行われたことから、大正の「大」と昭和の「和」をとり「大和町」と名づけられました。
この地域は、昭和12年から始まった下関漁港第二期、同23年から起工した第三期修築工事による埋め立てが行われ、昭和22年に第一突堤、同34年に第二突堤が完成し、外国貿易港として整備されました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/19 Tue. 10:12 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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最古級の六連島灯台 

海峡の安全を守る

最古級の六連島灯台

六連島灯台は、お雇い外国人灯台技師R.H.ブラントンが、明治元年、日本に着任して間もなく、関門海峡の西に六連島灯台の必要を進言し、明治3年10月29日に起工、翌4年11月28日に完成しています。

六連島灯台の点灯は、明治4年8月の伊王島灯台、11月の佐多岬灯台に次ぎ、西日本では三番目のことです。

明治5年6月12日、19歳の明治天皇が、西郷隆盛の先導で行幸しています。
わざわざ六連島灯台へ行幸、というのは、当時、最先端の灯台であったことを物語っています。
灯台近くには、行幸記念の碑も建っています。

このとき、明治天皇の宿泊所となったのが、春帆楼下にあった伊藤家で、お世話したのが白石正一郎でした。
西郷隆盛は、安政4年11月12日、白石正一郎邸を訪れており、すでに顔見知りであったことからと思われます。

関門海峡の東には、部崎灯台が明治5年1月22日に点灯しています。

いずれも、国内最古級で、関東地方の灯台が関東大震災で破壊したことから、原型をとどめる洋式灯台として貴重な存在で、それぞれ下関市、北九州市の指定文化財となっています。

灯台は、15秒に一回、あるいは10秒に一回などの閃光の間隔がそれぞれ違っています。
船舶はその閃光間隔によって、どの場所の灯台かを確認できるようになっています。

関門海峡から北に約50キロ、角島灯台は全国でも有数の大型灯台で、その姿も美しく、明治9年3月1日に初点灯し、現在も、当時設置された巨大なレンズがつけられています。

これらの灯台や浮標・信号所などは、下関市彦島塩浜町二丁目の第七管区海上保安本部の関門航路標識事務所・関門浮標基地が管理し、敷地内には灯台の貴重な資料を保管する灯台資料館があります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/18 Mon. 10:51 [edit]

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18

強制水先案内区域 

海峡の安全を守る

強制水先案内区域

全国の重要な港湾のうち、水先案内人(パイロット)の操船する区域が30箇所あり、関門海峡もその一つです。
関門海峡は、航路が狭いうえに、潮流の変化が大きく、さらに航路が「S」の字形になっているため、難所であり、強制水先案内区域となっています。

そのため、外国船は300トン以上、国内船は1000トン以上の船舶は、必ず水先案内人による操船が、強制されている地域なのです。

水先案内人は、海峡の西から入港する船は六連島、東から入港する船は部崎の沖から船に乗り込みます。
乗り込む時は、停止している船ではなく、動いている船にパイロット船から、縄梯子を伝って乗船のため、大変な危険をともなうものです。

晴雨、風の強弱、昼夜にかかわらず、通航、入港する船の操船は、大変な仕事ということができます。

明治時代から、この制度はありましたが、最初のころは操船能力が日本人にはなく、通航船舶も外国船が多かったことから、外国人を雇っていたのが実情でした。
そして外国人は、六連島に居住していました。

六連島は「アルコール漬けウニ」の発祥の地として、よく知られていますが、これも、水先案内人をする外国人が持ち込んだ、ウィスキーが発想の原点になったものです。

(300トン以上、1000トン以上の規定は、平成14年中に改定される見込みです。)


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/17 Sun. 10:21 [edit]

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17

海峡のタコ壷漁 

海峡の自然

海峡のタコ壷漁

関門海峡のタコは、やわらかく、とくにおいしいといわれています。
それは、流れの速い潮で育っているからでしょうか。

海峡でタコ壷漁をする、安岡漁協のみなさんにお聞きした話です。

漁船一隻が、700個のタコ壷を海峡に沈めての漁です。
漁の方法は、長い綱に、3、4メートル毎にタコ壷を取り付け、次々に海峡に沈め、二日に一回引き上げます。
700個のうち、百二三十個にタコが入っているとのことで、確率は約二割です。

