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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

おおひと 

おおひと


 むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
 もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。

 彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
 島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。


  大江屋敷の おおひとは

  けんのう飛びで どこ行った

  和尚さんに聞いたれば

  和尚さんは知っちゃあない

  タイヨさんに聞いたれば

  タイヨさんも知っちゃあない

  どーこー行った どこ行った

  地下の山を けんのうで

  大江山を 飛び越えた


 けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
 このわらべ唄については、面白い話があります。

 むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
 その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
 それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
 大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/28 Fri. 08:35 [edit]

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28

最後の庄屋 

最後の庄屋


 彦島の庄屋は、むかしから代々、河野家が継いでおったが、いつのころからか、どうしたいきさつがあったのか、それが和田家に変った。

 庄屋の屋敷は専立寺に隣接して、それはそれは広壮なものであった。

 明治・大正から昭和の初めにかけて、彦島の庄屋は和田耕作という男で、実際には庄屋という役職も既に無くなっておったが、人びとは『庄屋の耕作』と呼んだ。
 耕作は、生まれつきの大風呂敷で、なまけ者であった。
 若い頃から決まった職には就かず、いつもぶらぶら遊んでばかりで、親が残してくれた財産を次々に食いつぶしてゆく始末。
 田や畠、それに山林などもどんどん減っていったが、耕作はのほほんと遊び歩いた。そして好き放題にホラを吹きまくった。

 耕作が二十歳の頃のこと、村の若い衆を集めてこう言うた。
『ワシャあ、彦島と関の間を埋めて地続きにしようと思う。明日から東京にのぼって内務省の役人にワシの計画を話して許可を取ってくる。何千円かかっても、何万円かかっても、ワシはやるぞ』
 若い衆たちは、また耕作のホラがはじまった、と笑いながら帰っていったが、その翌年、内務省が『小瀬戸海峡埋め立て計画』を発表したもんで、誰も驚いた。

 またある時、
『彦島に大会社を誘致しようと思うて、今は忙しゅうてならん。昨日も、渋沢栄一と会うてその話をして来たばかりじゃが、どうやらまとまりそうな空気になったよ』
 と、ふれ歩いた。誰も信用しなかったが、半年もしないうちに、大阪硫曹と大日本人造肥料という二つの会社が、福浦湾を視察して工場設立の準備にかかったので、
『庄屋は私財を投げうって彦島の為につくしてくれよる。今まで、ノウタレと陰口を叩いてきたが、ほんに悪いことを言うたものじゃ』
 と、ささやきおうた。

 すると耕作は余計に調子に乗って、
『乃木将軍とワシは懇意でのぅ、この前も東京で会うた時にゃあ、肩を叩き合うて語り明かしたものじゃあ』
 と、口からでまかせにしゃべって歩いた。少しずつ耕作を信用しかけておった人びとも、これにはあきれて、誰も相手にしなくなってしもうた。すると耕作は、むきになって、
『嘘じゃない。そのうち将軍が関に来られたら、皆なの前で訓話して貰うように連絡をとっちょくよ。その時になって、あっと驚くな』

 それから何年かたって、明治四十年一月元旦、乃木将軍が長府に里帰りされた。すると耕作は、その前、約一ヶ月、どこへともなく姿を消しておったが、ひょっこり戻ってきて、
『将軍の件じゃが、ワシャあ、一生懸命頼んだんじゃが、将軍もなかなかお忙しそうで、どうにも時間がとれん。そこで小学生だけを集めて長府で話をしようということになった。志磨小学校(現・本村小学校)からも代表が行けるけえ、それで堪忍してくれえや』と人びとに了解を求めて回った。
 将軍の訓話は一月五日、長府の豊浦小学校校庭で行われ、耕作の言う通り、彦島からも代表が出かけて聞くことができた。

 それからというもの、耕作は有頂天にかって、ホラの吹き通しであったが、明治大帝がお亡くなりになり、乃木将軍の殉死が伝えられると、その日から、また姿を消してしもうた。

 二年か三年、耕作は家をあけたまま、どこへ行ったのか、その消息さえもわからなかったが、ある日、ひょっこり戻ってきてそのまま寝込んだ。
 病気の様子でもなく、毎日ごろごろ寝転んでばかりじゃったが、人びとが訪ねて行ってもあまりしゃべろうとせず、まるで人が変ったようであったという。

 大正八年、長府に乃木神社が出来ると、耕作は五日ごとに長府まで歩いて行ってその拝殿にぬかずいた。
 相変わらず、決まった仕事にはつかず、色町などで遊び呆けておったが、以前とは違うて、何故か耕作はホラを吹かなくなった。

 また、何年かが過ぎていった。

 ある日、村の人が下関から戻って来て、
『庄屋は大したもんじゃのう。乃木さんに大鳥居を寄進したちゅうじゃないか』
 と、ふれまわった。
『そんな馬鹿な。もしそれが本当なら、庄屋は何年も前から鳥居の話を大げさにしゃべり歩いちょる筈じゃ』
 人びとは殆ど信用せんやったが、下関あたりでは、その噂でもちきりちゅうことを聞いて、何人かで長府まで確かめに行くことにした。

