01 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.» 03

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関漁港閘門 

下関漁港閘門 山口県・下関市

下関漁港の閘門は、日本海と瀬戸内海の干満差によって生じる激しい潮流を抑制し、漁港の安全性を確保するために戦前に建設された構造物。
戦後の下関漁港の発展に多大な貢献をしており、昭和41年には28万5千トンの水揚量日本一に輝いた。
閘門は今なお現役稼動中で船舶が航行しており、この様な構造物は全国的にも珍しい。閘門の通過方法は規模の大小はあるがパナマ運河と同じである。

全国漁港漁場協会より

■閘門建設の経緯

本州と九州を隔てる関門海峡の西側(東シナ海側)に彦島という島があります。行政上は山口県下関市に属し、3万人以上が住む人口の多い島です。島といっても地図では本州とほとんど地続きに見えますが、実際には小瀬戸という狭い海峡で隔てられています。もともと狭い海峡だったものが、1937(昭和12)年に完了した埋め立て工事で最も狭い部分は幅8mにまで狭まりました。
彦島が関門海峡西端に位置するということは小瀬戸は東シナ海と瀬戸内海に面します。双方の干満差から生じる潮流は激しく、そのままでは漁港の安全が保てないため、1938(昭和13)年に最小幅部分に閘門(こうもん)※ が建設されました。これが初代の下関漁港閘門です。

※ 水位の異なる水面を船が航行するための仕組み。二つの水門で閉鎖した部分に船を入れて水位を上下に調整する。

■戦後から現在まで

初代閘門の門扉は水平方向にスライドする引き戸式で、ユニークなことに門扉の上部は人や車が通行可能でした。つまり可動橋を兼ねていたのです。

1947(昭和22)年、小瀬戸に関彦橋(かんげんきょう)が完成。これは木製だったので車は通行できなかったものの、同橋は1954(昭和29)年にコンクリートで架け替えられます。1961(昭和36)年、閘門は巻上式ローラーゲートの2代目に変わります。門扉上部には幅1.5mの歩道が併設され、閘門側の車の通行はなくなりました。

その後、彦島大橋という新たな橋が完成しますが、これが有料道路だったためか(現在は無料)関彦橋の交通量は依然多く、そこで1982(昭和57)年に閘門中央に水門橋という可動橋が架けられました。さらに1986(昭和61)年、閘門が3代目に更新されて現在の姿になります。

■下関漁港閘門の特徴

下関漁港閘門の特徴は2つあります。ひとつは海峡の閘門。そもそも舟運の需要が減少した日本では現役の閘門自体少ないのですが、現存する閘門はほとんどが運河や河川にあるもので海峡の閘門はかなり珍しい。

もうひとつは可動橋との併用。水門では可動橋と併用した事例はいくつかありますが、閘門と可動橋の併用は、私が調べた限り、国内では下関漁港閘門の他には尼崎閘門(兵庫県尼崎市)など1~2カ所しかありません。

さらに付け加えると、尼崎は閘門の扉と可動橋は独立した構造なのに対して、下関の初代閘門は扉自体が可動橋の機能を兼ねていました。現在の水門橋は閘門とは別個の構造ですが、閘門の扉の上部は2代目・3代目とも歩道で、これは昇開式可動橋といえます。点検用通路ではなく一般人が扉上部を通行できる閘門や水門は、あまり例がないはずです。

■可動橋として独特な形の水門橋

閘門の中央に車を通すために設置された水門橋もかなり独特な形をしています。この橋は、下の連続写真のように橋桁が上下に動く昇開式というタイプの可動橋です。一般的な昇開式可動橋は、例えば筑後川昇開橋のように2本の塔が建っているものですが、この水門橋は両岸の昇開機構を梁で連結して井桁状に組んでいます。いくつかの可動橋を見てきた私もこの形は初めて見ました。

余談ですが、閘門に架かる橋ならば本来は閘門橋とすべきで、水門橋という名前は適当ではないというか正確さに欠ける感じがします。名前が「肛門」を連想させるので避けたのでしょうか。

