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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

漁業者の団体組織と漁業発達の影響5 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響5


次に彦島の水産業についてでございますが、詳しく申し述べますと相当時間を要します。
今日は限られた時間でありますので、漁業団体の一部について申し上げます。

下関漁港の修築以前は小瀬戸の潮流が激しかったので、おおくの漁船は潮流に逆らって艪や櫂を操ることが容易ではありませんでした。
それがために海士郷の漁師は、沖から漁獲したものを積んで港に帰ります際には、その逆流を押し切るためにネタイユの鼻まで出かけまして、山の麓から引網を海に投げ、船に結びつけて岩礁を伝って船を曳きつつ帰ったのであります。

今日ではこのような難所は全く除かれ、そのうえ発動式漁船に改造して漁場との往復時間を縮小するほか、操業時間も多くなり災害防止にも努めておりますので、漁撈能率も非常に上がりまして漁獲物も倍加してきたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/30 Wed. 11:37 [edit]

category: ひこしま発展誌

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漁業者の団体組織と漁業発達の影響4 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響4

そして港湾施設の建設が進むにつれまして、今度は幡生駅を起点とする関門鉄道トンネルが、埋立地を経て門司に通じることに相成ったのであります。
このため、駅舎及び付随する各種の施設、おおくの官庁・会社・工場または商店等がこの埋立地に蝟集いたしまして、現在のような立錐の余地もない繁華な地になったのであります。

こうした偉観を遂げた大和町の施設は、大正・昭和の両年代にまたがりまして完成しましたので大正の「大」と昭和の「和」を採りまして「大和町」と名付けたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/30 Wed. 11:28 [edit]

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漁業者の団体組織と漁業発達の影響3 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響3


明治大帝が往時下関市に御逗留の節には、下関の漁師安井作治郎という人が活きた魚を献上しようと、ボラ漁の指揮者となって魚群を囲み、吹雪の中を素裸のまま海中に飛び込み大きなボラを掴んで船に上がったのであります。
上陸するや否や、ご宿泊先の春帆楼へ一目散に走って献上したことが侍従から陛下のお耳に入り、彼に「海坊主」という雅号を賜ったのであります。
彼は欣喜雀躍これを拝して、晩年に至るまで「海坊主・安井爵位翁」と自ら名乗っておったといいます。

この広い漁場も時代の流れには抗し切れず、内務省の主管で関門海峡の浚渫工事が行われまして、その土砂の捨て場として、この沖の洲の十六万坪が埋め立てられて港湾に姿を変えたのであります。

その後、水産都市として発展著しい下関は、狭隘となった漁港修築の議が起こりまして、国と県と市が総工費六百三十万円の予算で、昭和7年から四年計画で内港・外港・水路・陸上の施設建設に着手されたのであります。
と同時に竹崎地先の急流も締め切られ、陸続きとなり、一方船舶の航行に便ずるため、彦島側に水門を設けられたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/30 Wed. 09:43 [edit]

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漁業者の団体組織と漁業発達の影響2 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響2


現在のちょうど大和町の位置が沖の洲にあたり、往時の小瀬戸の入り口で潮流の激しいところでありました。
海底には砂や泥が堆積して浅瀬となり多くの海藻が繁茂しておったのであります。
干潮時の際はこの一帯が、一面に毛布を敷き並べたような海面から姿を表しておりました。

したがって、各種の魚の産卵・孵化に御誂え向きの良い漁場であったのであります。
産卵期になりますと、内海方面からも外海方面からも、この浅瀬を目指して集まる魚の種類もおびただしいものでありました。
したがってこの付近の漁師にとりましては、唯一の軒先漁業として繁盛してきたのであります。

この場所に最も長期間滞留するのが「ボラ」でありました。
このボラの最盛期に入りますと、海士郷・伊崎・竹崎・壇之浦の漁業者はもちろん、遠く北九州の各地や山口県の秋穂などから、交代制で「マカセ」というボラを専門に獲る網船を繰り出して盛んに捕獲したのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/30 Wed. 09:35 [edit]

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漁業者の団体組織と漁業発達の影響1 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響1


ただいまより彦島の漁業のことにつきまして吉岡英雄氏からお話をいただきます。
吉岡氏は永らく彦島漁業組合の専務理事として、また市議会議員として三期にわたって市政に参画された方でございます。


ご紹介を受けました吉岡であります。
私は皆さんのように彦島に生まれ、彦島で育っていないため、遠い昔のことは存じておりません。
大正4年山口市から彦島村に転入いたした者でありますから、ご参考になるようなお話もできないと思いますが、若干聞き及んだなかから申し上げようと思います。

