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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

地域の史実と口碑伝説17 

地域の史実と口碑伝説17


毎年春ともなりますと湾内は北前船で埋まり、百艘以上を数えることも少なくありませんでした。
明治初期の最盛期には遊女が二百五十人いたということであります。
夕方になると船頭や遊女の声、料亭から三味・太鼓の賑わいで港中が歓楽の坩堝でありました。

さして一旦順風が訪れると、碇を上げた船は先を争って出航するのであります。
空となった港は夕方になると、また人船で賑わうというありさまです。

このころの戸数は百五十戸くらいでありましたが彦島唯一の繁華な所でありました。
というのは他に戸数が五十戸以上の部落はなかった時代であります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/15 Tue. 13:46 [edit]

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地域の史実と口碑伝説16 

地域の史実と口碑伝説16


現在の福浦港は風波のため土砂が積もり浅くなり、港の中はガラ空きで寂れていますが、明治中期までは非常に繁盛したものであります。

また汽車汽船のない頃の運搬機関は全て帆船に依存していたので、北前すなわち北陸や北海道の米やニシン、昆布などの豊富な特産物を大阪に運ぶには、太平洋を通らずにほとんど日本海・玄界灘・瀬戸内海というコースでありまして、その船が往復とも福浦に寄港したので自然繁盛せざるを得ません。

船は北前船と申しまして、米千石を積むことができる堂々とした大船でありますが、追い風でないと走れないという、すこぶる不便な船であります。
船には船頭以下十数人が乗り込んで、まず大阪を出帆して福浦港まで下ってきて風待ちするのであります。
福浦はあの恐ろしい玄界灘に出る最後の寄港地であります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/13 Sun. 12:31 [edit]

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地域の史実と口碑伝説15 

地域の史実と口碑伝説15


金刀比羅宮があります港頭の富観台は、遠く玄界灘から近くは大瀬戸を隔てて、小倉、若松等が手に取るように見える絶景の丘であります。

神社は文政十三年四月の建立で、吉田松陰も嘉永二年の巡視のときに登ったということです。
ここに同年九月に建てられた富観台記念碑の碑文には、当時の福浦の住居はごく僅かであったと記されていますが、港の開発は数百年前からのことでありますので、徐々に戸数も増えてきたのであります。

徳川幕府の頃には、参勤交代のとき肥前の鍋島、肥後の細川、薩摩の島津などの大名は、出府や帰路の荷物の運搬に船を使ったので、風待ちのために、この港に寄港しました。
その船宿として肥前屋、肥後屋、薩摩屋等の名が残っているのであります。

また、京都を追われまして長州に逃れてきました三条実美ら七卿のうち、五卿が元治元年の正月に長府の外浦から船に乗って福浦港に一泊したということであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/12 Sat. 10:49 [edit]

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地域の史実と口碑伝説14 

地域の史実と口碑伝説14

《福浦》

現在の福浦町はあまり振るいませんが、昔は彦島の中心でありました。
江の浦小学校付近一帯まで海であったのを数百年前に埋め立てまして、現在の姿になったのであります。

「海賊泊」は福浦の対岸の西にあり、ここには年中清水が湧き出ていたので「清水カ谷」とも申しまして、古くから海賊どもの根拠地であったといわれています。

福浦港は昔の帆船時代には天然の良港として有名であります。
北海道、九州方面に行くにはこの港が最後の寄港地であったので、乗組員の慰安の場所でもありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/11 Fri. 11:17 [edit]

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地域の史実と口碑伝説13 

地域の史実と口碑伝説13


なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから四方大山岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。

以前は田の首の所管でありました塩浜町は福浦湾に面しまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/10 Thu. 11:05 [edit]

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地域の史実と口碑伝説12 

地域の史実と口碑伝説12

《田の首》

ここは今では林兼造船所や日新耐火煉瓦工場で賑わっておりますが、昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。

散木集の歌に「田鶴も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。
この田鶴とは鶴のことであります。
昔は鶴が降りてきたようであります。