名称 下関漁港閘門 水門橋
Shimonoseki Fishing Port Lock, Watergate Bridge

設計 未確認

所在地 山口県下関市大和町2・彦島本村町6

用途 閘門、橋

竣工 初代閘門:1936(昭和11)年

現在(3代目)の閘門:1986(昭和61)年

水門橋:1982(昭和57)年

構造 閘門:鉄筋コンクリート造(門柱)、アルミ合金(門扉)

水門橋:鉄骨造

交通 鉄道:下関駅下車 徒歩約30分

Architectural Mapより
http://www.archi-map.jp/

Posted on 2017/06/05 Mon. 10:18 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

05

海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる 

海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる

壇ノ浦の合戦に敗れ、平家一門は滅亡しました。それは、中世から近世へ、貴族から武士へと、時代が動いた瞬間でもありました。武士の時代は徳川幕府の大政奉還までの約700年間続きます。そして、その終わりを招いた明治維新は、同じこの関門海峡で勃発した攘夷戦(馬関戦争)を引き金に始まりました。ここ壇ノ浦古戦場跡は、幕松の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあるのです。歴史は繰り返す…。海峡が見守って来た歴史を振り返る時、その思いはいっそう胸に迫ってきます。

赤間神宮

平清盛の孫である安徳天皇を祀る赤間神宮。境内には平家一門の塚である七盛塚があり、宝物殿には重要文化財に指定されている「長門本平家物語」をはじめとした源平ゆかりの書物や絵図などが多数陳列公開されています。

安徳天皇阿弥陀寺陵

幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、中国地方唯一の御陵。引き上げられたご遺体は、伊崎町にある御旅所と呼ばれる地にひとまず安置されていました。

平家の一杯水

壇ノ浦の合戦で肩と足に深手を負い、命からがら岸に泳ぎ着いた平家の武将が、この場所で小さな湧き水をみつけました。喉をうるおそうとすすったその水は真水でした。しかし、夢中になって2度目を口にしたところ真水が塩水に変わっていたという伝説が残されており、現在は鳥居が建てられています。

紙芝居

みもすそ川公園内では、「歴史体感☆紙芝居」を開催中。ほぼ1年を通して毎日、武者姿の読み手が下関で繰り広げられた歴史などを題材に紙芝居をが行われています。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/22 Sun. 11:12 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

22

壇ノ浦古戦場跡 

壇ノ浦古戦場跡

平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。

壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番

壇ノ浦の合戦

平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源治へ裏切るものが相次ぎました。平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母健礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/21 Sat. 10:09 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

21

巌流島の見どころ 

巌流島の見どころ

巌流島には「武蔵・小次郎像」「佐々木巌流之碑」や「巌流島文学碑」などが建てられています。また、島の大部分は公園として整備され、人工海浜や多目的広場が設けられています。散策道から見る、さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観も魅力です。潮風に吹かれながら、はるか昔の決闘に想いを馳せながらの散策されてみてはいかがでしょう。

佐々木巌流之碑

巌流島の少し奥まった所に、「佐々木巌流之碑」がひっそりと佇んでいます。島の埋め立て完成を記念して明治43年に建立されたました。

巌流島文学碑

船着場から最初に出会うモニュメント。画家・古館充臣氏が書いた武蔵と小次郎の姿が描かれたイラストと、村上元三作「佐々木小次郎」の一説が刻まれた舟型の石碑です。

武蔵・小次郎像

展望広場に建てられている、対峙する「武蔵・小次郎像」。武蔵像は2003年4月、小次郎像は2002年12月に建立されました。

散策道・人工海浜

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った砂浜を再現した砂浜です。武蔵が巌流島に渡る時、乗った小舟まで再現されています。


巌流島に渡る

巌流島には直行便が運行しています。1日約10便運行しています。※時期により異なります。
また、チャーター船も運行されています。
詳しくは下記ホームページまたは直接お問い合わせくださいをご覧ください。

■直行便・チャーター便(下関発着)