沈めた綱にはウキは付いていません。
それは、一日に行き交う船舶が700隻もある海峡では、ウキにぶつかることになるからでしょう。
では、沈めた綱の位置をどうして確認し、引き上げるのでしょうか。
タコの好漁場には10隻もの漁船が集中し、他の船が沈めた綱が、10メートルほどに近接していることもあるものの、決して他の船の綱を間違って引き上げることは許されません。

位置の確認は、「山たて」という方法です。
海上では常に行われるもので、例えば、前方に見える山の山頂と、工場のエントツを結ぶ延長線と、自分の船を結び、右に見える島の端と、山の松の木を結ぶ延長線で自分を結ぶ、その位置がポイントになります。

タコ壷漁でのポイントは、綱の先端から二個目の壷のところを引き上げることにあります。
引き上げるにはスマルという道具を沈め、引っ掛けて上げます。

他の船の綱を引き上げることが無いようにするには、正確な位置の確認が、技量として求められるのです。

スマルという道具は、金属製で、釣り針の形をした大きなものを3、4本結んで束にしたものです。
古くは家庭の井戸で、あやまって井戸に落としたツルベを引き上げるために使った道具でもあります。
引き上げ作業を始めると、綱をゆるめることなく一気に引き上げなければなりません。
少しでもゆるめると、そのときに、タコが壷から逃げ出すため、700個ものタコ壷は、船上の巻上げ機で一気に引き上げられます。

タコはきれい好きで、なめらかな肌の壷に入るそうです。

安岡漁協の岸壁では、小春日和の中に何千個ものタコ壷を並べ、金属のヘラで一つずつ、壷の内部についたカキガラなどを、丹念にけずり落とす作業風景が見られます。
早春の二月、イカ柴漁の開始まで、タコ壷漁は続きます。

おいしいタコをいただくとき、タコ壷漁を思い出してはいかがでしょうか。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/16 Sat. 10:16 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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海峡の水深 

海峡の自然

海峡の水深

関門海峡の水深は、以外に浅く約13メートルです。
関門海峡には、航行する船舶の妨げにならないように常に浚渫作業船の姿が、どこかで見られます。

浚渫作業は、第四港湾建設局が行っているもので、潮流が速く、船舶の往来が激しいことから、一日の作業は四時間以内、平日の潮の流れが4ノット以下の時に行われます。
13メートルの水深で、3万トンクラスの船舶が航行できるそうです。
13メートルは、関門橋のけた下から海面までの高さが61メートルですから、その四分の一にも及びません。

昭和20年に終結した第二次世界大戦では、関門海峡に5500発(日本全土11000発の半数)の機雷が投下され、沈没した船は約400隻を数え、船のマストが海峡に林立していたそうです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/15 Fri. 09:59 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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海峡で釣る 

海峡の自然

海峡で釣る

関門海峡は、急潮のため魚の宝庫です。
なかでもスズキは、全国でも屈指の好漁場でしたが、最近の海峡浚渫や埋め立てによって、釣果も以前ほどではなくなったのが現実のようです。
海峡の漁人は、夜明け前の海峡に船を出します。

キダラ(手のひらの掌紋)がぼんやり見えるころの、「朝マズメ」「朝マジメ」の時がもっとも良いとされ、夕方の「夕マズメ」「夕マジメ」の時が次によい時、といわれています。

しかしながら、海峡には四度び潮の流れが変り、急潮があります。
現在のように船外機を装備していない、手こぎ船の時代は大変な苦労がありました。

手こぎでは、急潮に逆らって上ることができません。
そのため、潮が穏やかな時間帯に早鞆瀬戸を通り抜け、釣り場の近くで仮眠をし、「朝マズメ」の時を待たなければならなかったのです。

その当時壇之浦の子供たちは、小学生になると手伝いで船に乗って漁に出かけ、漁を終えて学校に行ったそうです。
しかし、潮の流れが急で帰れないときは、長府の海岸へ船をつけて上陸、路面電車に乗って帰宅し、学校へ急いだということです。

また、太平洋戦争で、全国に落とされた機雷の数は、11000発。
その内、二分の一が関門海峡に落とされたため、数百隻の船が沈没し、数年間航行出来ませんでしたが、それが幸して、海峡では豊漁が長年続いたそうです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/14 Thu. 10:35 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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14