西側の海岸を「金カ弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたという伝説があります。
また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/09 Wed. 10:52 [edit]

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09

地域の史実と口碑伝説11 

地域の史実と口碑伝説11


この弟子待の沖合に「与次兵衛カ瀬」という瀬がありました。
今は航路整備のため取り除かれておりますが、以前は潮流の激しい中にあった恐るべき岩礁でありました。
この瀬で座礁したならば誰も助かる者がないというので「死の瀬」と名付けられていたのであります。
この瀬について、まことに哀れな史実があります。

それは文禄元年豊臣秀吉の朝鮮出兵の時でありました。
秀吉は備前名護屋の城から大阪に帰るために軍船日本丸に乗りました。
大船頭は明石与次兵衛で、彼は熟練したパイロットでありましたが、どうしたことか誤って死の瀬に乗り上げたのであります。
船は今にも激流に呑まれようとちしましたが、幸いに長府の城主毛利秀元の救援があり、またこれを見た弟子待の人々も救助に出ましたので秀吉は事なきを得ました。

哀れなのは大船頭の与次兵衛で、彼はその責任を問われ、ついに首を刎ねられたのであります。
後の人々がこの悲劇の主を憐れみ、岩礁の上に石碑を立てて「与次兵衛カ瀬」と名付け、その冥福を祈るとともに通行の船舶のための危険標識としたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/08 Tue. 11:25 [edit]

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08

地域の史実と口碑伝説10 

地域の史実と口碑伝説10


現在では石油タンクの町として有名であり、かつ関門海底鉄道トンネルの立坑を掘った場所でありました。
以前も海岸埋立地に貯炭場があり相当繁盛しておったそうであります。

この地は彦島の中でも九州にもっとも近い距離に位置するため、戦争にも関係の浅い場所でありまして、英米仏蘭連合の四国戦争の時は外国船の激しい放火に見舞われ、小倉戦争の時には騎兵隊の駐屯地として、ここが攻撃軍の基地でもありました。
また日露戦争の直前には海軍の水雷発射施設が建設されました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/07 Mon. 11:43 [edit]

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07

地域の史実と口碑伝説9 

地域の史実と口碑伝説9

《弟子待》

珍しい名前でありますが、佐々木巌流と宮本武蔵が巌流島で決闘しましたときに、巌流の弟子たちは舟島に渡って助勢することができないので、ここに集まって様子いかにと待っていたというので、弟子待という地名ができたということであります。
いかにも興味ある話でありますが、これはどうも怪しい説のようであります。

この地は昔から良田があって淳和天皇の天長七年、今から約一千百三十年前に「勅旨田」として押収されました。
「勅旨」を「テシ」と読み、田の区画を「マチ」と言うのでテシマチと呼ぶようになり、後に「弟子待」の当て字が使われたものだと言われています。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/06 Sun. 12:16 [edit]

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06

地域の史実と口碑伝説8 

地域の史実と口碑伝説8


そのころ小倉の城下では、武蔵が小次郎に恐れをなして逃げ出したと噂されていたので、長岡興長は武蔵に急使を立て、島に渡り小次郎と勝負するよう催促をしたのであります。

武蔵はようやく木剣を持って舟に乗り島に渡りました。
待ちくたびれていた佐々木小次郎は、備前長光の三尺余の大刀抜き鞘を海中に投げ捨てました。
この時武蔵は「小次郎殿は早や負けだ。勝つものなら何故に鞘を捨てる」と言いましたが、その声の終わらぬうちに小次郎は武蔵の眉間を真向に切りつけました。
と、同時に武蔵の木剣は電光石火の早業で小次郎の頭に打ち下ろされたのであります。

武蔵は小次郎の太刀の切っ先で鉢巻を切り落とされたのでありますが、小次郎は脳天を打ち砕かれ息絶えました。
武蔵は検視の役人に一礼して、早々に下関に引き上げたのであります。

これが有名な巌流島の決闘でありまして、佐々木小次郎を弔うために、後の人が舟島を巌流島と呼ぶようになったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/05 Sat. 12:21 [edit]

