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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

山口県の難読地名 

山口県の難読地名より

下関市 内日上 うついかみ
下関市 内日下 うついしも
下関市 春日町 かすがちょう
下関市 藤附町 ふじつくちょう
下関市 豊前田町 ぶぜんだちょう
下関市 六連島 むつれじま
下関市 吉田地方 よしだじかた
下関市 吉母 よしも
下関市 阿内 おうち
下関市 員光 かじみつ
下関市 蒲生野 かもうの
下関市 岬之町 はなのちょう
下関市 特牛 こっとい
下関市 南部町 なべちょう
下関市 蓋井島 ふたおいじま
下関市 貴飯 きば
下関市 楢崎 ならざき
下関市 樅ノ木 もみのき
下関市 手洗 たらい
下関市 楢原 ならはら
下関市 轡井 くつわい
下関市 杢路子 むくろうじ
下関市 八道 やじ
下関市 田耕 たすき

Posted on 2018/04/12 Thu. 10:58 [edit]

category: 下関の地名

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下関の地名38 お亀銀杏(亀山八幡宮) 

お亀銀杏(亀山八幡宮)


「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

Posted on 2018/04/12 Thu. 10:32 [edit]

category: 下関の地名

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12

下関の地名37 馬関 

馬関


馬関は「赤馬」のつぎに「関」を記したときに、「赤馬関」となり、「赤」を省略したときに「馬関」となったものです。
「あかま」の「ま」を「間」または「馬」とあてたものです。

馬関は「馬関まつり」などと俗称のように使われますが、『明治五年一月十二日、豊浦出張所開庁についての伺書』という文書には、「馬関支庁記録と、公式文書に登場しています。
明治時代の初めには豊浦県があり、県庁の下の組織に赤間関の地域を統括する支庁として、「馬関支庁」が置かれていたことを示しています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/11 Wed. 10:58 [edit]

category: 下関の地名

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下関の地名36 赤馬 

赤馬


藤原佐理という人が書いた「離洛帖」に、「赤馬泊」と記されているのが、「赤馬(あかま)」を見る最も古い文書です。
記されたのはせい正暦2年5月19日、藤原佐理が京都から大宰府に大宰弐として赴任の途中のことです。
赤馬(下関の別称)まで来て、京都を出発するときに摂政藤原道隆にあいさつを忘れたため、そのお詫びを藤原誠信に依頼した書状で、文書は国宝に指定され、畠山記念館に所蔵されています。
「赤馬」の記述された部分は「今月十六日、来到長門赤馬泊」(16日に長門の赤馬という港に来た)とあります。
そののち「赤馬」は「赤間」と同じように使われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/10 Tue. 09:59 [edit]

category: 下関の地名

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下関の地名35 下関 

下関


下関も古くから登場していた地名で、文書として確認できるのは、貞観11年9月27日付けの「太政官符」(当時の朝廷の出した文書)です。
「下関権軍毅一人 主帳一人 兵士百人」
と記された太政官符の内容は、下関に権軍毅(副大将)を一人、主帳(書記)を一人、兵士百人を配置するというものです。
同じ項目に、豊浦団として、軍毅二人とあり、主帳と兵士の記述部分は欠落していますが、兵士は四百人であろうとされています。
この文書は、大陸からの外敵襲来に備えて、軍備を整えた様子を記したもので、長府(豊浦)に本隊があり、下関にその分隊を置き、その規模を示しています。
長府には四倍の兵力が置かれていたことになります。

「下関」は「上関」に対しての言葉と思われます。
上関は、山口県の東部にあり、瀬戸内海の重要な交通拠点に位置しています。下関に比べ、京都に近いことから「上」の名がつけられたものでしょう。

「下関」は、近代になって登場した地名のように思われがちですが、古くからあった地名ということがわかります。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/09 Mon. 10:48 [edit]

