05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

龍宮島物語 

龍宮島物語


いまから二千年前の大昔のこと、安岡の北福江というところの沖合いに、龍宮島という島国があり、玄海王という王様が支配していました。

玄海王は大変わがままな王様で、なんでも自分の思い通りにならないと、すぐ家来たちの首をはねてしまいます。
今度もまた、自分が月見をするために、大きな望楼を作ることを家来たちに命じました。
家来たちは王様の御機嫌をそんじては大変なことになるので、さっそく島に住むすべての若い男を人夫としてかり集め、雪解けはじまる春先から工事を進めることにしました。

この人夫の中に、結婚して間もない弥次郎がいました。
弥次郎が働き者なら、その妻の久留見もなかなかの働き者で、その上島でも指折りの美人でした。
幸せの二人もいよいよ別れるときがきました。妻の久留見は、涙ながらに愛する夫を峠まで送っていきました。

家にただ一人残された久留見は毎日心細い日を送っていましたが、出発のさい、夫の弥次郎が庭の一本の楡の木を指差して、
「この木の梢に青葉が繁る頃にはかならず帰ってくるから…」
と、いった言葉を、せめてもの頼りとして待ちわびておりました。

望楼は、毎日、毎日少しずつ高くなっていきます。
弥次郎が出発して二ヶ月たち、三ヶ月たち、そして心の支えだった楡の梢に若葉が繁っても、いとしい夫からはなんの便りもありません。

そのうち望楼は完成し、玄海王は盛大な月見の会を開きました。
やがて黄色く色づいた楡の葉が、はだ寒い秋風にハラハラと散る頃なって、夫の帰りを待つ久留見は、毎日気が気ではありませんでした。

こがらしの吹く頃となりました。
たまりかねた久留見は夜を徹して夫の冬着を作り上げ、それを背負い、夫を探しに出発しました。

険しい山坂を越え、やっと目的地に着きました。
久留見は城壁の周りを夫の名を呼びながら探しましたが、ついにめぐりあうことはできません。
疲れがどっとでて道端の石に寄りかかっていると、一人の老人が心配して声をかけました。
一部始終を老人に打ち明けました。
老人は聞き終わると悲しそうな目をしながら、
「お前さまには、大変気の毒なことだが…、その弥次郎という男はの…、望楼を作るさい人柱にされたのじゃ…」
と、老人も最後には、目に涙をいっぱいためにがら久留見に話してやりました。

久留見はもう怒りと失望のあまりドッと地面に泣き伏しました。
涙があとからあとから流れ出て、三日三晩泣き続けました。
その涙は滝のごとく大川のごとく、ものすごい音を立てて城壁の下を洗い、ついに城壁の一部が激しい音とともに崩れ落ちました。

その物音にふと我に返った久留見は、自分の前に恐ろしいものを見たのです。
それは、人柱にされた夫の亡骸でした。
久留見の嘆きは以前にも増し、ただ気も心もつきはてて夫のそばに泣き崩れるだけでした。

このとき、久留見のようすを望楼の上で見ていた男がいました。
それは、望楼の築造を玄海王から命ぜられた位の高い家来で、久留見の美しさが人並みすぐれているので、王様の奥方にしようと密かに考えていたのです。

そこで、悲しみに泣き崩れている久留見を無理やりにお城に運び込み、玄海王にその事情を話しました。
王様は久留見のあまりの美しさに心をうばわれ、自分の后になるように申し出ましたが、久留見はもちろん断りました。
しかし断れば殺してしまうと脅かされ、それならばと一計を考え次のように申し出ました。
「故郷を眺めることのできる高い山に、手厚く夫を葬ってくだされば、あなたの后となりましょう」
王は、なんだ、そんなことはみやすいことだと、喜んで引き受けました。

やがてひとつの高い山の峰で、手厚い葬式が営まれました。
久留見は涙ながらに、この葬式に列席しましたが、式が終わるのを待って、だれにも見つからないようにこっそりと後の岩山に逃げていきました。

王は、これで久留見は自分の后になってくれるだろうと、久留見を呼びましたが、どこにも見当たらない、さては逃げられたかと、家来たちを叱り飛ばし、八方に捜索隊を出して探させました。

久留見は必死になって逃げるだけ逃げましたが、かよわい女の悲しさ、ついに岩山の頂上で王の部下たちに追いつかれてしまいました。
王の部下たちは、ヒシヒシと迫ってきます。
前は絶壁、真下には白い波が牙をむいて岩にぶつかっています。
絶体絶命、久留見は、もはやこれまでと、
「弥次郎、いまにあなたのそばにまいります…」
と、一声残し、海に向かって真っ逆さまに身を投げました。

王は何百という舟を漕ぎ出して久留見の行方を捜しましたが、ついにその姿を見つけることはできませんでした。

それからというもの、一日一日と、あの大きな龍宮島は海に没しはじめ、ついに大変栄えた玄海王国も滅び去ってしまいました。

そして今は、ただ小さな瀬を残すだけとなり、気のせいか、夫弥次郎を慕う妻久留見の悲しみが瀬の音とともに聞こえてくるようです。

そして後の人は、この背を久留見瀬と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/04/03 Mon. 09:42 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