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05

地域の史実と口碑伝説7 

地域の史実と口碑伝説7


試合の場所は舟島、すなわち今の巌流島ということになりました。
慶長17年、今から約350年前になりますが四月十三日両剣豪の決闘となります。
時に小次郎十八歳、武蔵二十九歳でありました。

小次郎は早朝から身支度におよび門弟に送られて島に渡り、武蔵の来るのを今や遅しと待ち構えていたのであります。
ところが武蔵は夕刻を過ぎましても姿を現さないので小次郎は苛立ってきました。

一方武蔵は前夜密かに小倉をたって、下関阿弥陀寺の船問屋小林太郎左衛門の家に留まりました。
これは武蔵が家老職の長岡興長に気兼ねしたものでありまして、まことに思慮深い行動であったと言わねばなりません。

武蔵はその朝遅く起きまして、船頭から櫓をもらって自らこれを削り木剣を作っておりました。
長岡興長は武蔵が昨夜からいないので、八方手を尽くして探し、ようやく所在をつきとめたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より


Posted on 2019/01/04 Fri. 11:44 [edit]

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04

地域の史実と口碑伝説6 

地域の史実と口碑伝説6

さて、佐々木小次郎は長じて武者修行のため諸国を巡って小倉に着きました。
これを聞いた小笠原城主細川忠興はおおいに喜びまして、小次郎を剣道指南として優遇しました。
当時小次郎の高名を慕い近郷から集まった門弟が、じつに三千人を超すという状態になったのであります。

片や宮本武蔵も同じく諸国を遍歴しまして小倉を訪れたのであります。
そして、かつて父の無二斎の門弟であって、当時細川家の家老であった長岡興長の屋敷の逗留することになりました。

この時に武蔵は佐々木小次郎のことを聞きまして、これは良い相手だ、ひとつ勝負をしたい、と城主忠興に願い出ます。
なにしろ関ヶ原の戦い後の人心殺伐の時ではありますし、忠興も武芸奨励の考えもあってこれを承諾しました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より


Posted on 2019/01/03 Thu. 12:33 [edit]

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地域の史実と口碑伝説5 

地域の史実と口碑伝説5


一方、宮本武蔵は播磨の国の住人、新免無二斎の子であり二刀流を編み出した武芸者であります。
生まれつき剣道の天才であって十三歳のときから剣をもって勝負すること六十余度、その相手をほとんど打ち殺して一度も負けたことのないという、古来無双の猛者でありまして、後世彼を称して剣聖というのもまことに無理からぬことと思います。

六尺豊かな巨体で、いつも長い着物を裾引いて歩いていたということであります。
一生独身でありましたが、号を二天と称して学問もあり、かつ絵もはなはだ巧みでありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/02 Wed. 12:09 [edit]

category: ひこしま発展誌

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地域の史実と口碑伝説5 

地域の史実と口碑伝説5


一方、宮本武蔵は播磨の国の住人、新免無二斎の子であり二刀流を編み出した武芸者であります。
生まれつき剣道の天才であって十三歳のときから剣をもって勝負すること六十余度、その相手をほとんど打ち殺して一度も負けたことのないという、古来無双の猛者でありまして、後世彼を称して剣聖というのもまことに無理からぬことと思います。

六尺豊かな巨体で、いつも長い着物を裾引いて歩いていたということであります。
一生独身でありましたが、号を二天と称して学問もあり、かつ絵もはなはだ巧みでありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2019/01/01 Tue. 11:28 [edit]

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地域の史実と口碑伝説4 

地域の史実と口碑伝説4


次に佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘について述べたいと思います。

佐々木小次郎は越前の国宇阪の庄、浄教寺村、佐々木源左衛門の子でありまして、幼少の頃から剣豪富田勢源について修行をし、ツバメ返しといって敵の足を払う独特の剣技を編み出しまして、名を巌流と呼ぶようになりました。
その時十七歳の少年でありましたが、この剣法はじつに恐るべきものでありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

Posted on 2018/12/31 Mon. 11:45 [edit]

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