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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

平 知盛の墓 

平 知盛の墓


赤間神宮の七盛塚の中に、宗盛や二位尼とともに、知盛の塚があることは、よく知られていますが、別の地にもあります。
場所は門司区で、関門国道トンネル車道出口から、すぐ右に折れると、間もなく右に甲宗八幡宮があります。

平知盛の墓は、この神社の社務所裏にあります。

以前は、神社裏山のもっと高い場所にあったそうですが、昭和28年の大水害で山が崩れ落ち、現在地になったと、神職のかたが教えてくれました。

この地に知盛の墓があることは、昭和55年に下関市民会館で行われた「海峡シンポジウム」で、北九州市歴史博物館の有川学芸員(当時)が、紹介され、知ることとなりました。

平知盛は、彦島を本陣として源氏を迎え撃つ手はずでしたが、武運つたなく壇之浦で、イカリを背負って最期を遂げた、とされています。

壇之浦合戦の前、彦島に城を構えていた、との説もありますが、海峡を見渡せる場所などで、いずれの地かは、さだかではありません。
由緒らしきものは、後年、清盛を弔って建てられたと伝えられる「清盛塚」が、江の浦町三丁目の山中にあるのみです。

赤間神宮下の海辺には、「碇知盛」の能や歌舞伎の説明板とともに、大きなイカリが据え付けてあり、その存在の偉大さを、今なお物語っています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/26 Tue. 10:40 [edit]

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最古級の六連島灯台 

海峡の安全を守る

最古級の六連島灯台

六連島灯台は、お雇い外国人灯台技師R.H.ブラントンが、明治元年、日本に着任して間もなく、関門海峡の西に六連島灯台の必要を進言し、明治3年10月29日に起工、翌4年11月28日に完成しています。

六連島灯台の点灯は、明治4年8月の伊王島灯台、11月の佐多岬灯台に次ぎ、西日本では三番目のことです。

明治5年6月12日、19歳の明治天皇が、西郷隆盛の先導で行幸しています。
わざわざ六連島灯台へ行幸、というのは、当時、最先端の灯台であったことを物語っています。
灯台近くには、行幸記念の碑も建っています。

このとき、明治天皇の宿泊所となったのが、春帆楼下にあった伊藤家で、お世話したのが白石正一郎でした。
西郷隆盛は、安政4年11月12日、白石正一郎邸を訪れており、すでに顔見知りであったことからと思われます。

関門海峡の東には、部崎灯台が明治5年1月22日に点灯しています。

いずれも、国内最古級で、関東地方の灯台が関東大震災で破壊したことから、原型をとどめる洋式灯台として貴重な存在で、それぞれ下関市、北九州市の指定文化財となっています。

灯台は、15秒に一回、あるいは10秒に一回などの閃光の間隔がそれぞれ違っています。
船舶はその閃光間隔によって、どの場所の灯台かを確認できるようになっています。

関門海峡から北に約50キロ、角島灯台は全国でも有数の大型灯台で、その姿も美しく、明治9年3月1日に初点灯し、現在も、当時設置された巨大なレンズがつけられています。

これらの灯台や浮標・信号所などは、下関市彦島塩浜町二丁目の第七管区海上保安本部の関門航路標識事務所・関門浮標基地が管理し、敷地内には灯台の貴重な資料を保管する灯台資料館があります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/25 Mon. 10:02 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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大和町の誕生 

大和町の誕生

竹崎町と彦島の間は、大正年代に埋め立て事業が始まり、一応の完成をみたのは昭和19年で、大和町が誕生しました。

町の名前は、大正から昭和にかけて埋め立てが行われたことから、大正の「大」と昭和の「和」をとり「大和町」と名づけられました。
この地域は、昭和12年から始まった下関漁港第二期、同23年から起工した第三期修築工事による埋め立てが行われ、昭和22年に第一突堤、同34年に第二突堤が完成し、外国貿易港として整備されました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/24 Sun. 10:46 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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最古級の六連島灯台 

海峡の安全を守る

最古級の六連島灯台

六連島灯台は、お雇い外国人灯台技師R.H.ブラントンが、明治元年、日本に着任して間もなく、関門海峡の西に六連島灯台の必要を進言し、明治3年10月29日に起工、翌4年11月28日に完成しています。

