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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

清盛塚 

清盛塚
― きよもり づか ―

寿永3年(1183)中納言 平知盛は、亡き父 平清盛の遺骸を携えて彦島に入り、平家 最後の砦 根緒城(ねごろじょう)の築城にとりかかり、砦と定めた この小高い場所に納骨して、墓碑を建立しました。

その後、平家は壇之浦の合戦に破れて滅亡し、墓碑は長年 無銘のまま放置されていましたが、昭和4年(1929) 土着の歴史に詳しい人たちの手によって、「清盛塚」と刻まれました。

隣には、同年に「地鎮神」と刻まれた碑が建っています。
これは平清盛を彦島の地鎮神とする、という意味を込めたものでしょうか。

Posted on 2019/08/07 Wed. 11:06 [edit]

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07

下関漁港閘門 

下関漁港閘門 山口県・下関市

下関漁港の閘門は、日本海と瀬戸内海の干満差によって生じる激しい潮流を抑制し、漁港の安全性を確保するために戦前に建設された構造物。
戦後の下関漁港の発展に多大な貢献をしており、昭和41年には28万5千トンの水揚量日本一に輝いた。
閘門は今なお現役稼動中で船舶が航行しており、この様な構造物は全国的にも珍しい。閘門の通過方法は規模の大小はあるがパナマ運河と同じである。

全国漁港漁場協会より

■閘門建設の経緯

本州と九州を隔てる関門海峡の西側(東シナ海側)に彦島という島があります。行政上は山口県下関市に属し、3万人以上が住む人口の多い島です。島といっても地図では本州とほとんど地続きに見えますが、実際には小瀬戸という狭い海峡で隔てられています。もともと狭い海峡だったものが、1937(昭和12)年に完了した埋め立て工事で最も狭い部分は幅8mにまで狭まりました。
彦島が関門海峡西端に位置するということは小瀬戸は東シナ海と瀬戸内海に面します。双方の干満差から生じる潮流は激しく、そのままでは漁港の安全が保てないため、1938(昭和13)年に最小幅部分に閘門(こうもん)※ が建設されました。これが初代の下関漁港閘門です。

※ 水位の異なる水面を船が航行するための仕組み。二つの水門で閉鎖した部分に船を入れて水位を上下に調整する。

■戦後から現在まで

初代閘門の門扉は水平方向にスライドする引き戸式で、ユニークなことに門扉の上部は人や車が通行可能でした。つまり可動橋を兼ねていたのです。

1947(昭和22)年、小瀬戸に関彦橋(かんげんきょう)が完成。これは木製だったので車は通行できなかったものの、同橋は1954(昭和29)年にコンクリートで架け替えられます。1961(昭和36)年、閘門は巻上式ローラーゲートの2代目に変わります。門扉上部には幅1.5mの歩道が併設され、閘門側の車の通行はなくなりました。

その後、彦島大橋という新たな橋が完成しますが、これが有料道路だったためか(現在は無料)関彦橋の交通量は依然多く、そこで1982(昭和57)年に閘門中央に水門橋という可動橋が架けられました。さらに1986(昭和61)年、閘門が3代目に更新されて現在の姿になります。

■下関漁港閘門の特徴

下関漁港閘門の特徴は2つあります。ひとつは海峡の閘門。そもそも舟運の需要が減少した日本では現役の閘門自体少ないのですが、現存する閘門はほとんどが運河や河川にあるもので海峡の閘門はかなり珍しい。

もうひとつは可動橋との併用。水門では可動橋と併用した事例はいくつかありますが、閘門と可動橋の併用は、私が調べた限り、国内では下関漁港閘門の他には尼崎閘門(兵庫県尼崎市)など1~2カ所しかありません。

さらに付け加えると、尼崎は閘門の扉と可動橋は独立した構造なのに対して、下関の初代閘門は扉自体が可動橋の機能を兼ねていました。現在の水門橋は閘門とは別個の構造ですが、閘門の扉の上部は2代目・3代目とも歩道で、これは昇開式可動橋といえます。点検用通路ではなく一般人が扉上部を通行できる閘門や水門は、あまり例がないはずです。

■可動橋として独特な形の水門橋

閘門の中央に車を通すために設置された水門橋もかなり独特な形をしています。この橋は、下の連続写真のように橋桁が上下に動く昇開式というタイプの可動橋です。一般的な昇開式可動橋は、例えば筑後川昇開橋のように2本の塔が建っているものですが、この水門橋は両岸の昇開機構を梁で連結して井桁状に組んでいます。いくつかの可動橋を見てきた私もこの形は初めて見ました。

余談ですが、閘門に架かる橋ならば本来は閘門橋とすべきで、水門橋という名前は適当ではないというか正確さに欠ける感じがします。名前が「肛門」を連想させるので避けたのでしょうか。

名称 下関漁港閘門 水門橋
Shimonoseki Fishing Port Lock, Watergate Bridge

設計 未確認

所在地 山口県下関市大和町2・彦島本村町6

用途 閘門、橋

竣工 初代閘門:1936(昭和11)年

現在(3代目)の閘門:1986(昭和61)年

水門橋:1982(昭和57)年

構造 閘門:鉄筋コンクリート造(門柱)、アルミ合金(門扉)