03

竜宮の鐘 

竜宮の鐘


文政のころといいますから、いまから約百数十年前のことです。

市内南部町の専念寺は昔から大鐘のあることで有名で、その大きさは、高さ約2.5メートル、重さ約1.5トンもありました。
ところが、ある年の八月、その鐘がだれも鳴らさないのに、ひとりでに鳴りだしました。
毎晩、真夜中ごろになるときまってウォーン、ウォーンと不気味に鳴り続け、ことに満潮のときとか、風雨のひどいときには、ことのほか激しく鳴りわたりました。
近所の人たちは鐘がなりはじめると、まんじりともせず布団の中でガタガタ震えだし、こどもたちは泣き叫ぶありさまでした。

ある晩のことでした。
専念寺の俊達和尚がかやをつって床にはいろうとすると、また例によって鐘が鳴り始めました。和尚は、
「ああまた鐘が鳴る、一体どうしたことだろう。何かのたたりでもあるのかもしれん…。困ったことだわい」
そう思いながら灯りを消したとたん、夜目にもはっきりとわかる白いひげをつけた老人が音も無く障子を開き、和尚の目の前に立ちました。
その老人は和尚に向かって低いおごそかな声でこういいました。
「このわしは竜宮からの使者である。ここの鐘はもともとは竜宮の秘宝、毎晩鳴り続けるのは、一日も早く竜宮に帰りたいためじゃ、お前はその鐘をすぐさま竜宮へ返せ、さもないとこのお寺もろとも粉々に打ち砕いてしまうぞ」
というやいなや、煙のように姿を消してしまいました。

驚いた和尚は、夜の明けるのを待ってさっそく、檀家の人びとを集め、その善後策をはかりました。
縄で鐘をがんじがらめにしばっておけとか、鐘楼を板で囲っておけばとかいろいろ案がだされましたが、結局、女の髪の毛が一番強いから、女の髪で縄を編みしばっておこうということになりました。

そこで女の人たちは大切な黒髪を惜しげもなく根元からバッサリ切り取り、それで太縄を作り鐘をしっかりと柱にしばりつけました。
その晩は、はじめて鐘もならず、人々はもうこれで安心だとぐっすり眠ることができました。

ところが、鐘をしばって三日目の朝でした。
和尚が鐘つき堂に登ろうとしてハッとしました。例の女の髪縄がだれのしわざか刃物で切り取られたようにブッツリと断ち切られ、大鐘は足がついたようにゴトリ、ゴトリと鐘つき堂を降り、百段近い石段をまさに降りようとしています。
和尚は驚いて近所の人を呼び集めました。近所の人たちも、最初あっけにとられて鐘の動くのを見ていましたが、急に恐ろしくなって逃げ出すものもでるしまつです。
それでも、いせいのよい若者四、五人が鐘に飛びつき押し戻そうとしましたが、びくともしません。逆にそのうち一人が鐘に押しつぶされて大怪我をしてしまいました。

とつぜん和尚は、
「又五郎さんを呼べ、又五郎さんを」とどなりました。
その声にすぐさま若い者がお寺を駆け下りて東三軒目の紀の国屋又五郎の家へ走りました。この紀ノ国屋は強力無双の力持ちで、亀山八幡宮の境内で催される相撲大会ではいつも優勝していました。
その紀ノ国屋又五郎が呼ばれて表へ出てみると鐘はもう石段を降りきって波打ち際まできていました。

又五郎は、人を押し分け、片肌をぬいで鐘の竜頭を両手でムンズとつかみました。
そして満身の力をこめて引き寄せようとしました。
鐘はなおも海へすべりこもうとする。
鐘と人との力くらべです。
又五郎は両足をふんばり真赤になりながらグイグイと金剛力をだす。

と突然ガーン大きな音がしたと同時に、又五郎のにぎっていた竜頭がポッキリ折れ、鐘はズルズルと海底深くすべりこんでしまいました。


(注)
南部町の海岸には大ダコが出るという話が伝わっています。

万延元年の八月、南部の海岸で米の荷揚げをしていた北国の荒神丸という千石船がいよいよ出航するときになって、どうしてもイカリがあがりません。
そこで船頭が海に飛び込んで調べてみると、いかりは鐘のふちに引っかかっている。はずそうとして手をかけたとたん、中からヌラヌラと大ダコが現われ、いまにも巻き込もうとしたので、船頭はびっくりして浮かび上がり命からがらはいあがったということです。

南部町の物品問屋奈新という店の女中が、この浜で洗濯をしていましたが、大ダコが音も無くはいあがって、この美しい女中を海中に引きずり込みました。もちろん女中の死体は、発見されませんでした。

又五郎といえば“亀山八幡宮の相撲でアトがない”ということわざが残っています。
当時亀山八幡宮の夏越祭には、毎年境内で大相撲がおこなわれていましたが、この近辺では豊前小倉生まれの妙見山(風師山)尾右衛門という男がとても強く、下関側はいつも彼に負けてばかりいました。
そこで、だれか力の強い者はいないかと八方手を尽くして探し出したのが紀の国屋又五郎で、呼び名を「火の山」と称しいよいよ妙見山と対戦することになりました。
ワァワァという大声援の中で、土俵中央にがっぷり四つになったまま、一呼吸したのち妙見山がグィグィと押し込む、火の山はあとがない…。
もう負けると見物人は思いましたが、ヨオーと一声かけると逆に一気に妙見山を寄り倒しました。
実に下関側ではこの勝負に負けたらあとがないということで“亀山の相撲でアトがない”とはここからきたものだといわれています。
しかし、一説によると、この敗戦で妙見山が死んだため、その後の相撲が取りやめになったので、こうしたことわざが生まれたものともいわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/04/02 Sun. 10:04 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

