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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

七本足のタコ 

七本足のタコ


 西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。

 むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
 と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。

 四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。

 その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/04/24 Tue. 09:42 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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24

俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


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Posted on 2018/04/23 Mon. 10:21 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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23

辰岩伝説 

~辰岩伝説~


 老の山公園や第一高校へ上る途中の右手に真新しい市営住宅が建っていますが(林兼造船従業員アパート跡)、この東端の一段高いところに「辰岩」と呼ばれる岩があります。

 辰岩のあるこの森には800年以上も前、平家の落人が隠れ住んでいました。この男は平家再興の望みもむなしく、辰の年の3月24日に割腹自殺してしまったということです。それ以降毎月24日には、落人の隠れ住んでいた森から大きな竜が出てきて海峡に向かって大きな声でほえるので、この村の人たちは24日が来ることを非常におそれていました。

 ある年、偉いお坊さんがその話を聞いて竜を鎮めるために彦島にやってきました。そして森に入り、三日三晩お経を唱えて落人の魂を鎮めたところ、竜は現れなくなりました。村人は、平家落人の魂を弔うために供養塔を森の中に立てることにして、森に入ってみると、落人のすまいがあった場所にはどこから運んできたのか大きな岩がたてられていました。村人は不思議に思いましたが、きっとこれは落人の墓であろうと考え、その後、酒や花を供えて平家落人の供養を続けました。この頃から、この岩のことを「辰岩」と呼ぶようになったそうです。

 その後、いつの間にか、辰岩の下には平家の財宝が埋まっており、ここに住んでいた落人はそれを守っていたのだ、という噂が広まりました。その噂を聞きつけて、多くの欲深い男が夜中に辰岩にやってきてそれを掘り出そうとしました。しかし、財宝を掘ろうとした物は皆、気が狂って「竜が来た」「竜が来た」と叫ぶばかりでした。そう言うことが続いて、落人の命日に花を供える以外、誰も辰岩に近づかなくなりました。

 ある時、小倉の商人、嶋屋与八という人物が財宝の真偽を確かめようとやって来ました。与八は、これまでの盗掘者が、夜中に一人でやって来てこっそりと掘り出そうとしたから、竜の幻を見て気が狂ってしまったのだと考え、村人を辰岩のまわりに集め、大勢が見ている前で財宝を掘り出すことにしました。

 与八が大勢の村人の前で鍬を振り下ろした途端、鍬を持った両手を高々と振り上げ、大声を上げながら気が狂ったように辰岩のまわりを走り回り始めました。やがて、持っていた鍬が自分の頭に落ちて与八は死んでしまいました。村人は、与八の墓を建て、やがて、誰も辰岩のことを口にしなくなり、忘れ去られていきました。

 郷土史家富田義弘氏の「ひこしま昔ばなし」によると、戦前は辰岩の森には多くの五輪塔や地蔵尊が立っていたそうですが、現在は山の所々に、辰岩と同じ岩質の石が転がっている程度で特に何も見つけることが出来ません。また、同書には「与八と書かれた墓石などもあったが、戦後ほとんどなくなってしまった」と記載されていますが、与八の墓石は、現在辰岩のすぐ脇に立っています。


WEBサイト「日子の島」より転載

Posted on 2018/04/22 Sun. 16:50 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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22

眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/04/21 Sat. 09:31 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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21

与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/04/19 Thu. 09:21 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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19

消える血のり 

舟島怪談 消える血のり


 おらが心と巌流島は
  他に気がない待つばかり

 と、俗謡に唄わ すれるこの島が、『ほかに木がない、松ばかり』であったころは、まだ多くの松ノ木を青々と繁らせていました。

 ある年の、春浅い日のことです。近くの漁師が、舟島の沖合いで魚を釣っていると、
『オーイ』
 松林の中から呼び声が聞こえてきました。漁師は、あたりを見回しましたが、自分のほかには舟も人影もありません。しかし、呼び声は何度も繰り返されて聞こえてきます。
 漁師は不思議に思いながら、声のするほうへ舟を漕ぎ寄せ、舟島にあがってみました。
 すると一本の松の大木に、色白の若者が寄りかかるような形で死んでいました。よく見るとその額は、ぱっくりと割られています。
 驚いた漁師は、それでも気丈な男で、若者の死体を舟に乗せ、あわてふためいて浦に帰りました。ところが、さて死体をおろそうと菰を取ってみると、いつのまにか消えてしまったのか死体がありません。しかし、舟板にはベッタリ血のりがついていました。
 漁師は、舟が大波にゆられた時にでも、海に落としてしまったのだろうかと、いぶかりながら陸にあがり、仲間を集めて戻ってみますと、今度は、そこに付いていた血のりさえも、いつのまにか、かき消されてあとかたもありません。