水門橋:鉄骨造

交通 鉄道:下関駅下車 徒歩約30分

Architectural Mapより
http://www.archi-map.jp/

Posted on 2019/08/06 Tue. 14:40 [edit]

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06

海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる 

海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる

壇ノ浦の合戦に敗れ、平家一門は滅亡しました。それは、中世から近世へ、貴族から武士へと、時代が動いた瞬間でもありました。武士の時代は徳川幕府の大政奉還までの約700年間続きます。そして、その終わりを招いた明治維新は、同じこの関門海峡で勃発した攘夷戦(馬関戦争)を引き金に始まりました。ここ壇ノ浦古戦場跡は、幕松の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあるのです。歴史は繰り返す…。海峡が見守って来た歴史を振り返る時、その思いはいっそう胸に迫ってきます。

赤間神宮

平清盛の孫である安徳天皇を祀る赤間神宮。境内には平家一門の塚である七盛塚があり、宝物殿には重要文化財に指定されている「長門本平家物語」をはじめとした源平ゆかりの書物や絵図などが多数陳列公開されています。

安徳天皇阿弥陀寺陵

幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、中国地方唯一の御陵。引き上げられたご遺体は、伊崎町にある御旅所と呼ばれる地にひとまず安置されていました。

平家の一杯水

壇ノ浦の合戦で肩と足に深手を負い、命からがら岸に泳ぎ着いた平家の武将が、この場所で小さな湧き水をみつけました。喉をうるおそうとすすったその水は真水でした。しかし、夢中になって2度目を口にしたところ真水が塩水に変わっていたという伝説が残されており、現在は鳥居が建てられています。

紙芝居

みもすそ川公園内では、「歴史体感☆紙芝居」を開催中。ほぼ1年を通して毎日、武者姿の読み手が下関で繰り広げられた歴史などを題材に紙芝居をが行われています。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/08/05 Mon. 09:25 [edit]

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05

壇ノ浦古戦場跡 

壇ノ浦古戦場跡

平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。

壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番

壇ノ浦の合戦

平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源治へ裏切るものが相次ぎました。平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母健礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/08/04 Sun. 09:44 [edit]

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04

巌流島の見どころ 

巌流島の見どころ

巌流島には「武蔵・小次郎像」「佐々木巌流之碑」や「巌流島文学碑」などが建てられています。また、島の大部分は公園として整備され、人工海浜や多目的広場が設けられています。散策道から見る、さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観も魅力です。潮風に吹かれながら、はるか昔の決闘に想いを馳せながらの散策されてみてはいかがでしょう。

佐々木巌流之碑

巌流島の少し奥まった所に、「佐々木巌流之碑」がひっそりと佇んでいます。島の埋め立て完成を記念して明治43年に建立されたました。

巌流島文学碑

船着場から最初に出会うモニュメント。画家・古館充臣氏が書いた武蔵と小次郎の姿が描かれたイラストと、村上元三作「佐々木小次郎」の一説が刻まれた舟型の石碑です。

武蔵・小次郎像

展望広場に建てられている、対峙する「武蔵・小次郎像」。武蔵像は2003年4月、小次郎像は2002年12月に建立されました。

散策道・人工海浜

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った砂浜を再現した砂浜です。武蔵が巌流島に渡る時、乗った小舟まで再現されています。


巌流島に渡る

巌流島には直行便が運行しています。1日約10便運行しています。※時期により異なります。
また、チャーター船も運行されています。
詳しくは下記ホームページまたは直接お問い合わせくださいをご覧ください。

■直行便・チャーター便(下関発着)

巌流島連絡船(関門汽船株式会社)
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地で有名な巌流島(船島)まで片道約10分で案内します。船内では巌流島の歴史や両岸風景の案内もあるため遊覧船気分も味わえます。
http://www.kanmon-kisen.co.jp/route/ganryujima.html

■チャーター便(彦島発着)

巌流島渡船(森造船)
☎ 083-266-1009


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/08/03 Sat. 09:41 [edit]

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03

巌流島略年表 

巌流島略年表

1584(天正12)年 武蔵、美作国讃甘村宮本(みまさかのくにさのもそんみやもと)にて出生
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い 武蔵、西軍として参戦
1612(慶長17)年 4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘
1645(正保2)年 武蔵、没す
1849(嘉永2)年 吉田松陰が上陸、小次郎の墓に参る
1867(慶応3)年 坂本龍馬とおりょうが巌流島で花火を上げる?
1910(明治43)年 「佐々木巌流之碑」建立
1921(大正10)年 斎藤茂吉が島へ渡る
「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」
1973(昭和48)年 島に残った最後の老人が島を去り、居住者ゼロとなる
1987(昭和62)年 アントニオ猪木とマサ斎藤のプロレスマッチ興行
1990(平成2)年 巌流島で岡山県大原町(武蔵出生地)と福井県今立町(小次郎出生地)が下関市・熊本市両市長の立会いのもと、姉妹縁組に調印
2002(平成14)年 12月11日 小次郎像完成
大河ドラマ小次郎役のTOKIOの松岡昌宏氏臨席のもと除幕式開催
2003(平成15)年 1月 NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」放映開始
4月14日 武蔵像完成
大河ドラマ武蔵役の市川新之助(現・市川海老蔵)氏臨席のもと除幕式開催
2012(平成24)年 武蔵・小次郎巌流島決闘400周年
巌流島決闘十番勝負開催


