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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

高杉晋作が彦島を救った 2 

高杉晋作が彦島を救った 2


講和の全権を担って、外国との折衝をまかされたのが「高杉晋作」でした。
講和談判は、彦島が攻撃を受けた翌日の8月8日から始まりました。
イギリスの艦船に乗り込んでの講和談判では、晋作の通訳を伊藤博文、井上馨がつとめました。
賠償金300万ドルの要求は拒否し、これは幕府が払うことになりました。
その他事実上の下関開港や関門海峡の自由通行などは認めました。
その交渉の中で、イギリス提督は「彦島の租借」を申し入れてきました。
「彦島を期限付きで外国に貸してくれ」と言ってきたわけです。
晋作はこの二年前に上海に視察に行く経験をしていました、
二ヶ月間の上海視察で見たものは、欧米列強に支配され、半植民地と化していた清国の惨状でした。
ですから、この「彦島を貸してくれ」という提案が何を意味するのか、しっかりわかっていたのです。
晋作は「この土地は、長州のものではありませーん。むかーし、むかーし、その昔…」と日本の歴史をひもときながら、神々の話などしをして、通訳ごと煙にまいてしまった…とか、烈火のごとく怒って断った等と伝えられています。
明治42年に伊藤博文が、軍艦から彦島を眺めながら当時の交渉を「…今から考えてみると危ないところじゃった。そうなれば、この島はちょうど今日の香港と同じことになるし、馬関は九龍となるところじゃったろう。考えるだけでも身の毛のよだつ話じゃ」と振り返ったことが「伊藤公全集」に残されています。
もしも晋作が「ああ、どうぞどうぞ。彦島なんかでよければ自由に使ってください」と返事をしていたら、その後の日本史は大きく変わっていたでしよう。
今、私たちは彦島に住んでいなかったかもしれません。
高杉晋作が上海に旅行にいったおかげで、今の平和な彦島があるといってもいいでしょう。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より

Posted on 2018/06/22 Fri. 12:14 [edit]

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高杉晋作が彦島を救った 1 

高杉晋作が彦島を救った 1


幕末、彦島はその後の日本史を大きく変えてしまうかもしれないほどの危機にさらされていました。
当時の窮地を救ったのは、若干26歳の「高杉晋作」でした。
新作が24歳の時に、上海に旅行に行っていなかったならば、今頃皆さんの家は彦島にはなかったかもしれない…というお話です。

攘夷の決行

1863年、長州藩は「攘夷」を決行します。
攘夷とは「夷人をしりぞける」。
つまり外国を実力行使で撃ち払うという考えでした。
攘夷戦にそなえて、彦島にも老の山や竹ノ子島、山床(田の首)などに砲台が築かれました。
攘夷期限とされた文久3年5月10日、長州藩は兵を下関に集結させます。
久坂玄端率いる光明寺党は、亀山砲台から合図の一発を放ち、関門海峡を通るアメリカの商船ベンプローク号を砲撃しました。
以降、フランスやオランダの船にも砲撃を加え、長州藩は外国船を撃ち払うことに成功しました。
しかし6月1日、列強の反撃が始まります。
アメリカ軍艦ワイオミング号が関門海峡に現れ、長州藩は亀山砲台と彦島砲台砲撃しますが、砲弾は届きません。
海峡に入ってきたワイオミング号は、艦砲射撃で亀山砲台を破壊し長州藩の軍艦を戦闘不能に追い込みました。
6月5日には、フランスの軍艦2隻がやってきて、前田、壇ノ浦の砲台は壊滅的な打撃を受け、フランス軍250人が前田に上陸。
砲台を占拠され、村に火を放たれるなど大敗を喫することになりました。
下関での敗北は、萩城にいた藩主毛利敬親にもすぐ報告されました。
敬親は、下関の海の守りに萩から25歳の高杉晋作を送り込み、晋作は身分を問わない有志による軍隊「奇兵隊」を結成します。

翌年、四カ国連合艦隊が来襲(下関戦争)彦島も

関門海峡で外国船打ち払いを決行した翌年、元治元年8月、四カ国連合艦隊(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)17隻が下関に来襲しました。
8月5日から7日のわずか三日間で、嵐のような攻撃を受け、7日には彦島の砲台は群は集中攻撃を受け陸戦隊に上陸され、大砲60門を奪いとられました。
長州藩の砲台はことごとく破壊され、多くの外国兵の上陸を許し、長州藩は敗北しました。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より