 行ってみると、まことまこと、乃木神社の正面参宮道路の入り口に花崗岩の大鳥居が建っておって、『和田耕作』と奉納者名が彫られてあり、その上、献歌まで刻まれてあった。
『立派な石鳥居を寄進なすって、あれは、相当、お金をかけたものでしょうな』
 人びとは島に帰って耕作に訊ねたが、耕作は何も答えず、ただ笑ろうておるばかりであった。

 大風呂敷が、風呂敷を広げなくなると、人びとは却って寂しゅうなり、時には気味悪がって、庄屋屋敷へは、あまり立ち寄らなくなってしもうた。

 その後、耕作は売る田地が無くなり、家財まで売り払い、昭和のある日、保険金目当てに、庄屋屋敷に火を放ってしもうた。
 耕作夫婦は捕らえられ、子どもがおらんやったことから、さしもの大庄屋も、その日を最後として、完全に没落消滅する破目になった。

 何百年と続いた彦島の庄屋は、その広大な田地森林、屋敷、財産すべて、最後の庄屋、和田耕作一代で食いつぶされ、使い果たされ、そして子孫まで失のうて、見事に絶えてしもうたんじゃとい。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/27 Thu. 09:32 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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27

地蔵踊り 

地蔵踊り


 むかし、西楽法師は、十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねになった。

『伊予の国、勝山城再興をはかり、今は、ひたすら隠忍自重…』
 河野家の主人がこう言うと、その家来の、園田、片山、二見、柴崎、小川諸家の人びとも
『主家の為には、私たちも骨身を惜しまずこうして忍んで居ります』
 と力強く答えた。

『私たちは、平家再起のために…』
 キッと眼を見開いてこう言ったのは、植田家と岡野家であった。
『ちよろずの波に沈みたもおた幼帝のおいたわしさと、一門の無念を思えば…』
 百合野、冨田両家の人びとは、そう言ってハラハラと涙を流した。
『小松殿の守護佛を拝する度に、一日も早く、平家の世を取り返さねばと…』
 登根、和田家の人びとも、ヒザを進めて言った。

 それぞれの立場から、それぞれの胸のうちを聞かされ、法師の眼にも光るものがあった。ややあって、法師は、ゆっくりと、つぶやくように言われた。
『諸氏の胸のうちは、よう判る。しかし、河野家滅びて既に百二十年。先帝入水からももう九十年を経ている。諸氏も、この島に住み付かれた頃は僅か十二名であったものが、今では分家もかなり増え、島の東西南北を支配するまでになられた。四国勝山の城も興したいであろう。平氏一門のくやしさも、思うに忍びがたいものがある。しかし…』
 法師は、十二苗祖の人びとの意図が、今の世では、既に無駄なことであり、たとえ兵を起こしたとしても、それに呼応して来る一門は、ほんの一握りでしかないことを、時間をかけてゆっくりと説かれた。

 だから、そんな考えはこの際、一切捨て去り、明日からは、子孫繁栄と島の開拓を目指して、十二氏が力を会わせて欲しい、と法師は何度も言われた。

 昼が来て、夜になり、法師を囲む十二氏の人びとは、それでも議論をつづけた。やがて朝が来て、昼から夜へと、その日も激しい論戦であったが、結局、人びとは、法師の意見に従ってみようと誓い合うことにした。

『法師、あなたの御意見に添うことに致しましょう。今日からは、鉾を納め、刀を鍬に持ちかえて、島の為、十二家の為に私たちは力を会わせて働きましょう』
 居並ぶ人びとの言葉に、法師もゆっくりうなずいて、
『平家の守り本尊に、諸氏の身柄を預けて下さいますか。これからは再興のことなど考えず、子孫と島の隆盛を誓い、十二氏が手を取り合って生きてゆくということを…』
 と涙ながらに話された。
『すべて、おまかせいたしましょう』
 十二氏の人びとは、口を揃えて、そう答えた。
『ああ、良かった。本当に良かった。これで私も、もう安心です。それでは、明日から島の開拓に精を出して下さい』
 法師の笑顔にも、十二氏の人びとにも、一すじ、二すじ、涙が光っていた。


 この日のことを『十二苗祖の誓い』と言うが、その後、毎年九月に行われる地蔵祭りの踊りに、この日の会話が取り入れられることになった。
 地蔵踊りは永い年月の間に広がって、下関やその近郊の盆踊りとなり、最近では『平家踊り』と呼ばれて、全国でも有名な踊りの一つに数えられるまでになっている。

 その踊りのハヤシで『ヤトエー ソラエーノ ヤトエノエー』というのは、法師が『良かった、本当に良かった』と喜ばれた時の言葉で、『マカショイ マカショイ』とか『アーリャ アリャマカショーイ』というのは、十二家の人びとが『すべて、おまかせいたしましょう』と言ったことから来ている。
 また。『ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤッサ』というハヤシ言葉は、誓いの翌日から島の開拓に励みはじめた様子を現したものだと伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/26 Wed. 09:13 [edit]

