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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

大歳神社(おおとしじんじゃ) 

大歳神社(おおとしじんじゃ)

所在地:下関市竹崎町1-13-10
 アクセス:JR下関駅から歩いて3分
 問い合わせ:083-223-0104(大歳神社)

義経が壇之浦の合戦に際して、戦勝祈願した神を祀る。
義経は有明山(現在のJR下関駅北側にあった)に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神を祀り、弓矢を神前に奉げた。
のちに、その弓矢を対岸の彦島にある平知盛の軍に射込んだために、驚いた平家軍が壇之浦におびき出されたとされている。
1186年、山の麓の漁民がこの戦勝の神を祀り、社に鎮めたといわれている。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/09/03 Mon. 10:28 [edit]

category: 下関あれこれ

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03

大歳神社 

源平ゆかりの地 大歳神社

義経が壇之浦の合戦に際して、戦勝祈願した神を祀る。
義経は有明山(現在のJR下関駅北側にあった)に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神を祀り、弓矢を神前に奉げた。
のちに、その弓矢を対岸の彦島にある平知盛の軍に射込んだために、驚いた平家軍が壇之浦におびき出されたとされている。
1186年、山の麓の漁民がこの戦勝の神を祀り、社に鎮めたといわれている。

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/genpei/yukari/otoshijinja.html

Posted on 2018/09/02 Sun. 10:53 [edit]

category: 下関あれこれ

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02

高杉晋作と大太鼓 

高杉晋作と大太鼓


この地は幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地であります。

慶応元年(1865年)4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、同2年(1866年)6月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で兵力の圧倒的不利にもかかわらず、戦いの火ぶたが切らました。

この戦に際し高杉晋作は長門国嚴島神社に戦勝祈願を行いました。
この四境戦争での長州軍の勝利は討幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口戦いです。
小倉口戦いは、最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の2隊を先鋒とし戦い、ついに慶応2年8月1日、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走しました。
攻め入った長州軍は余燼の中から、この太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社に大御神へのお礼にと奉納したのであります。


長門国厳島神社ホームページより
http://www.itukushima.or.jp/index.html

Posted on 2018/09/01 Sat. 09:39 [edit]

category: 下関あれこれ

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01

源平ゆかりの地 厳島神社 

源平ゆかりの地 厳島神社

平家一門は、安芸の厳島神社の分霊を守護神として、安徳天皇の御座船に祀っていました。
壇ノ浦の合戦後、里人が磯辺に漂着していた神霊を見つけ、寿永4年(1185)に社殿を建立し、安芸の厳島神社より分霊をあらためて勧請したことにはじまると言われています。

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/genpei/yukari/itsukushima.html
クリックすると詳細がごらんになれます。

Posted on 2018/08/31 Fri. 10:39 [edit]

category: 下関あれこれ

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31

高杉晋作療養の地 

高杉晋作療養の地


高杉晋作は小倉戦争で、長州軍を指揮して幕府軍と戦いましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くに小さな家を建てて、野村望東尼(のむらもとに)、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。

所在地 下関市桜山町3街区
交通 JR下関駅から高尾線バス5分「厳島神社前」下車、徒歩3分


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/30 Thu. 10:42 [edit]

category: 下関あれこれ

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30

唐戸市場(からとしじょう) 

唐戸市場(からとしじょう)


関門地区では歴史ある市場で、水産物が豊富。小売も行っているので朝早く出かければ新鮮な魚を安く手に入れることができます。
また、市場内の様子を一望できる見学デッキや屋上芝生広場、水産加工品の小売店、食堂、喫茶店もあります。
日曜・祝日も営業しています!