Posted on 2018/06/22 Fri. 12:03 [edit]

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彦島のいわれについて 

■彦島のいわれについて
 
 彦島という地名は、その昔に日本書紀の仲哀記に「引島」とある。
歌人源俊頼朝臣(1124~?)の「袖中妙」(しうちゅうしょう)にも「ひくしま」と読んでいる。
吾妻鏡(あずまのがかみ)(1260~1266)に初めて「彦島」とあり、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)(1250~)に「長門の国彦島という所に白を構えたりこれをば引島とも名づけたり」とあって「彦島」とも「引島」ともいっている。
 島は一時豊前領であったが、元和六年(1620)長府藩主毛利秀元と小倉城主小 笠原忠政の協議によって、長府領であった「門司」と小倉領であった「引島」とを交換したともいわれ、その後、文久年間(1861~1863)に毛利藩主は「引」は 武事に忌むとして「彦島」に改められた。

■引島と彦島
 
◆引島
  古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて 外海と内海の潮が行き来していた。
いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門」と呼んだ。 日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。 後に山口県の西半分を長門の国というようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」になまったのだと云われている。
約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后がのお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たといわれている。 このとき、海に落ちた下関と門司の間の山は、激しい急流に押し流されて西へ流れ一つの島になった。 ちょうどそのありさまが、海峡を作るために山が引きさかれたように見えたのでそひくしまの島を「引島」と名づけたそうである。

◆彦島
 今一つの説は、神代の昔、ヒコホホデミノミコトという神様が天から降られてお兄さんから借りた大切な釣り針で魚釣りをしていたところ、その釣り針を魚に取られてしまいしまった。
それを探すために海士(あま)になって海に潜り、龍宮へ行かれたという神話があります。
 このヒコホホデミノミコトが天から降られて海士になったところが彦島の海士郷(あまのごう)だといわれるし、ヒコホホデミノミコトゆかりの島という事で彦島と呼ばれるようになったという説もある。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2018/06/21 Thu. 10:48 [edit]

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境内にある7つの岩の解読 

■境内にある7つの岩の解読

 以上の解読により杉田丘陵した海岸神殿のものと見られるこれら7個の岩は「日の神や大地の女神、大気の神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王(日子王=古代彦島の王)が祈り奉った」と解釈できる。
「泳ぐ岩」1個ならまだしも、多くのペトログラフが三菱下関造船所前から見つかり、造船所構内からも出土しているところからも、古代には、杉田丘陵頂上の彦島神殿の他に、これを遥拝する形での「彦島第二神殿」とでも言うべきものが、現在の三菱造船所前小公園あたりの海岸部にあった事が推定できるのである。

■彦島宮の原遺跡
 
 境内には、昭和33年8月に、山口大学考古学小野教授(当時)発見による宮の原遺跡があり、縄文前期後期の土器や石族、石斧、石錘、石砥等三千余点が出土し、古代人の居住が確認された。
  昭和34年に発掘調査が行われ、「曾畑式土器」が多く出土した。
  その多くは、下関考古学資料室に委託収容されている。
※曾畑式土器とは、熊本県宇土市曾畑貝塚から出土する土器を指標として名づけられた


彦島八幡宮HPより

Posted on 2018/06/20 Wed. 11:59 [edit]

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彦島八幡宮にあるペトログラフ 

■彦島八幡宮にあるペトログラフ

 彦島八幡宮境内にベトログラフのある神霊石が、安置されたのは、昭和57年5月の事である。
  もともと境内にあるものが発見されたのではなく、運び込まれたものである。

◆不思議な庭石
山陽町のある家の庭でペトログラフの岩四個が見つかった。
  実は、下関造船所前の道路工事の折り、大きな岩十個が出土したので、庭石用にと貰い受け自宅に運んだ。
  ところが、原因不明の不幸な出来事が相次いでおこり、「もしやあの岩に何かあるのでは?」と調べてみると、ペトログラフが検出、解読された。
  そして、「泳ぐ岩」のかたわら、彦島八幡宮境内に安置され、いわば、下関造船所前から出土の岩が集合した事になる。