まずもって現在の大和町の生い立ちから簡単にお話ししてみたいと思います。
彦島の地は昭和8年下関市と合併いたしまして、彦島地先に継子扱いにされておりました「沖の洲」が大々的な埋め立てにより現在の大和町に姿を変えました。
過去を思い出しますと、じつに夢のような感じがするのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/29 Tue. 11:41 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程10 

農業者の団体組織と生産進歩の過程10


彦島農業組合が今日の隆盛をみているというのも、左様な農民の結集の成果であります。

この度創立十周年を迎えるにあたりまして、彦島農民の寄り場として計画された組合事務所は、昭和32年7月に着工し、33年2月15日に完成をみたのであります。
その間7ヶ月を要しましたが、できた建物は鉄筋コンクリート3階、延べ坪103余坪であります。
場所は彦島の玄関の、しかも関彦橋の入り口に堂々と建っております。

彦島にかくの如き立派な農業のセンターが設置できましたことは、農民の力強い支持があればこそで、私は感慨無量であります。
今度はこれを維持管理すると同時に、農民だけでなく一般社会の人々にも利用していただきたいと私どもは考えているのであります。

これをもちまして私の彦島の農業に関する話を終わりたいと存じます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/29 Tue. 10:28 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程9 

農業者の団体組織と生産進歩の過程9


「カンラン」のほかに彦島には「ハルナ」というもう一つの登録品種があります。
これは全国で唯一の登録品種であります。
「ハルナ」は冬野菜がなくなった後に出る野菜で、夏分利用されるので日本各地で賞用されている品種であります。
この種子も引っ張りだこであります。
したがっていくら採種しても足らない状況であります。
一般に種にいろいろ混じりものがありますが、彦島のこの二品種に限り精選された立派な種子でありますので、採種の時期は注文が殺到して困っているような状況であります。

農協ではこの二種類の採種を島内各地の農家に割り当て、統制をとりつつ品質の向上をはかっております。
市当局におきましても積極的に助成してくれております。

このように全国的に高い評価が得られたのも、農民の誠意ある努力の賜物であります。
また、ほかでは見ることのできない改良品種であるということは私たちの誇りでもあります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/29 Tue. 10:19 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程8 

農業者の団体組織と生産進歩の過程8


なお、私がとくに申し添えておきたいことは、彦島の「カンラン」であります。
これは無論先ほど申し上げました登録品種で、この種子からとれた「カンラン」は甘みが強くて非常に美味しいと好評を受けております。

彦島にいる方は、これをつねに食べていますから気がつきませんけれども、数年前に大阪に送ったところ特別な味があるということで、これが好評となって京都・神戸あるいは東京方面からも年々注文があり、生産が追いつかず注文に応じられないという残念な状態でありました。
なかには遠方からわざわざ出張してきて、何車でもよいから買いたいという問屋もありました。

このため組合としても早くから予約を受けるため、出荷組合を組織したのであります。
今までは三・四十車程度の出荷であったのが、今後はより以上の量を出荷しようということで、皆さん張り切っているようであります。

このような見地から「カンラン」の先行きは、作れば作るほど売れる特徴を持っており、私もこの点だけは誰はばかることなく大きなことが言えると考えております。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/28 Mon. 10:27 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程7 

農業者の団体組織と生産進歩の過程7


戦後になってGHQの指令により昭和20年第一次農地改革、続いて翌21年に第二次農地改革が行われて、農地の一大革命が断行されたことにより、農業会も解散を命ぜられて昭和23年5月末までに解散することになったのであります。
この間に解散準備を行い、昭和23年6月1日をもって彦島は独立して新たに彦島農業協同組合を設立したのであります。
会員はその当時、正会員312人をもって新発足しました。
事務所は江向の890番地に置いて、理事9名・監事2名・運営委員12名を選任して、組合運営を開始したのであります。

分離独立の時、農業会の資産をそれぞれ分割しましたが、彦島は負債を背負っておったため、その負債の分け前をもらって発足したのであります。
そのように独立して現在で50年になります。

この農協はどういう事業をするかと言いますと、信用事業・購買事業・販売事業・畜産または農政と農民のお世話をし、ならびに指導をしておるのであります。
また、県も普及員を駐在せしめて、農政の指導にあたらせており、農業経営を中心に農民と一体不離の関係にあります。

今後も農民魂の続く限り、農協も農民も明るい未来があるものと思っております。
彦島の耕地はこれからも住宅・工場用地となって、商工業の発展に反比例して耕地は減少すると思われます。
このなかにあっても農民の健気な奮闘と和合の精神をもってすれば、隆々ととして生き得るという考えをもっている一人であります。

彦島農協の今日あるのは、先輩の皆さんの死闘の賜物であると私どもは感謝しております。
私どもは常に農民と不離一体の精神をもって、農協と運命を共にするという覚悟であります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/28 Mon. 09:32 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程6 