02

お亀銀杏 

お亀銀杏


いまの亀山八幡宮の土地はむかし、干潮のときには陸続きの島でした。
この島と陸地とを埋め立てて良い船場をつくるため、いまからおよそ四百六十年前に埋め立て工事をはじめることになりました。

しかし、この工事がはじまってからは、どうしたことか、はげしい急流と毎日続く時化のために、一岩埋めれば一岩流されるというありさまで少しも仕事が進ます、おまけにけが人はでるしまつに、仕事をなげだすものもでてきました。

役人たちは、いまさらこの埋め立て工事をやめるわけにもいかない。そのうち、工事がすすまないのは、神様のおいかりにふれたためだという噂が町の人びとの間にひろまりました。役人たちもこのままほうっておくわけにもいきません。
そこで人身御供として人柱をたてれば、かならずこの難工事もやりぬくことができるだろうと考え付き、さっそく街のかどかどに人柱募集の高札を立てました。

ところがなかなか自分から人柱になりましょうと申し出るものがありません。役人もほとほと困りきっていたある夜のことです。
頭巾をかぶった女性が思いつめたように番所の戸をあけ、役人にむかい、
「私でよければ人柱になりましよう」
と恥ずかしそうに名乗り出ました。

それは「おかめ」という名の女性でした。
おかめはもともと稲荷町の遊女で、生まれつきのみにくい顔立ち、そのうえ天然痘にかかって顔中がアバタ。そのため、お客からは嫌われ、主人からはいつも叱られてばかりいました。おまけに借金もかさみ、つくづく生きることにのぞみを失っていたときに、人柱募集の高札をみて、私でも街の人たちのお役にたつならばと決心しての申し出でした。

話を聞いて役人は大変感激し、
「そうか、とうとい心がけじゃ」
と、しっかりおかめの手をにぎるのでした。

やがて人柱をたてる当日がやってきました。それは月明かりの夜でした。
おかめは、急流がしばらくゆるやかになったころ白い着物をまとい、手を合わして、一歩一歩どす黒い海へ消えていきました。
その仏様を思わせる気高い後姿に並み居る人々は、いつまでも念仏をとなえていました。

おかめが海底に沈んだあくる日からは、ふしぎなことに時化もピタリとおさまり、人々は、おかめの尊い犠牲を無にするなと、急ピッチで工事を進めました。

こうして埋め立て工事は見る見るうちに完成したのです。
このことがあってから、のちの人はおかめの功績を称え、のちの世まで忘れることのないよう亀山八幡宮の境内に木を植えて、これをお亀銀杏と名づけました。

やがて銀杏の木から実がとれるようになりましたが、どうしたことか、この銀杏の実にはおかめの顔のように黒い斑点があって、いかにもアバタのようでした。
人々は、これはきっとおかめの霊が銀杏にのりうつったのだろうと噂をしました。

それいらい、明治にかけて下関に天然痘が流行した時は、必ずお宮に参り、病気のがれにその銀杏の実を持ち帰ったということです。


(注)
亀山八幡宮の五穀祭で柄杓をたたいて町を練り歩くなかに「八丁浜えらいやっちゃ」という囃し言葉があります。この八丁浜は、このとき埋め立てた浜の広さをいい「えらいやっちゃ」は、えらいやつの意味で、埋め立ての完成を祝い称えた言葉でしょう。
お亀銀杏は、亀山八幡宮の境内の西側にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼けました。しかし、その焼け爛れた木から新芽を出し、いまでは高さ二十メートルぐらいになっています。

Posted on 2017/04/01 Sat. 10:28 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

01

引接寺口説 

引接寺伝説 『引接寺口説(いんじょうじくどき)』


これも江戸時代の話であると伝えられています。

「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に一目ぼれしてしまいます。
 お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。
 恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。
 浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって浄然を説き伏せてしまいます。

 一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。

 とても悲しい、しかし当時非常に流行したラブストーリーなのです。


(しものせき観光ホームページより転載)

-- 続きを読む --

Posted on 2017/03/31 Fri. 16:02 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

31

和布刈祭 

和布刈祭


長門一の宮住吉神社では、旧正月の一月一日に、壇の浦の海岸で和布刈神事を行います。

住吉神社で営まれるおまつりの中では、大切なおまつりの一つで、昔からこのおまつりは秘密になっていましたので、いろいろな言伝えがあります。

わかめを刈る時期は、子の刻すぎから丑の刻の間とされていますが、神事がはじまる三十分前までは、波は渦巻き荒れ狂い、いよいよわかめを刈りに入ると不思議に波はおさまって、潮は左右に開き、二十段の石段があらわれます。
神官は宮殿の宝剣を胸にあて、松明をともし、その石段を降りて一握りの“わかめ”を一鎌だけ刈って陸にあがる。
と、たちまち左右に開いていた潮がもとのように合流し、海上は荒れに荒れるといいます。
もし、そのとき一鎌でなく、二鎌刈れば、みるみるうちに左右の潮にはさまれて溺れるといわれています。

では、実際の神事はどうなのでしょう。“下関民俗歳時記”をみてみましょう。

この和布刈祭のおこりは、住吉神社がおかれたとき、神功皇后のおことばによって、践立の命が、壇の浦のわかめをとって、元旦のお供え物にしたことからはじまるといわれます。