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09

下関の地名34 「赤間」の由来 

「赤間」の由来


赤間(あかま)の語源は、紅石山(赤間神宮の裏山)に大きな馬の形をした紅色の岩石があったことから、また、船の中にたまる水を「アカ」ということからなど諸説がありますが、平成4年に発刊された『下関市史・民俗編』に、「赤間関の地名の由来」という項があり、「赤間」の由来が記述されています。

この項目は、監修者で全国的に著名な国分直一氏が記述したもので、大要は次のとおりです。

旧暦一月一日、早朝の最干潮のとき、関門海峡の早鞆瀬戸で、下関市の住吉神社と門司区の和布刈神社が、両岸で相対し「和布刈神事」を行います。この神事は、太古から行われているもので、春に先立ちもえ出るワカメを刈り採って神前に供え、民衆も食べることによって神と一体になるという考え方です。(海中にあって繁茂するワカメには、神が宿ると伝えられています)
関門地域で海とかかわって暮らす人々は、「ワ」を「ア」と発音し、「ワカメ」を「アカメ」と発音するところから、「アカメ」が「アカマ」になったとするものです。
「メ」が「マ」となったのは、「目」の古い形が、「マ」であったからとしています。

現在でも、壇之浦漁業協同組合の皆さんは、この和布刈神事が終わるまで早鞆瀬戸のワカメを刈り採らないという風習を固く守りつづけています。これも神とのかかわりを感じさせるものです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/08 Sun. 11:54 [edit]

category: 下関の地名

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08

下関の地名33 赤間関(あかまがせき)と下関 

赤間関(あかまがせき)と下関


下関の地名で、忘れてならないものに、「赤間関」があります。
「赤間関」は、明治22年4月1日に全国で市制が施行され、31の市がはじめてできたとき、その一つ「赤間関市(あかまがせきし)」として、市の名称につかわれました。
また、赤間関は、「赤馬関」とつかわれたり、「馬関」と呼ばれたこともありました。
現在のように「下関市」と呼ばれるようになったのは、13年後の明治35年に、市の名称を近代的なものにしようと、変更したものです。

「赤間関」の「関」は、水陸の交通の要所に、軍事や警察上の目的をもって設けられた施設で、全国的には大化改新ころから整備されています。
本州最西端に位置し、九州と、さらに大陸とも近い下関の地に「関」があったことは、当然のことといえます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/07 Sat. 14:54 [edit]

category: 下関の地名

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07

下関の地名22 福浦 

龍宮島


 むかし、福浦の港には海賊が出入りして良民を苦しめていた。海賊の屋敷は、この港のあちこちに散らばっていたが、中でも対岸の伝馬島にあるのが一番大きかった。

 ある日のこと、
『あの島の海賊をみんなで退治しようじゃないか』
 という相談がまとまって。村の若い衆が総出で討伐に出かけることになった。

 さて、夜も寝しずまったころ、舟で島に渡り、そぅっと上陸してみたが、どこにも人の気配がない。
『おかしいぞ、こんな筈はない』
 小さな島のこと、みんなで手分けして探し歩いたが、猫の子一匹見つからなかった。
『今夜は、また沖へ出て、悪いことでもしよるんじゃろう。明日の夜、また出なおして来うじゃないか』
 一人の若い衆がそう言ったが、みんなは、なおも、そろっ、そろっと、足音をしのばせて探し歩いた。と、闇のすそからギーっと音がして、一本の松がぐっと傾いた。若者たちは驚いて一斉に身を伏せ、眼をこらした。
 すると、松の根方にぱっくりと穴があいて、雲をつくような大男が出て来た。一人だけではない。二人、三人、四人、九人、十人…と、出るわ出るわ、あとからあとから、数えてみると三十六人。
 大男のくせに足音も立てず、どこからともなく引いてきた船に分乗すると、すーっと屁のように沖へ消えて行った。

