12 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 02

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の地名12 彦島(ひこしま)2 

彦島(ひこしま)2


「平家物語」では、
「平家は長門国引島に著と聞えしかば」

「吾妻鏡」では“彦島”、そして「源平盛衰記」には、
「新中納言知盛は長門国彦島と云所に城を構へたり、是をば引島とも名付けたりとあり、彦島とも引島とも云へり」
とそれぞれ記しています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/01/15 Tue. 13:20 [edit]

category: 下関の地名

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15

下関の地名11 彦島(ひこしま)1 

彦島(ひこしま)1


下関市の南西に位置する彦島は、生野村に次いで、昭和八年に下関市に合併しました。
明治二十二年当時、彦島は六連島を含め“彦島村”と呼ばれ、大正十年に彦島町となり、下関市と合併しました。

彦島の地名が文献に現れるのは、八世紀にまとめられた「日本書紀・仲哀紀」が最古のもので、
「筑紫の伊観県主の祖五十いとで、天皇の行を聞きて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳先立て、上つ枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握の剣をかけ、穴戸の引島に参迎へて…」とあります。

また、天治年代の歌人源俊頼の「袖中抄」には“ひくしま”と詠いこんだ作品を見ることができます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/01/13 Sun. 11:59 [edit]

category: 下関の地名

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13

下関の地名10 彦島古地図 

kotizu.jpg

Posted on 2019/01/12 Sat. 09:53 [edit]

category: 下関の地名

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12

下関の地名9 武者田 

六人武者


 壇ノ浦の合戦で平家が滅び、そして何年かたったころの話です。

 彦島の対岸、小門の王城山に中島四郎太夫正則という悪者が住んでいました。
 もともと平家一門であった四郎太夫は、一門再興を願っていましたが、いつのまにか、その望みもなくなり、とうとう海賊に身をやつしてしまったのです。

 ある寒い冬のことです。

 四郎太夫は、息子とその家来四人をつれて竹ノ子島を襲い、略奪のかぎりをつくしました。その上陸地は今でも『六人武者の江良』と呼ばれ、竹ノ子島は古く『鬼ヶ島』と呼ばれたものでした。
 六人武者は彦島へも足を伸ばし、あちこちで悪事を働きました。西山の『波高』という地名は、住民の殆どが裸にされてしまったからで、『渡瀬』は『有り金ぜんぶ渡せ』とおどされた所からきているといいます。
 また、迫の『荒田』は、住民をここに集めて財産の有無をあらためた所で、その隣の『絞』は、何もかも絞り取られた人びとの集落となった地名だということです。


 やがて、四郎太夫ら六人の海賊は、彦島だけでは飽きたらず、九州にまで勢力を伸ばしはじめました。そこで豊前の人びとが海賊征伐に立ち上がり、兵百五十人と船六十三隻が福浦の海に集結しました。

 福浦には今でも『六十三隻江良』という磯が残っており、対岸の塩浜には『海賊島』や『海賊泊り』も現存しています。
 その時、豊前の兵は、南風泊の漁師たちに海賊の様子を訊ね歩きましたが、どの漁師も後難を恐れて『聞かぬ』『聞かぬ』と首を振るばかりでした。南風泊の沖には、今でも『きかんが藻』という岩礁があります。

 いよいよ海賊征伐の火ぶたは切られましたが、四郎太夫たちは、さまざまな奇襲戦法を用いて、それに抵抗しました。
 しかし、百五十人対六人では殆ど戦にならず、四郎太夫と息子は一目散に伊崎の山へ逃げてしまいました。

 それでも、あとに残された四人の家来、つまり、鶴五郎、仁蔵、雁次、市太郎らは、最期まで勇敢に闘って死にました。
 今、彦島に残っている『仁蔵の江良』『鶴の江良』『雁谷迫堤』『太郎ヶ鼻の瀬』などの地名は、彼らが討ち死にした場所だということです。


 戦いすんで日は暮れて、豊前の兵は意気揚々と引きあげて行きましたが、島びとたちは斬り殺された四人の海賊の首を一箇所に集めて田の中に埋め、手あつく供養しました。その地を今でも『田の首』と呼んでいます。