唐戸市場の’おいしい’イベント情報
【活きいき馬関街】(唐戸市場お寿司街)
毎週末(金曜、土曜、日曜)と祝日には、唐戸市場の1階が海鮮屋台街に大変身。
新鮮な食材を使った握り寿司や味噌汁、から揚げなど品数も実に豊富。
もちろんふく刺しもあります。まるでお祭りのようなその賑わいは各種メディアでもおなじみです。
営業時間:(金曜・土曜)10:00~15:00、(日曜・祝日)8:00~15:00
※商品がなくなり次第閉店となる場合があります。

イベントのお問合せは
唐戸市場業者連合協同組合 083-231-0001
所在地 下関市唐戸町5-50
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩3分/下関ICより車で15分
営業時間 平日・土曜日4:00~15:00 日曜日・祝日7:00~15:00
休み 水曜日(不定休)、お盆、年始

お問合せ
唐戸市場業者連合協同組合 083-231-0001
(市場のイベント情報、営業カレンダーなど)
唐戸魚市場(株)
(市場内のお店の紹介など)
下関市市場管理課 083-231-1440


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/29 Wed. 09:55 [edit]

category: 下関あれこれ

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29

朝鮮通信使 

朝鮮通信使


 朝鮮通信使は朝鮮王朝が室町時代から江戸時代にかけて日本に派遣した外交使節団です。両国は、通信使によって「信(よしみ)」を「通(かよ)」わし、外交課題を克服しました。
 室町時代の朝鮮通信使は7回計画され6回実行されましたが、来日を果たした通信使は3回でした。通信使は、足利将軍家の将軍襲職の祝賀、日本の国情探索、倭寇の禁圧要請などを主な目的としました。

 その後、両国関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵《倭乱》で破綻しましたが、和平を願う朝鮮王朝は2度、秀吉に朝鮮通信使を派遣したものの、秀吉はこれを無視しました。
 江戸時代になると、徳川家康や対馬藩の努力によって、両国関係は修復されました。その結果、慶長12年(1607)から再び朝鮮通信使が派遣されるようになり、12回の来日を数えました。
 そのうち、国交回復間もない時期に派遣された第3回までの通信使は、朝鮮王朝では回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)として派遣しており、日本の国情探索と倭乱で連れ去られた朝鮮人俘虜の刷還(さっかん)を主な目的としました。両国関係が安定すると、朝鮮通信使は徳川将軍家の将軍襲職のたびに派遣され、両国の友好関係を国内外にアピールしました。また、政治的な意義に加え、文化的な交流が深まりました。

 下関は、朝鮮通信使が初めて接する日本の都会で、潮待ちや風待ちなどのため、必ず滞在する必要がありました。対馬での易地聘礼となった最後の通信使を除く16度の通信使が当地に寄港しています。
 特に、倭寇の禁圧要請が最大の使命となっていた室町時代の通信使は、倭寇に影響力を持つ大内氏とも信を通わす必要があったので、通信使は下関において、必ず大内氏の歴代当主と対面し、倭寇禁圧や海賊が横行する瀬戸内での通信使船の航行安全などを要請しました。この時代、下関は通信使の成否を握る重要な地でした。
 通信使の下関での客館は、50人程度の人員であった室町時代は阿弥陀寺(現在の赤間神宮)300~500人規模となった江戸時代は阿弥陀寺と引接寺が充てられました。客館は使行のたびに修築され、豪華な調度品が華やかさを演出しました。阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、通信使の案内と警固のために随行した対馬藩主は馴染みの本陣伊藤家、対馬藩士は下関の商家数十件に分宿しました。
 下関での迎接を担当した長州藩は、通信使一行をそれぞれの身分に応じて、豪華な料理や酒でもてなしました。また、山海の珍味、果物、菓子、名産品なども差し入れました。
 阿弥陀寺では文化交流も盛んに行われ、防長の学者たちは朝鮮王朝一流の学者から、先進的な儒学や医学を学び、交流の成果を出版しました。江戸中期以降の防長(山口県)における学問の興隆は、朝鮮通信使がその一翼を担っていました。

 下関市では、平成16年度から、下関市三大まつりのひとつである「馬関まつり」において、朝鮮通信使行列を再現しています。参加者は姉妹都市の韓国釜山広域市から来関した学生と市民で、これに公募の下関市民が加わります。両国市民が通信使衣装を身につけ、楽隊の演奏とともに市内を行進する様子は、両国の深い絆を象徴しています。
 また、平成19年度には、下関市3団体・釜山広域市3団体による市民交流公演を実施し、まつりに華を添えるとともに「善隣友好・誠信交隣」の精神のもと、両市の市民レベルでの交流を一層深める契機としています。