 若者たちは、松のまわりに集まって互いに顔を見合わせていたが、突然、一人の度胸者が、松の木を傾けて、根元の穴に入っていった。しばらくの間、ぼゃあっとそれを見ていた若い衆らも、気をとりなおして、そのあとにつづいて入った。

 そして、仰山たまげた。

 穴の中は立派な御殿、いや、さながら龍宮城で、金銀財宝が山と積まれていたからだ。その奥では、美しい着物で着飾った女たちが、ワイワイ騒いで酒盛りの最中であった。
 若者たちは、すっかりその雰囲気にのまれて、しばらく立ちつくしたままだった。すると女たちもそれに気づいたのか、
『まあ、あなた達は、むこう岸からいらしたのですね。私たちは、ずーっと永い間、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ』と手招きして、大いにもてなしてくれた。
 若者たちは、夢遊病者のようにその宴の輪にさそい込まれ、思わず、時間も目的も忘れて美酒に酔いしれてしまった。
 そうしているうちに、海賊どもがぞろぞろと戻って来て、若ものたちは捕らえられたが、たった一人だけ、命からがら逃げ帰り、村の人びとにこのことを告げた。

 あくる朝、村の人びとは総出で伝馬島に押しかけ、若者たちを救おうとしたが、不思議なことに、前の晩の松はどこにも見当たらなかった。
 その夜から、付近の海を荒らす海賊たちは現れなくなったからそれは良いとしても。とらえられた若い衆の行方も、わからないままであったという。


 海賊が居なくなって静けさを取り戻した福浦の人びとは、伝馬島に若衆たちの墓を建てて『龍宮島』と改め、海賊退治に出向いた人びとの勇気をいつまでも語り伝えた。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
龍宮島は、福浦湾の奥まったあたりの、塩浜寄りにある小島であるが、今は陸続きとなっている。
通称、リンゴ山、昔は『海賊島』とも呼ばれていた。
現在、塩浜町の小公園になっているが、この名称は『リュウグウが転じてリンゴになった』と言われている。
尚、この近くには、他にも『海賊谷』『海賊の口』『海賊泊り』『海賊屋敷』などの地名や伝説が残っている。
また、海賊の人数が三十六人というのは、六十三隻江良の逆数であることを考え合わせて、面白い。

Posted on 2018/04/06 Fri. 10:29 [edit]

category: 下関の地名

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06

下関の地名32 彦島バス停留所名 

彦島バス停留所名


ロータリー

水門

本村

黄紺川

老町

海士郷

老山公園口

卯月峠



東圧正門前

西山口

三井金属前

西山

彦島第二保育園前

波高

渡瀬

竹の子島

東圧社宅前

荒田

荒田ゴルフセンター前

荒田港

福浦本町

福浦

福浦二町

福浦口

中部学院前

青葉台入口

塩浜

床平

彦島営業所

塩浜北口

田の首口

田の首

向井小学校前

向井町民館前

山中二

山中

杉田二

杉田

姫の水

弟子待一

弟子待二

弟子待三

江浦幼稚園前

江の浦

桟橋通

堀越

彦島変電所前



荒田口


サンデン交通ホームページより

Posted on 2018/04/05 Thu. 09:24 [edit]

category: 下関の地名

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05

下関の地名31 響灘 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
西山の波高バス停の近くに『明神』と呼ばれる祠がある。そのそばに『こびんおおひと』の足跡だと伝えられる石が残っている。
『おおひと』の地名としては、本村のほかに、西山フイキンの浜が『大人崎』で、田の首の生板の瀬に『大人岩』があり、弟子待には、『大人足跡砲台』か゜実存していたことが、『白石家文書』に記されている。

Posted on 2018/04/04 Wed. 11:11 [edit]

category: 下関の地名

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04

下関の地名29 南風泊 

南風泊


西山海岸に続く渡瀬(わたらせ)と、竹ノ子島とに囲まれた湾を“南風泊(はえどまり)”といいます。
ここは帆船が就航していた時代、下関港に入港するには逆風の“南風(はえ)”の風を避けるため、風待ちをしていた場所で、地名もこのことに由来しています。

