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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

壇の浦に消えた宝剣 

壇の浦に消えた宝剣


永寿四年(1185)三月二十四日、源平最後の合戦、壇の浦の戦が行われましたが、ここで平家は完全に滅んでしまいました。
このとき安徳幼帝は、二位の尼にいだかれ三種の神器のうち、剣と勾玉とをお持ちになって海底深く消えていかれました。

なかでも剣は“天叢雲の剣”(あめのむらくものつるぎ)といって、いわれのある剣でしたので、その時、政治をとっておられた後白河法皇はたいへんしんぱいされ、海峡のはしからはしまでさがさせましたが、どうしても見つかりません。
そこで賀茂大明神におこもりになって、宝剣のゆくえをお願いしましたところ、七日目に大明神のおつげがありました。
そのおつげによると、ながとのくにの壇の浦にすむ、老松、若松という海女を召して調べさせよ、ということでした。そこで法皇はさっそく義経をおよびになって、このおつげをお話になり、いっときも早く、剣を探し出すようお命じになりました。

ふたたび、義経は激しい戦をくりひろげた壇の浦にもどってきて、老松、若松のいどころを探し、やかたによびよせました。
老松はそのとき三十五歳、若松は娘で十七歳、もぐりにかけてはこの近くでは二人にかなうものはないと、いわれているほどじょうずで、そのうえ、どことなく、気高い感じを人に与えました。
やがて、老松、若松は、みじたくをして海にもぐりました。太陽が沈む頃二人は浮き上がってきました。
若松は、別に剣らしいものはみなかったと義経に報告しましたが、母親の老松の方は、
「ふしぎな大岩をみつけました。その岩には人がくぐれるくらいの穴があって、私は、できるかぎり、その奥へ奥へと進んでみました。およそ一里くらい入ったところで、急に明るくなり、そのむこうに龍宮城らしき建物があり、金銀の砂をしき、その美しい光景に気が遠くなりそうでした。やがて二階構えの楼門まできたとき、どうしたことか手足がしびれだし、いまにも砂の中に引き込まれそうになりました。そこで思わず、お経を唱えると、いくぶんかしびれた手足がもとにもどり、大急ぎで浮き上がってきました。
あの楼門の中へ入るには、神仏のお力にすがるほかはありません」
と申しました。

そこで義経は、くらいの高い僧たちを集め、相談したところ、老松が身につける衣に如法経を書き写し、そのお守りで龍宮城に行かせようということになりました。
老松はふたたび海にもぐりました。そして一日一夜も浮き上がってこないので、義経をはじめ僧たちは、もう老松は死んでしまったのか…と、なげき悲しみました。
ところが翌日のお昼ごろポッカリと水面に顔をだしました。義経は心配のあまり、
「どうであったか…」
と、たずねましたが、老松は、法皇さまにおめにかかり、じきじきにお話いたします、と申しました。

やがて老松親子は京にのぼり、法皇さまの前にでて、ふしぎな話をはじめました。
「如法経のお守りで、手足もしびれず龍宮城に入りました。大日本国の帝王のお使いで、壇の浦で失った宝剣をさがしにまいりましたと門番につげると、広いお城の中をあちこちと案内され、とある庭へつれてこられました。
しばらく待つうちに、しだいに風がでてきて、大地がうなり、はげしく氷雨が降ってきました。私は恐ろしくて、今にも逃げ出そうと思いましたが、ここで逃げ出せばお役にたたずと思いじっとがまんしておりますと、やがて風もおさまり、部屋の奥からうすきみ悪い煙がたちのぼり、シュ、シュという音がしはじめました。
何事かと思って、その方に目をうつすと、小山ぐらいはありそうな大蛇が剣を口にくわえ、七、八才のこどもをかかえていました。その目は、らんらんと輝き、口は耳までさけて、真赤な舌がぶきみにのぞいていました。そしてこういいました。

この宝剣は、日本の帝のものではない。もとはといえば、龍宮城の大切な宝である。
というのは、次郎王子なるものが宝剣を持って陸にあがり、出雲の国のひの川に八つの首を持った大蛇となって住み着き、人をのみはじめた。それで、すさのおのみことが大蛇を退治し、そのお腹から、剣をとりだして姉の天照大神に差し上げた。
そのあと日本武尊に渡ったりして、いろいろ持ち主がかわったが、そのたびに大蛇になり、どうかして剣をうばいかえそうとしたが、いずれも失敗におわってしまった。
しかし、うまいぐあいに、今度は安徳天皇に姿をかえ、源平の戦をおこし、ついに宝剣を見事取り返すことができた。
わしがいま口にくわえているのは、まさに、その剣じゃ、かかえているのこどもは、安徳天皇である。
みよ、平家一門の人々はみな、龍宮城におられる。