農業者の団体組織と生産進歩の過程6


彦島が工業地帯となり、人家が増加するため田畑が減少するのは、農民にとっては非常に寂しい感じはいたしますが、地元の発展のためやむを得ないので、集約農業に切り替えつつ農業生産をやっているのであります。
無論地理的にも都会地の付近でありますので、現在の年間生産量は野菜で百万貫を上回り、花卉は年間を通して市場に出荷できるようになっており意を強くしております。

農業者の団体組織としましては、明治・大正・昭和と三代にわたり農民の拠り所となっておった農業会を忘れてはなりません。
この農業会は行政機関が、村役場あるいは町役場の中に事務所を置いて農業技術員をして指導させたのであります。
この指導員の指導を受けて彦島の農業も発展してきたのであります。

昭和8年3月、下関市と彦島町が合併することになりましたが、下関にはこの農業会がなかったのであります。
したがって彦島の農業会そのものが下関の農業会になったので、彦島の方からその時の会長・副会長が出ておったのであります。
そのうち下関市も次々に近接の町村を合併したため。農業会の規模が大きくなってきました。
ところが彦島はご承知の通り工業化が進み、農業の割合が少なくなってきましたまで、ついに彦島の農業会は幡生と一緒になったのであります。
そして、戦争中は幡生農業会の支所となって僅かに生きておったのであります。
その時の役員も彦島から理事が一人か二人しか出ない惨めな有様でありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/28 Mon. 09:22 [edit]

category: ひこしま発展誌

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28

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/27 Sun. 13:22 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程5 

農業者の団体組織と生産進歩の過程5


彦島に温室栽培を取り入れた動機は、西部地区に大正5年に日本金属が亜鉛の精錬工場を建設して亜硫酸ガスが発生し、それが拡散して作物が出来ないようになり、はなはだしい所では土地に染み込んで草木も枯れていくようになりました。
この煙害対策として考え出したのが温室で、迫・西山地区を始め彦島各地で建てられるようになりました。

最初に温室栽培を始めた人は、富田岩吉氏であります。
富田氏が永年にわたる試験栽培の結果、良い結果を得たので本格的な生産に取り組み、彦島各地の農家に広めたのであります。
初めはメロンやキュウリなど種類は少なかったのであります。

この温室も戦争末期に2500坪近くあったものが、軍の司令で8割がガラスの徴発を受けたため、また頓挫をきたしておりました。
これを昭和25年頃から漸次増築して、現在では以前に勝る3000坪以上となり、菊などの花卉栽培を取り入れ、西部地区のみでなく彦島全域の農業経営に役立っているわけであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/27 Sun. 10:24 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/27 Sun. 10:14 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程3 

農業者の団体組織と生産進歩の過程3


耕作面積も次第に減少を続けて田三十町歩、畑が百十町歩となったのであります。
したがって農家も「一町歩百姓」が「四反百姓」となり、まだ減っていく恐れがあります。

このような耕作地の減少傾向に対処するため、昭和の初めから一部の農家は温室事業を取り入れて生産方式の改善を図りました。
この温室は昭和8年頃から盛んになり、露地栽培の野菜を温室栽培に切り替える農家が増えてきました。
ところが昭和12年の日中戦争以降、農産物は統制され米穀中心に切り替えられ、併せて供出制度が布かれて米麦も一定量以上は持つことができず、あとは全て供出しておった次第で、温室栽培も頭打ちになったのであります。

昭和20年8月の敗戦で食糧難が深刻化してきまして、農民も自分で作りながら食料に不自由しておったのでありますが、わが国民が共に苦しみを分け合うことは当然のことであるので、進んで供出に参加したのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/26 Sat. 11:54 [edit]

category: ひこしま発展誌

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農業者の団体組織と生産進歩の過程2 

農業者の団体組織と生産進歩の過程2


日露戦争後に北九州で工業が非常に発達し、人口の増加に伴いまして野菜が売れるようになったので、芋・麦の耕作を減じて野菜作りが盛んになったのであります。
迫・西山地区は砂地で野菜作りに非常に適していたので一面に野菜畑が広がり、その販路は下関はもとより北九州の各市まで及んだのであります。
これに刺激されて他の地区でも一斉に野菜作りに転換をはじめたのであります。

ところが第一次世界大戦後の全国的な好況の波に乗って、彦島に工場の進出が相次ぎ、西山にも日本金属が亜鉛の精錬所を建設することになって、あの広い野菜畑が工場となってしまったのであります。
西山だけでなく彦島各所に工場が次々にできるので、田畑はつぶされて、せっかく野菜に活路を見いだし、販路を拡大していたのが、この時期に頓挫してしまいました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2016/11/26 Sat. 11:33 [edit]

category: ひこしま発展誌

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