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26

お夏だこ 

お夏だこ


彦島の西山に、お夏という十八歳になる娘がいました。
娘の家は漁師をしていましたが、家が貧しく、そのうえ両親が病気がちで寝込むことが多く、その分だけ、お夏は人の倍も働き家計を助けていました。
海が荒れている日は、仕事も出来ず、そのためお天気になりそうな日は、まだ暗いうちから起き、支度をし人より早く海に出て仕事をしはじめました。

そのうち父親の病気が悪くなり、もう命もあとわずかというとき、父親は、やせ細った手で娘をまねき、
「娘や、わしはもう一度あのおいしいタコが食べたい。すまないが、タコを捕ってきておくれ」
「でもお父さん、そんなに弱った体に、タコは無理ですよ」
と娘は心配そうにいいましたが、父親は、どうしてもタコが食べたい、死ぬまでにもう一度食べておきたいと、何度も娘に頼みました。

そこで娘は、あくる日、銛を持って海岸に出ました。
箱眼鏡をのぞいてタコを探しますが、なかなか見つかりません。
父親があれほど食べたがっているタコです。
どうしても一匹でも捕って帰らねばと、とうとうお日様が水平線に消えかかる頃まで探しまわりました。

しかし、見つけることができません。
娘はガッカリして帰り支度をしていて、ふと四、五メートル先の岩場を見ると、その向こう側にタコの足らしいものがのぞいています。
しめたと思って娘は静かに岩の反対側に回ってみて驚きました。

そのタコは、タコには違いありませんが、なんと人間より大きいタコでした。
娘はとっさにこう考えました。
「たこは眠っているようだから、足を一本だけ切り取っていこう。そうすれば、また父親が食べたいといったときに捕りにこられる」

娘は用意していた刃物で、用心しながら足を切り取り、持ち帰りました。
あまりに大きかったので、近所の漁師にも分けましたが、一番に、父親は
「あー、これはうまいタコじゃ」といって喜んで食べてくれました。

それから二、三日たつとまた父親は、タコが食べたいといいだしました。
娘はいつかの大ダコのいた場所に行き、また足を一本切り取って帰りました。

こうしたことが何回かあって、あの大ダコの足は、たった一本になってしまいました。
はじめのタコの足を捕ってから、二十日ばかり過ぎていました。

娘はまた父親の願いで、タコのいる場所へでかけました。
娘は、いつもタコが逃げもしないで、眠っているようすなので、今日も安心してタコに近づき、最後の一本を切り取ろうとしました。

しかし、その時、タコは残りの一本を娘の胴に巻きつけ、そのまま海底深く引きずっていきました。

お夏の帰りが、あまり遅いので、母親をはじめ近所の漁師たちが海に出て一日中探しましたが、ついにお夏の姿を見つけることはできませんでした。

それからは、この海岸にあがってくるタコを「お夏だこ」といって、漁師たちは祟りを恐れ、タコを捕らなくなったといいます。


(注)
伝説として語り伝えられているお話の中には、心の優しい孝行な娘の話がいろいろありますが、この「お夏だこ」の話や、「幽霊祭」「福笹」などの話も、そうしたものの一つです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/04/25 Tue. 08:16 [edit]

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25

帰られなかった佛様 

帰られなかった佛様


 むかし、十二苗祖をはじめ。彦島の人びとは西楽寺の門信徒であった。しかし、今ではそのほとんどが、下関の光明寺、了円寺、教法寺と、彦島の専立寺を、それぞれの旦那寺としている。

 今から約三百年もむかしの話。

 寛永十五年(1638年)九州天草の乱で敗れた小西の残党は、海賊に身をやつして玄海を荒らしまわっていたが、ある時、彦島までも襲って来た。
 彦島は、古くから何度も海賊の根拠地されてはいたが、この時ほど大量に、そして残虐な仕打ちを受けたことはなかった。そのため、島の人びとは、相次いで下関に避難することにした。
 折悪しく、その年の春、西楽寺の十九代住職が亡くなったので、本尊である阿弥陀尊、観音様、薬師様も避難して貰おうと、下関の福昌寺(今の専念寺)に預けた。

 島の人びとが疎開して二年後、つまり寛永十七年(1640年)幕府はキリシタンを禁圧する目的から『旦那寺請制度』を設けた。それは、士農工商、すべて、どこかの寺院にその門徒であることを届け出なければならない、という制度で『宗門改め』とも言う。

 彦島から避難していた人びとは、『西楽寺の門徒』であることを誇りにしていたが、廃寺同然となっている西楽寺の名を届け出るわけにもゆかず、仕方なく、光明寺、了円寺、教法寺に、それぞれ一時的な門信徒として申し出ることにした。彦島に残っていた僅かな人びとは、無住の西楽寺に届けることも出来ず、専立寺の門信徒となった。因みに西楽寺は時宗だが、四つの寺院はいずれも浄土真宗である。

