05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関観光検定054 

【質問】

馬関攘夷戦争(下関戦争)後、四国連合との和議交渉を任された高杉晋作が「彦島の租借」を撤回させたことは有名ですが、この戦争で日本政府が支払った賠償金の額はいくらでしょうか。

【答え】

300万ドル

【解説】

馬関攘夷戦争は、長州藩と英・仏・蘭・米との間に起きた武力衝突です。
長州藩はこの戦いに敗れ、幕府は300万ドルもの巨額な賠償金を請求されました。
幕府はこれを受け入れ150万ドルを支払い、残りは明治7年までに分割で支払いました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/22 Fri. 11:24 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

22

下関観光検定053 

【質問】

アーネスト・サトウ(駐日公使)は「一外交官の見た明治維新」の著述の中で、元治元年8月、下関の大阪屋(現東京第一ホテル)で伊藤博文から西洋料理の饗応を受けたと記しています。
その献立の中で素敵にうまかったという一品を記していますが、その一品とはなんでしょうか。

【答え】

みりんにつけた柿のデザート

【解説】

長州藩は1863年5月、攘夷運動として関門海峡を通航する外国船に向けて沿岸の砲台から攻撃を開始します。
翌年8月に四国連合艦隊17隻が報復のため海峡に集結し、長州藩を砲火を交えます。
結果は長州藩の大敗北となり、高杉晋作が和議使節を命じられ宍戸刑馬7の名で講和談判にあたります。
8月14日に和議は成立しましたが、この戦争を知った伊藤博文と井上馨は急遽イギリスから帰国し、講和成立に助力しています。
イギリスの通訳はアーネスト・サトウで伊藤博文は精魂こめてヨーロッパ風の食事を用意し、饗応につとめました。
この時の料理は、日本国内で最初の西洋料理だったかもしれません。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/21 Thu. 10:31 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

21

下関観光検定052 

【質問】

文久3年長州藩は攘夷を決行。
長州藩主毛利元周は、海岸近くの藩邸は危険ということで、御殿を急造しました。
この御殿はどこに建てられたでしょうか。

【答え】

勝山

【解説】

文久3年長州藩が攘夷を決行し、関門海峡の外国船に砲撃を開始。
長州藩主毛利元周は、外国船の報復攻撃に備えて、海岸に近い串崎城麓の藩邸を離れ、覚苑寺に仮住まいします。
そして、勝山の田倉にわずか七ヶ月で急造した藩邸が勝山御殿です。
元治元年2月に完成し、廃藩置県まで存続しました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/20 Wed. 11:28 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

20

下関観光検定051 

【質問】

高杉晋作が奇兵隊を結成した場所は、下関の回船問屋・白石正一郎の家でした。
彼は奇兵隊にも入隊、家財をなげうって維新を支援しました。
さてこの回船問屋の屋号はなんといったでしょうか。

【答え】

小倉屋

【解説】

白石正一郎は回船業・小倉屋を営んで富を築いた豪商で、高杉晋作をはじめとする維新の志士たちを物心両面で支援しました。
奇兵隊は文久3年6月8日、この白石邸で結成され、白石正一郎も隊士となりました。
竹崎町に白石正一郎宅跡碑を昭和37年12月25日に建立。石碑の高さは140センチ。
約400人にも及ぶ志士たちがここを訪れ、海に面した裏門より舟で出入りしました。
坂本龍馬は文久2年3月土佐藩を脱藩し、最初に足を向けたのが下関で、4月1日頃に白石正一郎邸を訪問。
以後たびたび下関を訪問しています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/19 Tue. 09:59 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

19

下関観光検定050 

【質問】

外国船打ち払いはアメリカ商船、フランス軍艦と続きますが、アメリカ軍艦に報復され、さらにフランス軍艦二隻の襲来を受けます。
このときは一方的に負け、ついには上陸を許しました。
このとき占拠された砲台はどこだったでしょうか。

【答え】

前田

【解説】

外国船打ち払い(攘夷)は、アメリカ商船、フランス軍艦、オランダ艦船と続きました。
ところがこの知らせを受けたアメリカ軍艦ワイオミング号が6月1日に海峡に姿を見せ、砲撃して長州の軍艦二隻を撃沈し一隻に再起不能の損傷を与えて去りました。
さらに6月5日、フランス軍艦二隻が来襲し、前田、壇之浦の砲台に弾丸を撃ち込みました。
そして、フランス軍は、陸戦隊70人、水兵180人の兵力で、前田の東海岸に上陸、前田の砲台を占拠し、大砲を使用不能にして引き上げました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/18 Mon. 11:58 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