江戸時代後期の人、古河小松軒は『西遊雑記』の中で、
「田のくび引島の入船をば蝿止まりとも、碇入らずの湊とも称して、よき船かかりの所なり」と、記述しています。

南風泊港には、全国の約70%を水揚げする、フク専用の市場があることでよく知られています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/04/03 Tue. 10:40 [edit]

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03

下関の地名19 福浦 

ボロ吉奉公


 むかし、福浦の船宿に、宗吉という一人息子がいた。宗吉は大変ノロマで、何をしても人の五倍も十倍も時間を費やしたので、人びとは宗吉と呼ばすノロ吉と呼んでいた。
 しかし、ノロ吉はとても気のやさしい男で、ある日のこと、金比羅様に参詣して、その境内で傷ついたフクロウを見つけ、連れて帰り手厚く介抱した。やがてフクロウの傷は元通りに良くなったが、山に放してやっても、すぐにノロ吉のそばに戻ってきて、そのうち、とうとう船宿に居ついてしまった。

 そんなある日、西国の海賊が彦島を襲い、福浦を根城にして近海を荒らしはじめた。船宿の人びとは慌てふためいて下関へ避難したが、ノロマのノロ吉は逃げおくれた為、海賊に殺され、海に捨てられてしまった。

 何年かたって、海賊は退治され、人びとも戻って来たが、空き家となっていたノロ吉の家からフクロウが飛び出て来た。毎日、ノロ吉を探しまわっていたことに気づいた人びとは、その姿があまりいじらしいので、
『おぅ、おう可哀そうに、お前はたった一人で留守番しちょったんかい。ノロ吉はのぅ、下関からそのまま都へ奉公に行ったんじゃ、当分は帰って来れんじゃろう』
 と、フクロウに告げた。
 フクロウは首をかしげて『ホウ、ホウ』と、その話を聞いていたが、その日からどこともなく飛び去ってしまった。
 その夜から、彦島のあちこちで啼くフクロウの声は、『ノロキチホウコウ』と聞こえたが、人びとはフクロウのことを『ボロ吉奉公』と呼ぶようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/04/02 Mon. 10:20 [edit]

category: 下関の地名

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02

下関の地名28 六連島 

六連島


彦島の北西に位置する“六連島(むつれじま)”は、『日本書紀・仲哀紀』に“没利島(もつりしま)”と記されています。

『長門国志』には、
「今俗に毛都礼志麻(もつれしま)と言ひて六連島に作り、島大小六つあり、大なるを蟹島(かにしま)と言う。形似たるを以って名づく、本国豊浦郡に属し、小なるを馬島といふ、豊前国企救郡に属しけり。名義六連なり、如此島六ツ連なれる故に然云うなり」
とあり、六つの島が群らがる様子から名付けられたものだとしています。

この“六ツ連なる島”とは、蟹島・馬島・金崎島・片島・和合良島などをさしますが、その内の“馬島”には、かつて小倉藩の馬の飼育場があったために、その名がつけられたということです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2018/03/31 Sat. 11:07 [edit]

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31

下関の地名27 響灘 

おおひと


 むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
 もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。

 彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
 島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。