 小西党の海賊どもが長府毛利のお殿様に征伐されて、疎開先の人びとが島に戻りはじめたのは、三十五年後の延宝元年(1673年)のことであった。

 ようやく懐かしい古巣へ帰ることの出来た人びとは、早速、西楽寺の門徒に立ち戻りたいと役人に届け出た。しかし、役人は『宗門改め制度は、永代である』と言って、その願いをしりぞけてしまった。
 西楽寺を旦那寺として仰ぐことの出来なくなった十二苗祖をはじめ島の人びとは、せめて福昌寺に預かって貰っている三像だけでも帰島させて欲しいと申し出た。
 早速、阿弥陀様だけが島に帰って来られたが、残る二尊像は、福昌寺が渋って、なかなか返してくれない。おさまらないのは島の人びとだ。人びとはたびたび下関へ渡って、平家の守り本尊だから、是が非でも阿弥陀様と一緒に安置すべきだ、と接渉しつづけた。

 三十年という月日が、またたくまに過ぎた。その間、島の人びとは、かわるがわる福昌寺に出かけて二像返戻を迫った。その熱意に動かされたのか、廃寺同然の西楽寺に新しい住職を迎えるという条件を確かめて、観音様だけが彦島に帰されることになった。それが宝永元年(1704年)のことであったという。

 しかし、残る薬師如来様だけは、どうしても返してくれず、そのうちどうしたのか、福昌寺からも行方知らずとなってしまわれた。

 島の人びとは、ひどく哀しんだが『阿弥陀様は平家一門の冥福と島の平和を祈り、観音様は、光明、了円、教法三山の隆盛を見守って下さる為に帰島され、薬師様は全国各地に隠棲している一門の落人を慰めるために諸国を廻って居られる』と、末永く言い伝えることにしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/24 Mon. 08:18 [edit]

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24

舟島怪談 あしおと 

舟島怪談 あしおと


 むかし、舟島には、わずかながら人も住んでいました。

 ある年の、うら盆も近くなった蒸し暑い夜のことです。突然、家の回りを、人の走る音が聞こえました。何事だろう、と人びとは外に出てみましたが、誰も居ません。
 そんなことが毎晩つづいたので、人びとは気味悪がって島を離れるようになり、ついには、一組の老夫婦だけが取り残されてしまいました。

 しかし、不思議なことに、うら盆が過ぎて涼しい海風が吹きはじめる秋の気配と共に、その足音はぷっつりと消えました。

 ところが、またその翌年、お盆が近づいた蒸し暑い夜のことです。
 家の回りをバタバタと足音高く人が走るので、老夫婦は一年前のことを思い出し、寝床の中でじっと耳をすましていました。しかし、いつまでたっても足音は消えません。
 二人は恐る恐る起き出て、そっと表戸を開けました。すると、そのとたん、ぱったり足音はとだえましたが、人の姿はありませんでした。

 あくる日も、またそのあくる日も、毎晩そんなことがつづいて、老婆はついに発狂して死んでしまいました。

 その年も盆が過ぎると、その不思議な足音は聞かれなくなりましたが、たった一人残された老爺も、あとを追うように海に飛び込んでしまいました。

 それから何年か経って、誰も居なくなったこの島に、彦島の庄屋が渡ってみますと、老夫婦の住んでいた家の床下から、古ぼけた小さな墓石が出てきたということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


Posted on 2017/04/23 Sun. 10:02 [edit]

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鬼面ばなし 

鬼面ばなし


 明治の中頃まで、彦島の十二苗祖を名乗る家なら、どこもかしこも、鬼の面を鴨居に下げて居ったものじゃ。
 玄関、勝手口、納屋、長屋、それに土合い(母屋と長屋との間の通路)の入口に、小さい鬼面を下げ、他に人間の顔くらいの大きなやつを佛間に隠して居った。じゃから、少ない家でも必ず五つは持って居り、多い所じゃ、十も十五もあったらしい。

 どおして、そねぇに鬼面があったかと言うと、昔から彦島は何回も何回も海賊に襲われたもんじゃけぇ、もう、ええ加減に来て欲しゅうない、という祈りを込めたものじゃったと伝えられて居る。

 この近くじゃあ海賊のことを、大昔は、鬼と言うて居ったらしい。その証拠に、竹ノ子島やら西山には、今でも鬼にまつわる伝説や地名がようけ残されて居るじゃろう。

 まず、仲哀天皇の頃、朝鮮半島から海賊が押し寄せて来たというのが、今から千七百年以上も前の話。

 それから元久二年(1205年)、文暦元年(1234年)、貞和六年(1350年)とつづいて、応安五年(1372年)には、九州の菊池党に敗れた足利氏の一統が海賊になり、彦島を根城にして荒らし回った。
 その後、天文十七年(1548年)にも海賊に襲われ、島の人びとは下関の伊崎などに避難しはじめたそうじゃ。

