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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

龍宮島物語 

龍宮島物語


いまから二千年前の大昔のこと、安岡の北福江というところの沖合いに、龍宮島という島国があり、玄海王という王様が支配していました。

玄海王は大変わがままな王様で、なんでも自分の思い通りにならないと、すぐ家来たちの首をはねてしまいます。
今度もまた、自分が月見をするために、大きな望楼を作ることを家来たちに命じました。
家来たちは王様の御機嫌をそんじては大変なことになるので、さっそく島に住むすべての若い男を人夫としてかり集め、雪解けはじまる春先から工事を進めることにしました。

この人夫の中に、結婚して間もない弥次郎がいました。
弥次郎が働き者なら、その妻の久留見もなかなかの働き者で、その上島でも指折りの美人でした。
幸せの二人もいよいよ別れるときがきました。妻の久留見は、涙ながらに愛する夫を峠まで送っていきました。

家にただ一人残された久留見は毎日心細い日を送っていましたが、出発のさい、夫の弥次郎が庭の一本の楡の木を指差して、
「この木の梢に青葉が繁る頃にはかならず帰ってくるから…」
と、いった言葉を、せめてもの頼りとして待ちわびておりました。

望楼は、毎日、毎日少しずつ高くなっていきます。
弥次郎が出発して二ヶ月たち、三ヶ月たち、そして心の支えだった楡の梢に若葉が繁っても、いとしい夫からはなんの便りもありません。

そのうち望楼は完成し、玄海王は盛大な月見の会を開きました。
やがて黄色く色づいた楡の葉が、はだ寒い秋風にハラハラと散る頃なって、夫の帰りを待つ久留見は、毎日気が気ではありませんでした。

こがらしの吹く頃となりました。
たまりかねた久留見は夜を徹して夫の冬着を作り上げ、それを背負い、夫を探しに出発しました。

険しい山坂を越え、やっと目的地に着きました。
久留見は城壁の周りを夫の名を呼びながら探しましたが、ついにめぐりあうことはできません。
疲れがどっとでて道端の石に寄りかかっていると、一人の老人が心配して声をかけました。
一部始終を老人に打ち明けました。
老人は聞き終わると悲しそうな目をしながら、
「お前さまには、大変気の毒なことだが…、その弥次郎という男はの…、望楼を作るさい人柱にされたのじゃ…」
と、老人も最後には、目に涙をいっぱいためにがら久留見に話してやりました。

久留見はもう怒りと失望のあまりドッと地面に泣き伏しました。
涙があとからあとから流れ出て、三日三晩泣き続けました。
その涙は滝のごとく大川のごとく、ものすごい音を立てて城壁の下を洗い、ついに城壁の一部が激しい音とともに崩れ落ちました。

その物音にふと我に返った久留見は、自分の前に恐ろしいものを見たのです。
それは、人柱にされた夫の亡骸でした。
久留見の嘆きは以前にも増し、ただ気も心もつきはてて夫のそばに泣き崩れるだけでした。

このとき、久留見のようすを望楼の上で見ていた男がいました。
それは、望楼の築造を玄海王から命ぜられた位の高い家来で、久留見の美しさが人並みすぐれているので、王様の奥方にしようと密かに考えていたのです。

そこで、悲しみに泣き崩れている久留見を無理やりにお城に運び込み、玄海王にその事情を話しました。
王様は久留見のあまりの美しさに心をうばわれ、自分の后になるように申し出ましたが、久留見はもちろん断りました。
しかし断れば殺してしまうと脅かされ、それならばと一計を考え次のように申し出ました。
「故郷を眺めることのできる高い山に、手厚く夫を葬ってくだされば、あなたの后となりましょう」
王は、なんだ、そんなことはみやすいことだと、喜んで引き受けました。

やがてひとつの高い山の峰で、手厚い葬式が営まれました。
久留見は涙ながらに、この葬式に列席しましたが、式が終わるのを待って、だれにも見つからないようにこっそりと後の岩山に逃げていきました。

王は、これで久留見は自分の后になってくれるだろうと、久留見を呼びましたが、どこにも見当たらない、さては逃げられたかと、家来たちを叱り飛ばし、八方に捜索隊を出して探させました。