と、大蛇が扉を開くと大臣をはじめ法師、女官たちが、じっと私を見つめていました。
そして、大蛇は最後に、

この宝剣は、二度と日本国には渡さない。永久にわしのお腹に入れておく、

というなり、赤い舌を巻いて剣を飲み込んでしまいました。
私は、それを見届けるや龍宮城をあとにして、帰ってきたのです。


老松の長い話が終わると、法皇をはじめ義経たちは、深い失望のためいきをつきました。
こうして、三種の神器のうち、剣は、壇の浦の海中深く、龍宮城の大王である大蛇のお腹におさめられたのでした。


(注)
壇の浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたびさがされ、その回数は二十回にもおよんだといわれています。
また、宝剣が沈んで二十七年も過ぎた頃にも、夜など壇の浦の海に光り輝くものがあるという噂が流れたという話も伝わっています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/06/24 Wed. 10:01 [edit]

category: 下関の民話

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お忌さん 

お忌さん


長府忌宮神社のおまつりの中で「おいみさい」というのがあります。
このおいみさいは、お忌さん、おゆみさんとも呼ばれ、やさしい感じがしますが、実際は十二月七日から十五日までのおまつりの間は、境内にしめ縄をはりめぐらし、一般の人は境内に足を踏み入れることができない、厳しいおまつりです。

おまつりの起こりは、仲哀天皇が新羅を征伐されるときに、豊浦の津に皇居をおかれました。
しかし天皇は病気でお亡くなりになり、その後おきさきの神功皇后さまが、斎宮を建てられ、ここに七日七夜おこもりになり、新羅に兵を進めたほうがいいか、神のおつげをうかがわれました。
この七日七夜おこもりになったことが、おまつりのおこりといえます。

おまつりの第一日、二日、三日間は神様がいろいろ準備される日で、第四日は、神様が白馬に乗られて汐汲に行かれますが、そのとき、戸毎に立ち寄って皆が静かにしているかどうか立聞きされる「立聞の日」、第五日は、戸のすき間から家のようすを見られる「のぞみの日」、第六日は静かにしていなかった人に忌矢を放たれる「矢放しの日」になっています。

そして、七日七夜のおまつりの間は、民家でも、いろいろしてはいけないことがあります。
夜は早く戸を閉めること。外にあかりをもらさないこと、便所をかえてはいけない、下駄の緒をつけかえてはいけない、踊りや音楽を鳴らしてはいけない、外出しないこと、野良仕事、洗濯をしないことなどで、これを守らないときには、必ず白矢を受けて病気になるといわれました。

このお忌さんの行事は、忌宮神社だけでなく、住吉神社、吉見乳母屋神社、吉母の若宮神社などでもおこなわれています。

住吉神社の近くに“濁池”という池があります。一年中常に清水をたたえた池ですが、おまつりになると濁るところからつけられた名です。
これは神様が汐汲の帰りにここで馬の足を洗われたからといわれています。
また吉見乳母屋神社では、神前に大きなたらいを置き、それに水をいれておくしきたりがあります。
やはり濁池と同じように、そのたらいの水が必ず濁っているといいます。

神様の怒りにふれて、石になったという言い伝えもあります。
この石のことを「お斎石」または「門石」ともいいますが、住吉神社のお斎石は、老婆がおまつりの期間に、夜せんたくをしているところを神様が見とがめられ馬の上から鞭で打たれて石になったといいます。
吉見のさき、大河原にある「お斎石」は、老夫婦が夜浜へ出て、わかめを刈って帰る途中、ちようど神様にであい、馬のひずめにかけられ石になったといいます。
現にこの石には、二つのひずめの後が残っています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/06/23 Tue. 10:42 [edit]

category: 下関の民話

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干る珠・満ちる珠 

干る珠・満ちる珠


長府の沖に浮かぶ、美しい二つの島も、神功皇后さまにゆかりがあります。

神功皇后さまが神様のおつげで三韓征伐をされることになり、長府に豊浦の宮をおかれ、いろいろと作戦をねったり、準備をすすめました。

三韓は遠い国です。皇后さまは、天地のあらゆる神さまに、お力添えとおまもりをお願いしました。
もちろん海の神さまである龍神にも海路の無事と戦の勝利を願われました。
ちょうど満願の日です。それまで、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに潮鳴りをおこし、渦を巻いてたけ狂いはじめました。そのどよめきの中から、
「皇后さま、皇后さま、わたしは瀬戸に住む住吉明神の化身でございます」
と呼ぶ声、皇后さまの耳に聞こえてきました。
みると、一番大きな渦の中に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていました。そして、
「三韓はいずれも強い国です。ぜひ龍神のおたすけをかりなさい。それには、安曇の磯良という者を召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠をかりうけられ、そのご神徳によって戦を勝利にすすめられるがよいでしょう」
と、おつげになりました。

