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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

義経の八艘飛び 

義経の八艘飛び


 源平壇之浦の戦いで有名なのが義経の「八艘飛び」。
 この「八艘飛び」というのはどんなものだったのか。

 平家の中で”王城一の強弓・精兵”と評されていた武将、平教経(のりつね)は、約1ヶ月前の屋島の戦い以来、義経を討つことに賭けていました。
 平教経は源氏の船に単身で斬り込み、義経を追い討とうとするのですが、身の軽い義経は、海上を飛び跳ねるように別の船に乗り移り、教経の攻撃をかわし続けたといわれています。
「平家物語」によれば教経との組み打ちを避けようとした義経が二丈(6メートル)も離れた隣の船に飛び移って逃げたとされています。海上で6メートル飛ぶことが可能だったとすれば、もし、義経がオリンピックに出場すれば走り幅跳びで金メダルはまちがいないでしょう。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2019/12/10 Tue. 10:50 [edit]

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下関市合併10周年記念プロジェクションマッピング 

Posted on 2019/12/10 Tue. 10:40 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関市立しものせき水族館 海響館 

下関市立しものせき水族館 海響館
http://www.kaikyokan.com/


建設に至った経緯

 関門国道トンネル開通以前の昭和31年11月に水産都市・下関の象徴として、当時では東洋一の規模で長府外浦に開館した旧水族館は、長きにわたり水生生物の展示や飼育研究を通じて、多くの人々に親しまれてきました。しかし、施設の老朽化が著しく、市民の間で21世紀にふさわしい新しい水族館を求める気運が高まりました。ウォーターフロント開発の一環として、観光・レクリエーション事業の振興による地域活性化の起爆剤になるとともに、自然科学・海洋文化を体験しながら学習することができ、地域間・多世代の交流拠点となる水族館の建設をということで、平成3年12月に下関市役所内に水族館整備研究会を設置し、建設準備に入り、平成13年3月竣工、同年4月に開館に至りました。

 この度は、オープン後初めてのリニューアルに向けて、平成17年9月19日に全国から水族館関係者、学識経験者、下関市関係者による専門委員会を設置し基本計画を審議しました。入館者数20万人増を目指したリニューアル計画のメインとなる展示生物について審議を行い、水族館、動物園で人気が高く集客効果が見込め、専門家の見地からも新しい展示の可能性があり、かつ、展示生物の飼育環境に対し適切な規模の施設が確保できることなどを総合的に審議し、ペンギンを中心とした展示とすることに決定し平成22年3月1日にリニューアルオープンしました。

 元来、下関市とペンギンは大変深い関わりがあり、昭和32年2月13日に大洋漁業㈱の捕鯨船が下関へ寄港し、コウテイペンギンを旧水族館へ寄贈した経緯もあります。

施設の概要

 平成13年4月、下関の中心部、下関駅と唐戸地区を結ぶ新たな賑わいの空間"あるかぽーと"に、新しい水族館・下関市立しものせき水族館「海響館」が誕生しました。 海峡ウォーターフロント開発の中核的な観光・レクリエーション施設として、さらに、関門海峡を挟んだ門司港レトロ地区等との連携による相乗効果により、下関活性化の起爆剤として大きく期待されています。

 また、ペンギン村に関しては、チリ国立サンチアゴ・メトロポリタン公園よりフンボルトペンギンの「生息域外重要繁殖地」の指定を受け、フンボルトペンギン飼育下繁殖を支援する協力貢献を期待されています。

メインコンセプト
『海のいのち・海といのち』
下関市立しものせき水族館「海響館」は、下関の成り立ちが海と深く関わってきたことから、「海のいのち・海といのち」をメインコンセプトにしています。水の生き物たちの生態を通じ、自然と人間の係わり合いや生命のすばらしさ、自然保護の大切さについて理解を深めていただこうとするものです。自然科学、海洋文化を体験しながら学習する21世紀の水族館として、地域間、多世代の交流の拠点となる施設です。

建物概要 場所 下関あるかぽーと6番1号
敷地面積 約13,900㎡
構造 鉄骨・鉄筋コンクリート(SRC)造 4階建
延床面積 約14,400㎡
展示水量 約3,200t 水槽数75槽
展示水族 約550種 25,000点
施設の特徴
海峡メッセと対照に横のラインを基調とし、関門海峡の新たなランドマークとなる形態。

大屋根は、大型水生生物(クジラ、イルカ)をイメージ。

ペンギン村は亜南極と温帯の2つの気候エリアを持った展示施設で、亜南極エリアは生態展示エリアと学習エリアがあり、楽しく学べる。また温帯エリアは特別保護区とふれあい広場があり、ペンギン自然生息地の環境を体験できる。

Posted on 2019/12/09 Mon. 12:19 [edit]