久留見は必死になって逃げるだけ逃げましたが、かよわい女の悲しさ、ついに岩山の頂上で王の部下たちに追いつかれてしまいました。
王の部下たちは、ヒシヒシと迫ってきます。
前は絶壁、真下には白い波が牙をむいて岩にぶつかっています。
絶体絶命、久留見は、もはやこれまでと、
「弥次郎、いまにあなたのそばにまいります…」
と、一声残し、海に向かって真っ逆さまに身を投げました。

王は何百という舟を漕ぎ出して久留見の行方を捜しましたが、ついにその姿を見つけることはできませんでした。

それからというもの、一日一日と、あの大きな龍宮島は海に没しはじめ、ついに大変栄えた玄海王国も滅び去ってしまいました。

そして今は、ただ小さな瀬を残すだけとなり、気のせいか、夫弥次郎を慕う妻久留見の悲しみが瀬の音とともに聞こえてくるようです。

そして後の人は、この背を久留見瀬と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/18 Thu. 11:21 [edit]

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18

竜宮の鐘 

竜宮の鐘


文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。

市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。

ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。

驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。

そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。

ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。

とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。

又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。

と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。


(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。

万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。

南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。

又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/17 Wed. 11:08 [edit]

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17

お亀銀杏 

お亀銀杏


いまの亀山八幡宮の土地はむかし、干潮のときには陸続きの島でした。
この島と陸地とを埋め立てて良い船場をつくるため、いまからおよそ四百六十年前に埋め立て工事をはじめることになりました。

しかし、この工事がはじまってからは、どうしたことか、はげしい急流と毎日続く時化のために、一岩埋めれば一岩流されるというありさまで少しも仕事が進ます、おまけにけが人はでるしまつに、仕事をなげだすものもでてきました。

役人たちは、いまさらこの埋め立て工事をやめるわけにもいかない。そのうち、工事がすすまないのは、神様のおいかりにふれたためだという噂が町の人びとの間にひろまりました。役人たちもこのままほうっておくわけにもいきません。
そこで人身御供として人柱をたてれば、かならずこの難工事もやりぬくことができるだろうと考え付き、さっそく街のかどかどに人柱募集の高札を立てました。

ところがなかなか自分から人柱になりましょうと申し出るものがありません。役人もほとほと困りきっていたある夜のことです。
頭巾をかぶった女性が思いつめたように番所の戸をあけ、役人にむかい、
「私でよければ人柱になりましよう」
と恥ずかしそうに名乗り出ました。

それは「おかめ」という名の女性でした。
おかめはもともと稲荷町の遊女で、生まれつきのみにくい顔立ち、そのうえ天然痘にかかって顔中がアバタ。そのため、お客からは嫌われ、主人からはいつも叱られてばかりいました。おまけに借金もかさみ、つくづく生きることにのぞみを失っていたときに、人柱募集の高札をみて、私でも街の人たちのお役にたつならばと決心しての申し出でした。

話を聞いて役人は大変感激し、
「そうか、とうとい心がけじゃ」
と、しっかりおかめの手をにぎるのでした。

やがて人柱をたてる当日がやってきました。それは月明かりの夜でした。
おかめは、急流がしばらくゆるやかになったころ白い着物をまとい、手を合わして、一歩一歩どす黒い海へ消えていきました。
その仏様を思わせる気高い後姿に並み居る人々は、いつまでも念仏をとなえていました。

おかめが海底に沈んだあくる日からは、ふしぎなことに時化もピタリとおさまり、人々は、おかめの尊い犠牲を無にするなと、急ピッチで工事を進めました。

こうして埋め立て工事は見る見るうちに完成したのです。
このことがあってから、のちの人はおかめの功績を称え、のちの世まで忘れることのないよう亀山八幡宮の境内に木を植えて、これをお亀銀杏と名づけました。

やがて銀杏の木から実がとれるようになりましたが、どうしたことか、この銀杏の実にはおかめの顔のように黒い斑点があって、いかにもアバタのようでした。
人々は、これはきっとおかめの霊が銀杏にのりうつったのだろうと噂をしました。