東流れと西流れ 

海峡の自然

東流れと西流れ

関門海峡の潮流は、一日に四度び流れの向きを変え、東流、西流します。
東流は、東の方向、瀬戸内海へと向かって流れる潮で、西流はその逆、西へ向かって流れる潮のひとをいいます。

潮の干満の関係は、東流は干潮へ向かい「カミジオ」、西流は満潮への潮で「シモジオ」とも呼ばれます。

昭和55年に、電光潮流信号灯ができ、潮流の速さと潮の向きが容易にわかるようになり、船の安全航行ができるようになりました。
「E」の表示が東流れ、「W」の表示が西流れ、「9」の表示のときは、9ノットの潮流を示しています。
13ノットまでの表示が可能で、これまでの最速潮流は、12ノットだったそうです。

ところが、この流れも月の引力の関係で、ほぼ一日近く東流れだけになる現象が起こりました、
平成3年10月17日以来9年振りの日が、同12年3月29日で、午前9時ごろから30日の午前2時までの約17時間、流速の変化はあるものの東流が続きました。
これは地球に対する月と太陽の位置が直角になり、月の引力の作用が弱まるために起こったものとされています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/13 Wed. 09:59 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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ヒヨドリの渡り 

海峡の自然

ヒヨドリの渡り

司馬遼太郎の「街道をゆく」に、関門海峡が登場します。
「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む」と記しています。

この急潮の場所が、寿永4年3月24日、源氏と平家の最後の合戦が行われた「壇之浦」で、一日に四度び流れを変える潮を読んだ源義経が勝利し、御年八歳の幼帝「安徳天皇」を擁する平家は、滅亡の場所となったのです。

急潮が巴の渦を巻くところから「早鞆の瀬戸」と名づけられた最狭部の距離は、わずかに670メートル。
司馬遼太郎の描いた自然の風景です。

この関門海峡を取り巻く自然のいとなみのなかに、感動するものがいくつかありますが、その一つ「ヒヨドリの渡り」を紹介しましょう。

秋、この海峡を北から南、本州から九州へ、そして春になると、南から北へと帰るヒヨドリの数万羽が演じる壮大な自然のドラマです。

9月の半ばから10月にかけて、北海道から南下してくるヒヨドリは、対岸に九州を望む渡海の地、下関市彦島の最南端に全てが集結します。

この地に至るには、決まったルートがあり、拙宅の上空もその最終日のコースで、出勤時におよそ百羽ほどの群れが、ピーヨピーヨと鳴きながら、薄い布を広げたり、細めたり波形を描きながら、次々と飛び行く多くの群れが毎朝見られ、秋の到来を告げる海峡の風物詩となっています。

年によってその群れ数には差異があり、少ない年は自然の異変に心を痛め、多い年にはその繁栄に安らぎを覚えることになります。

ともあれ、遠路を南下して来たヒヨドリは、危険な海峡を無事に渡って、暖かい九州の地へたどり着かなくてはなりません。

疲れた羽を休める暇もなく、晴天の、八時から九時にかけて、天敵ハヤブサを襲来をうかがうことから、渡りの序章が始まります。

およそ百羽のヒヨドリは、椎などの繁る森からピーヨピーヨと鳴きながら飛び立ち、幾つかの群れが集合、合体し、大きな群れをつくり、その数は、みるみるうちに千羽にもなります。
それは大きな集合体となって、小さな体を大きな一つの物体に見せる知恵なのでしょうか。

海峡の対岸、南方約3キロに見える北九州市小倉北区を目指すのですが、決行するまでには、森から飛び立ったかと思うと、森へと帰る行動を三度、四度と繰り返します。

それは、森に潜むハヤブサの襲来の有無を、うかがっての所作であろうと思われます。

決行するかのように勢い良く飛び立ったのち、上空で旋回するハヤブサの勇姿にあわてて引き返す群れもしばしば見られ、一日のうちには、運悪く、群れの一羽を失うこともあります。

ようやくにして九州を目指して飛翔を決行した群れは、海上に出ると海面に突っ込むかのように、急降下で高度を下げ、海面すれすれを龍の行くかのように、群れの波形を右に左にと大きく揺らしながら、ときにはひとかたまりの球形となったりして進みます。