そこで皇后さまは、この海岸に住む安曇の磯良という若者を召して、龍神のもとに使わされ、二つの珠を借り受けてこさせました。

いよいよ新羅の大軍が攻めてきましたが、皇后さまは、まず潮干る珠を沖の方へ投げられました。
すると、見る間に潮が引いていって海底があらわれましたので、しかたなく新羅の軍隊は船を降りて海底を歩いて攻め寄せてきましたが、もう少しで陸へ上がろうとという時、こんどは潮満つ珠を岸の近くに投げられると、たちまちまた潮が満ちてきて、新羅の軍隊はおぼれてしまいました。

そののち、皇后さまは、軍船をととのえて、いよいよ三韓へわたり、敵を打ち破り、やがて皇后さまの軍船はいさましく長門の海に凱旋してきました。


皇后さまは、干珠・満珠のあらたかな徳をたたえられ、それをもとの龍神におかえしになるに先立って、お祝いの儀式をとりおこないました。

その日は、軍船が幾組みも組をつくって、壇の浦から長門にかけて、にぎやかなまつりの行事をくりひろげました。
そして、その先頭のひときわ大きい軍船から、皇后さまは、声を高くして、
「わたくしたちが、このたびのいくさに勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなの勇敢な働きによるものであることは申すまでもない。しかし、それにもまして、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。いまここに、お礼を申すとともに、この珠をお返ししたいと思う」
と、おつげになり、静かに二つの珠を海に沈められました。
つわものたちも軍船の上から、二つの珠が沈められた海のあたりを、深い感謝の心をこめて、いつまでもふり返りふり返り見守っていました。

すると、二つの珠が沈められたあたりの海の上に、見るもあざやかな美しい緑の島が、ふたつぼっかりと浮かび上がってきたのです。

この不思議な出来事に、皇后さまをはじめ、つわものたちは感動の目をもって眺め入りました。皇后さまは、
「みなのもの、龍神はいまこの海に二つの島をつくりたまわれた。永遠に長門の浦を鎮めたまうのである。この平和の波はいつまでも干珠・満珠の岸を洗うことであろう」
と申されました。

これを聞いたつわものたちは、いっせいによろこびの声をあげ、そのこだまは海峡にひびき、干珠・満珠の美しい島をつつみました。


(注)
長府の沖合いに、夢のように浮かんでいる島影は、どちらが満珠・干珠だろうと、よくいわれますが、この島の樹林が天然記念物に指定されたとき、沖の方を干珠、陸に近いほうを満珠としており、いまでは、そのとおりに呼ばれています。
また二つの島は、忌宮神社の飛地境内になっています。

島をおおう、うっそうたる樹林は、千古の原始林で、植物目録によると、きょう木17種、かん木30種、草木41種があげられ、大正15年10月22日に、天然記念物に指定され、さらに昭和31年5月1日に、火の山とともにこの二つの島をふくめて、海面区域が瀬戸内海国立公園に編入されました。

なお、船の航海に必要な世界中の海図には、燈台のある沖の島が満珠島、手前の陸に近いほうが干珠島となっており、どちらの島の名前が本当なのかと問題になったことがあります。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/06/22 Mon. 10:54 [edit]

category: 下関の民話

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22

平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。

Posted on 2020/06/19 Fri. 10:58 [edit]

category: 下関の民話

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キツネのくれた刀 

キツネのくれた刀


むかし、内日の東高地に渡辺という家がありました。
貧しい家でしたが、その家の「やそう」という人は大変に情け深い人でした。

ある年の十二月の暮れに、近くの町で開かれる市へ買い物に行くために峠にさしかかったとき、子ども達が一匹のキツネの子を捕らえて、引き回しているのに出会いました。
情け深いやそうは、
「かわいそうだから、放してやってくれ」と言いましたが、子ども達が聞いてくれないので、
「それではお金で買うから売ってくれないか」と頼むと、子ども達は望みの金額を言いました。
貧しいやそうは、少ししかお金を持っていませんでしたから、キツネの子を買えば、町で買い物をするお金がなくなってしまいますが、それでもやそうは子キツネを買い取って逃がしてやりました。

それから何日かすぎた夜のことです。寝ているそばで、
「子どもを助けていただいてありがとうございました。お礼に刀を置いて帰りますので大切にしてください」
と、いう声がしたように思えて、目がさめましたが、キツネの子のことかなと思いながらも気にもとめずに朝を迎えました。
やそうは朝になって縁側に出て驚きました。
そこには一振りの立派な刀が置いてあったのです。

このことがあってから、たちまち渡辺家は金持ちになり、近くの小川を渡るのに、千両箱を飛び石のかわりに使ってもよいといったほどに栄えました。

ところが、それから何代かえとに、心がけの悪い息子がいて、この刀を持ち歩いて人々に見せびらかし、ある時遊びに行った先で刀を盗まれてしまいました。
それからというもの、渡辺家は次第に貧しくなり、家も絶えてしまったということです。


(注)
この話は、山田春男さんが、内日の岩本正日さんから聞いたものです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/06/17 Wed. 09:50 [edit]

category: 下関の民話

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