18

下関観光検定049 

【質問】

決闘の島として全国的に有名な巌流島には、高名な人も多く訪れています。
「巌流の墓がある」という意味の文章を残したのは、誰でしょうか。

【答え】

吉田松陰

【解説】

巌流島の正式名は船島です。
下関市大字彦島字船島648番地。
この島で慶長17年4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗死した小次郎の号から、巌流島とも呼ばれるようになりました。
清国が英国に敗北した阿片戦争など風雲急を告げる幕末、吉田松陰は藩命により日本海沿岸の防備を視察しました。
彼はこの巡視の記録を「廻浦紀略」として書き残しています。
それによれば、寛永2年7月16日の項に「舟に乗りて巌流島に至る。これ佐々木巌流・宮本武蔵激剣し、巌流討たせたりと云ふ。巌流の墓あり」という意味のことを記しています。
「巌流討たせたりと云ふ」は意味深長な言葉です。
小次郎は小倉城下で道場を開き多くの門下生がいたが、弟子たちの乱暴狼藉が激しくて町の人が迷惑していたので、小倉藩の家老長岡佐渡が武蔵に依頼して小次郎を討たせたのではないか、という説が伝えられています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/16 Sat. 10:23 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

16

下関観光検定048 

【質問】

江戸時代だけでも12回日本を訪問した朝鮮通信使。
日本訪問の際、本州最初の上陸地が下関でした。
一行が下関に上陸した際、宿泊した場所は阿弥陀寺(現赤間神宮)とどこでしょうか。

【答え】

引接寺

【解説】

下関は朝鮮通信使の本土最初の寄港地でした。
通信使は対馬・壱岐、相島に立ち寄り、阿弥陀寺前の桟橋に接岸し上陸しました。
室町時代の通信使は50人程度の人員であったため、宿泊場所は阿弥陀寺(現赤間神宮)のみでしたが、江戸時代になると、300~500人規模となったため、阿弥陀寺と引接寺が充てられました。
阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、通信使の案内と警固のために随行した対馬藩主は馴染みの本陣伊藤家、対馬藩士は下関の商家数十軒に分宿しました。
平成13年8月、通信使の歴史と功績を後世に伝えようと、下関商工会議所や山口県日韓親善協会連合会などでつくる建立期成会が、赤間神宮前の阿弥陀寺公園内に碑を建立しました。
石碑には「朝鮮通信使の歴史的な意義を再認識し、一行上陸の当地に記念の石碑を建立、その歴史を恒久的に顕彰しようとする」との建立の趣旨が刻まれています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/15 Fri. 09:38 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

15

下関観光検定047 

【質問】

伊藤家は、江戸時代の下関で佐甲家とともに東の本陣をつとめ、大年寄として町政にも参画した家です。
特に、江戸時代後半、伊藤杢之允、杢助、九三の三代当主は、歴史の裏方として重要な役割を果たしています。
オランダ商館一行のシーボルトや吉田松陰との交友もありました。
幕末には薩摩藩と長州藩を結びつけた維新の志士が、伊藤家を妻とともに宿所にしていました。
この維新の志士はだれででしょうか。

【答え】

坂本龍馬

【解説】

薩摩藩と長州藩の同盟を策して奔走する坂本龍馬は、下関を往来するにあたり、伊藤邸を宿としていました。
特に、慶応2年の第二次長州征伐小倉口の戦いにおいては伊藤家に止宿して亀山社中を指揮。
高杉晋作を助けて海峡に戦いました。
また慶応3年2月には、伊藤家を宿所とし、その居に「自然堂」の額を掲げて商務の拠点にするばかりでなく、同じ月の10日には妻のお龍を伴い、以後伊藤家に預けます。
そしてお龍は同年11月15日の龍馬遭難の悲報を伊藤家において聞くことになります。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/14 Thu. 10:12 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

14

下関観光検定046 

【質問】

江戸時代に港町として繁栄した下関ですが、港町につきものの遊郭もたくさんありました。
なかでも全国的に名をはせ、井原西鶴の「好色一代男」にも書かれている遊郭のあった場所はどこでしょう。

【答え】

稲荷町

【解説】

北前船の帰港により下関が繁栄していくにつれ、遊郭も隆盛となっていきました。
その代表が稲荷町。
井原西鶴の「好色一代男」にも稲荷町のことが描かれています。
この稲荷町は昭和39年の戦後復興による区画整理のため、町並みの様子もすっかり変わり、町名も赤間町と改められています。
下関の花街としてはこのほかに、稲荷町に隣接する裏町、豊前田、竹崎、今浦、新地遊郭などがありましたが、稲荷町の遊郭が全国に知られていました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/13 Wed. 11:16 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