海上を渡るときに見せるこうした奇異な所作は、追撃して来たハヤブサが、ヒヨドリの群れを目指し急降下すると、勢い余ってそのまま海中に突入し、没することからの安全策だといわれています。

しばらくの間、渡る群れに目を凝らしていると、視界から消えようとする間際、九州の海岸近くから急上昇し、その姿は視界から完全に消えてゆきます。

10月半ばの最盛期には、一日に約一万羽のヒヨドリが九州へと渡りますが、その飛翔の姿をながめていると、無事に渡ってくれることを祈らずにはいられません。
ヒヨドリの繰り広げる、感動のひとときなのです。

春、九州から本州へと帰って来るヒヨドリのルートは、彦島から約10キロ東の北九州市門司区の東端、部崎灯台の地が渡りの地で、南下と北上の地は違っていますが、その理由は、解明されていません。

何日間もかけて、本州北部から飛来する距離からすると、ほんのわずかな距離の関門海峡ですが、危険は最大の海峡なのであろうと思うと、渡りきったヒヨドリの群れに拍手を送りたくなります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/12 Tue. 10:41 [edit]

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下関とクジラの歴史4 

下関とクジラの歴史4

クジラのまち・下関、再来へ

平成13年4月1日に開館した、しものせき水族館「海響館」には、世界で数体しかない、シロナガスクジラの骨格標本が展示されています。
もちろん、日本で唯一の展示です。
同年11月には、南氷洋への調査捕鯨船団が、下関港から連続四回目の出港をし、その基地となっています。

そして、平成14年4月24日から一ヶ月、国際捕鯨委員会の第54回年次会議が下関市で開催されます。
この会議がクジラへ対する理解を、いっそう深めることになることを祈っています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/11 Mon. 11:24 [edit]

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下関とクジラの歴史3 

下関とクジラの歴史3

南氷洋への捕鯨基地へ

中部幾次郎は、大正7年、土佐捕鯨を買収し、捕鯨業に第一歩を踏み出します。
土佐捕鯨には、福志満丸という捕鯨船と、日本一の砲手・志野徳助がいました。
初めての南氷洋捕鯨は、昭和11年に出港。
頼りにした人、志野徳助が南氷洋到着前に急死したものの、シロナガスクジラ807頭、ナガス279頭など捕獲し大成功をおさめ、翌年の4月23日に下関へ帰港。
全船満艦飾の八隻の捕鯨船は、捕獲の成績順に入港したそうです。

しかし、慣れぬ南極海のこと、次の年には、大惨事が待っていました。
気象の急変に気がつかず、三隻の捕鯨船が氷の海に閉じ込められ、動けなくなったのです。
船長以下50人は、船を放棄し、氷の割れ目に転落を防ぐため、一人一人竹竿をもち、氷原を十時間も歩き、やっとの思いで救出されたそうです。

やがて、戦争が激しくなると、捕鯨母船や捕鯨船も戦争のために使われ、そのほとんどが壊滅してしまいました。

戦後は食糧難救済のため、国策の一環として、昭和21年から捕鯨が本格的に再開されました。
急造の船団は、軍艦を改造して母船とし、小笠原島周辺へ向け、下関港から、軍艦マーチ・進軍ラッパに送られて、勇ましく出港しています。

戦後のクジラは、当分の間、政府によって買い上げられ、他の魚とともに統制食料品で、配給によって庶民の手に届いたそうで、名古屋から東では、これを機に食習慣になったといわれています。

大洋漁業は、昭和24年に本社を下関から、東京に移しますが、捕鯨船40余隻を建造した林兼造船、鯨肉を食品に加工した林兼産業、さらに製氷会社など、関連会社の多くを操業させ、下関市発展の一翼をいなっていました。

昭和40年代のことですが、下関でのクジラの消費量は、鯨肉1000トン、ハム・ソーセージなどに4500トンが使われ、安価で蛋白質が豊富なことから、学校給食にも盛んに活用されていました。

また、下関には、昭和33年開店した大洋漁業直営のクジラ専門レストラン「日新」があり、献立は刺身など23品目と、クジラ和会席、クジラの洋食フルコースがあり、年間13万人の客が訪れました。
岡本幸一調理長は、フルコースのできる全国でただ一人のひとでした。