  大江屋敷の おおひとは

  けんのう飛びで どこ行った

  和尚さんに聞いたれば

  和尚さんは知っちゃあない

  タイヨさんに聞いたれば

  タイヨさんも知っちゃあない

  どーこー行った どこ行った

  地下の山を けんのうで

  大江山を 飛び越えた


 けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
 このわらべ唄については、面白い話があります。

 むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
 その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
 それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
 大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
『おおひと』の話については、他にも幾つか語りつがれたようであるが、島の古老たちは、ほとんど覚えていない。
大江屋敷は、むかし、本村町五丁目の山手にあったといい、今では地番、あるいは屋号として残されているにすぎない。つまり『大江の新屋』『大江の母屋』『上の谷』『下の谷』『先の谷』などがそれである。
ところで、同じような話が、北九州市門司区にも残されている。それは、二夕松町の小森江東小学校の近くにある巨人坂(おおひとざか)という地名で、昔は二畝ほどの大きな人の足跡があったという。
大江の谷にも、同じように大男の足跡が残されていたが、明治の終わり頃、掘り返されて無くなってしまったといわれている。
この話については、清永唯夫氏が『関門海峡百話』で、『海峡をまたぐというイメージが、関門橋によって新しい観点からよみがえり…』と書いておられる。
また『おおひと』について、門司では『巨人』という字をあてているが彦島では『大人』と書いている。

Posted on 2018/03/30 Fri. 11:31 [edit]

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下関の地名25 福浦 

瓢六(ひょうろく)ばなし


 福浦金比羅宮の下の港は、むかしから天然の良港として栄えて来ました。江戸時代末期には船宿が何十軒も並び、遊女は二百五十人以上も居たといわれています。


 これは、そのころの話です。

 ある船宿に瓢六という生まれつき少し脳の弱い息子が居ました。船宿の主人は、あと取り息子がこんなことでは、と心配のあまり夜も眠れない日がつづきました。

 瓢六が十五歳になった春、主人は息子を呼んでこう言いました。
『お前ももう十五、いつまでも親に甘えていては大成しない。この船宿を継ぐ為には、もう少し勉強しなきゃあ駄目だ。番頭をつけてやるから、都へ行ってみっちり学問を仕込んで来い』
 もともと少し足りない瓢六、勉強ということよりも、何彼とうるさい父親のそばを離れる喜びで上機嫌。胸をふくらませて福浦を発ちました。

 都は、話に聞く以上のにぎわいで、見るもの聞くものみな珍しく、瓢六はキョロキョロ。ウロウロ、浮き浮きの毎日でした。だから、ともすれば都に来た目的など忘れがちでしたが、時々、尻を叩く番頭さんの忠告で、しぶしぶ聞き覚えの言葉を紙に書き留めました。

 都に着いた夜、宿に入った瓢六に、女中さんがにこにこして、むつかしいことを聞きました。
『お客さん、どこから上洛しやはりましたん』
 瓢六は、キョトンとして番頭さんを振り返りました。すかさず、番頭さんが答えてくれました。
『ヘイ、馬関からです』

 夜、寝床に入ってから、瓢六は気にかかってならないことを、番頭さんに訊ねました。
『上洛って、一体、何や』
『のぼる、つまり、都にのぼることです』
 番頭さんは、ただそれだけ言って眠ってしまいました。瓢六は、ごそごそ起き出ると紙を取り出して『のぼること 上洛』と書きました。

 あくる日、町を歩いていると、大きな屋敷の門前に人だかりがあって、みんな、オイオイと声をあげて泣いています。
『あれは何で、泣くんやろう』
『誰方か亡くなったんでしょうな。これから葬儀が始まるようです』
 と、番頭さんが答えました。瓢六は、紙を出して『泣くこと 葬儀』と書きました。

 少し歩いて行くと、大きな卸問屋の前で、一人の乞食が、何やらぶつぶつ言いながら、店の中をのぞき込んでいました。
『あの、ゴニャゴニャ言いよる男は、何をしょるんやろう』
『何か食べるものを貰おうと思って、ああして、ぶつぶつ独り言を言ってるんですよ。あんな人間を乞食と言います』
 瓢六は、また、紙を出しました。そして、下手くそな字で書きました。『貰うこと ゴニャゴニャ』

 宿に帰り着いて、裏木戸から入ろうとすると、女中さんが、イリコの頭ばかりをざるに入れているのが眼につきました。
『それは、何ですか』
『煮出しです。おつゆを作った残りかすですよって、もう捨てようと思いまして』
 瓢六は部屋に帰って大急ぎで書きました。『頭のこと 煮出し』

