彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
火の山
火の山
火の山の高さは264メートル、ここからのろしをあげると、かなり遠くまで、その煙がみえるはずです。
火の山の地名は、大昔火山が爆発して火を吹き上げたという説もありますが、異国から攻められたとき、すぐさま都へ知らせるため、この山の頂上から火をたき、のろしをあげて合図にしたからといわれています。
火の山から埴生の火の山、厚狭の日の峯山、小野田の番屋ヵ辻、宇部の宇部岬、吉敷郡東岐波の日野山、秋穂の火の山、というぐあいにのろしによる合図が都まで山づたいに知らせていきました。
『下関の民話』下関教育委員会編
火の山の高さは264メートル、ここからのろしをあげると、かなり遠くまで、その煙がみえるはずです。
火の山の地名は、大昔火山が爆発して火を吹き上げたという説もありますが、異国から攻められたとき、すぐさま都へ知らせるため、この山の頂上から火をたき、のろしをあげて合図にしたからといわれています。
火の山から埴生の火の山、厚狭の日の峯山、小野田の番屋ヵ辻、宇部の宇部岬、吉敷郡東岐波の日野山、秋穂の火の山、というぐあいにのろしによる合図が都まで山づたいに知らせていきました。
『下関の民話』下関教育委員会編
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07
龍宮島物語
龍宮島物語
いまから二千年前の大昔のこと、安岡の北福江というところの沖合いに、龍宮島という島国があり、玄海王という王様が支配していました。
玄海王は大変わがままな王様で、なんでも自分の思い通りにならないと、すぐ家来たちの首をはねてしまいます。
今度もまた、自分が月見をするために、大きな望楼を作ることを家来たちに命じました。
家来たちは王様の御機嫌をそんじては大変なことになるので、さっそく島に住むすべての若い男を人夫としてかり集め、雪解けはじまる春先から工事を進めることにしました。
この人夫の中に、結婚して間もない弥次郎がいました。
弥次郎が働き者なら、その妻の久留見もなかなかの働き者で、その上島でも指折りの美人でした。
幸せの二人もいよいよ別れるときがきました。妻の久留見は、涙ながらに愛する夫を峠まで送っていきました。
家にただ一人残された久留見は毎日心細い日を送っていましたが、出発のさい、夫の弥次郎が庭の一本の楡の木を指差して、
「この木の梢に青葉が繁る頃にはかならず帰ってくるから…」
と、いった言葉を、せめてもの頼りとして待ちわびておりました。
望楼は、毎日、毎日少しずつ高くなっていきます。
弥次郎が出発して二ヶ月たち、三ヶ月たち、そして心の支えだった楡の梢に若葉が繁っても、いとしい夫からはなんの便りもありません。
そのうち望楼は完成し、玄海王は盛大な月見の会を開きました。
やがて黄色く色づいた楡の葉が、はだ寒い秋風にハラハラと散る頃なって、夫の帰りを待つ久留見は、毎日気が気ではありませんでした。
こがらしの吹く頃となりました。
たまりかねた久留見は夜を徹して夫の冬着を作り上げ、それを背負い、夫を探しに出発しました。
険しい山坂を越え、やっと目的地に着きました。
久留見は城壁の周りを夫の名を呼びながら探しましたが、ついにめぐりあうことはできません。
疲れがどっとでて道端の石に寄りかかっていると、一人の老人が心配して声をかけました。
一部始終を老人に打ち明けました。
老人は聞き終わると悲しそうな目をしながら、
「お前さまには、大変気の毒なことだが…、その弥次郎という男はの…、望楼を作るさい人柱にされたのじゃ…」
と、老人も最後には、目に涙をいっぱいためにがら久留見に話してやりました。
久留見はもう怒りと失望のあまりドッと地面に泣き伏しました。
涙があとからあとから流れ出て、三日三晩泣き続けました。
その涙は滝のごとく大川のごとく、ものすごい音を立てて城壁の下を洗い、ついに城壁の一部が激しい音とともに崩れ落ちました。
その物音にふと我に返った久留見は、自分の前に恐ろしいものを見たのです。
それは、人柱にされた夫の亡骸でした。
久留見の嘆きは以前にも増し、ただ気も心もつきはてて夫のそばに泣き崩れるだけでした。
このとき、久留見のようすを望楼の上で見ていた男がいました。
それは、望楼の築造を玄海王から命ぜられた位の高い家来で、久留見の美しさが人並みすぐれているので、王様の奥方にしようと密かに考えていたのです。
そこで、悲しみに泣き崩れている久留見を無理やりにお城に運び込み、玄海王にその事情を話しました。
王様は久留見のあまりの美しさに心をうばわれ、自分の后になるように申し出ましたが、久留見はもちろん断りました。
しかし断れば殺してしまうと脅かされ、それならばと一計を考え次のように申し出ました。