それいらい、明治にかけて下関に天然痘が流行した時は、必ずお宮に参り、病気のがれにその銀杏の実を持ち帰ったということです。


(注)
亀山八幡宮の五穀祭で柄杓をたたいて町を練り歩くなかに「八丁浜えらいやっちゃ」という囃し言葉があります。この八丁浜は、このとき埋め立てた浜の広さをいい「えらいやっちゃ」は、えらいやつの意味で、埋め立ての完成を祝い称えた言葉でしょう。
お亀銀杏は、亀山八幡宮の境内の西側にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼けました。しかし、その焼け爛れた木から新芽を出し、いまでは高さ二十メートルぐらいになっています。

Posted on 2019/04/16 Tue. 09:18 [edit]

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16

引接寺口説 

引接寺伝説 『引接寺口説(いんじょうじくどき)』


これも江戸時代の話であると伝えられています。

「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に一目ぼれしてしまいます。
 お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。
 恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。
 浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって浄然を説き伏せてしまいます。

 一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。

 とても悲しい、しかし当時非常に流行したラブストーリーなのです。


(しものせき観光ホームページより転載)

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Posted on 2019/04/15 Mon. 10:06 [edit]

category: 下関の民話

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15

和布刈祭 

和布刈祭


長門一の宮住吉神社では、旧正月の一月一日に、壇の浦の海岸で和布刈神事を行います。

住吉神社で営まれるおまつりの中では、大切なおまつりの一つで、昔からこのおまつりは秘密になっていましたので、いろいろな言伝えがあります。

わかめを刈る時期は、子の刻すぎから丑の刻の間とされていますが、神事がはじまる三十分前までは、波は渦巻き荒れ狂い、いよいよわかめを刈りに入ると不思議に波はおさまって、潮は左右に開き、二十段の石段があらわれます。
神官は宮殿の宝剣を胸にあて、松明をともし、その石段を降りて一握りの“わかめ”を一鎌だけ刈って陸にあがる。
と、たちまち左右に開いていた潮がもとのように合流し、海上は荒れに荒れるといいます。
もし、そのとき一鎌でなく、二鎌刈れば、みるみるうちに左右の潮にはさまれて溺れるといわれています。

では、実際の神事はどうなのでしょう。“下関民俗歳時記”をみてみましょう。

この和布刈祭のおこりは、住吉神社がおかれたとき、神功皇后のおことばによって、践立の命が、壇の浦のわかめをとって、元旦のお供え物にしたことからはじまるといわれます。

その様子は、大宮司、神官二人、氏子六人が定められたしたくで、その朝につかれたお餅を持ち、神鉾を先頭に松明を連ねて壇の浦に行きます。
松明はオダケとメダケを割ったものをまぜて束ねたもので、二人で担ぐくらいに太くて長いものです。
壇の浦へは、和布刈道という昔からの特別な道を通りますが、長年の間に、土地の様子が変り、小道になったり、あるいは畦道となったところもあり、しかも、帰りは行くときと違った道を通らなければならない掟があって、往復にたいへん苦心します。

壇の浦へ着くと、火立岩に注連縄を張り巡らし、かがり火をたいて、持参したお餅を供え、神事を営みます。
やがてしたくを整え海に入り和布を刈ります。
これが終わると、すぐさま別に用意した草鞋にはきかえ、再び松明の行列をつくって住吉神社へ帰ります。
そして新年のわかめは、神殿に供えられ祭典がおこなわれます。

儀式が終わった後の和布は、むかしは朝廷に、中世になると大内氏や毛利氏などの武将へ贈ったといわれますが、いまでは参拝者に分け与えられます。


厳かな儀式なので、この和布刈祭は次のような、してはいけないことがあります。

一 和布刈祭のお供をしたものは、この神事のありさまを絶対人に言ってはいけない。

二 一般の人は、この行列の火を絶対に見てはいけない。そのため和布刈祭の夜は早くから戸を閉めて寝ることになっている。もちろん、この夜の外出はしてはならないが、事情によってどうしても外出し行列の火を見た場合は、すぐさま物陰に隠れ、行列の方は絶対見ないようにしなければならない。もし見たときはめくらになるといわれる。

三 壇の浦の漁夫たちは、和布刈祭がすむまでは、和布をとって売ってはならないとかたく戒められている。しかし長年の間には、漁夫の生活上、この戒めも破らねばならないこともあり、そうした場合には、これを和布といわず、とくに「名いわず」といって売り歩いたといわれる。