その様子は、大宮司、神官二人、氏子六人が定められたしたくで、その朝につかれたお餅を持ち、神鉾を先頭に松明を連ねて壇の浦に行きます。
松明はオダケとメダケを割ったものをまぜて束ねたもので、二人で担ぐくらいに太くて長いものです。
壇の浦へは、和布刈道という昔からの特別な道を通りますが、長年の間に、土地の様子が変り、小道になったり、あるいは畦道となったところもあり、しかも、帰りは行くときと違った道を通らなければならない掟があって、往復にたいへん苦心します。

壇の浦へ着くと、火立岩に注連縄を張り巡らし、かがり火をたいて、持参したお餅を供え、神事を営みます。
やがてしたくを整え海に入り和布を刈ります。
これが終わると、すぐさま別に用意した草鞋にはきかえ、再び松明の行列をつくって住吉神社へ帰ります。
そして新年のわかめは、神殿に供えられ祭典がおこなわれます。

儀式が終わった後の和布は、むかしは朝廷に、中世になると大内氏や毛利氏などの武将へ贈ったといわれますが、いまでは参拝者に分け与えられます。


厳かな儀式なので、この和布刈祭は次のような、してはいけないことがあります。

一 和布刈祭のお供をしたものは、この神事のありさまを絶対人に言ってはいけない。

二 一般の人は、この行列の火を絶対に見てはいけない。そのため和布刈祭の夜は早くから戸を閉めて寝ることになっている。もちろん、この夜の外出はしてはならないが、事情によってどうしても外出し行列の火を見た場合は、すぐさま物陰に隠れ、行列の方は絶対見ないようにしなければならない。もし見たときはめくらになるといわれる。

三 壇の浦の漁夫たちは、和布刈祭がすむまでは、和布をとって売ってはならないとかたく戒められている。しかし長年の間には、漁夫の生活上、この戒めも破らねばならないこともあり、そうした場合には、これを和布といわず、とくに「名いわず」といって売り歩いたといわれる。

四 この地方には、その日ついた餅は、焼いて食べてはならないという戒めがあるが、これは祭事の中にその日についた餅を焼いて食べる行事があるところからきたものである。


この日、住吉神社はたくさんのおまいりの人で賑わいます。
境内から参道へかけて、物売りの店が並び、とくに農具、苗木の市は有名です。


(注)
門司の和布刈神社でも同じ日に、和布刈祭を行いますが、このほうは住吉神社のように、してはいけないことを別にあげてはいません。
むしろ多くの人々に見せるための観光的な行事になっています。
それに対し、下関の住吉神社では、今でも秘密の神事としてのしきたりを守り、和布を刈る行事などは、人に見せないようにしています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/31 Fri. 12:53 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

31

つかずのとうろう 

つかずのとうろう


明治時代に入る少し前の話ですから、慶応年間のできごとです。

当時馬関には、倒幕運動が盛んで、隊士がたくさんきていました。
その中に報国隊(長府藩でつくった)の隊士もいましたが、みな元気がありすぎるくらいでした。
奇兵隊が桜山に招魂場をつくったのにならい、報国隊も豊町に招魂場をつくることになりました。
そこで阿弥陀寺町にあった燈籠を豊町に運ぼうとしました。

燈籠を横にして大八車に乗せ、外浜町(今の中之町)から赤間町をとおり裏町(今の赤間町)の曲がり角を過ぎたとき、力を出しすぎて大八車を料理屋「吉信」の表戸にぶっつけてしまいました。
隊士たちは酒に酔っていたので、詫びもしないでそのまま車を走らせようとしました。
そこで怒ったのが、料理屋の主人吉信で、表へ飛び出て大声をはりあげ、
「人の家に車をぶっつけておいて、だまっていくものがあるか、わびの一つくらい言ったらどうだ、このごくつぶしめ」
と怒鳴ったから大変。
「なにを、このとうへんぼく」
と、やにわに車を止め、主人を無理やり燈籠一緒にくくりつけました。
車はどんどん奥小路(今の幸町)を越えて走ります。
さすがに気の強い主人も恐ろしくなり、
「助けてくれ、お願いだ」
と叫びましたが、なにしろ隊士は酒によって、むちゃくちゃに車を走らせます。

道を行く人も助けるどころか、ただ車をよけるのがせいいっぱいでした。
それでも吉信は必死になって縄をほどき、車から田んぼの中に転がり落ちて逃げ出しました。

それを見た隊士は、逃がしてなるものかと追いかけ、そのうちの一人が後から一刀のもとに切り殺してしまいました。
しかしその隊士の刀は、まるで固い石か鉄でも切ったかのように真中からポキッと折れてしまいました。
それからまた車を走らせ、豊町の清水坂に運び、そこの牡丹畠に燈籠をたてました。

ところが、その後燈籠にいくら火をつけてもフッとかき消され、そればかりか、あたりにはゾッと鬼気がみなぎりました。

それはまさしく無念の死に方をした主人の亡霊のせいだといわれ、いつしかこの燈籠のことを“つかずの燈籠”とよぶようになりました。


(注)
この燈籠にまつわる話は、ほかにもあります。

燈籠はもともと春帆楼の下、魚安の近くにたっていたもので、観音崎の問屋長府屋長左衛門(長々といった)が供養のために建てたものらしいといわれています。
それは長々がある暴風雨の朝、岸に打ち上げられた男を助け起こしてみると手にずっしりと重い財布を握っていました。
長々はそのころ商売がうまくいかず、お金の心配ばかりはていたので、天の恵みとばかりに、とろうとしましたが、硬くなっている手からなかなかはなれない。そこで長々は
「すまぬがこの金を貸してくれ、そうすれば、必ず世の人のために恩返しをするから」
といったところ、スルスルと財布がとれました。
長々は、おかげで三百両の借金を払い、商売もうまくいって大変繁盛していました。そして約束したとおり、供養のためにあちらこちらに燈籠を寄進しましたが、そのうちの一つがこの燈籠らしいのです。