 島の人びとにとっては、それはそれは憎い海賊たちではありましたが、四郎太夫父子の逃走後も、なお、勇敢に闘って死んだ四人への哀れみから、六人武者にまつわる地名があちこちに付けられたのだといわれています。
 そして人びとは四人の武者が最期にたてこもっていた場所を『武者田(むしゃだ)』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話には、ずいぶん多くの地名が出て来る。中でも『六十三隻江良』には、この他に諸説がある。
その一つは弘安四年(1281年)のことだ。元軍十四万の兵と軍船四千四百隻の襲来にそなえ、日本海沿岸はすべて防塁を築いたが、その際、彦島にも小福浦に六十三隻の船を集結させて待機したという。
その二は、永享二年(1430年)のこと、筑前の秋月三郎雅春、原田二郎信朝ら二万八千騎が火ノ山城を攻撃した時、大内氏は、小福浦に船六十三隻を集結させたというのである。

また『雁次』が死んで『雁谷迫』になったという話も、合点がゆかないが、これなどは、永年の間に転化していったものであろうか。

『武者田』は往古は『毘沙田』と書き、毘沙門天が祀られてあったといわれている。
その後、平知盛がこの島に城を築いたので『武士田』となったという。『武士田』が『武者田』に変わったいきさつには、次の説がある。
むかし平家の落武者が、その名を明かさず、武士田の奧で山を伐り開き農耕に励んでいたが、嫁も迎えなかった為、一代で絶えてしまった。そこで、人びとはその死を悲しみ、武士田の峠近くにその死体を埋めて、手厚く葬り、地名を『武者田』と改めた。
というのである。因みに彦島警察署の小字は『虫田』である。
ところで、落武者を埋めたと伝えられる場所は、その後、福浦、長崎、荒田地区の埋葬地となり、大正以降には、火葬場が作られた。しかし、今では、そのあとかたもなく、ただ『焼けあがり』という呼称だけが残されている。

なお、赤間神宮の先帝祭では、上ろう道中の先頭に立って参拝する特権を持っている中島家の祖先と伝えられる四郎太夫が、彦島では、悪者扱いにされていて、そのため、伊崎と海士郷、南風泊の漁師は、昔から仲が悪かったということである。
六人武者のうち、四郎太夫父子が四人の家来を残して逃走したというくだりに、彼らの憎しみが感じられてならない。

Posted on 2019/01/11 Fri. 10:25 [edit]

category: 下関の地名

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11

下関の地名8 姫ノ水 杉田 

姫ノ水


 壇ノ浦の合戦で、悲しくも平家は敗れました。その時、四人の官女が一門から離れて彦島にかくれましたが、数日もしないうちに欠乏の生活に耐えられなくなってしまいました。彼女たちは、このまま島にかくれていても貧するばかりと、思いあまって大瀬戸の流れに身を投げました。

 しかし、そのうちの一人は死ぬことも出来ず、砂浜に押し上げられてしまいました。
 里人に助けられたその女は、三人の官女や一門の人びとの幸せを羨み、平家全盛のころの華やかな毎日を思い出しては、日夜泣き通しました。そして、日に日にやせおとろえていきましたが、ある朝、こつぜんと姿を消してしまいました。

 里人たちが手分けをして探しまわりましたところ、浜辺からかなり奥まった山中に、のどをかききった官女のなきがらがありました。
 人びとは、彼女の死をひどくいたんで、その地に手厚く葬り、一本の杉を植えました。そして、どこにでもあるような山石を運んできて、官女の墓を建てました。

 ところが、不思議なことにいつの頃からか、墓石の下から冷たい水が湧きはじめたのです。そればかりか、杉の木はぐんぐん伸びて何年もたたないうちに見上げるような大樹に成長しました。

 人びとは、この水のことを『姫ノ水』と呼び、杉の木の付近を開拓して『杉田』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/01/10 Thu. 10:23 [edit]

category: 下関の地名

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10

下関の地名7 姫ノ水 

きぬかけ岩


 むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
 不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
 すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
 権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
 ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。

 そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
 そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。

 いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/01/09 Wed. 10:05 [edit]

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09

下関の地名6 七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/01/08 Tue. 10:18 [edit]

category: 下関の地名

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08

下関の地名5 彦島の“字”と“小字” 

彦島の“字”と“小字”


「山口県地名明細書」には、彦島の“小字”を次のように収録しています。

海士郷
牛が鼻(うしがはな) 脇ノ田(わきのた)

本村
大江(おおえ) 鋒江(ほこえ) 鋒崎(ほこざき)

後山
長崎(ながさき) 安藤田(あんどうだ) 江向(えむかい)

堀越

鎌崎(かまさき) 杉田(すぎた)江ノ浦(えのうら)

弟子待
行田(おこなで) 山中(やまなか) 角倉(すまくら)