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/08/02 Fri. 09:29 [edit]

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02

巌流島の決闘 

巌流島の決闘

1612(慶長17)年4月13日に、長門の国「船島」(現在の巌流島)で宮本武蔵(当時29歳)と佐々木小次郎が決闘をしました。当時、諸国をまわったのち小倉の細川家に仕え、小倉城下に道場を開いていた佐々木小次郎に、諸国修行中の武芸者宮本武蔵が、細川家の家来であった長岡佐渡を通じて試合を申し込みました。試合場所に指定されたのが、船島(巌流島)でした。
決闘の約束は辰の刻(午前8時)でしたが、武蔵の到着が遅れ島に着いたのは、巳の刻(午前10時)になりました。小次郎は波打ち際で武蔵を迎えました。遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、刃渡り三尺はありそうな刀を抜きました。武蔵の前頭部に振り下ろされましたが、刀は武蔵の鉢巻の結び目を切っただけで、かわりに武蔵は船の櫓ろをけずって作った長い木剣で小次郎の頭を打ち砕き、小次郎はばたりと倒れました。武蔵はとどめを刺すことも忘れ舟へ飛び乗り、下関へと急ぎました。
武蔵はこの後、細川家に仕えて晩年を全うしましたが、敗者を想う地元の人々は敗れた小次郎の流派をとって後に「巌流島」と呼ぶようになりました。
※武蔵と小次郎の決闘については諸説あります。

昭和・平成の巌流島の戦い

昭和の時代以降も「決闘の聖地」として様々な決闘が行われました。
1987年10月4日に行われた新日本プロレスの企画したアントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合。が巌流島で行われた。武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島を決戦の場所に定め、無観客試合、時間無制限、ノールールで行われた。午後4時30分、試合開始となったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、ようやく30分後、斎藤に向かって歩み寄っていった。
試合は一進一退の攻防が続き、夕暮れになるとコーナーポストにかがり火が立てられた。試合が2時間経過し、両者フラフラになりながら決闘は続いた。そして、2時間5分14秒、猪木は斎藤の背後から裸絞めを決め、猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。

2012年05月には宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘400周年を記念したチャリティーイベント「レジェンド・ザ・プロレスリング『巌流島5・5マッチ』」が開催されました。地元出身の初代タイガーマスク、佐山聡さんらの熱闘を約3000人が観戦。東日本大震災で被災した岩手県宮古市から招かれた子どもたちも声援を送った。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/08/01 Thu. 12:56 [edit]

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巌流島とは 

巌流島とは

関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにあり、北端に小山があるほかは平らな島で、現在は無人島です。この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 現在は、観光周遊船が接岸できる浮桟橋をはじめ、決闘の地を連想させる海浜整備、宮本武蔵・佐々木小次郎両雄の像、関門海峡沿いには散策道や休憩所も整備されました。大小さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観を眺めつつ、潮風に吹かれながらの巌流島散策がお楽しみいただけます。

船島(巌流島)

所在地 下関市大字彦島字船島648番地
島の周囲 約1.6km
島の面積 約10.3万㎡(※島の約1/3を下関市が、2/3は民間企業が所有)
・明治期以降数度の埋め立て、現在の面積は決闘当時に比べて3~6倍程度大きくなっていると言われています。
・現在は無人島ですが人が住んでいたこともあります。

下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2019/07/31 Wed. 09:15 [edit]

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藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997) 

藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997)


大正7年、韓国の釜山市で生まれました。
三歳のときに下関市彦島町に転居。昭和13年に下関商業高校を卒業。
甲子園には、同10年と同12年の選抜大会に出場し、二回目のときは優秀選手賞を獲得しています。
下商時代は、二年先輩の高井英一郎とバッテリーを組み、その後明治大学に進むと、二年生でエースとなり六大学リーグで二回優勝。同17年明治大学を卒業し、東京巨人軍に入団しています。
同21年まで巨人で活躍したあと、中日に移りますが、同23年に再び巨人に戻っています。
肩をいためてどん底の時代もありましたが、スライダーの会得で立ち直り、日本でのスライダーの生みの親となりました。スライダーで再起したのち、同25年6月28日、青森球場で西日本チームを相手に、日本プロ野球史上初めての「完全試合」の偉業を達成。
同51年にプロ野球殿堂入りをしています。プロ野球を引退後、同32年から三年間、大和証券の野球部監督として迎えられていました。
平成9年に亡くなりました。享年78歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/07/30 Tue. 10:35 [edit]

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河野 タカ こうの たか(1891-1980) 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/07/29 Mon. 09:48 [edit]

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