巌流島連絡船(関門汽船株式会社)
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地で有名な巌流島(船島)まで片道約10分で案内します。船内では巌流島の歴史や両岸風景の案内もあるため遊覧船気分も味わえます。
http://www.kanmon-kisen.co.jp/route/ganryujima.html

■チャーター便(彦島発着)

巌流島渡船(森造船)
☎ 083-266-1009


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/21 Sat. 10:03 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

21

巌流島略年表 

巌流島略年表

1584(天正12)年 武蔵、美作国讃甘村宮本(みまさかのくにさのもそんみやもと)にて出生
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い 武蔵、西軍として参戦
1612(慶長17)年 4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘
1645(正保2)年 武蔵、没す
1849(嘉永2)年 吉田松陰が上陸、小次郎の墓に参る
1867(慶応3)年 坂本龍馬とおりょうが巌流島で花火を上げる?
1910(明治43)年 「佐々木巌流之碑」建立
1921(大正10)年 斎藤茂吉が島へ渡る
「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」
1973(昭和48)年 島に残った最後の老人が島を去り、居住者ゼロとなる
1987(昭和62)年 アントニオ猪木とマサ斎藤のプロレスマッチ興行
1990(平成2)年 巌流島で岡山県大原町(武蔵出生地)と福井県今立町(小次郎出生地)が下関市・熊本市両市長の立会いのもと、姉妹縁組に調印
2002(平成14)年 12月11日 小次郎像完成
大河ドラマ小次郎役のTOKIOの松岡昌宏氏臨席のもと除幕式開催
2003(平成15)年 1月 NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」放映開始
4月14日 武蔵像完成
大河ドラマ武蔵役の市川新之助(現・市川海老蔵)氏臨席のもと除幕式開催
2012(平成24)年 武蔵・小次郎巌流島決闘400周年
巌流島決闘十番勝負開催


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/20 Fri. 11:12 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

20

巌流島の決闘 

巌流島の決闘

1612(慶長17)年4月13日に、長門の国「船島」(現在の巌流島)で宮本武蔵(当時29歳)と佐々木小次郎が決闘をしました。当時、諸国をまわったのち小倉の細川家に仕え、小倉城下に道場を開いていた佐々木小次郎に、諸国修行中の武芸者宮本武蔵が、細川家の家来であった長岡佐渡を通じて試合を申し込みました。試合場所に指定されたのが、船島(巌流島)でした。
決闘の約束は辰の刻(午前8時)でしたが、武蔵の到着が遅れ島に着いたのは、巳の刻(午前10時)になりました。小次郎は波打ち際で武蔵を迎えました。遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、刃渡り三尺はありそうな刀を抜きました。武蔵の前頭部に振り下ろされましたが、刀は武蔵の鉢巻の結び目を切っただけで、かわりに武蔵は船の櫓ろをけずって作った長い木剣で小次郎の頭を打ち砕き、小次郎はばたりと倒れました。武蔵はとどめを刺すことも忘れ舟へ飛び乗り、下関へと急ぎました。
武蔵はこの後、細川家に仕えて晩年を全うしましたが、敗者を想う地元の人々は敗れた小次郎の流派をとって後に「巌流島」と呼ぶようになりました。
※武蔵と小次郎の決闘については諸説あります。

昭和・平成の巌流島の戦い

昭和の時代以降も「決闘の聖地」として様々な決闘が行われました。
1987年10月4日に行われた新日本プロレスの企画したアントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合。が巌流島で行われた。武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島を決戦の場所に定め、無観客試合、時間無制限、ノールールで行われた。午後4時30分、試合開始となったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、ようやく30分後、斎藤に向かって歩み寄っていった。
試合は一進一退の攻防が続き、夕暮れになるとコーナーポストにかがり火が立てられた。試合が2時間経過し、両者フラフラになりながら決闘は続いた。そして、2時間5分14秒、猪木は斎藤の背後から裸絞めを決め、猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。