 しかし、一番ひどかったのは寛永十五年(1638年)のことで、この時は、天草の乱で敗れた小西の残党どもが海賊に身をやつして、彦島をその本拠地にしてしもうた。そして、この近海を片っぱしらから荒らし回ったもんじゃけぇ、その悪らつぶりに耐えかねた島の者は、ほとんど下関の方へ逃げて行った。
 伊崎、細江、それに垢田、川中、勝谷、内日などに、それぞれ避難して三十年も四十年も隠れ住んだが、その後、次つぎに帰島しはじめても、とうとうそこを動かず、住み着いてしもうた者もかなり居ったという。

 そんな訳で、むかしから彦島の者は、海賊に対しては身の縮まるような恐怖感を抱いて生きて来た。爺から親へ、親から子、子から孫へと、何代も何代も、その不安と恐ろしさは受け継がれて来たんじゃ。
 そいで、彦島の者が、鬼の面を作って、末永い平和を祈ったという気持ちも、よう解るじゃろう。

 ところが、いつのまにか、子供のいたずらや、やんちゃを戒める風習に使われはじめてのぅ。
 例えば、子供が親の言い付けを守らん時やら、なかなか泣き止まん時にゃあ、親は佛間から大きい鬼面を出してかぶり、
『言うことをきかんけぇ、鬼が来たぞ!』
 と、おどかしたりするようになった。ほいやけえ(それだから)しまいには、無理に鬼面を出さんでも『鬼が来るぞ』『鬼ヶ島にやるぞ』と言うただけで子供は泣き止んだものじゃ。それほど鬼に対する印象は強烈で、根強いものがあった。


 ところで、彦島にゃあ、昔から『彦島謡』と呼ばれる独特な謡曲があった。結婚式、上棟式、年祝いなどの、いわゆる祝いごとの時にゃあ必ず謡われて、女やら子供までもが聞き覚えで二つや三つの謡曲は、大抵うたえたものじゃ。
 その彦島謡の謡い納めが十二月三十一日の晩にやる『年もらいの謡』で、この時にも、鬼面が使われることになって居った。

 どの部落にも『謡い所』というものがあって、そこにみんな集まり、夕方から『年送りの謡』をうたい、それが終わったら『年もらいの謡』に変わる。
 年もらいの謡は、除夜の鐘が鳴りはじめるまで次々に謡い次いでゆくのじゃが、その時の聞き手はすべて鬼の面をかぶり、女や子供は謡い所の背戸に出なけりゃあならんかった。
 それは、新しい年もまた、海賊騒ぎの無い平和な年であって欲しいという願いから始まったそうじゃが、今じゃあ、彦島謡も鬼面もみんなすたれてしもうて、ほんに寂しゅうなったのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/22 Sat. 09:00 [edit]

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22

佛岩 

佛岩(ほとけいわ)


 むかし、むかしのことじゃ。

 小戸の浜に『佛岩』ちゅう、位牌みたような石が立っちょった。
 源平合戦のころの話ちゅうことじゃ。

 平知盛さまの軍船は海士郷から出陣なされて、壇ノ浦で戦われたが、武運つたのうして小戸に押し流されてしまわれた。
 義経ちゅう男は、どねぇもこねぇもならん、どだい意地きたなあ奴で、どないなことがあろうと平家一門を全滅せにゃならん、ちゅうて深追いして来たそうな。
 そいで平家の武士たちは、小戸の瀬戸まで流されて来た時、ここをせんどちゅうて、次々に海に身を投げてしまわれた。うん、御裳川の先帝のみあとを追うたわけじゃな。

 そいでも死にきれんで、陸に泳ぎ着いた武士が何人か居って、そのお人らは寄り合うて一門の霊を慰めることをあれこれ詮議なされたらしい。
 そして、そこらにあった大けい根石を位牌の形に刻み込うで、表面に経を彫って、ねんごろに供養したちゅうことじゃ。
 それを平家一門の墓とせんやったのは、源氏の詮索を恐れてのことで、ほいじゃけぇ、みんなは『佛岩』ちゅうことだけで、一門の霊を弔ろうて来たんじゃろう。


 ワシらが、まだこまあころにゃあ、あねえな石やぁ、ようけあったい。ほいであの磯のことを『佛の瀬』とも言うて、あの瀬に船をこじ当てたり、木っ端になった漁師もようけ居って、みんながあの瀬にゃぁ気いつけぇょ、言うて恐れたもんじゃが。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2017/04/21 Fri. 09:06 [edit]

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鬼の墓 

鬼の墓


 舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
 むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。

 そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
 その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
 鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
 ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。

 それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
 と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
 しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。

 やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/20 Thu. 09:10 [edit]

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20

辰岩 

辰岩(たついわ)


