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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

体育館 

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Posted on 2017/07/14 Fri. 10:00 [edit]

category: 彦島あれこれ

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14

清盛塚があった 

清盛塚があった


昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」

私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。

翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。

清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。

これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。

「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。

冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/11 Tue. 10:34 [edit]

category: 彦島あれこれ

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11

高杉晋作 

高杉晋作


東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」

その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。

元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。

この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。

相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。

高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。

慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。

彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/10 Mon. 12:12 [edit]

category: 彦島あれこれ

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10

平家踊り 

平家踊り


この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。

この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。

それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/09 Sun. 10:53 [edit]

category: 彦島あれこれ

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09

西楽寺 

西楽寺


専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。

その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。

時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。


ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/08 Sat. 10:22 [edit]

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08

専立寺 

専立寺


本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。

その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。

その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。

その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/07 Fri. 10:51 [edit]

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07

杉田古墳 

杉田古墳


江ノ浦桟橋通り、といっても二十年も前から桟橋はなく、バス停だけが残っているに過ぎない。
その停留所から山手に入れば、嘗ての遊郭街の名残を留める桜町。
そこから、杉田へ抜ける急坂は昔の幹道で、地蔵峠(じぞうだお)と呼ばれてきた。それは、本村の地蔵峠と同じ呼び方であるところから、鎌崎の峠とも杉田の坂とも呼ぶが、この峠の東寄りの丘に杉田古墳がある。
大きな石が三つ、肩を寄せ合うように南へ向けて据えられている。

一つは、ほぼ正方形で、絵のようなものが刻まれているが風雨にさらされて何を描いたものか判然としない。
恐らく四人の人物で、中央は女性であろうと推定されている。その東には一段高い位置に臥牛の形をした石が置かれ、前面には三角形の平石が据えてある。
周囲には、3、40センチ程度の石も置かれているが、何か意味ありげに見える。

下関市史によれば、これは「岩刻絵画」と呼ばれ、「墳形不明」となっている。
昭和初年、当時この丘一体を所有していた旧家、百合野忠美氏が、石に刻み込まれた絵を見て、「古墳ではないだろうか」と、彦島町教育委員会に調査を依頼した。
町では、県や市の協力を求めてつぶさに調べた結果、この付近では珍しい岩刻古墳であることが判った。

この丘には同じような石があちこちに建てられていたが明治の頃、宅地造成などによって破壊されたと、百合野氏は古老に聞いたことがあるというが、それでも同氏が幼少の頃いは、まだ何ヶ所か残っていたそうである。
それも、どの場所も共通して大岩が三つずつ置かれてあって、その中央には丘の頂から母屋へ向けて殆ど一直線となるように八つの平石が、ある間隔をおいて並べてあったので、不思議でならなかったと述懐していた。
しかし、それからも、大正の半ば頃から、心ない石屋たちによって密かに持ち去られはじめ、かろうじて残されたのが、彦島唯一のこの古墳である。

多くの貴重な文化遺産は、いつの時代でもひとびとの無知と無関心と、利害によって失われるもので、かつては、老の山の西麓や、福浦の鋤崎あたりにも、それらしい墳墓があったと云われているが、今となっては探すすべもない。

現在、杉田古墳には「高貴古墳之霊石」と書いた立て札が設けられ、板囲いも施されて近寄ることは出来ない。
炎暑に照らされ、雨に打たれ、雹に叩かれ、千五百年という永い年月に耐えてきたこの古墳の絵画は、これからも風雨にさらされて、ますます識別しにくくなるに違いないが、一応、往古のままに保存だけはされている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/06 Thu. 16:50 [edit]

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06

化石層を守る 

化石層を守る


おそまきながら、ほんの一部分だけ下関の文化財に指定はされたが、他は荒れるにまかされ、あるいは埋め立てられ、年々減少しつつある彦島の貝化石が、秋吉台の一角で大切に保存されていることを知り、何だか身内のものが旅先で思わぬ親切を受けたような感激に胸を熱くした。

ところで、彦島西山地区の化石床で現在までに確認されている古生物の化石は31種類以上を数えることができるという。
その主なものは二枚貝、巻貝、つの貝、まて貝、サメの歯や背骨、それにウニなどがあげられる。
中でも「ビカリヤ」と呼ばれる巻貝の仲間は、もともと南方の海に棲んでいた貝であるから、2500万年前のこの付近の海は、かなり暖かかったと推定されるのである。

この化石床の規模の大きさに驚き、その愛護運動にいち早く取りかかったのが地元の玄洋中学で、昭和35年のことであった。
それは、市が文化財に指定する十年も前のことで、生徒会や学区会が中心となって『西山化石層愛護班』を作り、巡回を繰り返してきたという。
中学生たちによる自発的な愛護運動を知ってか知らずでか、西山地区の海浜地形が急速に変っていったのは、その十年近い年月の中であった。