 下関・赤間関は朝鮮通信使の本土最初の寄港地です。江戸時代の通信使は対馬・壱岐(長崎県)、相島(福岡県)に立ち寄り、阿弥陀寺(現赤間神宮)前の桟橋に接岸し、上陸しました。
 2001年8月、通信使の歴史と功績を後世に伝えようと、下関商工会議所や山口県日韓親善協会連合会などでつくる建立期成会が赤間神宮前の阿弥陀寺公園内に建立しました。石碑には、「朝鮮通信使の歴史的な意義を再認識し、一行上陸の当地に記念の石碑の建立、その歴史を恒久的に顕彰しようとする」との建立の趣旨が刻まれています。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/28 Tue. 12:24 [edit]

category: 下関あれこれ

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28

高杉晋作終焉(しゅうえん)の地 

高杉晋作終焉(しゅうえん)の地


療養中の晋作の身を案じた正妻のマサが看病のため、萩から訪れたことを機に新地の林算九郎(はやしさんくろう)宅に移りましたが、慶応3年(1867)4月14日、明治維新の直前に、27歳の若さで息を引き取りました。

所在地 下関市新地町3番 妙蓮寺前
交通 JR下関駅から徒歩12分


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/27 Mon. 15:08 [edit]

category: 下関あれこれ

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27

立石稲荷 

立石稲荷(たていしいなり)


所在地:下関市壇之浦町6番
 アクセス:JR下関駅からバスで12分「御裳川(みもすそがわ)」バス停下車歩いて3分
 問い合わせ:083-231-1350(観光政策課)

平家一門が京都から下ってくるときに、伏見稲荷の分霊を祀ったのが、立石稲荷です。
寿永3年(1184)屋島の戦いで敗走した平家が彦島を目指したとき、軍船が難破し、沈没してしまいました。
そのとき神霊はこの地に留まり、赤間関の港を守護したといわれています。
境内には平家の無縁の供養塔などがあります。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/26 Sun. 11:30 [edit]

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26

国分寺跡  

国分寺跡


天平13年(741)、聖武天皇が命じて全国に建立させた、国分寺の一つで、礎石や瓦などが出土しています。
長門の国の政治を執り行った国府の中心的役所は、忌宮神社近くにあったと推定されています。

所在地 下関市長府宮の内町7番
交通 JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/25 Sat. 14:38 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関観光プロモーションビデオ 

Posted on 2018/08/25 Sat. 14:24 [edit]

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白石正一郎旧宅跡 

白石正一郎旧宅跡(高杉晋作による奇兵隊結成の地)


高杉晋作は文久3年(1863)6月、荷受(にうけ)問屋 白石正一郎(しらいししょういちろう)の後ろ盾を得て同士と共に、当地において「奇兵隊」を結成しました。
白石正一郎は竹崎の荷受問屋で、鈴木重胤(すずきしげたね)に国学を学び早くから勤王(きんのう)の志がありましたが、西郷隆盛に接したことから実際の活動に入ることになり、坂本龍馬ら諸藩の志士と広く交わり彼らの陰の力として大きな役割を果たしました。

所在地 下関市竹崎町3丁目8-13 中国電力下関営業所前
交通 JR下関駅西口から徒歩5分


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/24 Fri. 10:50 [edit]

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義経の八艘飛び 

義経の八艘飛び


 源平壇之浦の戦いで有名なのが義経の「八艘飛び」。
 この「八艘飛び」というのはどんなものだったのか。

 平家の中で”王城一の強弓・精兵”と評されていた武将、平教経(のりつね)は、約1ヶ月前の屋島の戦い以来、義経を討つことに賭けていました。
 平教経は源氏の船に単身で斬り込み、義経を追い討とうとするのですが、身の軽い義経は、海上を飛び跳ねるように別の船に乗り移り、教経の攻撃をかわし続けたといわれています。
「平家物語」によれば教経との組み打ちを避けようとした義経が二丈(6メートル)も離れた隣の船に飛び移って逃げたとされています。海上で6メートル飛ぶことが可能だったとすれば、もし、義経がオリンピックに出場すれば走り幅跳びで金メダルはまちがいないでしょう。