 本村小学校の裏山に小さな森があります。その中に伝説の『辰岩』があるということはあまり知られていません。

 ずいぶんむかしの話です。

 この森に平家の落人がかくれ住んでいました。彼は、いつかはきっと昔のような平家全盛の時代がやってくると信じ、住まいの近くに麻を植えたりして細々と暮らしていました。
 しかし、そんな日は再びやってくる筈もなく、いつのまにか年老いてしまい、辰の年の三月二十四日、落人は森の中で腹かききって死んでしまいました。
 それからというもの、毎月二十四日になると、その森から大きな龍が出ては海峡をにらみつけ、大声に吠えたてましたので、島びとたちはその日が来るのをとても恐れていました。

 ある年の春、偉いお坊さんが、その話を聞いて、彦島を訪ねて来ました。そして、たった一人で森に入って行き、三日三晩お経をあげましたところ、その翌月から龍は出なくなりました。
 島びとたちは安心するとともに、『あの龍は、落人の怨霊であったのか』と、みんなで供養塔を建てようと話し合って、久し振りに森に入ってみました。
 すると、落人の住まいのあった場所に、どこから運んだのか、大きな自然石が建てられていました。それは、人間の力ではどうしても動かせないほどの大岩で、しかも、これを運ぶのを見た人は誰も居ません。
 島びとたちは不思議でなりませんでしたが、結局、これは落人の墓だろう、ということで、そこに花を供えて帰りました。

 そのうち、大岩のことを誰いうとなく『辰岩』と呼ぶようになりました。

 ある年のこと、
『辰岩の下には、平家の財宝が埋められていて、落人はそれを守っていたらしい』
 というまことしやかな噂が、ひそかに流れました。
 それを聞いたある欲の深い男が、秋の夜更けにそっと森に入って辰岩の下を掘りはじめました。ところが不思議なことに、鍬を振り下ろしたとたん、男は発狂してしまいました。
 その後、伊崎からも財宝の噂を聞いてやってきた男が居ましたが、やはり同じように気が狂って、
『龍がにらんだ、龍がにらんだ』と、つぶやくようになりました。
 そんなことが何度もあって、島びとたちは落人の命日に花を供える以外、誰もその森に近づかなくなりました。

 何年かたちました。

 ある日のこと、小倉の与八という商人がやって来て、森の前に島びとを集めました。そして与八は、こう言いました。
『わしゃあ、辰岩の宝物が本当か嘘かを確かめるために、わざわざ小倉からやって来たんや。今までは、どいつもこいつも、夜の夜中に内緒でそろっと掘ったけぇ気が狂うたんやと、わしは思う。そいで、わしゃあ、みんなの見ちょる前で堂々と掘るけぇ、立ち会うてくれいや』
 島びとたちは、恐る恐る与八のあとにつづいて森に入って行きました。

 与八は、多くの人びとの見守る中で、辰岩の根に、ガシッと、鍬を打ちおろしました。
 そのとたん、与八は、
『アーッ』
 と悲鳴をあげました。そして驚いたことに与八は両手を高くあげ、頭をふりふり辰岩のまわりを走りはじめました。島びとたちはどうすることも出来ず、ただ、あれよ、あれよ、と眺めているばかりでした。
 そのうち、持ち上げていた鍬が頭に落ちて、与八は死んでしまいました。

 島びとたちは、辰岩のそばに小さな墓を建て、与八の霊を慰めると共に、それ以来というもの、辰岩に近づくことも、また、その話をすることさえも避けるようになったということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


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Posted on 2017/04/19 Wed. 09:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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19

身投げ岩 

身投げ岩


 大阪の豪商の一人娘、お米は評判の美人でした。お米には、行く末をちぎった男が居ましたが、ある日、男は他に恋人をつくり、手に手をとって大阪を逃げてしまいました。
 それを聞いたお米は親の止めるのも聞かず男のあとを追って家を飛び出しました。そして、諸国を尋ね歩いた末、彦島にやって来ましたが、求める姿はどこにも見当たりませんでした。

 心身共に疲れ果てたお米は、小戸の大岩に腰をかけて、逆巻く小瀬戸の潮を見つめていましたが、思いあまって、そこから身を投じてしまいました。

 その後、どこかでお米の噂を伝え聞いた若者が彦島を尋ねてきて、お米の最期をことこまかく聞き歩きました。そのあげく、自分の前非を悔いたのか、ある日、同じ岩の上から身を投げてお米のあとを追いました。


 それ以来、七日毎の命日の夜には、大きな青い火が二つ、小戸の空を追いつ追われつ飛んでは海に落ちて消えるようになりました。

そこで、島びとは西楽寺の和尚にお願いして読経して貰ったところ、その夜から二つの火は見られなくなりました。


 島びとは二人の供養のため、岩の上に石塔を建てて、いつまでも花を絶やさなかったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2017/04/18 Tue. 08:37 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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18

明神さん 

明神さん


 西山波高バス停の海寄りに『明神さん』と呼ばれる小さな祠が建っている。背後に大きな石を置き、何本かの老松が海風にゆれているが、明神さんのいわれについてはあまり知られていないようだ。