六連島灯台の点灯は、明治4年8月の伊王島灯台、11月の佐多岬灯台に次ぎ、西日本では三番目のことです。

明治5年6月12日、19歳の明治天皇が、西郷隆盛の先導で行幸しています。
わざわざ六連島灯台へ行幸、というのは、当時、最先端の灯台であったことを物語っています。
灯台近くには、行幸記念の碑も建っています。

このとき、明治天皇の宿泊所となったのが、春帆楼下にあった伊藤家で、お世話したのが白石正一郎でした。
西郷隆盛は、安政4年11月12日、白石正一郎邸を訪れており、すでに顔見知りであったことからと思われます。

関門海峡の東には、部崎灯台が明治5年1月22日に点灯しています。

いずれも、国内最古級で、関東地方の灯台が関東大震災で破壊したことから、原型をとどめる洋式灯台として貴重な存在で、それぞれ下関市、北九州市の指定文化財となっています。

灯台は、15秒に一回、あるいは10秒に一回などの閃光の間隔がそれぞれ違っています。
船舶はその閃光間隔によって、どの場所の灯台かを確認できるようになっています。

関門海峡から北に約50キロ、角島灯台は全国でも有数の大型灯台で、その姿も美しく、明治9年3月1日に初点灯し、現在も、当時設置された巨大なレンズがつけられています。

これらの灯台や浮標・信号所などは、下関市彦島塩浜町二丁目の第七管区海上保安本部の関門航路標識事務所・関門浮標基地が管理し、敷地内には灯台の貴重な資料を保管する灯台資料館があります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/23 Sat. 09:40 [edit]

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強制水先案内区域 

海峡の安全を守る

強制水先案内区域

全国の重要な港湾のうち、水先案内人(パイロット)の操船する区域が30箇所あり、関門海峡もその一つです。
関門海峡は、航路が狭いうえに、潮流の変化が大きく、さらに航路が「S」の字形になっているため、難所であり、強制水先案内区域となっています。

そのため、外国船は300トン以上、国内船は1000トン以上の船舶は、必ず水先案内人による操船が、強制されている地域なのです。

水先案内人は、海峡の西から入港する船は六連島、東から入港する船は部崎の沖から船に乗り込みます。
乗り込む時は、停止している船ではなく、動いている船にパイロット船から、縄梯子を伝って乗船のため、大変な危険をともなうものです。

晴雨、風の強弱、昼夜にかかわらず、通航、入港する船の操船は、大変な仕事ということができます。

明治時代から、この制度はありましたが、最初のころは操船能力が日本人にはなく、通航船舶も外国船が多かったことから、外国人を雇っていたのが実情でした。
そして外国人は、六連島に居住していました。

六連島は「アルコール漬けウニ」の発祥の地として、よく知られていますが、これも、水先案内人をする外国人が持ち込んだ、ウィスキーが発想の原点になったものです。

(300トン以上、1000トン以上の規定は、平成14年中に改定される見込みです。)


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/22 Fri. 10:12 [edit]

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海峡のタコ壷漁 

海峡の自然

海峡のタコ壷漁

関門海峡のタコは、やわらかく、とくにおいしいといわれています。
それは、流れの速い潮で育っているからでしょうか。

海峡でタコ壷漁をする、安岡漁協のみなさんにお聞きした話です。

漁船一隻が、700個のタコ壷を海峡に沈めての漁です。
漁の方法は、長い綱に、3、4メートル毎にタコ壷を取り付け、次々に海峡に沈め、二日に一回引き上げます。
700個のうち、百二三十個にタコが入っているとのことで、確率は約二割です。

沈めた綱にはウキは付いていません。
それは、一日に行き交う船舶が700隻もある海峡では、ウキにぶつかることになるからでしょう。
では、沈めた綱の位置をどうして確認し、引き上げるのでしょうか。
タコの好漁場には10隻もの漁船が集中し、他の船が沈めた綱が、10メートルほどに近接していることもあるものの、決して他の船の綱を間違って引き上げることは許されません。

位置の確認は、「山たて」という方法です。
海上では常に行われるもので、例えば、前方に見える山の山頂と、工場のエントツを結ぶ延長線と、自分の船を結び、右に見える島の端と、山の松の木を結ぶ延長線で自分を結ぶ、その位置がポイントになります。