四 この地方には、その日ついた餅は、焼いて食べてはならないという戒めがあるが、これは祭事の中にその日についた餅を焼いて食べる行事があるところからきたものである。


この日、住吉神社はたくさんのおまいりの人で賑わいます。
境内から参道へかけて、物売りの店が並び、とくに農具、苗木の市は有名です。


(注)
門司の和布刈神社でも同じ日に、和布刈祭を行いますが、このほうは住吉神社のように、してはいけないことを別にあげてはいません。
むしろ多くの人々に見せるための観光的な行事になっています。
それに対し、下関の住吉神社では、今でも秘密の神事としてのしきたりを守り、和布を刈る行事などは、人に見せないようにしています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/14 Sun. 10:26 [edit]

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14

つかずのとうろう 

つかずのとうろう


明治時代に入る少し前の話ですから、慶応年間のできごとです。

当時馬関には、倒幕運動が盛んで、隊士がたくさんきていました。
その中に報国隊(長府藩でつくった)の隊士もいましたが、みな元気がありすぎるくらいでした。
奇兵隊が桜山に招魂場をつくったのにならい、報国隊も豊町に招魂場をつくることになりました。
そこで阿弥陀寺町にあった燈籠を豊町に運ぼうとしました。

燈籠を横にして大八車に乗せ、外浜町(今の中之町)から赤間町をとおり裏町(今の赤間町)の曲がり角を過ぎたとき、力を出しすぎて大八車を料理屋「吉信」の表戸にぶっつけてしまいました。
隊士たちは酒に酔っていたので、詫びもしないでそのまま車を走らせようとしました。
そこで怒ったのが、料理屋の主人吉信で、表へ飛び出て大声をはりあげ、
「人の家に車をぶっつけておいて、だまっていくものがあるか、わびの一つくらい言ったらどうだ、このごくつぶしめ」
と怒鳴ったから大変。
「なにを、このとうへんぼく」
と、やにわに車を止め、主人を無理やり燈籠一緒にくくりつけました。
車はどんどん奥小路(今の幸町)を越えて走ります。
さすがに気の強い主人も恐ろしくなり、
「助けてくれ、お願いだ」
と叫びましたが、なにしろ隊士は酒によって、むちゃくちゃに車を走らせます。

道を行く人も助けるどころか、ただ車をよけるのがせいいっぱいでした。
それでも吉信は必死になって縄をほどき、車から田んぼの中に転がり落ちて逃げ出しました。

それを見た隊士は、逃がしてなるものかと追いかけ、そのうちの一人が後から一刀のもとに切り殺してしまいました。
しかしその隊士の刀は、まるで固い石か鉄でも切ったかのように真中からポキッと折れてしまいました。
それからまた車を走らせ、豊町の清水坂に運び、そこの牡丹畠に燈籠をたてました。

ところが、その後燈籠にいくら火をつけてもフッとかき消され、そればかりか、あたりにはゾッと鬼気がみなぎりました。

それはまさしく無念の死に方をした主人の亡霊のせいだといわれ、いつしかこの燈籠のことを“つかずの燈籠”とよぶようになりました。


(注)
この燈籠にまつわる話は、ほかにもあります。

燈籠はもともと春帆楼の下、魚安の近くにたっていたもので、観音崎の問屋長府屋長左衛門(長々といった)が供養のために建てたものらしいといわれています。
それは長々がある暴風雨の朝、岸に打ち上げられた男を助け起こしてみると手にずっしりと重い財布を握っていました。
長々はそのころ商売がうまくいかず、お金の心配ばかりはていたので、天の恵みとばかりに、とろうとしましたが、硬くなっている手からなかなかはなれない。そこで長々は
「すまぬがこの金を貸してくれ、そうすれば、必ず世の人のために恩返しをするから」
といったところ、スルスルと財布がとれました。
長々は、おかげで三百両の借金を払い、商売もうまくいって大変繁盛していました。そして約束したとおり、供養のためにあちらこちらに燈籠を寄進しましたが、そのうちの一つがこの燈籠らしいのです。

昭和八年、日和山に高杉晋作の銅像が建てられたとき、長い間、牡丹畠に置かれていた“つかずの燈籠”も晋作像の向かって右下に建てられ、盛大な供養祭とともに、点灯式が行われました。

料理屋吉信の家はも本行寺の二、三軒奥小路よりにありましたが、吉信のあと新しく料理屋を始めた夫婦が、毎晩位階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、ついに店を閉じたということです。