しかし、探鯨機搭載による捕獲率の向上、捕鯨オリンピックと称し各国が南氷洋で覇を競い、日本も昭和34年に第一位となり、最盛期には七船団が出漁、こうした結果は、同60年、商業捕鯨の一時停止を招くことになりました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/10 Sun. 15:53 [edit]

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下関とクジラの歴史2 

下関とクジラの歴史2

大陸などへ販売を拡張

明治も後半になると、捕鯨の方法も銛や網を使う方法から、近代的な砲を使った「ノルウェー式捕鯨」へと進展し、捕鯨頭数も飛躍的に増加します。

日和山に顕彰碑のある、岡十郎と山田桃作によって、明治32年、日本遠洋漁業が創立されると、その出張所が下関に置かれました。
すると、西村宗四郎は、岬之町に、「西宗商店」を創立し、鯨油・鯨肉などの一手販売を行い、北海道から九州・朝鮮・満州・台湾を販路とし、その規模は関西随一を誇りました。

このころ、国内はもとより、満州や台湾を販路とし、海上運輸、木材・食品と多方面にわたって、流通業を営んでいたのが、南部町に建物が現存する「秋田商会」です。
その規模は、三井・三菱に負けるなを合言葉とし、機密保持と経費節約から、社内専用の「電信暗号帳」までありました。

クジラに関し、電文を紹介しますと、「鯨頼む」は、「クユ タム」となり、7字が4字で節約できるうえ、電文の意味は、全く不明ということになります。

明治時代は、クジラの流通基地・下関でしたが、明治末の37年、兵庫県明石から下関へ本拠を移し、林兼商店を創業した中部幾次郎によって、クジラとの関わりは、さらに大きくなっていきます。
ちなみに「林兼」の語源は、中部幾次郎の祖父・兼松が、屋号を林屋といっていたことによるものです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/09 Sat. 09:47 [edit]

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下関とクジラの歴史1 

下関とクジラの歴史1

平成14年4月24日から一ヶ月、下関市で国際捕鯨委員会(IWC)が開催されます。
これを機に、下関とクジラの歴史をひもとき、その大要を紹介しましょう。

古代から親しまれたクジラ

下関市考古博物館に、クジラの骨を利用してできた「アワビオコシ」が、展示されています。
出土したのは、吉母浜遺跡からです。
このことから、弥生時代からすでに、私たちの祖先は、クジラを食用にしたり、骨を生活の道具にしたりしていたことがわかります。

壇之浦での源平合戦においては、クジラの一種イルカが、勝敗を占う手段とされています。
イルカが、平家軍の下を潜り抜けると敗者となり、向きを変えて戻ると勝者となる、と占いが出ました。
結果は、潜り抜けて、平家は敗者となりました。

クジラは、体の全てが利用できることから、「クジラ一頭で七浦潤す」といわれ、貴重なものでした。
永禄11年、下関市の北端、吉母と室津の境界にクジラが流れ着き、その領有をめぐって、両者が相譲らず、争いが起こっているほどです。

江戸時代になると、積極的にクジラを捕る捕鯨業が、さかんに行われるようになり、萩藩、長府藩も捕鯨を奨励援助し、見返りに税を課して収入を得るようになります。
捕れたクジラは、売り捌くことによって、税を払うことができました。
このとき、下関の問屋は、港町という地の利を生かし、長門仙崎や長崎県の生月から鯨油・鯨肉・鯨骨などを仕入れ、薩摩や大阪、東北へと売り捌く流通センターの役割を果たすようになります。
この傾向は、明治・大正・昭和時代と続き、商業都市下関の、クジラとの関わりの大きな柱でした。

では、クジラは、庶民生活にどのようにかかわってきたのでしょうか。

蓋井島に、七年毎に行われる「山ノ神神事」があることは、よく知られていますが、この祭りの「大まかない」という神事の、買い物控帳に、おばいけ、クジラ油が記されています。
また、今から約140年前、下関で奇兵隊を創設した高杉晋作に、物心両面から支援した白石正一郎の日記には、妻の実家へ尾羽毛を贈ったことが記され、鯨肉は大切な食品であり、贈答品とされていたことがわかります。

鯨油は、灯火用やローソクの原料に使われましたが、稲作の害虫ウンカ駆除のため、水田に散布され、農薬の役目を果たしていました。
また鯨骨や内臓は、肥料として大いに利用されて、捨てるところなく利用されていました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/08 Fri. 11:23 [edit]