◆泳ぐ岩
 彦島江ノ浦町6丁目の三菱重工業(株)下関造船所のドックと巌流島の海底を、いつも移動している岩があり、進水式のたびにその岩が、泳いで来て邪魔をするので、「あの泳ぐ岩は何かの神霊(しんれい)の宿るものだ。祟り(たたり)のないよう引き上げてほしい。」という事になり、昭和57年4月に境内に安置された。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2018/06/19 Tue. 10:11 [edit]

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ペトログラフとは… 

■ペトログラフとは…

 ギリシャ語で、ペテロ:peteroは、岩を意味し、グラフ:graphは、 文様や文字を意味する。 古代人が岩石に刻んだ文字や文様の事で、「原初文字」と言われるものである。
ペトログラフの研究は、今世界的に広がっていて、日本でもたくさん発見され、6,500年前には、文字を使う人々がこの列島にいた事が事実として受け入れられている。

■彦島のペトログラフ
 
◆彦島杉田遺跡
 関門海峡の「武蔵・小次郎の決闘の場」として有名な巌流島を真下に見下ろす形でこんもりとした丘陵、それが、杉田丘陵である。 その頂上に1メートル角大の岩が数個あり、最も大きい平たい岩に不思議な絵とも文様ともつかぬものが見つかったのは、大正13年(1,942年)の事であった。
「恐れの杜」(おそれのもり)、「祟り岩」(たたりいわ)と呼ばれたり、「こっそりと願い事をすると叶えられる岩」として地元では、よく知られていた。
 杉田丘陵は、関門海峡を見渡し、反対側の響灘の一部も見渡せる場所であるため、古来、戦略上の重要拠点であった。
◆杉田遺跡は、「彦島神殿」か?
 この遺跡の岩から、合計三十個のペトログラフが検出され、それらの文字は、セム語系(シュメール、バビロニア文字)と北方ツングスのエニセイ文字系のものが入り混じったものである事が指摘された。 その多くの文字は、紀元前2千年から紀元300年頃までの幅広い年代のもので、発掘品がないために、絶対年代の特定は出来ない。
 しかし、「古代のいつの時代か、シュメール文字を知っていた集団が何らかの形で彦島に上陸し、祭祀(さいし)をした神殿ではないか。」と推定する学者もいる。


彦島八幡宮HPより

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Posted on 2018/06/18 Mon. 12:26 [edit]

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口碑伝説 

■口碑伝説
 
◆光格殿と彦島八幡宮の発祥
 保元二年(1157)十月のある日いつもの如く沖に出て漁をしていますと一天俄にかき曇り末甲の方角の海上に紫雲たなびき海中より日月の如く光輝く物があるのを見て、通次等は不思議な思いで網を打って引き揚げるとそれは一台の明鏡でありました。しかも鏡の裏には八幡尊像が刻まれていたのです。通次等は大いに喜び、之は我ら一族の護り本尊であると、海辺の一小島(後記の舞子島)の榊に一旦鏡を移し、その後祠を造営して鏡を納め光格殿とと命名しました。これが当八幡宮の発祥であります。
又舊記に海底より光り輝く物があり河野一族等鉾にて之を突きし八幡尊像の左眼がささりて賜りたりと云々何れが真か確証しがたい。

◆舞子島より現地へ遷座
 正平四年(1139)二月三日夜、河野通次四代の孫・道久の代に八幡大神の御託宣があった。即ち「里より四丁、酉の方に平地あり、是れ我れが鎮座の地なり」と。道久恐懼して直ちにこの平地を開き社殿を造営して、同年五月下旬竣工遷宮の式を行い、社地名を宮ノ原と称した。これが現鎮座地であります。

◆舞子島とサイ上リ神事
サイ上がり神事
永暦元年(1160)十月十五日先に小川甚六・柴崎甚平に命じて森の楠で刻ませた八幡尊像を光格殿に奉納し通次は甲胄を着して弓を取り郎党、家人に榊を持たせ社前に拝し、武運長久と一族の繁栄を祈りて後、大いに舞い踊り、我等が守り本尊「サァ揚らせ給う」と大声にてとなえたと云い故にこの一小島に舞子島と云うようになりこれがサイ上リ神事の始まりとなりました。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2018/06/16 Sat. 10:46 [edit]

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仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑と霊木弓 

■仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑と霊木弓
 
 人皇第十四代仲哀天皇(193)は容姿端正身丈十尺に及び体格は自ら人を威圧する感あらせ給ふ。
天皇即位二年三月九州は日向、大隈、薩摩地方に蟠居せる熊襲の僻地を利し皇威に叛くの報いに接し、天皇直に舟師と率いて遠く九州の地へ御親征の議決し給い、聖駕を穴門豊浦に進め給う。神功皇后は天皇の勅に依り、御後を追われ七月五日豊浦津に来りて宮室を興し熊襲平定の策を譲り給へり。天皇即位八年、計畫全く整い春正月船を筑紫に南下の途上筑紫の豪族伊都縣主祖五十跡手と云う者、天皇の御船を穴門の引島の原(現彦島八幡宮所在地)の地に奉迎、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献じて戦勝を祈り、征虜の辛酸を慰め奉れり。天皇大いに其の志を嘉し給い「伊蘇志」の名を忠勤を賞で給う。
(日本書記仲哀記)

此の時天皇の御弓を立て掛け給いし松を「霊木弓立松」と云っております。現在その松の古株と石碑があります。其の後天皇は、橿日宮(香椎宮)に行宮を定め給い、鋭意、熊襲親征に力を注ぎ給いしも成果はかばかしからざる内、俄に陣中に病を得させ給い、橿日の宮に崩御遊され給いき。皇后は大臣、武内宿禰と議って其の喪を秘し皇軍の志気を保ち天皇の素志を続ぎ給い、船路遥に新羅の本城を衝き遂に熊襲の後路を経ち、九州を洽て平定なし給へり。社頭に、英邁果敢なる仲哀天皇の蹕を駐め給へる聖地を持つは当宮又、彦島の誇りなり。


彦島八幡宮HPより

Posted on 2018/06/15 Fri. 09:52 [edit]

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彦島八幡宮 御由緒 

■彦島八幡宮 御由緒
 
 当宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされたのであります。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったと云われる事から造船、漁業関係者の崇敬が厚く、又、安産の神として別名子安八幡と崇められて併せて式神、文化神、生産神として御霊験あらたかな神様であります。尚、秋の例大祭「十月二十一日」には八百四十余年伝来の無形民俗文化財「サイ上リ神事」があり由緒の深さを示しております。

■河野通次の来島と彦島十二苗祖
 
 河野通次は人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。


彦島八幡宮HPより


Posted on 2018/06/14 Thu. 10:25 [edit]

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平家踊りの歴史 

平家踊りの歴史


 この踊りは、寿永の昔平家終焉の哀史以来、壇之浦において御入水遊ばされた安徳天皇の霊をお慰めすると共に、平家一門供養のために源を発したと言い伝えられ、先帝祭花魁道中(せんていさいおいらんどうちゅう)と共に下関市観光行事の双璧としての由緒ある踊りとして現在に伝承されております。

 三味線、音頭、太鼓、踊りの渾然一体となった速いリズムが醸し出す力強いエネルギーは、恰も関門海峡に渦巻く潮流のうねりの如く、馬関・下関の歴史を現在、そして未来へと伝えます。

 今日、この踊りは郷土芸能として広く下関市民に親しまれるばかりでなく、古くは大阪の万国博や沖縄の海洋博はもとより、国内大行事は申すに及ばず、フランスニースの国際カーニバルにも招待され、最近ではトルコ国イスタンブールにおいて開催されたジャパンウイークフェスティバル(2003年)の他、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国でも公演・出演するなど、その名声は国際的にも高く評価されております。


下関平家踊り保存会ホームページより

Posted on 2018/06/13 Wed. 11:43 [edit]

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福浦港・一本道の灯台 

ロケ地ガイド

《福浦港・一本道の灯台》

カーテンコール

昭和の街かどへタイムトリップ
昭和30年から40年そして、現在の下関を舞台に撮影された映画「カーテンコール」。
舞台の7割が下関で、下関駅周辺・カモンワーフ・唐戸ボードウォーク・豊前田・茶山通り・長府地区・彦島地区等、過去から現在の下関がふんだんに映像に取り込まれています。

