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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の地名1 田の首 

田の首(たのくび)


昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。
散木集の歌に「たつ(田鶴)も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。この「たつ」とは鶴のことであります。昔は鶴が降りてきたようであります。
西側の海岸に出張った所を「金が弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたと言う伝説があります。また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。
幕末以降から軍事には重要な所となり、小倉戦争の時には弟子待同様台場に敵艦から激しい砲火を浴びたのでありますが、堂々たる杉山(筋山)の砲台はおおいにその威力を発揮し、明治以降も海峡の重鎮でありました。
なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから西方大山の岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。
以前は田の首の所轄でありました塩浜町は福浦湾に面しておりまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたものであります。

「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」より

Posted on 2019/07/27 Sat. 10:01 [edit]

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下関の地名2 彦島地図 

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クリックすると詳細がごらんになれます。

Posted on 2019/07/25 Thu. 09:53 [edit]

category: 下関の地名

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山口県の難読地名 

山口県の難読地名より

下関市 内日上 うついかみ
下関市 内日下 うついしも
下関市 春日町 かすがちょう
下関市 藤附町 ふじつくちょう
下関市 豊前田町 ぶぜんだちょう
下関市 六連島 むつれじま
下関市 吉田地方 よしだじかた
下関市 吉母 よしも
下関市 阿内 おうち
下関市 員光 かじみつ
下関市 蒲生野 かもうの
下関市 岬之町 はなのちょう
下関市 特牛 こっとい
下関市 南部町 なべちょう
下関市 蓋井島 ふたおいじま
下関市 貴飯 きば
下関市 楢崎 ならざき
下関市 樅ノ木 もみのき
下関市 手洗 たらい
下関市 楢原 ならはら
下関市 轡井 くつわい
下関市 杢路子 むくろうじ
下関市 八道 やじ
下関市 田耕 たすき

Posted on 2019/02/15 Fri. 09:25 [edit]

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下関の地名38 お亀銀杏(亀山八幡宮) 

お亀銀杏(亀山八幡宮)


「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。
 しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。
 町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供」としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。
 町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。
 生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。
 この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。
 その名残である古株の跡は、今も残されています。

「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。
 いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。
「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

 戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

Posted on 2019/02/14 Thu. 12:32 [edit]

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下関の地名37 馬関 

馬関


馬関は「赤馬」のつぎに「関」を記したときに、「赤馬関」となり、「赤」を省略したときに「馬関」となったものです。
「あかま」の「ま」を「間」または「馬」とあてたものです。

馬関は「馬関まつり」などと俗称のように使われますが、『明治五年一月十二日、豊浦出張所開庁についての伺書』という文書には、「馬関支庁記録と、公式文書に登場しています。
明治時代の初めには豊浦県があり、県庁の下の組織に赤間関の地域を統括する支庁として、「馬関支庁」が置かれていたことを示しています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/13 Wed. 10:32 [edit]

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下関の地名36 赤馬 

赤馬


藤原佐理という人が書いた「離洛帖」に、「赤馬泊」と記されているのが、「赤馬(あかま)」を見る最も古い文書です。
記されたのはせい正暦2年5月19日、藤原佐理が京都から大宰府に大宰弐として赴任の途中のことです。
赤馬(下関の別称)まで来て、京都を出発するときに摂政藤原道隆にあいさつを忘れたため、そのお詫びを藤原誠信に依頼した書状で、文書は国宝に指定され、畠山記念館に所蔵されています。
「赤馬」の記述された部分は「今月十六日、来到長門赤馬泊」(16日に長門の赤馬という港に来た)とあります。
そののち「赤馬」は「赤間」と同じように使われています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/12 Tue. 10:17 [edit]

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下関の地名35 下関 

下関


下関も古くから登場していた地名で、文書として確認できるのは、貞観11年9月27日付けの「太政官符」(当時の朝廷の出した文書)です。
「下関権軍毅一人 主帳一人 兵士百人」
と記された太政官符の内容は、下関に権軍毅(副大将)を一人、主帳(書記)を一人、兵士百人を配置するというものです。
同じ項目に、豊浦団として、軍毅二人とあり、主帳と兵士の記述部分は欠落していますが、兵士は四百人であろうとされています。
この文書は、大陸からの外敵襲来に備えて、軍備を整えた様子を記したもので、長府(豊浦)に本隊があり、下関にその分隊を置き、その規模を示しています。
長府には四倍の兵力が置かれていたことになります。

「下関」は「上関」に対しての言葉と思われます。
上関は、山口県の東部にあり、瀬戸内海の重要な交通拠点に位置しています。下関に比べ、京都に近いことから「上」の名がつけられたものでしょう。

「下関」は、近代になって登場した地名のように思われがちですが、古くからあった地名ということがわかります。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/10 Sun. 11:08 [edit]

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下関の地名34 「赤間」の由来 

「赤間」の由来


赤間(あかま)の語源は、紅石山(赤間神宮の裏山)に大きな馬の形をした紅色の岩石があったことから、また、船の中にたまる水を「アカ」ということからなど諸説がありますが、平成4年に発刊された『下関市史・民俗編』に、「赤間関の地名の由来」という項があり、「赤間」の由来が記述されています。