2012年05月には宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘400周年を記念したチャリティーイベント「レジェンド・ザ・プロレスリング『巌流島5・5マッチ』」が開催されました。地元出身の初代タイガーマスク、佐山聡さんらの熱闘を約3000人が観戦。東日本大震災で被災した岩手県宮古市から招かれた子どもたちも声援を送った。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/20 Fri. 11:07 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

20

巌流島とは 

巌流島とは

関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにあり、北端に小山があるほかは平らな島で、現在は無人島です。この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 現在は、観光周遊船が接岸できる浮桟橋をはじめ、決闘の地を連想させる海浜整備、宮本武蔵・佐々木小次郎両雄の像、関門海峡沿いには散策道や休憩所も整備されました。大小さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観を眺めつつ、潮風に吹かれながらの巌流島散策がお楽しみいただけます。

船島(巌流島)

所在地 下関市大字彦島字船島648番地
島の周囲 約1.6km
島の面積 約10.3万㎡(※島の約1/3を下関市が、2/3は民間企業が所有)
・明治期以降数度の埋め立て、現在の面積は決闘当時に比べて3~6倍程度大きくなっていると言われています。
・現在は無人島ですが人が住んでいたこともあります。

下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より

Posted on 2017/01/19 Thu. 13:28 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

19

藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997) 

藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997)


大正7年、韓国の釜山市で生まれました。
三歳のときに下関市彦島町に転居。昭和13年に下関商業高校を卒業。
甲子園には、同10年と同12年の選抜大会に出場し、二回目のときは優秀選手賞を獲得しています。
下商時代は、二年先輩の高井英一郎とバッテリーを組み、その後明治大学に進むと、二年生でエースとなり六大学リーグで二回優勝。同17年明治大学を卒業し、東京巨人軍に入団しています。
同21年まで巨人で活躍したあと、中日に移りますが、同23年に再び巨人に戻っています。
肩をいためてどん底の時代もありましたが、スライダーの会得で立ち直り、日本でのスライダーの生みの親となりました。スライダーで再起したのち、同25年6月28日、青森球場で西日本チームを相手に、日本プロ野球史上初めての「完全試合」の偉業を達成。
同51年にプロ野球殿堂入りをしています。プロ野球を引退後、同32年から三年間、大和証券の野球部監督として迎えられていました。
平成9年に亡くなりました。享年78歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2017/01/16 Mon. 10:12 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

16

河野 タカ こうの たか(1891-1980) 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2017/01/16 Mon. 10:06 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

16

小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990) 

小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990)


大正7年、下関市彦島町で生まれました。
本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。
在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。
同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。
以後、「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものにしました。
出演した作品は「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」など300本以上を数えたほか、舞台やテレビでも活躍しています。
また、広告界に進出した俳優の先駆けで、マダムジュジュ・クリームや電気洗濯機の「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名です。
さらに、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地から保護司としての講演依頼が殺到、寸暇をさいて要望にこたえていました。
群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」講演会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組み、社交家で情けに厚い人でした。
平成2年に亡くなりました。享年72歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2017/01/15 Sun. 16:05 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