舞子島も丸山も、削られ埋められて、天下の良港と呼ばれた南風泊も漁港団地に造成され、「驚くべき規模の化石層」の大部分はその下に眠ってしまった。
だから「化石を採取すれば罰せられます」と書いた立て札がやけにしらじらしく見えるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/05 Wed. 10:12 [edit]

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05

縄文遺跡 

縄文遺跡


彦島に人間が住み着いたのは、一体、いつ頃であろうか。
今、はっきり確認しているところでは、縄文時代の前期の前半の遺跡として現在の彦島八幡宮附近に住居の跡があるので、紀元前七千年頃ということが出来よう。

そして前期の中葉にかけて使用されたと思われる多くの土器も出土しているが、この前半および中葉の遺跡は「彦島の宮ノ原遺跡」と呼ばれている。

また、六連島南端からも縄文時代の出土品や遺構が発見されているが、こちらは縄文後期及び晩期に属するものと見られ、「六連島遺跡」と名付けられている。
縄文後期末は紀元前四千年頃に当たる。

宮ノ原遺跡は、老の山山麓から西にのびた砂州で、彦島八幡宮の境内がその中心である。
ここに初めて発掘調査のメスを入れたのは山口大学の小野博士で、昭和34年のことであった。
宮ノ原遺跡の特長は、当時この住居地では何度か地盤沈下が繰り返され、その度に新しい文化が、礫層、海成砂層、風成層、地表などの上に根付いたことで、小野博士はこれを大きく二分し、「宮ノ原下層式土器」と、「上層式土器」と、それぞれ命名した。

すなわち縄文早期の末頃は磯浜であったものが、前期の前半には砂が堆積して老の山の西麓には低い砂嘴が出来て、ここに九州の曽畑式土器を携えた民族が住み着いた。
その後、海水上昇により住居は水没したが、やがて海退して以前よりも大きな砂嘴が出来上がると、また中期後半の人々が住み着き、狩や漁業を営んだ。

ところがまた、後期前半の頃、再び海面が上昇し彼らの住居は水没した。
このようなことが何度か繰り返されて現在の迫、西山地区の地形がつくられたのではあるが、ここで特筆すべきは、姫島産の黒曜石による石器の破片が、実に135点も発見されたことである。
更に、伊万里産と推定される破片も若干ながら出土しているという。

これらの発掘品に完全なものは全くなく、破片ばかりで、その文様も極めて単純なものが多く、しかし、土器の焼成は比較的良好であるといわれている。
宮ノ原遺跡も六連遺跡も、瀬戸内海の縄文文化と、朝鮮から九州に渡来したした文化とが合流していたことが考えられ、度重なる局地的な地盤運動によって、人々は絶えては栄え、栄えては絶えて弥生時代に入っていった。

しかし、彦島では現在まで、弥生遺跡は全く発見されていない。
藩制時代から開発されつづけてきたこの島は、いつの頃か、無頓着のままに破壊されてしまったのかもしれない。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/04 Tue. 11:10 [edit]

category: 彦島あれこれ

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04

水雷発射管 

水雷発射管


この浜辺は、水雷発射管の跡地として、戦前まではかなり知られていたところである。
また、幕末攘夷戦に於いて活躍した弟子待砲台や山床砲台も、すぐこの近くにあった。

水雷発射管は、ロシアのバルチック艦隊襲来にそなえて明治35年に建造されたものである。
それはロシア艦隊が関門海峡に近づくことに対しての、いわば本土決戦体制であった。
即ち、バ艦隊が本土に近づいた場合には、まず老ノ山砲台がこれを撃破するが、もし突破された場合には、田ノ首の砲台山と海軍山で砲撃し、次に弟子待の水雷発射管が活躍する。
それでも駄目な場合には火ノ山砲台と門司の和布刈が撃滅する手筈になっていた。

そのため、弟子待では、一度だけ実弾演習を行ったところ、兵隊の多くが鼓膜を破ってしまったので、和布刈では演習を取りやめる羽目になったという。
因みに、門司の和布刈は、当時、下関要塞司令部の管轄であった。

結局、日露戦争は日本海海戦で終止符を打ち、関門海峡へ敵艦を迎えることはなかったが、老ノ山砲台や六連島砲台はかなり活躍した。

その時の模様を明治29年生まれという竹ノ子島の瓜生さんは記憶をたどりながら、こう話してくれた。
「何人か忘れたがのう。ロシアの兵隊が溺れて、この瀬戸を流れたもんじゃ。そこの突き出しの浜でも一人打ち上げられてのう」