 浦の漁師たちは、毎年、春が近くなると、必ず誰かがそんな経験をもっていましたので、
『ああ、また今年もか』
 と、恐れおののいて、その翌年からは、冬が去りはじめたころ、舟島からどんな呼び声が聞こえてきても、決して島に近づかなかったといわれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/04/18 Wed. 10:31 [edit]

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18

手取り鑵子 

手取り鑵子(てとりかんす)


 西山の海岸は、新生代第三紀層(約三千万年前)から成って居り、奇岩怪奇勝の連続ですが、あまり知られてはいません。
 青海島よりも、また、東尋坊よりも、そりゃ素晴らしい、と島の古老たちは自慢しています。

 その、西山の舞子島の近くに『手取りカンス』と呼ばれる怪崖の洞窟があります。多年の風化作用によって、穴の中にはいろいろな形をしたものがぶらさがっています。

 むかし、その中に、茶釜そっくりのものがぶらさがっていて、まるで金で作られたもののように、キラキラ光っていました。
 里びとたちは、これは神様が作って下さったものだ、と有り難がって日夜、参拝を欠かさず大切にしていましたが、ある日、小倉平松の漁師がこれを見つけました。
『この茶釜は見事だ。持って帰って家の宝にしよう』
 と、茶釜をもぎ取り、船に積んで帰りかけたところ、俄かに海が荒れて、漁師も急に腹痛をもよおし、ガマン出来なくなってしまいました。

 恐れおののいた漁師は、茶釜を海に投げ捨て、大急ぎで小倉へ帰りました。すると不思議なことに、嵐も腹痛もおさまったということです。

 このあたりでは、茶釜のことを『鑵子』とも言いますので、その後、この岩屋のことを、誰いうとなく『手取りカンス』と呼ぶようになったと言われています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/04/17 Tue. 09:42 [edit]

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金の弦 

金の弦(きんのつる)


 彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。

 むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。
 浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。
 ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。
 浦びとたちは、嘆き悲しんだが、
『わしらの信仰が足りなかったから』
 と、同じ場所に、もう一本の桂の木を植えて、以前にもまして、日夜おがんだ。

 あくる年の春、三日月がだんだん円くなりかけたある夜のことである。桂の苗木が金色に輝いているのを一人の浦びとが見つけて、みんなを呼び集めた。
 あの浜この村から多くの人びとが集まって来た時は、桂の苗木はぐんぐん大きく伸びはじめていた。
 あれよあれよと浦びとたちが驚きの声をあげている間に、桂は三日月のように半円を描きはじめ、やがて、スポンと音がして、根が抜けた。それから、そのままゆっくりと宙を舞い、浦びとたち一人一人の肩にそっとふれて、ゆっくりと空高く昇っていった。

 それからというもの、浦びとたちは三度び桂の木を植えないことを話し合い、岩山にしめ縄だけを張って『金の弓弦の岬』と呼び信仰をおこたらなかった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/04/16 Mon. 09:20 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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16

租借 

租借(そしゃく)


 むかし、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、四つの連合艦隊が、馬関海峡を襲うたことがある。
 その前の年、長州さまが、攘夷じゃ、攘夷じゃ、と外国船を砲撃したもんじゃけ、その報復で、やって来たんじゃ。
 元治元年(1864年)八月五日のことで艦隊は軍艦十六隻と、商船一隻、それが二手に分かれ壇ノ浦、前田と長府のお城山を目がけて砲撃した。
 そして、半日もせんうちに前田に上陸を果たして、長州さまは、さんざんな目に遭われてしもうた。
 その上、七日には、彦島を襲撃して弟子待と山床の二砲台を占領したけえ、もう攘夷も何もあつたもんじゃない。とうとう、「講和を結ぼう」ちゅうことになった。