 むかし、伊予の商人が、風待ちで入港した南風泊の宿で、明神さんを信仰すればどんな願いごとでも叶う、という噂を聞いて、むしょうに欲しくなり、ある夜そっと明神さんを盗み出して小舟で海峡を渡り、門司の鼻にかくして、何食わぬ顔で宿に戻った。
翌朝、ようやく波風も静まったので、船は南風泊を出帆したが、門司の沖にさしかかった時、商人はふと思い出したように、
『そうじゃ。門司に嫁いじょるワシの妹は永いこと患ろうちょるらしい。一晩見舞うてからすぐあとを追うけえここで下船させてくれや』
 と言って船を下りた。そして門司に渡り、前夜ひそかに隠しておいた明神を取り出そうとしたところ、急に頭が割れるように痛くなり、おまけに、腹痛まで起こす始末。
『これは、おかしい』と、その夜は門司の宿に泊り、翌日、回復したので再び取りに行くと、また腹痛、頭痛が同時に襲ってきた。
 商人は驚いて『これは明神さんのたたりじゃろうかい』と大慌てで、御神体を海に放り投げ、痛む腹と頭をかかえながら小舟で周防灘へ漕ぎ出した。だが、何町も進まないうちに発狂して、近くの岩礁にぶつかって死んでしまった。

 だから、門司の鼻のことを、今でも明神の鼻と呼び、その沖には明神の瀬もあるという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/17 Mon. 09:19 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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17

台場ヶ鼻 

台場ヶ鼻


 夷狄が来た。
 一カ国だけじゃ適わんと見たか、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと、四つの国が誘い合うてやって来た。

 こうなりゃあ、長州さまだけにおすがりしちょく訳にゃあいかん。
 百姓も漁師も、みんな率先してお手伝いすることにしたけぇ、彦島の農兵隊は、みるみるうちに大人数になった。
 多い時にゃ、五百人は居ったそうじゃが、弟子待の萩野隊を助けて、よう活躍したちゅうことが、昔から伝えられちょる。

 夷狄が来たなぁ元治元年(1864年)の八月のことやが、亀山、壇ノ浦、前田、城山の、あちこちの砲台が外艦めがけて、どんどんばりばり撃ちはじめた。
 彦島も負けちゃあ居れん。
 山床鼻、弟子待、石ヶ原なんかの砲台も、関に呼応して、やんくも撃って撃ちまくった。おとなしかったのは、西山やら竹ノ子島の連中で、何せ、外艦が見えん所に居るけえ、どねえもこねえもならん。
 遠くで鳴る大砲の音を聞きながら、腕を鳴らして、やきもきしちょったらしい。

 それは長いような短いような何とも知れん一日で、ようようお天道さまが西の海に沈みかけたころ、竹ノ子島六ノ台の遠見が、どひょうしもない大声をあげた。
『オーイ、獅子ノ瀬に人が流されよるぞー』
 その声に藩兵やら農兵やらが台場にあがってみると、まこと、獅子ヶ口から獅子ノ瀬へ急流に押されて人間らしいものが流されちょる。
『誰か助けに行けえ』
『よし、わしが…』
 元気な若者が六人、台場をかけおりて、ドブン、ドブンと海に飛び込うだ。泳ぎにかけちゃあ、達者な者ばかりじゃ。見る間に六人で、その人間を浜に引きあげたが、
『オーイ、こりゃあ佛様じゃあ』
『もう土左衛門になっちょるわい』
『どうも、毛唐らしいぞ』
『佛は紅毛じゃーい』
 六人は口々に、台場に向かって大声に叫んだけえ、みんな浜に降りてみると、まこと、佛は日本人じゃあない。
 何とも奇妙な着物を着て、髪は赤いし、鼻は天狗のように高いし、河豚のシラコのようにブヨブヨと白い。
『長州さまの大砲に当たったんじゅろうか』
 ちゅうて、いろいろ調べたが、どこにも傷らしいものは無い。
 結局、このまま放っちょくわけにもいかんので、台場の脇にねんごろに埋めてユズの苗木を植えたちゅうことじゃ。

 ところが、戦争が終わって講和談判の時、オランダの水兵が行方不明になったちゅう話が出て、ごっぽうこじれたらしいと、そんな噂が流れた。
 竹ノ子島の藩兵やら農兵やらは、早速、話し合うて、
『今後、如何なることがあろうとも、獅子ノ瀬の佛については、一切口外しない』
 と誓い、一書をしたためて血判までしたちゅう話。

 竹ノ子島の六ノ台とはのう、今じゃ、台場ヶ鼻ちゅうて、燈台みたいな潮流信号所が建っちょるあそこのことじゃ。
 信号所の井戸のねき(そば)に大きなユズの木があったが、さて、今でもあるかのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/16 Sun. 09:30 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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16