タコ壷漁でのポイントは、綱の先端から二個目の壷のところを引き上げることにあります。
引き上げるにはスマルという道具を沈め、引っ掛けて上げます。

他の船の綱を引き上げることが無いようにするには、正確な位置の確認が、技量として求められるのです。

スマルという道具は、金属製で、釣り針の形をした大きなものを3、4本結んで束にしたものです。
古くは家庭の井戸で、あやまって井戸に落としたツルベを引き上げるために使った道具でもあります。
引き上げ作業を始めると、綱をゆるめることなく一気に引き上げなければなりません。
少しでもゆるめると、そのときに、タコが壷から逃げ出すため、700個ものタコ壷は、船上の巻上げ機で一気に引き上げられます。

タコはきれい好きで、なめらかな肌の壷に入るそうです。

安岡漁協の岸壁では、小春日和の中に何千個ものタコ壷を並べ、金属のヘラで一つずつ、壷の内部についたカキガラなどを、丹念にけずり落とす作業風景が見られます。
早春の二月、イカ柴漁の開始まで、タコ壷漁は続きます。

おいしいタコをいただくとき、タコ壷漁を思い出してはいかがでしょうか。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/21 Thu. 09:42 [edit]

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海峡の水深 

海峡の自然

海峡の水深

関門海峡の水深は、以外に浅く約13メートルです。
関門海峡には、航行する船舶の妨げにならないように常に浚渫作業船の姿が、どこかで見られます。

浚渫作業は、第四港湾建設局が行っているもので、潮流が速く、船舶の往来が激しいことから、一日の作業は四時間以内、平日の潮の流れが4ノット以下の時に行われます。
13メートルの水深で、3万トンクラスの船舶が航行できるそうです。
13メートルは、関門橋のけた下から海面までの高さが61メートルですから、その四分の一にも及びません。

昭和20年に終結した第二次世界大戦では、関門海峡に5500発(日本全土11000発の半数)の機雷が投下され、沈没した船は約400隻を数え、船のマストが海峡に林立していたそうです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/20 Wed. 09:43 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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海峡で釣る 

海峡の自然

海峡で釣る

関門海峡は、急潮のため魚の宝庫です。
なかでもスズキは、全国でも屈指の好漁場でしたが、最近の海峡浚渫や埋め立てによって、釣果も以前ほどではなくなったのが現実のようです。
海峡の漁人は、夜明け前の海峡に船を出します。

キダラ(手のひらの掌紋)がぼんやり見えるころの、「朝マズメ」「朝マジメ」の時がもっとも良いとされ、夕方の「夕マズメ」「夕マジメ」の時が次によい時、といわれています。

しかしながら、海峡には四度び潮の流れが変り、急潮があります。
現在のように船外機を装備していない、手こぎ船の時代は大変な苦労がありました。

手こぎでは、急潮に逆らって上ることができません。
そのため、潮が穏やかな時間帯に早鞆瀬戸を通り抜け、釣り場の近くで仮眠をし、「朝マズメ」の時を待たなければならなかったのです。

その当時壇之浦の子供たちは、小学生になると手伝いで船に乗って漁に出かけ、漁を終えて学校に行ったそうです。
しかし、潮の流れが急で帰れないときは、長府の海岸へ船をつけて上陸、路面電車に乗って帰宅し、学校へ急いだということです。

また、太平洋戦争で、全国に落とされた機雷の数は、11000発。
その内、二分の一が関門海峡に落とされたため、数百隻の船が沈没し、数年間航行出来ませんでしたが、それが幸して、海峡では豊漁が長年続いたそうです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/19 Tue. 10:30 [edit]

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19

東流れと西流れ 

海峡の自然

東流れと西流れ

関門海峡の潮流は、一日に四度び流れの向きを変え、東流、西流します。
東流は、東の方向、瀬戸内海へと向かって流れる潮で、西流はその逆、西へ向かって流れる潮のひとをいいます。

潮の干満の関係は、東流は干潮へ向かい「カミジオ」、西流は満潮への潮で「シモジオ」とも呼ばれます。

昭和55年に、電光潮流信号灯ができ、潮流の速さと潮の向きが容易にわかるようになり、船の安全航行ができるようになりました。
「E」の表示が東流れ、「W」の表示が西流れ、「9」の表示のときは、9ノットの潮流を示しています。
13ノットまでの表示が可能で、これまでの最速潮流は、12ノットだったそうです。