ところで、現存の発射管は、赤レンガ造りの短いトンネルだけで、その前面には幅3メートル、長さ約50メートルの突堤が海峡に延びているにすぎないが、七十余年前の当時としては帝国海軍の頭脳を集めた堅固な要塞の一つであったことであろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/03 Mon. 12:43 [edit]

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03

平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/07/01 Sat. 09:52 [edit]

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01

清盛塚があった 

清盛塚があった


昭和49年11月28日夜は、久し振りに快い興奮でなかなか眠れなかった。
ここ何年か、彦島に関する新しい発見に縁のなかった私に、突然ある人が電話を下さったのだ。
「江ノ浦に清盛塚というのがありますが、御存知ですか。貴方が探しているという平家塚がこれではないかと思いまして…」
電話の主は、新しく下関市役所彦島支所長として赴任されて、まだ一ヶ月しか経たない前田勲氏である。彦島に来たからには、少しでも多くの彦島を知ろうと、あちこち歩き回って調べているとのことで、その熱心さが声に満ち満ちていて溢れそうであった。
「清盛塚、とはっきり書いてありますし、すぐそばには地鎮神と彫られた石塚もありますよ。行ってみられたら如何でしょうか」

私のまったく知らないことであった。
思わず受話器を強く握り締めたが、カーッと頭に血がのぼる興奮を抑えながら、私は、その場所を確かめた。
地理的に、やや説明しにくい所であるらしく、あまり要領を得なかったが、すぐにでも走って探しに出かけたい衝動をこらえながら、ていねいにお礼を述べて電話を切った。

翌日私は、杉田古墳の当たりに見当をつけてその付近のひとびとに訊ねたりしたが、誰も知らない。
林に入り、藪に入り、あちこち、ごそごそと歩き回って何度も犬に吠えられているうちに、ふと「そばに椿の木が何本かありましてね」との前田氏の言葉を思い出した。
古墳の西側の小丘は「ノジ」と呼ばれている。私はその丘に移って、背丈ほどの大藪をかき分けて探した。
ところどころ山芋を掘ったあとがあり、その穴に落ち込んだりしながら、ふと見上げると椿の大木があった。

清盛塚はその椿の根元に、ひっそり建っていた。
ノジの丘のこんもり繁った森の中である。
約90センチの高さの自然石にはっきりと「清盛塚」と掘られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座をもった「地鎮神」と刻んだ石も建っている。
このほうは約1メートル50、背に榊を繁らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこここに咲いていた。

これが古くから伝えられている「平家塚」であろうか。
刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい百五十年位であろうか。
しかし「地鎮神」の碑の背面をよく見ると、殆ど読み取れないが確かになにか彫ったあとがある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字であることには間違いない。

「古くから伝えられている平家塚を、誰かが裏返して、新しく刻字したものではないでしょうか」
その夜、私は、前田氏にそんな手紙を書いた。

Posted on 2017/06/30 Fri. 11:37 [edit]

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30

鶴と雁とヒヨドリ 

鶴と雁とヒヨドリ


田ノ首の突端に「カネガツル」と「金のツル」という面白い地名がある。
この「ツル」は、弦、蔓、鶴、釣と、いろいろな字が当てられ、それぞれにふさわしい話がある。

中でも「鶴」にまつわる話は多い。ということは、昔は彦島にも鶴が渡来していたと想像できる。
ところが最近、面白い話を聞いた。
「田ノ首に鶴が来よったのは、つい五、六年前までで、毎年、決まったようにワシの田にやって来たものじゃ。それも、僅か一週間で、たいていは二羽か四羽くらい。
陸塩田でワシが田んぼを打ち起こしていると、必ず10メートルくらい向こうに一定の距離をおいて、ドジョウか何か、エサをついばみよったが、それが可愛ゆうてのう」
必要なこと以外は殆どしゃべらないという無口で有名な田ノ首の中村吉五郎氏が、ポツリポツリと、こんな話をしてくれた。
陸塩田は数年前に埋め立てられて、仮称山中団地として生まれ変わりつつある。

毎年、必ず渡来の途中に立ち寄って遊んでゆく鶴たちの習慣がなくなり「どこでエサを探すものやら、可愛そうにの」と中村氏は嘆息する。
だが、鶴だけではなく、多くの野鳥が彦島から姿を消してしまったのも事実。

雁も、ほとんど見られなくなったものの一つ、つい何年か前までは、夕焼けに染まって雁の編隊飛行が見られたものであった。
元禄時代に書かれた「赤間関十景」にも、彦島の背に飛び立つ雁の群れが描かれ「曳島落雁」と題してある。