15

高杉晋作が彦島を救った 2 

高杉晋作が彦島を救った 2


講和の全権を担って、外国との折衝をまかされたのが「高杉晋作」でした。
講和談判は、彦島が攻撃を受けた翌日の8月8日から始まりました。
イギリスの艦船に乗り込んでの講和談判では、晋作の通訳を伊藤博文、井上馨がつとめました。
賠償金300万ドルの要求は拒否し、これは幕府が払うことになりました。
その他事実上の下関開港や関門海峡の自由通行などは認めました。
その交渉の中で、イギリス提督は「彦島の租借」を申し入れてきました。
「彦島を期限付きで外国に貸してくれ」と言ってきたわけです。
晋作はこの二年前に上海に視察に行く経験をしていました、
二ヶ月間の上海視察で見たものは、欧米列強に支配され、半植民地と化していた清国の惨状でした。
ですから、この「彦島を貸してくれ」という提案が何を意味するのか、しっかりわかっていたのです。
晋作は「この土地は、長州のものではありませーん。むかーし、むかーし、その昔…」と日本の歴史をひもときながら、神々の話などしをして、通訳ごと煙にまいてしまった…とか、烈火のごとく怒って断った等と伝えられています。
明治42年に伊藤博文が、軍艦から彦島を眺めながら当時の交渉を「…今から考えてみると危ないところじゃった。そうなれば、この島はちょうど今日の香港と同じことになるし、馬関は九龍となるところじゃったろう。考えるだけでも身の毛のよだつ話じゃ」と振り返ったことが「伊藤公全集」に残されています。
もしも晋作が「ああ、どうぞどうぞ。彦島なんかでよければ自由に使ってください」と返事をしていたら、その後の日本史は大きく変わっていたでしよう。
今、私たちは彦島に住んでいなかったかもしれません。
高杉晋作が上海に旅行にいったおかげで、今の平和な彦島があるといってもいいでしょう。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より

Posted on 2017/01/13 Fri. 10:38 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

13

高杉晋作が彦島を救った 1 

高杉晋作が彦島を救った 1


幕末、彦島はその後の日本史を大きく変えてしまうかもしれないほどの危機にさらされていました。
当時の窮地を救ったのは、若干26歳の「高杉晋作」でした。
新作が24歳の時に、上海に旅行に行っていなかったならば、今頃皆さんの家は彦島にはなかったかもしれない…というお話です。

攘夷の決行

1863年、長州藩は「攘夷」を決行します。
攘夷とは「夷人をしりぞける」。
つまり外国を実力行使で撃ち払うという考えでした。
攘夷戦にそなえて、彦島にも老の山や竹ノ子島、山床(田の首)などに砲台が築かれました。
攘夷期限とされた文久3年5月10日、長州藩は兵を下関に集結させます。
久坂玄端率いる光明寺党は、亀山砲台から合図の一発を放ち、関門海峡を通るアメリカの商船ベンプローク号を砲撃しました。
以降、フランスやオランダの船にも砲撃を加え、長州藩は外国船を撃ち払うことに成功しました。
しかし6月1日、列強の反撃が始まります。
アメリカ軍艦ワイオミング号が関門海峡に現れ、長州藩は亀山砲台と彦島砲台砲撃しますが、砲弾は届きません。
海峡に入ってきたワイオミング号は、艦砲射撃で亀山砲台を破壊し長州藩の軍艦を戦闘不能に追い込みました。
6月5日には、フランスの軍艦2隻がやってきて、前田、壇ノ浦の砲台は壊滅的な打撃を受け、フランス軍250人が前田に上陸。
砲台を占拠され、村に火を放たれるなど大敗を喫することになりました。
下関での敗北は、萩城にいた藩主毛利敬親にもすぐ報告されました。
敬親は、下関の海の守りに萩から25歳の高杉晋作を送り込み、晋作は身分を問わない有志による軍隊「奇兵隊」を結成します。

翌年、四カ国連合艦隊が来襲(下関戦争)彦島も

関門海峡で外国船打ち払いを決行した翌年、元治元年8月、四カ国連合艦隊(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)17隻が下関に来襲しました。
8月5日から7日のわずか三日間で、嵐のような攻撃を受け、7日には彦島の砲台は群は集中攻撃を受け陸戦隊に上陸され、大砲60門を奪いとられました。
長州藩の砲台はことごとく破壊され、多くの外国兵の上陸を許し、長州藩は敗北しました。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より

Posted on 2017/01/13 Fri. 10:32 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

13

彦島のいわれについて 

■彦島のいわれについて
 
 彦島という地名は、その昔に日本書紀の仲哀記に「引島」とある。
歌人源俊頼朝臣(1124~?)の「袖中妙」(しうちゅうしょう)にも「ひくしま」と読んでいる。
吾妻鏡(あずまのがかみ)(1260~1266)に初めて「彦島」とあり、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)(1250~)に「長門の国彦島という所に白を構えたりこれをば引島とも名づけたり」とあって「彦島」とも「引島」ともいっている。
 島は一時豊前領であったが、元和六年(1620)長府藩主毛利秀元と小倉城主小 笠原忠政の協議によって、長府領であった「門司」と小倉領であった「引島」とを交換したともいわれ、その後、文久年間(1861~1863)に毛利藩主は「引」は 武事に忌むとして「彦島」に改められた。