「故郷を眺めることのできる高い山に、手厚く夫を葬ってくだされば、あなたの后となりましょう」
王は、なんだ、そんなことはみやすいことだと、喜んで引き受けました。
やがてひとつの高い山の峰で、手厚い葬式が営まれました。
久留見は涙ながらに、この葬式に列席しましたが、式が終わるのを待って、だれにも見つからないようにこっそりと後の岩山に逃げていきました。
王は、これで久留見は自分の后になってくれるだろうと、久留見を呼びましたが、どこにも見当たらない、さては逃げられたかと、家来たちを叱り飛ばし、八方に捜索隊を出して探させました。
久留見は必死になって逃げるだけ逃げましたが、かよわい女の悲しさ、ついに岩山の頂上で王の部下たちに追いつかれてしまいました。
王の部下たちは、ヒシヒシと迫ってきます。
前は絶壁、真下には白い波が牙をむいて岩にぶつかっています。
絶体絶命、久留見は、もはやこれまでと、
「弥次郎、いまにあなたのそばにまいります…」
と、一声残し、海に向かって真っ逆さまに身を投げました。
王は何百という舟を漕ぎ出して久留見の行方を捜しましたが、ついにその姿を見つけることはできませんでした。
それからというもの、一日一日と、あの大きな龍宮島は海に没しはじめ、ついに大変栄えた玄海王国も滅び去ってしまいました。
そして今は、ただ小さな瀬を残すだけとなり、気のせいか、夫弥次郎を慕う妻久留見の悲しみが瀬の音とともに聞こえてくるようです。
そして後の人は、この背を久留見瀬と呼ぶようになりました。
『下関の民話』下関教育委員会編
いまから二千年前の大昔のこと、安岡の北福江というところの沖合いに、龍宮島という島国があり、玄海王という王様が支配していました。
玄海王は大変わがままな王様で、なんでも自分の思い通りにならないと、すぐ家来たちの首をはねてしまいます。
今度もまた、自分が月見をするために、大きな望楼を作ることを家来たちに命じました。
家来たちは王様の御機嫌をそんじては大変なことになるので、さっそく島に住むすべての若い男を人夫としてかり集め、雪解けはじまる春先から工事を進めることにしました。
この人夫の中に、結婚して間もない弥次郎がいました。
弥次郎が働き者なら、その妻の久留見もなかなかの働き者で、その上島でも指折りの美人でした。
幸せの二人もいよいよ別れるときがきました。妻の久留見は、涙ながらに愛する夫を峠まで送っていきました。
家にただ一人残された久留見は毎日心細い日を送っていましたが、出発のさい、夫の弥次郎が庭の一本の楡の木を指差して、
「この木の梢に青葉が繁る頃にはかならず帰ってくるから…」
と、いった言葉を、せめてもの頼りとして待ちわびておりました。
望楼は、毎日、毎日少しずつ高くなっていきます。
弥次郎が出発して二ヶ月たち、三ヶ月たち、そして心の支えだった楡の梢に若葉が繁っても、いとしい夫からはなんの便りもありません。
そのうち望楼は完成し、玄海王は盛大な月見の会を開きました。
やがて黄色く色づいた楡の葉が、はだ寒い秋風にハラハラと散る頃なって、夫の帰りを待つ久留見は、毎日気が気ではありませんでした。
こがらしの吹く頃となりました。
たまりかねた久留見は夜を徹して夫の冬着を作り上げ、それを背負い、夫を探しに出発しました。
険しい山坂を越え、やっと目的地に着きました。
久留見は城壁の周りを夫の名を呼びながら探しましたが、ついにめぐりあうことはできません。
疲れがどっとでて道端の石に寄りかかっていると、一人の老人が心配して声をかけました。
一部始終を老人に打ち明けました。
老人は聞き終わると悲しそうな目をしながら、
「お前さまには、大変気の毒なことだが…、その弥次郎という男はの…、望楼を作るさい人柱にされたのじゃ…」
と、老人も最後には、目に涙をいっぱいためにがら久留見に話してやりました。
久留見はもう怒りと失望のあまりドッと地面に泣き伏しました。
涙があとからあとから流れ出て、三日三晩泣き続けました。
その涙は滝のごとく大川のごとく、ものすごい音を立てて城壁の下を洗い、ついに城壁の一部が激しい音とともに崩れ落ちました。
その物音にふと我に返った久留見は、自分の前に恐ろしいものを見たのです。
それは、人柱にされた夫の亡骸でした。
久留見の嘆きは以前にも増し、ただ気も心もつきはてて夫のそばに泣き崩れるだけでした。
このとき、久留見のようすを望楼の上で見ていた男がいました。
それは、望楼の築造を玄海王から命ぜられた位の高い家来で、久留見の美しさが人並みすぐれているので、王様の奥方にしようと密かに考えていたのです。
そこで、悲しみに泣き崩れている久留見を無理やりにお城に運び込み、玄海王にその事情を話しました。
王様は久留見のあまりの美しさに心をうばわれ、自分の后になるように申し出ましたが、久留見はもちろん断りました。