13

下関観光検定045 

【質問】

宝永7年7月11碑、豊田町浮石の農民たちが凶作に対する年貢の減租を訴え、幕府の巡見使に直訴しました。
このとき、直訴した場所はどこでしょうか。

【答え】

内日亀ヶ原

【解説】

この頃は、凶作と豊作が交互に起こっていました。
当時の浮石村は長府藩家老の給領地で、度重なる凶作にもかかわらず納米(年貢)の増量を押し付けられていました。
そこでついに農民たちが怒り、代表で庄屋、畦頭たち五名が7月1日、下杢路子の豊田渡瀬で巡見使一行を待ち受けていましたがうまくいかず、翌11日内日村の亀ヶ原で直訴を決行しました。
結果的には、ご法度破りということで、彼らは長府松小田の刑場で処刑さけました。
しかし、この直訴によって年貢の増量は免除されるなど事件は「義挙」として後世に語り継がれ「浮石義民顕彰会」が組織され、浮石の亀尾山神社境内に「義民碑」、内日亀ヶ原には「浮石義民直訴の地」の石碑が建てられています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/11 Mon. 11:31 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

11

下関観光検定044 

【質問】

毛利長府藩の藩校の名前はなんでしょうか。

【答え】

敬業館

【解説】

長府藩の藩校は「敬業館」
長府侍町二丁目の発祥の地には碑が建てられています。
この地は一時「集童場」もおかれていた場所です。
敬業館は寛政4年5月に創設、藩士の子弟を教育。
集童場は元治元年に古江小路に設立され、士庶の別なく人材を育成する目的の教育機関。
敬業館が移転したあとに集童場が一時移転しておかれました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/11 Mon. 10:29 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

11

下関観光検定043 

【質問】

宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った有名な巌流島の決闘は、慶長17年のことでした。
この前日、宮本武蔵は赤間関の阿弥陀寺近くの船宿に泊ったとされていますが、それはなんという船宿といわれているでしょうか。

【答え】

伊勢屋

【解説】

慶長17年、剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘をおこないました。
この前日に宮本武蔵が泊ったといわれる船宿・伊勢屋は外浜町にあり、ここから巌流島へ向かって船出をしたといわれています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/10 Sun. 11:03 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

10

下関観光検定042 

【質問】

豊田町神上寺前面の山中には、下関市指定文化財である引地君(キリシタン名マゼンシャ)のお墓があります。
この引地君はある大名の息女ですが、その大名は誰でしょう。

【答え】

大友宗麟

【解説】

引地君は大友宗麟の七女です。
秀吉の媒酌で、毛利元就の九男久留米城主秀包と結婚しました。
秀包は慶長5年の関ヶ原の戦い後、毛利に復縁し長州に戻りました。
秀包の死後、引地君は嫡子の元鎮と豊北町の滝部久森へ居住し、後に阿川に邸を移しました。
「引地」に邸を設け余生を過ごしたことから、一般には「引地君」と尊称されています。
長府藩祖毛利秀元に家事を一任していた関係もあって、遺骸は長府藩の保護寺、勅願所でもある豊浦山神上寺の墓地に埋葬されました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/08 Fri. 10:07 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

08

下関観光検定041 

【質問】

群雄割拠の戦国時代に於いて、長門・豊東郡地域での戦は頭脳合戦ともいうべき方法で戦っていた。
兵の少ない「えげ山城主」(下大野村)は一計を立て数倍の城光寺軍(下保木村)を敗走させたその戦術・戦法は何だったでしょうか。

【答え】

松明作戦

【解説】

菊川町に散在する城跡の中で下保木に位置する所の城光寺山山頂に鎌倉末期から戦国時代にかけて築かれた城跡(城光寺跡)があります。
この城山の城主と敵対する小豪族が木屋川対岸、下大野谷井のえげ山(大野城)に城を構え、お互い隙あらばと睨み合っていました。
えげ山のすぐ側を流れる木屋川の中洲に松明を数百と立て、敵を驚かし敗走させた勝利したとの伝承があります。
美祢にもこの作戦で敗れた話が残っており、当時としては良く使われた戦法だったようです。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/07 Thu. 09:34 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

07

下関観光検定040 

【質問】

豊臣秀吉が大阪城を築くとき、石垣造営のため九州方面から大きな石を運ぶ途中に、海峡に沈んだ岩だろうと推測された大きな石が赤間神宮水天門下に築かれています。
この岩はなんと呼ばれているでしょうか。

【答え】

太閤石

【解説】

赤間神宮の鳥居をくぐると水天門の下に大岩の泉水が築かれています。
赤間神宮ではこれを「太閤石」と称しています。
この岩は昭和42年、下関商港第一体を浚渫していたとき、海底から発見されたもの。
どう見ても、本来から海底にあったは考えられず、識者の間で、豊臣秀吉が大阪城を築く際、石垣造営のため九州方面から海路運ぶ途中、事故のため海中に沈んだ大岩であろうと推測されました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行

Posted on 2018/06/06 Wed. 10:15 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

06