ストーリー

出版社で見習い記者を勤めながら正社員を目指していた香織(伊藤歩)はふとした事件をきっかけに九州のタウン誌に異動を命じられる。そこで香織を惹きつけた1通の匿名のはがき。このはがきの内容を記事にするために香織は取材を始める。取材を続けるうち昭和の映画全盛の時代に下関のみなと劇場で幕間芸人という仕事に就いていた男(修平:藤井隆)とその家族の数奇な運命に心動かされ、ついに親子探しの旅に出る。佐々部清監督が父、娘、そして家族を暖かく見つめながら描く感動の秀作。
 昭和30年代から40年代にかけての描写にはモノトーン映像が使われるが、スクリーンには昭和の歴史を物語る日本映画の数々が鮮やかなカラーで浮かび上がる。日本版「ニューシネマパラダイス」。

監督 佐々部清
出演 伊藤歩・藤井隆・鶴田真由・奥貫薫・井上尭之・藤村志保・夏八木勲ほか
音楽 藤原いくろう

福浦港・一本道の灯台

修平と良江(奥貫薫)のキスシーンの場所。以来ここで告白すれば必ず叶うといわれてきましたが…。

所在地 下関市彦島福浦町1丁目26番
交通 JR下関駅からバス18分
「福浦本町」バス停下車、徒歩5分

下関市ホームページより

Posted on 2018/06/11 Mon. 10:57 [edit]

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新栄湯 

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新栄湯

また入り口が特徴的な明治時代創業のお風呂屋さん「新栄湯」を覗くと、今でも昔のままの番台やロッカー、お風呂場が残っていました。
当時は海軍の兵隊さん方が揃って入浴しにきていたそうです。
先代のお父様が毎日毎日綺麗に掃除していたため、大正時代とは思えないほど綺麗に残っていました。
10年前にお風呂は閉めてしまったそうですが、現在はギャラリーとして古布を使った人形や洋服などが展示販売されていました。

やまぐち自慢ですよ(下関市彦島)2012.07.28より


新栄湯

下関市彦島本村。
創業はなんと明治。
大正時代を経て激動の昭和をくぐり抜けた銭湯だとか。
十数年前に廃業となり今では地域のギャラリー等で利用されていると言う。
未だ男湯、女湯の入口を残しその風情を感じることができる。

銭湯へ行こう( #銭湯へ行こう ) より

Posted on 2018/06/10 Sun. 11:33 [edit]

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清盛塚 

清盛塚


源平壇ノ浦の合戦前に、平家軍が砦を築いていたとされる場所。
平知盛が、父、清盛の霊を慰めるため、無銘の碑を建てたといわれている。
福浦湾を一望できる場所。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より

Posted on 2018/06/08 Fri. 10:22 [edit]

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平清盛 墓所 

平清盛 墓所


以下が清盛の墓所として伝わっている。

神戸市兵庫区北逆瀬川の宝積山能福寺
神戸市兵庫区切戸町の清盛塚(供養塔)
京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町の補陀洛山六波羅蜜寺の平清盛塚
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨山大覚寺(旧嵯峨御所大覚寺門跡)の塔頭寺院である祇王寺の供養塔
山口県下関市彦島の清盛塚


ウィキペディアより

Posted on 2018/06/07 Thu. 09:46 [edit]

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平家踊り 

平家踊り


 京の都で権勢を誇った平家一門も、源氏に追われ、ついに下関の壇之浦(だんのうら)で短い栄華の夢を閉じます。

 平家踊りは、この戦いで敗れた平家一門の供養の踊りに源を発し、加えて港町という地域性から全国各地の踊りが融合されつつ、現在のスタイルになったといわれています。
 軽快なリズムを刻む二上りの三味線と、高低二種類の勇壮な太鼓と空樽(からだる)からなる囃子方(はやしがた)をバックに、七七調を基本とした口説き節の音頭がリードします。
 また、踊りは、手を胸より上で交互に繰るような動きを基本としていることから「糸繰り式」と言われ、11拍子という奇数拍子で踊る点が特徴です。

 市内各地の夏祭りや盆踊り、小中学校の体育祭でも踊られ、親しまれていますが、中でも市内最大の夏祭りである「しものせき馬関まつり」総踊りでは、数千人を超える踊り手が会場を埋め尽くし、見るだけでも平家踊りの魅力、太鼓のリズムの迫力を実感していただけるものと思います。

 国内各地はもとより、フランスのニース国際カーニバル出演をはじめ、中国、ロシア、韓国、アメリカ、オーストラリア等海外公演にも数多く出演し、山口県を代表する郷土芸能として注目を集めています。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/06/06 Wed. 10:36 [edit]

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