 この時の正使が高杉さまで、家老、宍戸刑馬と変名して、いかにも藩の重臣ちゅうような格好で艦隊に乗り込んで行かれた。副使の渡辺内蔵太には小具足をつけさせ、高杉さまは陣羽織に立烏帽子という芝居がかったいでたちじゃったちゅうから面白い。
 日本人にとっちゃあ、有史以来はじめての敗け戦じゃったが、そんなことはおくびにも出さず、堂々と胸を張って和議に臨んだ高杉さまちゅうお人は、やっぱり天下の傑物と言えるじゃろう。

 さて、休戦の和議は、八日、十日、そして十四日と三回にわたり持たれたが、高杉さまは八日と十四日の二回に出席された。
 そして、四カ国の戦勝者に少しも臆せず、堂々とわたり合って五項目の条約に調印はしたが、賠償金三百万ドルを幕府に支払わせてしまう、ちゅうように、長州さまには一文も損失の無いよう話を進められたから、さすがじゃ。

 この時、イギリス提督クーパーが、さりげない口調で、こう切り出した。

「馬関海峡の西に浮かぶ彦島を租借したい」

 ところが、高杉さまをはじめ、伊藤公、井上公も、「租借」ちゅうのが、何のことやら解らん。そこで、いろいろ質問してみると、彦島を占領する意図のようでもあり、また、無償で貸してほしいちゅうようでもあるので、高杉さまが、真っ赤になって怒った。

「なにっ、租借だと。怪しからん。実に怪しからん。日本の国を何と心得て居る」

 艦内に鳴り響く高杉さまの大音声にクーパー提督は青い目をクリクリ動かしたが、そんな表情には見むきもせんで、つづけて、

「彦島は毛利藩領とはなっているが、大名の領土というものは、天子の土地をお預かりしているだけで、勝手に処置することなど出来よう筈がない。それを、貸せとか、分譲せよとか実に怪しからん」

 と怒鳴り散らし、揚げ句の果てには日本の生い立ちについて、とうとうと述べたちゅうことじゃ。

「そもそも我が日本の国は高天原朝廷七代にまします国常立命にはじまり…」

 タカマガハラ、クニトコタチノミコト、イザナギ、イザナミの二柱、アメノウキハシ、アメノサカホコ…、こんなむつかしい神々の名前が次から次へと出て来るもんじゃけえ通訳の伊藤公とアーネスト・サトウが面食ろうてしまわれた。
 そこでイギリスのクーパー提督も苦笑いして、租借の件は取り下げたんじゃが、もしあの時、高杉さまが正使でなかったら、彦島は香港の対岸にある九竜市のように、イギリスの植民地にされてしもうたことじゃろう。

 何しろ高杉さまは、その前に上海に渡ってイギリス人の横暴振りを見ており、アヘンを売り込んで戦費を作り、香港、広東、上海、南京と侵略して行った常套手段も心得ちょったので、租借、と聞いただけで、怒り心頭に発したことじゃったろう。

 考えても見い。

 この海峡のど真ん中に、九十九年間もの永い間、イギリスの植民地が生まれちょったら、今の日本は有り得んじゃろう。
 高杉さまの大勇断は、彦島だけじゃあのうて、日本にとっても大恩人ちゅうことが出来るいゃのう。

 ほんに、えんにょうごっぽう有りがたいお人じゃ、高杉さまは。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2018/04/15 Sun. 10:10 [edit]

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俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


Posted on 2018/04/14 Sat. 10:31 [edit]

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小平家(こべけ) 

小平家(こべけ)


 壇ノ浦の合戦で命からがら逃げのびた平家の官女たちは、彦島や伊崎などに秘かにかくれて住んでいた。

 やがて源氏の追っ手の者も数少なくなり、梅雨が過ぎ、夏が本格的な暑さとなったある日、官女の一人がそっと浜辺に出てみると。何百、何千という蟹の大群が浜辺を這い回っていた。
 女は驚いて、みんなを呼び集めたが、ゾロゾロと出て来た女たちは、それぞれに蟹を掌に乗せてみて、一斉に叫び声をあげた。

「まあ、驚いた。この蟹には、人間のような顔がある。しかも、恨めしそうに涙まで流して…」

 そのおびただしい蟹の大群は、どれを取っても、甲羅には人の顔、それも武士を思わせるようなりりしい顔がはっきりと浮き出て、目と思われるあたりからはボロボロと涙のような雫が落ちていた。