■引島と彦島
 
◆引島
  古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて 外海と内海の潮が行き来していた。
いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門」と呼んだ。 日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。 後に山口県の西半分を長門の国というようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」になまったのだと云われている。
約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后がのお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たといわれている。 このとき、海に落ちた下関と門司の間の山は、激しい急流に押し流されて西へ流れ一つの島になった。 ちょうどそのありさまが、海峡を作るために山が引きさかれたように見えたのでそひくしまの島を「引島」と名づけたそうである。

◆彦島
 今一つの説は、神代の昔、ヒコホホデミノミコトという神様が天から降られてお兄さんから借りた大切な釣り針で魚釣りをしていたところ、その釣り針を魚に取られてしまいしまった。
それを探すために海士(あま)になって海に潜り、龍宮へ行かれたという神話があります。
 このヒコホホデミノミコトが天から降られて海士になったところが彦島の海士郷(あまのごう)だといわれるし、ヒコホホデミノミコトゆかりの島という事で彦島と呼ばれるようになったという説もある。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2017/01/08 Sun. 11:02 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

08

境内にある7つの岩の解読 

■境内にある7つの岩の解読

 以上の解読により杉田丘陵した海岸神殿のものと見られるこれら7個の岩は「日の神や大地の女神、大気の神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王(日子王=古代彦島の王)が祈り奉った」と解釈できる。
「泳ぐ岩」1個ならまだしも、多くのペトログラフが三菱下関造船所前から見つかり、造船所構内からも出土しているところからも、古代には、杉田丘陵頂上の彦島神殿の他に、これを遥拝する形での「彦島第二神殿」とでも言うべきものが、現在の三菱造船所前小公園あたりの海岸部にあった事が推定できるのである。

■彦島宮の原遺跡
 
 境内には、昭和33年8月に、山口大学考古学小野教授(当時)発見による宮の原遺跡があり、縄文前期後期の土器や石族、石斧、石錘、石砥等三千余点が出土し、古代人の居住が確認された。
  昭和34年に発掘調査が行われ、「曾畑式土器」が多く出土した。
  その多くは、下関考古学資料室に委託収容されている。
※曾畑式土器とは、熊本県宇土市曾畑貝塚から出土する土器を指標として名づけられた


彦島八幡宮HPより

Posted on 2017/01/08 Sun. 10:58 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

08

彦島八幡宮にあるペトログラフ 

■彦島八幡宮にあるペトログラフ

 彦島八幡宮境内にベトログラフのある神霊石が、安置されたのは、昭和57年5月の事である。
  もともと境内にあるものが発見されたのではなく、運び込まれたものである。

◆不思議な庭石
山陽町のある家の庭でペトログラフの岩四個が見つかった。
  実は、下関造船所前の道路工事の折り、大きな岩十個が出土したので、庭石用にと貰い受け自宅に運んだ。
  ところが、原因不明の不幸な出来事が相次いでおこり、「もしやあの岩に何かあるのでは?」と調べてみると、ペトログラフが検出、解読された。
  そして、「泳ぐ岩」のかたわら、彦島八幡宮境内に安置され、いわば、下関造船所前から出土の岩が集合した事になる。

◆泳ぐ岩
 彦島江ノ浦町6丁目の三菱重工業(株)下関造船所のドックと巌流島の海底を、いつも移動している岩があり、進水式のたびにその岩が、泳いで来て邪魔をするので、「あの泳ぐ岩は何かの神霊(しんれい)の宿るものだ。祟り(たたり)のないよう引き上げてほしい。」という事になり、昭和57年4月に境内に安置された。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2017/01/07 Sat. 09:58 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

07