しかし断れば殺してしまうと脅かされ、それならばと一計を考え次のように申し出ました。
「故郷を眺めることのできる高い山に、手厚く夫を葬ってくだされば、あなたの后となりましょう」
王は、なんだ、そんなことはみやすいことだと、喜んで引き受けました。
やがてひとつの高い山の峰で、手厚い葬式が営まれました。
久留見は涙ながらに、この葬式に列席しましたが、式が終わるのを待って、だれにも見つからないようにこっそりと後の岩山に逃げていきました。
王は、これで久留見は自分の后になってくれるだろうと、久留見を呼びましたが、どこにも見当たらない、さては逃げられたかと、家来たちを叱り飛ばし、八方に捜索隊を出して探させました。
久留見は必死になって逃げるだけ逃げましたが、かよわい女の悲しさ、ついに岩山の頂上で王の部下たちに追いつかれてしまいました。
王の部下たちは、ヒシヒシと迫ってきます。
前は絶壁、真下には白い波が牙をむいて岩にぶつかっています。
絶体絶命、久留見は、もはやこれまでと、
「弥次郎、いまにあなたのそばにまいります…」
と、一声残し、海に向かって真っ逆さまに身を投げました。
王は何百という舟を漕ぎ出して久留見の行方を捜しましたが、ついにその姿を見つけることはできませんでした。
それからというもの、一日一日と、あの大きな龍宮島は海に没しはじめ、ついに大変栄えた玄海王国も滅び去ってしまいました。
そして今は、ただ小さな瀬を残すだけとなり、気のせいか、夫弥次郎を慕う妻久留見の悲しみが瀬の音とともに聞こえてくるようです。
そして後の人は、この背を久留見瀬と呼ぶようになりました。
『下関の民話』下関教育委員会編
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06
竜宮の鐘
竜宮の鐘
文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。
市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。
ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。
驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。
そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。
ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。
とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。
又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。
と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。
(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。
万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。
南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。
又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。
『下関の民話』下関教育委員会編
文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。
市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。
ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。
驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。
そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。
ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。
とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。
又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。
と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。
(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。