ところが、この流れも月の引力の関係で、ほぼ一日近く東流れだけになる現象が起こりました、
平成3年10月17日以来9年振りの日が、同12年3月29日で、午前9時ごろから30日の午前2時までの約17時間、流速の変化はあるものの東流が続きました。
これは地球に対する月と太陽の位置が直角になり、月の引力の作用が弱まるために起こったものとされています。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/18 Mon. 10:59 [edit]

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ヒヨドリの渡り 

海峡の自然

ヒヨドリの渡り

司馬遼太郎の「街道をゆく」に、関門海峡が登場します。
「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む」と記しています。

この急潮の場所が、寿永4年3月24日、源氏と平家の最後の合戦が行われた「壇之浦」で、一日に四度び流れを変える潮を読んだ源義経が勝利し、御年八歳の幼帝「安徳天皇」を擁する平家は、滅亡の場所となったのです。

急潮が巴の渦を巻くところから「早鞆の瀬戸」と名づけられた最狭部の距離は、わずかに670メートル。
司馬遼太郎の描いた自然の風景です。

この関門海峡を取り巻く自然のいとなみのなかに、感動するものがいくつかありますが、その一つ「ヒヨドリの渡り」を紹介しましょう。

秋、この海峡を北から南、本州から九州へ、そして春になると、南から北へと帰るヒヨドリの数万羽が演じる壮大な自然のドラマです。

9月の半ばから10月にかけて、北海道から南下してくるヒヨドリは、対岸に九州を望む渡海の地、下関市彦島の最南端に全てが集結します。

この地に至るには、決まったルートがあり、拙宅の上空もその最終日のコースで、出勤時におよそ百羽ほどの群れが、ピーヨピーヨと鳴きながら、薄い布を広げたり、細めたり波形を描きながら、次々と飛び行く多くの群れが毎朝見られ、秋の到来を告げる海峡の風物詩となっています。

年によってその群れ数には差異があり、少ない年は自然の異変に心を痛め、多い年にはその繁栄に安らぎを覚えることになります。

ともあれ、遠路を南下して来たヒヨドリは、危険な海峡を無事に渡って、暖かい九州の地へたどり着かなくてはなりません。

疲れた羽を休める暇もなく、晴天の、八時から九時にかけて、天敵ハヤブサを襲来をうかがうことから、渡りの序章が始まります。

およそ百羽のヒヨドリは、椎などの繁る森からピーヨピーヨと鳴きながら飛び立ち、幾つかの群れが集合、合体し、大きな群れをつくり、その数は、みるみるうちに千羽にもなります。
それは大きな集合体となって、小さな体を大きな一つの物体に見せる知恵なのでしょうか。

海峡の対岸、南方約3キロに見える北九州市小倉北区を目指すのですが、決行するまでには、森から飛び立ったかと思うと、森へと帰る行動を三度、四度と繰り返します。

それは、森に潜むハヤブサの襲来の有無を、うかがっての所作であろうと思われます。

決行するかのように勢い良く飛び立ったのち、上空で旋回するハヤブサの勇姿にあわてて引き返す群れもしばしば見られ、一日のうちには、運悪く、群れの一羽を失うこともあります。

ようやくにして九州を目指して飛翔を決行した群れは、海上に出ると海面に突っ込むかのように、急降下で高度を下げ、海面すれすれを龍の行くかのように、群れの波形を右に左にと大きく揺らしながら、ときにはひとかたまりの球形となったりして進みます。

海上を渡るときに見せるこうした奇異な所作は、追撃して来たハヤブサが、ヒヨドリの群れを目指し急降下すると、勢い余ってそのまま海中に突入し、没することからの安全策だといわれています。

しばらくの間、渡る群れに目を凝らしていると、視界から消えようとする間際、九州の海岸近くから急上昇し、その姿は視界から完全に消えてゆきます。

10月半ばの最盛期には、一日に約一万羽のヒヨドリが九州へと渡りますが、その飛翔の姿をながめていると、無事に渡ってくれることを祈らずにはいられません。
ヒヨドリの繰り広げる、感動のひとときなのです。

春、九州から本州へと帰って来るヒヨドリのルートは、彦島から約10キロ東の北九州市門司区の東端、部崎灯台の地が渡りの地で、南下と北上の地は違っていますが、その理由は、解明されていません。

何日間もかけて、本州北部から飛来する距離からすると、ほんのわずかな距離の関門海峡ですが、危険は最大の海峡なのであろうと思うと、渡りきったヒヨドリの群れに拍手を送りたくなります。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より

Posted on 2019/11/17 Sun. 11:33 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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