それにしても、今は日和山公園にあるこの燈籠は、下関にある燈籠のなかでは一番大きいものでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/13 Sat. 09:52 [edit]

category: 下関の民話

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13

初寅 

初寅


毎年、年の初めの初寅にあたる日は、長府四王司山の毘沙門天まいりに前日の夜から大勢の人がおまいりします。

この毘沙門天は、貞観九年、清和天皇の仰せにより五体を作り、これを因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五つの国へ一体ずつくばられ、外国からの襲撃を守り、国の平和を祈るために、遠く西の国を望むことのできる高い山におかれました。

長府四王司山の毘沙門天は、そのうちの一つでしたが、そののち厚東氏が、この山で戦争をはじめたとき、毘沙門天の焼失することを恐れて、王司村河内の里へ移されました。
やがて厚東氏もほろびて戦争は終わりましたが、毘沙門天は、もとのまま、山里におかれていました。


ある日のことでした。
里の久兵衛という年寄りが、息子夫婦と仲が悪く、いつもけんかばかりしているので、どうにかして、なごやかな家庭をつくりたいと、この毘沙門天に願をかけにきました。
久兵衛は、願をかけおわって社の石段に腰をかけ、緑の葉陰から射してくる日差しをあびながら、いい気持ちでいねむりをはじめました。

すると、その久兵衛の夢枕に、あのいかつい顔をした毘沙門天が現われ、
「久兵衛、お前の願いはききとどけてやろう。そのかわり、わしの願いも里人に伝えてくれ。わしが、四王司山頂から里におりてもうかなりの日数になる。せめて、毎年、正月初寅の日には、四王司山頂のふるさとへ旅させてくれよ」
と、いい終わるや、スーっと消えていきました。

久兵衛はさっそく里人を集めて、毘沙門天のおつげを伝え、そのあくる年の正月、初寅の日には、像を山頂に移し、お祭をしました。
もちろん久兵衛の願いは、ききとどけられたのか、いつまでも明るい平和な家庭を営み続けることができました。


こうしたこともあってから、毎年正月、初寅の日には、盛大なお祭が四王司山頂で行われるようになり、いつのころからか、毘沙門天は、武運長久、開運勝利、福徳円満の神さまとして、みんなの信仰をあつめ、初寅のひには、下関市内はもちろん、九州や山口県下からたくさんの人が、おまいりするようになりました。

(注)
初寅まいりは、三年続けておまいりすると大きいご利益があるといわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/12 Fri. 11:51 [edit]

category: 下関の民話

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干る珠・満ちる珠 

干る珠・満ちる珠


長府の沖に浮かぶ、美しい二つの島も、神功皇后さまにゆかりがあります。

神功皇后さまが神様のおつげで三韓征伐をされることになり、長府に豊浦の宮をおかれ、いろいろと作戦をねったり、準備をすすめました。

三韓は遠い国です。皇后さまは、天地のあらゆる神さまに、お力添えとおまもりをお願いしました。
もちろん海の神さまである龍神にも海路の無事と戦の勝利を願われました。
ちょうど満願の日です。それまで、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに潮鳴りをおこし、渦を巻いてたけ狂いはじめました。そのどよめきの中から、
「皇后さま、皇后さま、わたしは瀬戸に住む住吉明神の化身でございます」
と呼ぶ声、皇后さまの耳に聞こえてきました。
みると、一番大きな渦の中に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていました。そして、
「三韓はいずれも強い国です。ぜひ龍神のおたすけをかりなさい。それには、安曇の磯良という者を召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠をかりうけられ、そのご神徳によって戦を勝利にすすめられるがよいでしょう」
と、おつげになりました。

そこで皇后さまは、この海岸に住む安曇の磯良という若者を召して、龍神のもとに使わされ、二つの珠を借り受けてこさせました。

いよいよ新羅の大軍が攻めてきましたが、皇后さまは、まず潮干る珠を沖の方へ投げられました。
すると、見る間に潮が引いていって海底があらわれましたので、しかたなく新羅の軍隊は船を降りて海底を歩いて攻め寄せてきましたが、もう少しで陸へ上がろうとという時、こんどは潮満つ珠を岸の近くに投げられると、たちまちまた潮が満ちてきて、新羅の軍隊はおぼれてしまいました。