毎日新聞の河谷日出男氏が出した「私の博物誌」のヒヨドリの項をひもといてみると、そのコースに彦島が入っている。
そういえば海峡を行き交う大型船の間を縫って、海面すれすれに群がって飛んでいるさまを、よく見かけたものであった。
「秋、かなりの群れが本州から南下して下関の彦島経由、九州に来て冬を越す。そして四月、門司の部崎燈台裏山に集結、下関市の小月で休み北上する。この関門海峡コースが主流のヒヨドリロード」と河谷氏は書いている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/06/29 Thu. 11:23 [edit]

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化石層を守る 

化石層を守る


おそまきながら、ほんの一部分だけ下関の文化財に指定はされたが、他は荒れるにまかされ、あるいは埋め立てられ、年々減少しつつある彦島の貝化石が、秋吉台の一角で大切に保存されていることを知り、何だか身内のものが旅先で思わぬ親切を受けたような感激に胸を熱くした。

ところで、彦島西山地区の化石床で現在までに確認されている古生物の化石は31種類以上を数えることができるという。
その主なものは二枚貝、巻貝、つの貝、まて貝、サメの歯や背骨、それにウニなどがあげられる。
中でも「ビカリヤ」と呼ばれる巻貝の仲間は、もともと南方の海に棲んでいた貝であるから、2500万年前のこの付近の海は、かなり暖かかったと推定されるのである。

この化石床の規模の大きさに驚き、その愛護運動にいち早く取りかかったのが地元の玄洋中学で、昭和35年のことであった。
それは、市が文化財に指定する十年も前のことで、生徒会や学区会が中心となって『西山化石層愛護班』を作り、巡回を繰り返してきたという。
中学生たちによる自発的な愛護運動を知ってか知らずでか、西山地区の海浜地形が急速に変っていったのは、その十年近い年月の中であった。

舞子島も丸山も、削られ埋められて、天下の良港と呼ばれた南風泊も漁港団地に造成され、「驚くべき規模の化石層」の大部分はその下に眠ってしまった。
だから「化石を採取すれば罰せられます」と書いた立て札がやけにしらじらしく見えるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/06/27 Tue. 11:19 [edit]

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杉田古墳 

杉田古墳


江ノ浦桟橋通り、といっても二十年も前から桟橋はなく、バス停だけが残っているに過ぎない。
その停留所から山手に入れば、嘗ての遊郭街の名残を留める桜町。
そこから、杉田へ抜ける急坂は昔の幹道で、地蔵峠(じぞうだお)と呼ばれてきた。それは、本村の地蔵峠と同じ呼び方であるところから、鎌崎の峠とも杉田の坂とも呼ぶが、この峠の東寄りの丘に杉田古墳がある。
大きな石が三つ、肩を寄せ合うように南へ向けて据えられている。

一つは、ほぼ正方形で、絵のようなものが刻まれているが風雨にさらされて何を描いたものか判然としない。
恐らく四人の人物で、中央は女性であろうと推定されている。その東には一段高い位置に臥牛の形をした石が置かれ、前面には三角形の平石が据えてある。
周囲には、3、40センチ程度の石も置かれているが、何か意味ありげに見える。

下関市史によれば、これは「岩刻絵画」と呼ばれ、「墳形不明」となっている。
昭和初年、当時この丘一体を所有していた旧家、百合野忠美氏が、石に刻み込まれた絵を見て、「古墳ではないだろうか」と、彦島町教育委員会に調査を依頼した。
町では、県や市の協力を求めてつぶさに調べた結果、この付近では珍しい岩刻古墳であることが判った。

この丘には同じような石があちこちに建てられていたが明治の頃、宅地造成などによって破壊されたと、百合野氏は古老に聞いたことがあるというが、それでも同氏が幼少の頃いは、まだ何ヶ所か残っていたそうである。
それも、どの場所も共通して大岩が三つずつ置かれてあって、その中央には丘の頂から母屋へ向けて殆ど一直線となるように八つの平石が、ある間隔をおいて並べてあったので、不思議でならなかったと述懐していた。
しかし、それからも、大正の半ば頃から、心ない石屋たちによって密かに持ち去られはじめ、かろうじて残されたのが、彦島唯一のこの古墳である。

多くの貴重な文化遺産は、いつの時代でもひとびとの無知と無関心と、利害によって失われるもので、かつては、老の山の西麓や、福浦の鋤崎あたりにも、それらしい墳墓があったと云われているが、今となっては探すすべもない。

現在、杉田古墳には「高貴古墳之霊石」と書いた立て札が設けられ、板囲いも施されて近寄ることは出来ない。
炎暑に照らされ、雨に打たれ、雹に叩かれ、千五百年という永い年月に耐えてきたこの古墳の絵画は、これからも風雨にさらされて、ますます識別しにくくなるに違いないが、一応、往古のままに保存だけはされている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

Posted on 2017/06/26 Mon. 10:38 [edit]

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