万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。
南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。
又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。
『下関の民話』下関教育委員会編
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05
お亀銀杏
お亀銀杏
いまの亀山八幡宮の土地はむかし、干潮のときには陸続きの島でした。
この島と陸地とを埋め立てて良い船場をつくるため、いまからおよそ四百六十年前に埋め立て工事をはじめることになりました。
しかし、この工事がはじまってからは、どうしたことか、はげしい急流と毎日続く時化のために、一岩埋めれば一岩流されるというありさまで少しも仕事が進ます、おまけにけが人はでるしまつに、仕事をなげだすものもでてきました。
役人たちは、いまさらこの埋め立て工事をやめるわけにもいかない。そのうち、工事がすすまないのは、神様のおいかりにふれたためだという噂が町の人びとの間にひろまりました。役人たちもこのままほうっておくわけにもいきません。
そこで人身御供として人柱をたてれば、かならずこの難工事もやりぬくことができるだろうと考え付き、さっそく街のかどかどに人柱募集の高札を立てました。
ところがなかなか自分から人柱になりましょうと申し出るものがありません。役人もほとほと困りきっていたある夜のことです。
頭巾をかぶった女性が思いつめたように番所の戸をあけ、役人にむかい、
「私でよければ人柱になりましよう」
と恥ずかしそうに名乗り出ました。
それは「おかめ」という名の女性でした。
おかめはもともと稲荷町の遊女で、生まれつきのみにくい顔立ち、そのうえ天然痘にかかって顔中がアバタ。そのため、お客からは嫌われ、主人からはいつも叱られてばかりいました。おまけに借金もかさみ、つくづく生きることにのぞみを失っていたときに、人柱募集の高札をみて、私でも街の人たちのお役にたつならばと決心しての申し出でした。
話を聞いて役人は大変感激し、
「そうか、とうとい心がけじゃ」
と、しっかりおかめの手をにぎるのでした。
やがて人柱をたてる当日がやってきました。それは月明かりの夜でした。
おかめは、急流がしばらくゆるやかになったころ白い着物をまとい、手を合わして、一歩一歩どす黒い海へ消えていきました。
その仏様を思わせる気高い後姿に並み居る人々は、いつまでも念仏をとなえていました。
おかめが海底に沈んだあくる日からは、ふしぎなことに時化もピタリとおさまり、人々は、おかめの尊い犠牲を無にするなと、急ピッチで工事を進めました。
こうして埋め立て工事は見る見るうちに完成したのです。
このことがあってから、のちの人はおかめの功績を称え、のちの世まで忘れることのないよう亀山八幡宮の境内に木を植えて、これをお亀銀杏と名づけました。
やがて銀杏の木から実がとれるようになりましたが、どうしたことか、この銀杏の実にはおかめの顔のように黒い斑点があって、いかにもアバタのようでした。
人々は、これはきっとおかめの霊が銀杏にのりうつったのだろうと噂をしました。
それいらい、明治にかけて下関に天然痘が流行した時は、必ずお宮に参り、病気のがれにその銀杏の実を持ち帰ったということです。
(注)
亀山八幡宮の五穀祭で柄杓をたたいて町を練り歩くなかに「八丁浜えらいやっちゃ」という囃し言葉があります。この八丁浜は、このとき埋め立てた浜の広さをいい「えらいやっちゃ」は、えらいやつの意味で、埋め立ての完成を祝い称えた言葉でしょう。
お亀銀杏は、亀山八幡宮の境内の西側にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼けました。しかし、その焼け爛れた木から新芽を出し、いまでは高さ二十メートルぐらいになっています。
いまの亀山八幡宮の土地はむかし、干潮のときには陸続きの島でした。
この島と陸地とを埋め立てて良い船場をつくるため、いまからおよそ四百六十年前に埋め立て工事をはじめることになりました。
しかし、この工事がはじまってからは、どうしたことか、はげしい急流と毎日続く時化のために、一岩埋めれば一岩流されるというありさまで少しも仕事が進ます、おまけにけが人はでるしまつに、仕事をなげだすものもでてきました。
役人たちは、いまさらこの埋め立て工事をやめるわけにもいかない。そのうち、工事がすすまないのは、神様のおいかりにふれたためだという噂が町の人びとの間にひろまりました。役人たちもこのままほうっておくわけにもいきません。