そののち、皇后さまは、軍船をととのえて、いよいよ三韓へわたり、敵を打ち破り、やがて皇后さまの軍船はいさましく長門の海に凱旋してきました。


皇后さまは、干珠・満珠のあらたかな徳をたたえられ、それをもとの龍神におかえしになるに先立って、お祝いの儀式をとりおこないました。

その日は、軍船が幾組みも組をつくって、壇の浦から長門にかけて、にぎやかなまつりの行事をくりひろげました。
そして、その先頭のひときわ大きい軍船から、皇后さまは、声を高くして、
「わたくしたちが、このたびのいくさに勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなの勇敢な働きによるものであることは申すまでもない。しかし、それにもまして、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。いまここに、お礼を申すとともに、この珠をお返ししたいと思う」
と、おつげになり、静かに二つの珠を海に沈められました。
つわものたちも軍船の上から、二つの珠が沈められた海のあたりを、深い感謝の心をこめて、いつまでもふり返りふり返り見守っていました。

すると、二つの珠が沈められたあたりの海の上に、見るもあざやかな美しい緑の島が、ふたつぼっかりと浮かび上がってきたのです。

この不思議な出来事に、皇后さまをはじめ、つわものたちは感動の目をもって眺め入りました。皇后さまは、
「みなのもの、龍神はいまこの海に二つの島をつくりたまわれた。永遠に長門の浦を鎮めたまうのである。この平和の波はいつまでも干珠・満珠の岸を洗うことであろう」
と申されました。

これを聞いたつわものたちは、いっせいによろこびの声をあげ、そのこだまは海峡にひびき、干珠・満珠の美しい島をつつみました。


(注)
長府の沖合いに、夢のように浮かんでいる島影は、どちらが満珠・干珠だろうと、よくいわれますが、この島の樹林が天然記念物に指定されたとき、沖の方を干珠、陸に近いほうを満珠としており、いまでは、そのとおりに呼ばれています。
また二つの島は、忌宮神社の飛地境内になっています。

島をおおう、うっそうたる樹林は、千古の原始林で、植物目録によると、きょう木17種、かん木30種、草木41種があげられ、大正15年10月22日に、天然記念物に指定され、さらに昭和31年5月1日に、火の山とともにこの二つの島をふくめて、海面区域が瀬戸内海国立公園に編入されました。

なお、船の航海に必要な世界中の海図には、燈台のある沖の島が満珠島、手前の陸に近いほうが干珠島となっており、どちらの島の名前が本当なのかと問題になったことがあります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/11 Thu. 10:39 [edit]

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青いぐみ 

青いぐみ


江戸時代の頃、川中村の伊倉八幡宮の近くに一人の浪人が男の子を一人つれて住んでいました。
浪人は、わけがあって自分の国を捨て、この土地に住みつくようになったのですが、着ているものといえばいつもつぎはぎのボロボロの着物、住んでいる家も牛や馬が住むような小屋よりも、もっとひどいものでした。
生活も楽ではなく、八幡宮の土地を少しばかり借り受けて、やっと食べるものだけは作っていました。

ある年のこと、飢饉があり、村人たちが大切に作っていた西瓜がたびたび盗られるということが起こり、村人たちは「これは、あのおさむらいの子どもがあやしい、一つや二つの西瓜ならがまんするが、こう毎日盗られたんじゃ、たまったものではない。おさむらいに注意してしかってもらおう」と、村人たちはそろっておさむらいの家へいき、どうかしまつをつけてくれとせまりました。

浪人は、自分の子どもにかぎってそんなことをするはずがないと思いましたが、村人たちからうたがわれているのなら仕方がないと、さっそく子どもを呼び、
「お前が西瓜を盗んだのか」と、問いただしましたが、子どもは、
「自分はこんなかっこうをしていますが、さむらいの子です。決して人のものを盗むようなことはしません」と、きっぱりいいきりました。
しかし、村人たちは、いかにさむらいといっても、よそから流れてきたものだ、西瓜どろぼうは、その子に決まっている、とあくまでどろぼうにしてしまいました。

浪人は、村人たちの悪口をしばらく聞いていましたが、とつぜん刀を抜き、わが子を横だきにするや、村人たちに向かい
「それならば、この子のお腹を見せてしんぜる」
とわが子を殺し、お腹を切り開いてみせたところ、西瓜の種は一粒もなく、わずかに「ぐみ」の種子が五粒ほどでてきました。