昭和八年、日和山に高杉晋作の銅像が建てられたとき、長い間、牡丹畠に置かれていた“つかずの燈籠”も晋作像の向かって右下に建てられ、盛大な供養祭とともに、点灯式が行われました。

料理屋吉信の家はも本行寺の二、三軒奥小路よりにありましたが、吉信のあと新しく料理屋を始めた夫婦が、毎晩位階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、ついに店を閉じたということです。

それにしても、今は日和山公園にあるこの燈籠は、下関にある燈籠のなかでは一番大きいものでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/30 Thu. 10:02 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

30

初寅 

初寅


毎年、年の初めの初寅にあたる日は、長府四王司山の毘沙門天まいりに前日の夜から大勢の人がおまいりします。

この毘沙門天は、貞観九年、清和天皇の仰せにより五体を作り、これを因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五つの国へ一体ずつくばられ、外国からの襲撃を守り、国の平和を祈るために、遠く西の国を望むことのできる高い山におかれました。

長府四王司山の毘沙門天は、そのうちの一つでしたが、そののち厚東氏が、この山で戦争をはじめたとき、毘沙門天の焼失することを恐れて、王司村河内の里へ移されました。
やがて厚東氏もほろびて戦争は終わりましたが、毘沙門天は、もとのまま、山里におかれていました。


ある日のことでした。
里の久兵衛という年寄りが、息子夫婦と仲が悪く、いつもけんかばかりしているので、どうにかして、なごやかな家庭をつくりたいと、この毘沙門天に願をかけにきました。
久兵衛は、願をかけおわって社の石段に腰をかけ、緑の葉陰から射してくる日差しをあびながら、いい気持ちでいねむりをはじめました。

すると、その久兵衛の夢枕に、あのいかつい顔をした毘沙門天が現われ、
「久兵衛、お前の願いはききとどけてやろう。そのかわり、わしの願いも里人に伝えてくれ。わしが、四王司山頂から里におりてもうかなりの日数になる。せめて、毎年、正月初寅の日には、四王司山頂のふるさとへ旅させてくれよ」
と、いい終わるや、スーっと消えていきました。

久兵衛はさっそく里人を集めて、毘沙門天のおつげを伝え、そのあくる年の正月、初寅の日には、像を山頂に移し、お祭をしました。
もちろん久兵衛の願いは、ききとどけられたのか、いつまでも明るい平和な家庭を営み続けることができました。


こうしたこともあってから、毎年正月、初寅の日には、盛大なお祭が四王司山頂で行われるようになり、いつのころからか、毘沙門天は、武運長久、開運勝利、福徳円満の神さまとして、みんなの信仰をあつめ、初寅のひには、下関市内はもちろん、九州や山口県下からたくさんの人が、おまいりするようになりました。

(注)
初寅まいりは、三年続けておまいりすると大きいご利益があるといわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/29 Wed. 09:32 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

29

干る珠・満ちる珠 

干る珠・満ちる珠


長府の沖に浮かぶ、美しい二つの島も、神功皇后さまにゆかりがあります。

神功皇后さまが神様のおつげで三韓征伐をされることになり、長府に豊浦の宮をおかれ、いろいろと作戦をねったり、準備をすすめました。

三韓は遠い国です。皇后さまは、天地のあらゆる神さまに、お力添えとおまもりをお願いしました。
もちろん海の神さまである龍神にも海路の無事と戦の勝利を願われました。
ちょうど満願の日です。それまで、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに潮鳴りをおこし、渦を巻いてたけ狂いはじめました。そのどよめきの中から、
「皇后さま、皇后さま、わたしは瀬戸に住む住吉明神の化身でございます」
と呼ぶ声、皇后さまの耳に聞こえてきました。
みると、一番大きな渦の中に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていました。そして、
「三韓はいずれも強い国です。ぜひ龍神のおたすけをかりなさい。それには、安曇の磯良という者を召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠をかりうけられ、そのご神徳によって戦を勝利にすすめられるがよいでしょう」
と、おつげになりました。

そこで皇后さまは、この海岸に住む安曇の磯良という若者を召して、龍神のもとに使わされ、二つの珠を借り受けてこさせました。

いよいよ新羅の大軍が攻めてきましたが、皇后さまは、まず潮干る珠を沖の方へ投げられました。
すると、見る間に潮が引いていって海底があらわれましたので、しかたなく新羅の軍隊は船を降りて海底を歩いて攻め寄せてきましたが、もう少しで陸へ上がろうとという時、こんどは潮満つ珠を岸の近くに投げられると、たちまちまた潮が満ちてきて、新羅の軍隊はおぼれてしまいました。