親クジラの願い 

親クジラの願い


下関彦島田ノ首町。
1000メートルそこそこの海峡をはさんで、対岸の門司側にも工場の煙突や倉庫群。
すぐ目の前を一日千隻もの大小のタンカー、貨物船が右へ左へひっきりなしに通る。
このにぎやかな海を、戦前までクジラの群れが泳いでいた。

日本沿岸からザトウクジラ、セミクジラなどの小型クジラが姿を消したのは昭和になってから。
幕末から明治にかけては、紀伊半島沖、壱岐、対馬、五島と並んで瀬戸内海はクジラの好漁場だった。

関門海峡を通って波静かな瀬戸内海へ出入りするクジラは、たいてい子連れだったという。
田ノ首町に伝わる「親クジラの願い」も、子連れクジラにまつわるあわれな話だ。


明治40年ごろ、彦島田の首に貧しい漁師がいた。
五つになる男の子があったが、生まれつき体が弱く、病気がちだった。

ある夜、漁師はまくらもとの気配で目がさめた。
部屋の中に真っ黒く大きなものが立ちふさがっている。
よく見るとクジラだった。
驚く漁師にクジラは
「私たち夫婦クジラは、明日の昼ごろ、一人息子の子クジラを連れてこの海峡を通ります。
しかし子クジラは病気です。
どうか息子だけは見逃してやって下さい」
クジラは哀れみをこうように弱々しく頼み終わるとスーッと消えた。

夜が明けた。
漁師はさっそく浜の仲間を集めてこの不思議な出来事を話した。
半信半疑の仲間たちも、クジラが本当にとれれば、いい収入になる。
みんな銛や太綱を用意して待った。

クジラは前夜の話のとおりに親子三頭でやってきた。
たちまち海峡は修羅場になった。
大波をたてて暴れる親クジラ、飛び交う銛。
そのときどうしたはずみか一本の銛が、両親に守られていた子クジラの胴にグサリと命中してしまった。
海を血で真っ赤に染めながら、のたうち回る子クジラ。

突然、父クジラが今までに倍して暴れ始めた。
激しくはね、漁師たちの小舟を次々と大きな尾びれでたたいた。
船はこわれ、漁師たちは海へ投げ出された。
もはやクジラ捕りどころではない。
みんな命からがら泳いで逃げた。

モリ傷を負った子クジラが、その後どうなったかだれも知らない。
そして“夢”を見た漁師が疲れ果てた体を引きずってわが家へ帰り着くと、その少し前に息子が息を引きとっていた。
ちょうど、モリが子クジラに突き刺さったころ高熱を出し、もがきながら死んだという。
(冨田義弘著「彦島の民話」から)


当時、沿岸捕鯨の漁民が最も喜んだ獲物は、子連れのセミクジラだった。
セミクジラは肉がうまく、油も多かった。
しかも子連れの場合、動きの鈍い子クジラを先に仕留めれば、母クジラは決してそのそばを離れず、たやすく二頭とれたからだという。

貧しい漁師が、うまく親クジラをとっていたら、まっ先に病弱な息子に薬を買い、医者を呼んだにちがいない。
クジラに通じる親の情がこの民話を生んだのだろうか。
全く同じ話が、かつて沿岸捕鯨で栄えた各地の浦にいまも伝えられているという。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より

Posted on 2017/04/15 Sat. 09:24 [edit]

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佛の瀬 

佛の瀬


 昭和の初めのころまで、小戸の身投げ岩から海士郷寄りのゆるい坂道をくだり切った浜辺に位牌の形をした岩が建っていました。
 この岩のことを彦島の人びとは、むかしから『ほとけ岩』と呼んで、いつも花を絶やさなかったといいます。

 むかし、壇ノ浦合戦のあと、平家の落人は、小門の王城山や彦島などに隠れ、平家の再興をはかっていました。
 しかし、やがてその望みも絶たれてしまいましたので、ある者は漁師となり、ある者は百姓になり、またある者は海賊に身をやつしてゆきました。

 その中に一人だけ、かつての栄華の夢が忘れられず、武人の誇りを守り通そうとする男が居ました。その武士は、百姓、漁師などに身を落としてゆく一門を見つめながら、日夜、悶々として生きていましたが、ついに自分の生きる道をはかなんで、小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。

 浦びとたちは、その武士の死をいたみ、大きな墓石を建てて、霊を慰めました。すると小瀬戸の急流に押されたのか、大小いくつもの岩石が墓石のまわりに寄せ集められて、いつのまにか大きな岩礁が出来ました。
 そこで誰いうことなく、墓石のことを『ほとけ岩』と呼び、その周囲の岩礁を『佛の瀬』と呼ぶようになりました。

 ところが、不思議なことが起こりはじめました。というのは、そこを通る漁船から、少しでも白いものが見えたりすると、急に潮流が渦巻いて荒れ狂うようになったのです。
 だから漁師たちは、船に赤い旗を立てて小瀬戸の海峡を航行するようになりました。

 今、船に色とりどりの旗と共に、大漁旗などを立てる風習は、この赤旗のなごりだそうです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/04/14 Fri. 09:28 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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