村人たちはまっさおになり、自分たちが悪かったと深くわびましたが、死んだ浪人の子どもが生き返ってくるはずがありません。村人たちは、今度は浪人が怒って自分たちを切り殺すのではないかと、ぶるぶるふるえていましたが、浪人は、
「これで息子の正しかったことがおわかりになったでしょう」と、いっただけで別に怒りもしませんでした。
しばらくして村人たちが帰ったあと、浪人は我が子のなきがらにむかい、
「さぞ、くやしかったにちがいない、ゆるしてくれ」
と、合掌し、やがて自分もまた切腹して、息子のあとを追いました。

毎年、夏になるとぐみの木に真赤な実がつきますが、ふしぎなことに、それからというもの、一枝のなかにかならずといっていいほど、五粒のうれないままの青いぐみが残るようになったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/10 Wed. 10:02 [edit]

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はんどうさま 

はんどうさま


川中有富上村の東側裏山は、海抜百メートルあまりの山で、いつのころからか“はんどう山”と呼ばれています。

むかし、この付近の村々に恐ろしい暴風雨が襲いました。
嵐は大荒れに荒れて、ついには大竜巻までおこして村といわず、野といわず、山といわず暴れまくってやっと通り過ぎていきました。

あくる朝、村の新右衛門は、きのうの嵐で、田や畑はどうなっているだろうか、眠たい眼をこすりながら見回りに出かけました。
しかし、心配していたほど被害はなく、やれやれ安心したわいと、ぐるりと一回りし、雑木林を通って帰りかけていると、きのうの嵐で葉をもぎ取られた木々の間に大きな瓶があるのに気づきました。
近寄ってみると、古い大きな瓶で、いままでまったく気がつかなかったものでした。
新右衛門は、ちょっと気味が悪かったが手でさわってみたり、のぞいてみたりしました。けれども、どこにも傷はなく、丈夫そうにみえたので、
「ひょっとすると、嵐の置き土産かもしれない。何かに使えそうだ、拾って帰ろう」
と、冗談半分に、この重たい瓶を担いで帰りました。

やがて忙しい稲刈りも過ぎ、すずめが田に落ちた米をついばみに来る季節になりました。
そのころになって、新右衛門は、あの古瓶のことを思い出し、新米を使ってお酒を造ろうと、さっそく瓶を納屋から出し、酒を仕込みました。
数日が過ぎて、酒はいい具合に造れているようでした。

ところが、それからまた、幾日かたったある夜のことでした。
とつぜん家がグラグラ揺れ動き、土間に置いていた酒瓶がわんわんと鳴り響きました。
びっくりぎようてんした新右衛門は、大急ぎで酒瓶を抱きかかえ、表へ飛び出すと前の広場へ放り出しました。
もちろん瓶は、こなごなに壊れてしまい、もうお酒になりかかっていた白米は、あたり一面に散らばって、ぷんぷんといい香りをはなちました。

このありさまは、村の人たちにも知れ渡り、あくる朝、さっそく新右衛門の家に集まって、いろいろ噂話をはじめました。
「これは竜王様の化身に違いない」
「あの大嵐の時、竜巻が暴れまわっている最中、天から降ったものだろう」
「それなら、このまま人里におくことは、まことにもったいない」
「人里はなれた山の頂上にまつったほうがよかろう」
ということになり、村人たちは、こなごなになった瓶の破片を一つ残らず拾い集め、それを丁寧に裏山に運び、その山上にまつったのでした。

村の人たちはいつしか、ここを竜王神社と呼び、この山を“はんどう山”または“竜王山”と呼ぶようになり、神秘的な場所として、村人たちの崇拝するところとなりました。

そしていつのころからか“大嵐”“大竜巻”“竜王”ということがらを結びつけて“水”をもたらす神様だと信仰するようになり、日照りで苦しむときなどは、雨乞祈願をするようになりました。


(注)
はんどう(飯銅・半銅)広辞苑では、茶の湯その他の用に供する金属製の容器とあります。
新右衛門が拾った瓶も、はんどうの形に似ていたことから、はんどう山という名がついたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/04/09 Tue. 10:30 [edit]

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