 さて、楽しい夕食です。昨晩と同じように赤いお椀、赤いお皿、そして赤いお膳に、おいしそうなご馳走が並べられていました。
『きれいやなあ。この茶碗は何というんですか』
『それは茶碗ではありません。赤いでしょう。だから、朱椀といいます』
 番頭さんは、やさしく教えてやりました。ご飯がすんで、瓢六は『赤いもの 朱椀』と書いて、ニーッと笑いました。

 そのまたあくる日、町を歩いていると、十人ばかりの男女が、牛ほどもある大きな石に網をかけて、
『エンヤラヤ、エンヤラヤ』
 と引っぱっていました。瓢六は眼をパチクリさせて、
『都ちゅう所は、面白い所じゃのう。あんな石にまで、別の呼び名があるんじゃけえ』
 と、ぶつぶつ言いながら『石のこと エンヤ』と書きました。

 また、ある日、いつものようにぶらぶらと町を見物していると、道ばたで母親が五、六歳くらいの男の子の尻を叩いていました。
『痛いよう、痛いよう』
 と、しきりに男の子は泣いていましたが、母親はなかなか許そうともしません。瓢六は、珍しそうに口を開けたまま眺めていました。すると番頭さんが寄って来て、そっと小さな声で言いました。
『あまり見るものではありません。あの子は何かいたずらをして叱られているのですよ。あれほど折檻しなくても良さそうなものを』
 おしまいのほうは独り言のようでしたが、瓢六は耳ざとく聞きつけて『痛いこと 折檻』と書きました。
 どんなことを書いても、番頭さんはもう諦めているのか、ただ笑うだけで、何も言いません。

 そして何ヶ月かが夢のように過ぎて、いよいよ都ともお別れの日が来ました。瓢六は番頭さんに連れられて、名残惜しそうに宿を出ました。二人は川舟に乗って、だんだん遠くなってゆく都を、悲しそうにじっと眺めていましたが、ふと思い出したように瓢六が紙を取り出しました。
『のぼることの反対は、くだること。うん、よし、解ったぞ、上洛の反対やから下洛やな。わしも偉ろうなったもんや』
 小声で、そんなことをつぶやきながら『くだること 下洛』と書いて、ふところに入れました。


 さて、久し振りに福浦の港に帰って来た瓢六は、風待ちで停泊中の千石船がひっくり返るような大声で、
『おとっつあん、ようけ勉強して、今帰ったぞっ』
 と、叫んで家に入りました。ちょうど屋根にあがって、瓦の手入れをしていた父親はその声に驚いて、思わず足を踏みはずし、すってーん、と裏庭に落ちて頭を打ちました。

 さあ大変、瓢六は、駆け寄ろうとする番頭さんを蹴飛ばして医者を呼びに走りました。あわてふためいて医者の玄関を大きな音を立てて開けると、見たこともないような美しい娘さんが出てきました。
 とっさに瓢六は、せっかく勉強して来たから、都の言葉で話してやろう、と思い、ふところから紙を出して、ゆっくり拾い読みをしながら娘に言いました。

『お父さんが、屋根に上洛し、下洛して、エンヤに煮出しを砕き、朱腕かっかと散り、折檻、折檻と葬儀ゆえ、くすり一服ゴニャゴニャ』

 すると、さすがは利口そうな美しい娘さん、都の言葉が通じたのか、ニコッと笑って、ていねいに頭をさげました。
『わかりました。少々お待ちを…』
 そう言って奧に消えましたが、とたんに、廊下をころぶように走って叫びました。


『先生、大変です。船宿から借金取りが来ました。それもポルトガル人で、オランダ語をしゃべり、急いで払えと怒鳴っています。ふところには証文も持っていますので、もう駄目です。どうしましょう』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/03/29 Thu. 09:44 [edit]

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