「本当に、どうしたことでしょう。この蟹たち、みな泣いているようネ。それにしても、この怒ったような、悲しいような顔、なんだか、こわいみたい」

 女たちが口々にそんなことを言っていると、掌の一匹の蟹が、小さな声で、それでもはっきりと人間の言葉で話しはじめた。

「我々は、本当は蟹ではない。ついこの間まで、お前たちと苦楽を共にして来た平家の一門だ。あの日、壇ノ浦で、天皇様のお供をして海へ飛び込んだが、どうにもくやしゅうてならん。我々を滅ぼした源氏が憎うて、このままでは到底、成仏できん。それで今は、蟹に身を変えて鎌倉打倒の機会を待っているのだ」

 それを聞いた女たちは一斉にシクシク泣き出した。

「知らないこととは言いながら、ほんに、おいたわしいこと。それに引きかえ、私たちは、こうして彦島に隠れ住んでいますが、毎日をひっそり生きてるだけで、本当に申し訳ないことです」
「そうです。これから私たちも、源氏を倒すために、何かお役に立つことを考えましょうよ」

 その時、一人の女がこう言った。

「私たちは、蟹ではなく、魚になりましょう。そうだ、魚の王様、鯛になりましょう。そして生きている人びとに食べられることによって、私たちの怨念を人間に乗り移らせるのです」
「そうよ、私たちのような可弱い女には、源氏を滅ぼす良い方法といえば、それしかありませんね」

 女たちはまたたくまに同意して、多くの蟹たちが心配げに見上げる中を、次々に海に入っていった。彦島と下関の間の小門海峡は、その頃、日本一流れが速かったから、女たちはみるみるうちに流されて沈んでしまった。


 それから何か月かたって、この海峡では、今まで全く見られなかった小さな美しい鯛が群をなして泳ぎはじめた。

「これは平家の官女たちの化身だ。恐れおおいが、これをたらふく食べて、一日も早く源氏が滅びるように祈ろうじゃないか」
「そうだ、これは平家の… いうなれば小さな平家、つまり小平家の怨念がこもっている。その恨みつらみを、ワシらが代わって晴らしてやろう」

 彦島の漁師たちは、その小鯛を釣りあげて口々にこういった。そして、それからというもの、彦島や下関では、小鯛を小平家(こべいけ)と呼び、塩焼きののち酢漬けにして、しこたま食べる習慣が出来た。
 しかし、平家を食べるということは良心が許さず、小平家(こべいけ)のことを小平家(こべけ)と詰めて呼ぶようになったが、それでもなお気がとがめたのか、いつの頃からかコマコダイとも呼ぶようになった。


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Posted on 2018/04/13 Fri. 10:24 [edit]

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身投げ石 

身投げ石


 海士郷桟橋の裏手の丘は、小戸山と呼ばれています。その北側の中腹、小瀬戸海峡に突き出たあたりに、大きな岩が海面からそそり立っています。
 それが伝説で名高い『身投げ石』で、岩の上には幾つもの五輪塔やお地蔵様がまつられています。
 むかし、壇ノ浦の合戦のあと、平家の一武将の妻が海峡の潮に流されて、小戸の浜に打ち上げられました。
 不思議に一命をとりとめた妻は、御裳川の藻屑と消えた夫を慕って毎日、小戸の岩にのぼり、武将の名を呼び叫んでは泣きつづけました。
 再び戻って来る事の無い夫を呼ぶその姿に、浦びとも、つい貰い泣きする始末でした。
 ある風の吹きすさぶ夕暮れのこと、女は、狂乱したように大岩にかけのぼって、東を伏し拝みました。そして、大声に何かを叫んだかと思うと、そのまま渦巻く小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。
 浦びとは、女の死を悲しみ、岩のそばに小さな祠を建てて供養しました。
 その後、誰いうとなく、大岩のことを『身投げ石』と呼ぶようになったということです。



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Posted on 2018/04/12 Thu. 10:04 [edit]

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船台場 

船台場


 幕末の長州さまは、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国を相手に戦争するだけでは納まらず、幕府にも四方八方を囲まれて戦わにゃあならんかった。
 幕府による第二次長州征伐を、ワシら長州人は『四境戦争』と呼ぶが、これは、芸州口、石州口、大島口、小倉口などの敵を相手にしなけれゃあならん大変な戦じゃった。
 その中で、小倉口ちゅうのは、九州勢を向こうに回し、約七ヶ月もの間、激戦をつづけた小倉戦争のことじゃ。