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シルクロードから伝来した“ローマ” 

シルクロードから伝来した“ローマ”


フクの本場、南風泊市場が活気づく冬。
海峡に舞う粉雪をながめながら、熱燗で“フクにて一酌”の贅沢はいかがでしょう。

最高のフクといえば、トラフクの生きもの、特に、腹ビレの白い“白イキ”であることはよく知られていますが、フクはえ縄船が、これを一尾でも多く、南風泊市場に持ち帰る方法として、意外に知られていない秘策があります。

その秘策とは、フクのお腹の膨らませぐあいを調整することにあります。

微妙に調整する道具は「フキ」という、長さ40センチの火箸のような金属です。
直径1センチほどで、手元から尖った先端まで管になっていて、先端には小さな三つの穴が並んでいます。

フクはえ縄船には“フキの名人”がいて。.、釣り上げたフクの口から、フキをお腹まで入れ、大きく膨らんだお腹の空気を微妙に吸い取り、膨らみ加減を調整するのです。

では、なぜその調整が必要なのでしょうか。
フクは、お腹の膨らみぐあいで、生簀の中を泳ぐ層、つまり水深が違うからです。

満杯にお腹を膨らませたフクは、生簀の最上部、八分目に膨らんだフクは、やや深い層、五分目は中ほどの層、スリムなお腹のものは、最も深い底の辺りを泳ぐことになり、ぶつかることもなく、快適に、効率的に泳ぐことができます。

これは生きたフクを大切に持ち帰るための、秘策なのです。

さて、フクの賞味にはいろいろあり、関東がフク刺しを好み、関西がフクチリを好んでいることも、承知のことですが、フクチリを彩るのが、白菜やネギ、そしてシュンギクです。

下関を含め北浦一帯では、このシュンギクを“ローマ”と呼んでいました。

数年前のこと、そのローマのことで、テレビ取材の相談を受けました。
それも、黒柳徹子さんで有名な「世界ふしぎ発見」のスタッフからです。
「ローマは、シルクロードを経て伝来したもので、山口県の西部、下関地方に限って呼ばれている。そのローマを歌い込んだ“数え歌”があると聞く。その数え歌を歌える人を探して欲しい」
とのことです。

早速、方々へ尋ねると、シュンギクのことをローマと確かにいっていた、という人は多くいめねのの、ローマを織り込んだ数え歌となると「知らない」の一言で、電話は切れてしまいます。

下関市連合婦人会発刊の「ふるさとのうた」には、数え歌が幾つか収録され、その中に、
「いちじく にんじん さんしょに しいたけ ごんぼう ろーま なすびに はったけ くわい とうがん」
と、確かに記述はありますが、さて火と探しです。

一度はあきらめたものの、数日後、再びスタッフから「ぜひ、もう一度探索してほしい」とのことです。

そして二日後、おばあちゃんが、電話のむこうで思い出しながら歌ってくださったのです。
もちろん、ロケに訪れたスタッフ一同も、喜びの笑顔のうちに収録することができました。

78歳になるおばあちゃんは、10歳のころ、学校から帰ると妹を背負っての子守が仕事で、近くの子どもと、手まりをつきながら歌っていたとのことです。
他にも手まり歌や、手あそび歌を披露してくださいました。

この取材には、意外にももう一つの発見がありました。
おばあちゃんのご主人、浜口二郎さんの登場です。

昭和11年発刊の「安岡町経済更正計画書」に、
「ローマは羅馬の国から渡来した意味であろう…」
の記述を発見。
シュンギクは、安岡町横野で古くから栽培され、明治18年ころ、門出又吉という人が、大葉の改良に成功しています。
その後、大正・昭和になって、日本全国へと広まり、栽培されるようになったのです。

また、昭和10年、安岡町では、約60万束が販売され、6000円の売り上げがあったことも記されています。

テレビ取材から、ローマの栽培が、遠くイタリアのローマからシルクロード・中国を伝来、下関の横野で始まったこと、そして、ローマと呼ぶ地域が、下関地方に限られている理由の大発見ともなったのです。

フクチリを賞味されるひととき、シュンギクが、シルクロードを渡って来たことを思いめぐらすと、フクの味、ヒレ酒の味も、また格別のものとなることでしょう。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2017/12/07 Thu. 09:34 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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