そこで人身御供として人柱をたてれば、かならずこの難工事もやりぬくことができるだろうと考え付き、さっそく街のかどかどに人柱募集の高札を立てました。
ところがなかなか自分から人柱になりましょうと申し出るものがありません。役人もほとほと困りきっていたある夜のことです。
頭巾をかぶった女性が思いつめたように番所の戸をあけ、役人にむかい、
「私でよければ人柱になりましよう」
と恥ずかしそうに名乗り出ました。
それは「おかめ」という名の女性でした。
おかめはもともと稲荷町の遊女で、生まれつきのみにくい顔立ち、そのうえ天然痘にかかって顔中がアバタ。そのため、お客からは嫌われ、主人からはいつも叱られてばかりいました。おまけに借金もかさみ、つくづく生きることにのぞみを失っていたときに、人柱募集の高札をみて、私でも街の人たちのお役にたつならばと決心しての申し出でした。
話を聞いて役人は大変感激し、
「そうか、とうとい心がけじゃ」
と、しっかりおかめの手をにぎるのでした。
やがて人柱をたてる当日がやってきました。それは月明かりの夜でした。
おかめは、急流がしばらくゆるやかになったころ白い着物をまとい、手を合わして、一歩一歩どす黒い海へ消えていきました。
その仏様を思わせる気高い後姿に並み居る人々は、いつまでも念仏をとなえていました。
おかめが海底に沈んだあくる日からは、ふしぎなことに時化もピタリとおさまり、人々は、おかめの尊い犠牲を無にするなと、急ピッチで工事を進めました。
こうして埋め立て工事は見る見るうちに完成したのです。
このことがあってから、のちの人はおかめの功績を称え、のちの世まで忘れることのないよう亀山八幡宮の境内に木を植えて、これをお亀銀杏と名づけました。
やがて銀杏の木から実がとれるようになりましたが、どうしたことか、この銀杏の実にはおかめの顔のように黒い斑点があって、いかにもアバタのようでした。
人々は、これはきっとおかめの霊が銀杏にのりうつったのだろうと噂をしました。
それいらい、明治にかけて下関に天然痘が流行した時は、必ずお宮に参り、病気のがれにその銀杏の実を持ち帰ったということです。
(注)
亀山八幡宮の五穀祭で柄杓をたたいて町を練り歩くなかに「八丁浜えらいやっちゃ」という囃し言葉があります。この八丁浜は、このとき埋め立てた浜の広さをいい「えらいやっちゃ」は、えらいやつの意味で、埋め立ての完成を祝い称えた言葉でしょう。
お亀銀杏は、亀山八幡宮の境内の西側にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼けました。しかし、その焼け爛れた木から新芽を出し、いまでは高さ二十メートルぐらいになっています。
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04
引接寺口説
引接寺伝説 『引接寺口説(いんじょうじくどき)』
これも江戸時代の話であると伝えられています。
「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に一目ぼれしてしまいます。
お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。
恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。
浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって浄然を説き伏せてしまいます。
一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。
とても悲しい、しかし当時非常に流行したラブストーリーなのです。
(しものせき観光ホームページより転載)
これも江戸時代の話であると伝えられています。
「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に一目ぼれしてしまいます。
お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。
恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。
浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって浄然を説き伏せてしまいます。
一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。
とても悲しい、しかし当時非常に流行したラブストーリーなのです。
(しものせき観光ホームページより転載)
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