この項目は、監修者で全国的に著名な国分直一氏が記述したもので、大要は次のとおりです。

旧暦一月一日、早朝の最干潮のとき、関門海峡の早鞆瀬戸で、下関市の住吉神社と門司区の和布刈神社が、両岸で相対し「和布刈神事」を行います。この神事は、太古から行われているもので、春に先立ちもえ出るワカメを刈り採って神前に供え、民衆も食べることによって神と一体になるという考え方です。(海中にあって繁茂するワカメには、神が宿ると伝えられています)
関門地域で海とかかわって暮らす人々は、「ワ」を「ア」と発音し、「ワカメ」を「アカメ」と発音するところから、「アカメ」が「アカマ」になったとするものです。
「メ」が「マ」となったのは、「目」の古い形が、「マ」であったからとしています。

現在でも、壇之浦漁業協同組合の皆さんは、この和布刈神事が終わるまで早鞆瀬戸のワカメを刈り採らないという風習を固く守りつづけています。これも神とのかかわりを感じさせるものです。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/09 Sat. 12:08 [edit]

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下関の地名33 赤間関(あかまがせき)と下関 

赤間関(あかまがせき)と下関


下関の地名で、忘れてならないものに、「赤間関」があります。
「赤間関」は、明治22年4月1日に全国で市制が施行され、31の市がはじめてできたとき、その一つ「赤間関市(あかまがせきし)」として、市の名称につかわれました。
また、赤間関は、「赤馬関」とつかわれたり、「馬関」と呼ばれたこともありました。
現在のように「下関市」と呼ばれるようになったのは、13年後の明治35年に、市の名称を近代的なものにしようと、変更したものです。

「赤間関」の「関」は、水陸の交通の要所に、軍事や警察上の目的をもって設けられた施設で、全国的には大化改新ころから整備されています。
本州最西端に位置し、九州と、さらに大陸とも近い下関の地に「関」があったことは、当然のことといえます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より

Posted on 2019/02/08 Fri. 12:09 [edit]

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下関の地名22 福浦 

龍宮島


 むかし、福浦の港には海賊が出入りして良民を苦しめていた。海賊の屋敷は、この港のあちこちに散らばっていたが、中でも対岸の伝馬島にあるのが一番大きかった。

 ある日のこと、
『あの島の海賊をみんなで退治しようじゃないか』
 という相談がまとまって。村の若い衆が総出で討伐に出かけることになった。

 さて、夜も寝しずまったころ、舟で島に渡り、そぅっと上陸してみたが、どこにも人の気配がない。
『おかしいぞ、こんな筈はない』
 小さな島のこと、みんなで手分けして探し歩いたが、猫の子一匹見つからなかった。
『今夜は、また沖へ出て、悪いことでもしよるんじゃろう。明日の夜、また出なおして来うじゃないか』
 一人の若い衆がそう言ったが、みんなは、なおも、そろっ、そろっと、足音をしのばせて探し歩いた。と、闇のすそからギーっと音がして、一本の松がぐっと傾いた。若者たちは驚いて一斉に身を伏せ、眼をこらした。
 すると、松の根方にぱっくりと穴があいて、雲をつくような大男が出て来た。一人だけではない。二人、三人、四人、九人、十人…と、出るわ出るわ、あとからあとから、数えてみると三十六人。
 大男のくせに足音も立てず、どこからともなく引いてきた船に分乗すると、すーっと屁のように沖へ消えて行った。

 若者たちは、松のまわりに集まって互いに顔を見合わせていたが、突然、一人の度胸者が、松の木を傾けて、根元の穴に入っていった。しばらくの間、ぼゃあっとそれを見ていた若い衆らも、気をとりなおして、そのあとにつづいて入った。

 そして、仰山たまげた。

 穴の中は立派な御殿、いや、さながら龍宮城で、金銀財宝が山と積まれていたからだ。その奥では、美しい着物で着飾った女たちが、ワイワイ騒いで酒盛りの最中であった。
 若者たちは、すっかりその雰囲気にのまれて、しばらく立ちつくしたままだった。すると女たちもそれに気づいたのか、
『まあ、あなた達は、むこう岸からいらしたのですね。私たちは、ずーっと永い間、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ』と手招きして、大いにもてなしてくれた。
 若者たちは、夢遊病者のようにその宴の輪にさそい込まれ、思わず、時間も目的も忘れて美酒に酔いしれてしまった。
 そうしているうちに、海賊どもがぞろぞろと戻って来て、若ものたちは捕らえられたが、たった一人だけ、命からがら逃げ帰り、村の人びとにこのことを告げた。

 あくる朝、村の人びとは総出で伝馬島に押しかけ、若者たちを救おうとしたが、不思議なことに、前の晩の松はどこにも見当たらなかった。
 その夜から、付近の海を荒らす海賊たちは現れなくなったからそれは良いとしても。とらえられた若い衆の行方も、わからないままであったという。


 海賊が居なくなって静けさを取り戻した福浦の人びとは、伝馬島に若衆たちの墓を建てて『龍宮島』と改め、海賊退治に出向いた人びとの勇気をいつまでも語り伝えた。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
龍宮島は、福浦湾の奥まったあたりの、塩浜寄りにある小島であるが、今は陸続きとなっている。
通称、リンゴ山、昔は『海賊島』とも呼ばれていた。
現在、塩浜町の小公園になっているが、この名称は『リュウグウが転じてリンゴになった』と言われている。
尚、この近くには、他にも『海賊谷』『海賊の口』『海賊泊り』『海賊屋敷』などの地名や伝説が残っている。
また、海賊の人数が三十六人というのは、六十三隻江良の逆数であることを考え合わせて、面白い。

Posted on 2019/02/07 Thu. 09:39 [edit]

category: 下関の地名

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