田ノ首
塩田(しおた) 山床(やまとこ) 生板(なまいた) 西ノ脇(にしのわき) 大山(おおやま) 生板瀬(なまいたせ) 鳴瀬(なるせ)

福浦
硴崎(かきざき) 塩谷(しおや) 安舎(あんじゃ) 鋤崎(すきざき)


荒田(あらた) 萩原(はぎわら) 佐崎(さざき) 小迫(こざこ) 飛渡(とびわたり) 中西(なかにし)

西山

阿武(あぶ) 山合(やまごう) 波高(はだか) 長無田(ながむた) 伊無田(いむた) 

南風泊
渡瀬(わたせ) 瀬戸(せと)

宮ノ原
出口(でぐち) 老(おい) 田尻(たじり) 小戸(おど)


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/01/07 Mon. 11:25 [edit]

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07

下関の地名4 彦島 

引島は彦島


 むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。
 ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。
 ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。


 また、こんな説もある。

 むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。
 外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。
 その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。
 だから、胃までも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。


 さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。
 そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

 しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

 これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。
 それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。


 時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。
 この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。
 その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。
「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」
 それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/01/06 Sun. 11:47 [edit]

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06

下関の地名3 南風泊 

「南風泊」の由来


 西山海岸に続く渡瀬(わたらせ)と、竹ノ子島とに囲まれた湾を"南風泊(はえどまり)"といいますが、ここは帆船が就航していた時代、いわゆる下関港へ入港するには逆風となった"南風(はえ)"を避けるために、風待ちをしていた場所で、地名もこれに由釆してつけられました。
 長久保赤水の弟子だった古川辰は、『西遊雑記』の中で「田のくび引島の入船をば蠅止りとも碇入らずの湊とも称してよき船かかりの所なり」と、書いています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/01/05 Sat. 12:33 [edit]

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05

下関の地名2 彦島地図 

chizu001.jpg
クリックすると詳細がごらんになれます。

Posted on 2019/01/05 Sat. 11:42 [edit]

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05

下関の地名1 田の首 

田の首(たのくび)


昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。
散木集の歌に「たつ(田鶴)も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。この「たつ」とは鶴のことであります。昔は鶴が降りてきたようであります。
西側の海岸に出張った所を「金が弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたと言う伝説があります。また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。
幕末以降から軍事には重要な所となり、小倉戦争の時には弟子待同様台場に敵艦から激しい砲火を浴びたのでありますが、堂々たる杉山(筋山)の砲台はおおいにその威力を発揮し、明治以降も海峡の重鎮でありました。
なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから西方大山の岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。
以前は田の首の所轄でありました塩浜町は福浦湾に面しておりまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたものであります。

「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」より

Posted on 2019/01/04 Fri. 11:08 [edit]

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04

山口県の難読地名 

山口県の難読地名より

下関市 内日上 うついかみ
下関市 内日下 うついしも
下関市 春日町 かすがちょう
下関市 藤附町 ふじつくちょう
下関市 豊前田町 ぶぜんだちょう
下関市 六連島 むつれじま
下関市 吉田地方 よしだじかた
下関市 吉母 よしも
下関市 阿内 おうち
下関市 員光 かじみつ
下関市 蒲生野 かもうの
下関市 岬之町 はなのちょう
下関市 特牛 こっとい
下関市 南部町 なべちょう
下関市 蓋井島 ふたおいじま
下関市 貴飯 きば
下関市 楢崎 ならざき
下関市 樅ノ木 もみのき
下関市 手洗 たらい
下関市 楢原 ならはら
下関市 轡井 くつわい
下関市 杢路子 むくろうじ
下関市 八道 やじ
下関市 田耕 たすき

Posted on 2018/04/12 Thu. 10:58 [edit]

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12

下関の地名38 お亀銀杏(亀山八幡宮) 

お亀銀杏(亀山八幡宮)


「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

Posted on 2018/04/12 Thu. 10:32 [edit]

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下関の地名37 馬関 

馬関


馬関は「赤馬」のつぎに「関」を記したときに、「赤馬関」となり、「赤」を省略したときに「馬関」となったものです。
「あかま」の「ま」を「間」または「馬」とあてたものです。

馬関は「馬関まつり」などと俗称のように使われますが、『明治五年一月十二日、豊浦出張所開庁についての伺書』という文書には、「馬関支庁記録と、公式文書に登場しています。
明治時代の初めには豊浦県があり、県庁の下の組織に赤間関の地域を統括する支庁として、「馬関支庁」が置かれていたことを示しています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/11 Wed. 10:58 [edit]

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