そののち、皇后さまは、軍船をととのえて、いよいよ三韓へわたり、敵を打ち破り、やがて皇后さまの軍船はいさましく長門の海に凱旋してきました。


皇后さまは、干珠・満珠のあらたかな徳をたたえられ、それをもとの龍神におかえしになるに先立って、お祝いの儀式をとりおこないました。

その日は、軍船が幾組みも組をつくって、壇の浦から長門にかけて、にぎやかなまつりの行事をくりひろげました。
そして、その先頭のひときわ大きい軍船から、皇后さまは、声を高くして、
「わたくしたちが、このたびのいくさに勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなの勇敢な働きによるものであることは申すまでもない。しかし、それにもまして、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。いまここに、お礼を申すとともに、この珠をお返ししたいと思う」
と、おつげになり、静かに二つの珠を海に沈められました。
つわものたちも軍船の上から、二つの珠が沈められた海のあたりを、深い感謝の心をこめて、いつまでもふり返りふり返り見守っていました。

すると、二つの珠が沈められたあたりの海の上に、見るもあざやかな美しい緑の島が、ふたつぼっかりと浮かび上がってきたのです。

この不思議な出来事に、皇后さまをはじめ、つわものたちは感動の目をもって眺め入りました。皇后さまは、
「みなのもの、龍神はいまこの海に二つの島をつくりたまわれた。永遠に長門の浦を鎮めたまうのである。この平和の波はいつまでも干珠・満珠の岸を洗うことであろう」
と申されました。

これを聞いたつわものたちは、いっせいによろこびの声をあげ、そのこだまは海峡にひびき、干珠・満珠の美しい島をつつみました。


(注)
長府の沖合いに、夢のように浮かんでいる島影は、どちらが満珠・干珠だろうと、よくいわれますが、この島の樹林が天然記念物に指定されたとき、沖の方を干珠、陸に近いほうを満珠としており、いまでは、そのとおりに呼ばれています。
また二つの島は、忌宮神社の飛地境内になっています。

島をおおう、うっそうたる樹林は、千古の原始林で、植物目録によると、きょう木17種、かん木30種、草木41種があげられ、大正15年10月22日に、天然記念物に指定され、さらに昭和31年5月1日に、火の山とともにこの二つの島をふくめて、海面区域が瀬戸内海国立公園に編入されました。

なお、船の航海に必要な世界中の海図には、燈台のある沖の島が満珠島、手前の陸に近いほうが干珠島となっており、どちらの島の名前が本当なのかと問題になったことがあります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/28 Tue. 09:52 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

28

青いぐみ 

青いぐみ


江戸時代の頃、川中村の伊倉八幡宮の近くに一人の浪人が男の子を一人つれて住んでいました。
浪人は、わけがあって自分の国を捨て、この土地に住みつくようになったのですが、着ているものといえばいつもつぎはぎのボロボロの着物、住んでいる家も牛や馬が住むような小屋よりも、もっとひどいものでした。
生活も楽ではなく、八幡宮の土地を少しばかり借り受けて、やっと食べるものだけは作っていました。

ある年のこと、飢饉があり、村人たちが大切に作っていた西瓜がたびたび盗られるということが起こり、村人たちは「これは、あのおさむらいの子どもがあやしい、一つや二つの西瓜ならがまんするが、こう毎日盗られたんじゃ、たまったものではない。おさむらいに注意してしかってもらおう」と、村人たちはそろっておさむらいの家へいき、どうかしまつをつけてくれとせまりました。

浪人は、自分の子どもにかぎってそんなことをするはずがないと思いましたが、村人たちからうたがわれているのなら仕方がないと、さっそく子どもを呼び、
「お前が西瓜を盗んだのか」と、問いただしましたが、子どもは、
「自分はこんなかっこうをしていますが、さむらいの子です。決して人のものを盗むようなことはしません」と、きっぱりいいきりました。
しかし、村人たちは、いかにさむらいといっても、よそから流れてきたものだ、西瓜どろぼうは、その子に決まっている、とあくまでどろぼうにしてしまいました。

浪人は、村人たちの悪口をしばらく聞いていましたが、とつぜん刀を抜き、わが子を横だきにするや、村人たちに向かい
「それならば、この子のお腹を見せてしんぜる」
とわが子を殺し、お腹を切り開いてみせたところ、西瓜の種は一粒もなく、わずかに「ぐみ」の種子が五粒ほどでてきました。

村人たちはまっさおになり、自分たちが悪かったと深くわびましたが、死んだ浪人の子どもが生き返ってくるはずがありません。村人たちは、今度は浪人が怒って自分たちを切り殺すのではないかと、ぶるぶるふるえていましたが、浪人は、
「これで息子の正しかったことがおわかりになったでしょう」と、いっただけで別に怒りもしませんでした。
しばらくして村人たちが帰ったあと、浪人は我が子のなきがらにむかい、
「さぞ、くやしかったにちがいない、ゆるしてくれ」
と、合掌し、やがて自分もまた切腹して、息子のあとを追いました。

毎年、夏になるとぐみの木に真赤な実がつきますが、ふしぎなことに、それからというもの、一枝のなかにかならずといっていいほど、五粒のうれないままの青いぐみが残るようになったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/27 Mon. 10:38 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

27

はんどうさま 

はんどうさま


川中有富上村の東側裏山は、海抜百メートルあまりの山で、いつのころからか“はんどう山”と呼ばれています。

むかし、この付近の村々に恐ろしい暴風雨が襲いました。
嵐は大荒れに荒れて、ついには大竜巻までおこして村といわず、野といわず、山といわず暴れまくってやっと通り過ぎていきました。