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城下町長府のプロフィール 

城下町長府のプロフィール


 本州の西端山口県下関市にこの町があります。この城下町長府の歴史は古く、この地が「古事記」や「日本書紀」などの記録の上に登場してくるのは今から約1800年前の西暦193年、仲哀天皇・神功皇后が西国平定に際し、この地に仮皇居として豊浦宮(現、忌宮神社)を置かれてからと伝えられています。
 大化の改新(645年)以降、この地方は穴門、阿武の二つの国が合わせて長門の国となり、その国府(役所)が、ここ豊浦に置かれていたことから「長門の国の国府」がつづまって、長府と呼ばれるようになりました。次いで古代貨幣「和同開珎」の鋳銭所が、現在の長府覚苑寺あたりに置かれていました。当時、全国では武蔵をはじめ5ケ所で造られたことがわかっていますが、場所が特定出来るのはここだけです。また、聖武天皇の時代に、国の守りとして奈良に東大寺が、各国の守りとしてここ長府にも国分寺、国分尼寺が建てられました。
 壇之浦の戦いで源氏は長府満珠・干珠の島の周辺に陣を構え、平家を滅亡させます。ここから武家政治が始まり、長府には守護職が置かれましたが、南北朝対立や戦国時代の争乱期には、その中心的地位を失ってしまいました。その後、戦国時代には毛利元就に追われた大内義長が、長府功山寺で自害します。そして毛利元就自身も九州平定のために長府に本陣を構えるのです。また、戦国時代の武将として人気の高い豊臣秀吉も長府を訪れています。
 時代が移り、中国8ケ国を支配していた毛利氏は、それまで長門国他の領主であった毛利秀元(毛利元就の4男・穂田元清の子)を豊浦郡の全域を藩領として、大内氏の家臣である内藤隆春がいた長府の串崎城を再建し長州藩の支藩として長府藩をおこしたのです。(この秀元は豊臣秀吉から信頼厚く、秀元の“秀”は秀吉から与えられたものです。また、秀吉が母危篤のため佐賀から大阪城へ戻る途中、関門海峡で座礁した祭にはこの秀元が救出しました。)
 そうして、長府の城下町としての歴史が始まったのです。そして、城に近い場所には大身の武士を置き、外れるに従って軽身の家臣屋敷を配し、山陽道に沿って町人が住む形が設けられるという、城下町としては珍しい配置で中世以来の町並みの構成が重んじられた結果ではないかと言われています。残念ながら城は徳川幕府による一国一城の令により取り壊され、現在は石垣のみが残されています。
 また、長府といえば忘れてはならないのが、明治維新の中心として活躍した奇兵隊や長府報國隊の拠点として深く関わった地でもあり、高杉晋作や坂本龍馬ら多くの志士たちが、この地より日本の夜明けのために奔走しました。特に高杉晋作がわずか80人を率いて起こした功山寺挙兵は有名です。この挙兵がやがて、武士の時代を終わらすことになったのです。
 また、日露戦争で活躍した乃木大将が幼年期この地で過ごしたのです。昭和には、東洋一と言われた下関水族館が開館し、水産都市のシンボルとしてくじら館が建築されました。
 春夏秋冬、土塀(練塀)から見える四季折々の花や川沿いの草花を愛でながら、また、歴史的な町並みに往時を偲びながら、のんびり散策してはいかがでしょうか。


長府観光協会ホームページより

Posted on 2019/12/08 Sun. 09:30 [edit]

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功山寺 

功山寺(こうざんじ)


鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されています。
また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就(もとなり)に追われた大内義長(おおうちよしなが)が自刃(じじん)したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。
初代秀元(ひでもと)をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。
大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。
また、坂本龍馬の盟友、三吉慎蔵のお墓もあります。桜と紅葉の名所です。
 
四季折々の花情報
[桜] 約30本
見ごろ:例年4月上旬~中旬
[紅葉] 見ごろ:例年11月中旬~12月上旬


維新回天の挙兵

元治元年(1864)、長州藩は存亡の危機にありました。
7月の禁門の変、8月の馬関戦争惨敗。さらに追い討ちをかけるように、幕府による長州討伐計画が進んでいました。
俗論(幕府恭順)派が主導権を握る長州藩はこれを恐れ、三家老切腹、藩主の蟄居謹慎によって幕府に従う姿勢を示したのです。
このとき敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。
都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、わずか80人を率いて挙兵した晋作は、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、萩藩新地会所を急襲。
後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。
この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。


国宝仏殿開扉と秘宝展

通常公開していない国宝仏殿の内部を、このたび4年ぶりに開扉し、「二十八部衆立像のうち現存する23躯」等の秘宝展が、下記の通り開催されます。
1.期間:平成24年、25年、26年の3年間
     毎年 春期(3月15日~6月15日)、秋期(9月15日~12月15日)
     時間 9時30分~17時(最終入館:16時30分)
2.仏殿拝観料 一般500円(20人以上の団体は400円)
  総合拝観料(仏殿、法堂・書院) 一般700円(20人以上の団体は600円)
  小・中学生は無料
3.見どころ
  仏殿内:千手千眼観音菩薩坐像、二十八部衆立像のうち現存する23躯など
  法殿・書院(七卿潜居の間)等:釈迦牟尼仏座像、韋駄天立像など


所在地 下関市長府川端1丁目2-3
交通 JR下関駅からバス23分(または、JR長府駅から下関駅行きバス約10分)「城下町長府」下車、徒歩10分。
料金 書院見学 大人300円、中高生100円、小学生以下は無料
営業時間 書院見学 9:00~16:30
お問合せ 功山寺 083-245-0258

Posted on 2019/12/07 Sat. 09:21 [edit]

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