しものせき観光ホームページより

Posted on 2018/08/23 Thu. 11:11 [edit]

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下関市合併10周年記念プロジェクションマッピング 

Posted on 2018/08/22 Wed. 10:20 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関市立しものせき水族館 海響館 

下関市立しものせき水族館 海響館
http://www.kaikyokan.com/


建設に至った経緯

 関門国道トンネル開通以前の昭和31年11月に水産都市・下関の象徴として、当時では東洋一の規模で長府外浦に開館した旧水族館は、長きにわたり水生生物の展示や飼育研究を通じて、多くの人々に親しまれてきました。しかし、施設の老朽化が著しく、市民の間で21世紀にふさわしい新しい水族館を求める気運が高まりました。ウォーターフロント開発の一環として、観光・レクリエーション事業の振興による地域活性化の起爆剤になるとともに、自然科学・海洋文化を体験しながら学習することができ、地域間・多世代の交流拠点となる水族館の建設をということで、平成3年12月に下関市役所内に水族館整備研究会を設置し、建設準備に入り、平成13年3月竣工、同年4月に開館に至りました。

 この度は、オープン後初めてのリニューアルに向けて、平成17年9月19日に全国から水族館関係者、学識経験者、下関市関係者による専門委員会を設置し基本計画を審議しました。入館者数20万人増を目指したリニューアル計画のメインとなる展示生物について審議を行い、水族館、動物園で人気が高く集客効果が見込め、専門家の見地からも新しい展示の可能性があり、かつ、展示生物の飼育環境に対し適切な規模の施設が確保できることなどを総合的に審議し、ペンギンを中心とした展示とすることに決定し平成22年3月1日にリニューアルオープンしました。

 元来、下関市とペンギンは大変深い関わりがあり、昭和32年2月13日に大洋漁業㈱の捕鯨船が下関へ寄港し、コウテイペンギンを旧水族館へ寄贈した経緯もあります。

施設の概要

 平成13年4月、下関の中心部、下関駅と唐戸地区を結ぶ新たな賑わいの空間"あるかぽーと"に、新しい水族館・下関市立しものせき水族館「海響館」が誕生しました。 海峡ウォーターフロント開発の中核的な観光・レクリエーション施設として、さらに、関門海峡を挟んだ門司港レトロ地区等との連携による相乗効果により、下関活性化の起爆剤として大きく期待されています。

 また、ペンギン村に関しては、チリ国立サンチアゴ・メトロポリタン公園よりフンボルトペンギンの「生息域外重要繁殖地」の指定を受け、フンボルトペンギン飼育下繁殖を支援する協力貢献を期待されています。

メインコンセプト
『海のいのち・海といのち』
下関市立しものせき水族館「海響館」は、下関の成り立ちが海と深く関わってきたことから、「海のいのち・海といのち」をメインコンセプトにしています。水の生き物たちの生態を通じ、自然と人間の係わり合いや生命のすばらしさ、自然保護の大切さについて理解を深めていただこうとするものです。自然科学、海洋文化を体験しながら学習する21世紀の水族館として、地域間、多世代の交流の拠点となる施設です。

建物概要 場所 下関あるかぽーと6番1号
敷地面積 約13,900㎡
構造 鉄骨・鉄筋コンクリート(SRC)造 4階建
延床面積 約14,400㎡
展示水量 約3,200t 水槽数75槽
展示水族 約550種 25,000点
施設の特徴
海峡メッセと対照に横のラインを基調とし、関門海峡の新たなランドマークとなる形態。

大屋根は、大型水生生物(クジラ、イルカ)をイメージ。

ペンギン村は亜南極と温帯の2つの気候エリアを持った展示施設で、亜南極エリアは生態展示エリアと学習エリアがあり、楽しく学べる。また温帯エリアは特別保護区とふれあい広場があり、ペンギン自然生息地の環境を体験できる。

Posted on 2018/08/21 Tue. 12:11 [edit]

category: 下関あれこれ

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