あくる朝、村の新右衛門は、きのうの嵐で、田や畑はどうなっているだろうか、眠たい眼をこすりながら見回りに出かけました。
しかし、心配していたほど被害はなく、やれやれ安心したわいと、ぐるりと一回りし、雑木林を通って帰りかけていると、きのうの嵐で葉をもぎ取られた木々の間に大きな瓶があるのに気づきました。
近寄ってみると、古い大きな瓶で、いままでまったく気がつかなかったものでした。
新右衛門は、ちょっと気味が悪かったが手でさわってみたり、のぞいてみたりしました。けれども、どこにも傷はなく、丈夫そうにみえたので、
「ひょっとすると、嵐の置き土産かもしれない。何かに使えそうだ、拾って帰ろう」
と、冗談半分に、この重たい瓶を担いで帰りました。

やがて忙しい稲刈りも過ぎ、すずめが田に落ちた米をついばみに来る季節になりました。
そのころになって、新右衛門は、あの古瓶のことを思い出し、新米を使ってお酒を造ろうと、さっそく瓶を納屋から出し、酒を仕込みました。
数日が過ぎて、酒はいい具合に造れているようでした。

ところが、それからまた、幾日かたったある夜のことでした。
とつぜん家がグラグラ揺れ動き、土間に置いていた酒瓶がわんわんと鳴り響きました。
びっくりぎようてんした新右衛門は、大急ぎで酒瓶を抱きかかえ、表へ飛び出すと前の広場へ放り出しました。
もちろん瓶は、こなごなに壊れてしまい、もうお酒になりかかっていた白米は、あたり一面に散らばって、ぷんぷんといい香りをはなちました。

このありさまは、村の人たちにも知れ渡り、あくる朝、さっそく新右衛門の家に集まって、いろいろ噂話をはじめました。
「これは竜王様の化身に違いない」
「あの大嵐の時、竜巻が暴れまわっている最中、天から降ったものだろう」
「それなら、このまま人里におくことは、まことにもったいない」
「人里はなれた山の頂上にまつったほうがよかろう」
ということになり、村人たちは、こなごなになった瓶の破片を一つ残らず拾い集め、それを丁寧に裏山に運び、その山上にまつったのでした。

村の人たちはいつしか、ここを竜王神社と呼び、この山を“はんどう山”または“竜王山”と呼ぶようになり、神秘的な場所として、村人たちの崇拝するところとなりました。

そしていつのころからか“大嵐”“大竜巻”“竜王”ということがらを結びつけて“水”をもたらす神様だと信仰するようになり、日照りで苦しむときなどは、雨乞祈願をするようになりました。


(注)
はんどう(飯銅・半銅)広辞苑では、茶の湯その他の用に供する金属製の容器とあります。
新右衛門が拾った瓶も、はんどうの形に似ていたことから、はんどう山という名がついたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/26 Sun. 09:46 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

26

みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/26 Sun. 08:58 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

26

穴門 

穴門


下関という地名の古い呼び方に“穴門”(あなと・穴戸とも書く)があります。
穴門というのは、もともと早鞆の海峡のことをいうのですが、ある説によると、今から1800年くらい前に三韓に兵を出したとき陸続きだった土地を、仲哀天皇が六年の歳月をかけて、掘り下げ、いまの海峡にしたといいます。

また別の説によりますと、もともと陸続きでしたが、その下に、わずかに水門のような穴が通じて、潮が流れていたため“穴戸”といったとあります。
そして、神功皇后が三韓に兵を進められる途中、豊浦の浜(長府の浜)からここを通過するとき、軍船が通れないので天地の神様にお願いしたところ、この穴戸の陸地は左右に開き、山の一部が西の海中に沈んで“引き島”(いまの彦島)になったといいます。


(注)
上代の頃、村の名を好い名に改めるようにという令が出され、“穴”という暗い感じから“長”という明るい感じの字に改め、“長門の国”となったとも云われています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/03/25 Sat. 09:46 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

25

赤田代のキツネ 

赤田代のキツネ


内日の赤田代に、気位の高い一人のおじいさんが住んでいました。
おじいさんの身分は士族でしたので、そのあたりの人は、おじいさんのことを
「だあさん、だあさん」と、呼んでいました。

ある日、だあさんが山に行って炭窯の中で木立をしていると、窯の口から自分をのぞいていたものがいます。
よく見ると、それはキツネでした。だあさんは下種のものから覗き見されたことに、ひどく腹を立て、立木を手にしてはだしのままキツネを追いかけました。
どんどんキツネを追いかけて、ひと山越えた一ノ瀬でキツネに追いつき、キツネを叩き殺しました。

だあさんは、殺したキツネを自分で食べるのはいやなので、長府の毛利の殿様のおかかえ猟師で鉄砲の名人で、近所のばんえむさんのところに持って行き、
「食べてくれ」と言って、キツネをばんえむさんにあげました。

ばんえむさんは、もらったキツネを明日にでも料理しようと、長屋の背戸の柿の木にぶら下げておきました。
そこに近所のおばあさんがやって来ました。ばあさんは吊るされたキツネを見て、哀れに思い、
「なんでもいけんことしたなあ」と、キツネの頭を手でさすってやりました。

ところが、その夜、おばあさんが行灯の油を、ぴたぴた、ぴたぴたと舐めはじめました。
そのおばあさんの姿が障子に影絵のように写し出されたので、近所の人たちはびっくりしました。

そこで太夫さんの役をもっている、幸吉じいさんがお祈りをして、おばあさんに乗り移っているキツネに、
「お前をお祀りしてやるから、このおばあさんから逃げておくれ」
といったところ、おばあさんはすっかりよくなりました。

そのキツネの霊を祀った石が、今でも紺谷の山に残っています。


(注)
この話が変っているのは、キツネを殺したじいさんに付かなくて、哀れみをかけたおばあさんにキツネが付いたことです。
悪い人は力が強いのでキツネも付くことかできず、かえってやさしく弱いおばあさんにすがって付いたのでしよう。
なお、この話は、中西輝磨さんが内日の今田吉人さんから聞いたものです。

Posted on 2017/03/24 Fri. 09:29 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

24

耳無芳一の話 

耳無芳一の話
THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI
小泉八雲 Lafcadio Hearn
戸川明三訳


 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。
この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。
しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。
これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然(ちゃん)と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。

 芳一には出世の首途(かどで)の際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。
後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

 ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。
芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。
底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下(したじた)を呼びつけるような風に――
『芳一!』
 芳一はあまりに吃驚(びっくり)してしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
 見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許(とこ)へ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。
ところで、お前がその戦争(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』
 当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。
武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居(とのい)の衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。
やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。
「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後(しまい)の段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭(ふ)き込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。
 芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
 さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下(くさり)を語れという殿様の御所望で御座いますか?』
 女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦(いくさ)の話をお語りなされ――その一条下(ひとくさり)が一番哀れの深い処で御座いますから』
 芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧(うま)い琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。
しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦(おのの)き慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
 その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前(ごぜん)で演奏(わざ)をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』

 芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。

 芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
 芳一は言い※(「しんにゅう+官」、第3水準1-92-56)れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
 住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。

 すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。
二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後(うしろ)と周囲(まわり)と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅(ばか)されているのだ!……芳一さん!』
 しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚※(「口+戛」、第3水準1-15-17)※(「口+戛」、第3水準1-15-17)と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
 叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
 事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅(ばか)されていたのは確かなので、一同は芳一を捕(つかま)え、その身体(からだ)をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。
 芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
 すると住職は云った……
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ! もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった! お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影(まぼろし)だ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為(す)るがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』

 日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐(こ)わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』

 日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
 すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
 芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……
 縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。
 遂に自分のすぐ傍(そば)であらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』
 その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……

 日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞっ)として声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……
 住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ ――出来るだけ早く、その傷を治(なお)すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』

 深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。

底本:「小泉八雲全集第八卷家庭版」第一書房
   1937(昭和12)年1月15日発行


電子図書館青空文庫より

Posted on 2017/03/24 Fri. 08:45 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

24

長門毘沙門天 

長門毘沙門天


下関市長府松小田の四王司山(392メートル)。
周防灘、北九州を一望のもとに見下ろす頂上に、一体の毘沙門天がある。
貞観9年、清和天皇は外敵に対する守り神として五体の毘沙門天像を因幡、伯耆、出雲、石見、長門の五国に下し、海辺の山頂に祭ったという。
他の四体の行方が知れぬ中で、長門毘沙門天は地元の人の厚い信仰に守られ、福徳開運の神として崇拝を集めている。
縁日は正月初めの寅の日。
「初寅詣で」にはいまも、県内各地から集まった数万の人々が急な山道を登り、一年の幸せを祈って縁起物の張子の虎を下げたササの葉を買って山を下る。
しかし、このササの葉に秘められた物語を知っている人は何人いるだろうか。


四王司山を望む小月の里に、八重というきりょうよしで働き者の娘がいた。
庄屋から息子の嫁にと望まれながら、貧しさゆえに「つり合わぬは不縁のもと」と、年とった母と二人暮らしを続けていたある正月のこと、「明日は初寅じゃが、お参りにいかんか」とおじが訪ねてきた。
若い娘にとって「初寅詣で」は晴れ着を競う場。
着物一つ買ってやれんで、とつらがる母を思って、八重は首を横にふった。

「それじゃ、わしがかわりに福をもろうて来ちゃるでの」
しかし、おじさんが約束を思い出したまは、山を下ったあとだった。
「どうしたもんかのう」、困り果てたときに藪の中でウグイスの鳴く声が耳に入った。
見るとササ葉が夕日に照らされ、美しく輝いている。
思わずササを一本折り取ったおじさんは、それをみやげがわりに八重に渡した。
八重はそのササを大切に神棚に祭ったが、翌朝になるとササの葉は小判にかわりキラキラ輝いていた。
「毘沙門天様のおさずけ」、その小判で嫁入り仕度もととのえた八重は春三月、庄屋の息子に嫁ぎ、末永く幸せに暮らし、以来ササの葉は毘沙門天の福飾りとして、初寅詣でに欠かせぬものになった。


四王司神社の役員代表、石川秀雄さんもこの話を知らなかった。
しかし、八重の話は忘れられても、毘沙門天に寄せる人々の信心は変らない。
石川さんら松小田地区の人々はいまも参道修復などの奉仕を続けている。
頂上の神社まで約60分。
そこを人々は初寅の日の午前零時に参るため、暗やみの中をのぼる。
今年も神社ではこの日、特別に祈願のため鳴らす鈴を三ヶ所につけたが、人々は鈴の緒を奪い合い、必死で取りすがった。

「警察は、あんまり混雑しすぎて危険だから鈴を四ヶ所につけろというんだが、そんなことをしたら神社が引き倒されてしまうんで三ヶ所にしてるんですよ」と石川さんが教えてくれた。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より

Posted on 2017/03/23 Thu. 11:14 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

23