 この戦の前に、小倉藩では、
『長州は、下関沿岸の守護に重きを置いてはいるが、対岸の彦島は全く無防備に等しい。従って、この際、こちらから奇襲を以って彦島の西海岸を攻めては如何』
 と、提案した人も居ったが、幕府の老中に軽くいなされてしもうた。あの時、その献策通りに九州勢が彦島を攻略していたら、恐らく長州さまの勝ち目は無うて、明治維新もまた違うたものになったじゃろう。


 さて、本題に入ろう。

 慶応二年(1866年)六月二十九日、幕府の軍艦富士山丸が小倉の長州沖にイカリをおろした。この軍艦は二本マストで、黒塗りの全長八十メートルもある新鋭の鋼鉄船ということで、どひょうしもない大きい。それに百四十ポンドの巨砲を据えて居ったから、長州さまの軍艦なんか、まるでオモチャのようなものだ。

『あの小舟は、目障りでならん。あれをやっつけろ』
 高杉さまの一声で、富士山丸攻撃の準備が始まった。さしもの大精鋭艦も、高杉さまの眼から見りゃあ、小舟にしか映らんかったらしい。

 さて、七月二日の夜、長府の御舟手組から六人の決死隊員が選ばれた。
 浜崎林槌、梅本幹志、平賀銀槌、大庭伝九郎、磯部新三、大隅伊兵衛という面々で、この六人が、二人ずつ三隻の上荷船に分乗することになった。一人は舵を取り、一人は二貫筒の砲を受け持ち、富士山丸を至近距離から撃とうという計画で、下手をすりゃあ自分たちの命も吹っ飛んでしまう。

 小筒ながら、一応、砲を積んだ船という意味で、これを『船台場』と呼んだが、三隻はその夜のうちに西山南風泊ちかくの瀬戸の浜に集結した。いわゆる潮待ちじゃ。
 そして三日午前一時過ぎ、三隻の船台場は瀬戸の浜を出て幕艦にそうっと近づいた。

 富士山丸は標識ランプを一つだけ吊るして、そのまわりには、同じ幕府の軍艦、順道丸、回天丸、長崎丸なども停泊している。
『おーい、その船、とまれえ。この夜更けにどこへ行くのかあ』
『ワシらぁ、彦島の者じゃが、これから若松まで、石炭を積みに行きますだあ』
 と答えると、相手は安心したのか、それ以上、とがめようとはせんじゃった。

 船台場は一列に並び、そのまますーっと幕艦群に近づいて、総指揮をとっていた浜崎林槌が二貫筒を富士山丸の機関めがけてぶっ放した。
 つづく二番手、三番手も、それぞれ機関を目標に撃ち込み、次々に海に飛び込んだ。そして、前日から言いつけてその付近で漁をさせていた伝馬船に泳ぎ着き、彦島に戻ってきた。
 その時、砲一門を載せた船は沈んでしもうたが、あとの二隻は引き潮に流されておったのを、彦島の漁師が見つけて引っ張って帰ったという。

 この船台場の轟音を合図に、対岸の田ノ首山床砲台が富士山丸を砲撃しはじめた。すると、それに呼応して弟子待砲台も、どんどんばりばり撃ち始めたもんじゃから、傷ついた幕艦は慌てて小倉寄りに退いた。
 田ノ首と弟子待にゃあ、二十インチの臼砲や十五インチ長身惣砲などが仰山あり、この勇ましい音をきっかけに、長州さまの大里攻めが始まった。


 こうして、七ヶ月にわたる小倉戦争の火ぶたが切られた訳じゃが、その死を覚悟した勇敢な船台場の奇襲は、幕府や九州を震撼させるに、大いに役立ったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/04/11 Wed. 10:31 [edit]

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金の弦(きんのつる) 

金の弦(きんのつる)


 彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。

 むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。
 浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。
 ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。
 浦びとたちは、嘆き悲しんだが、
『わしらの信仰が足りなかったから』
 と、同じ場所に、もう一本の桂の木を植えて、以前にもまして、日夜おがんだ。

 あくる年の春、三日月がだんだん円くなりかけたある夜のことである。桂の苗木が金色に輝いているのを一人の浦びとが見つけて、みんなを呼び集めた。
 あの浜この村から多くの人びとが集まって来た時は、桂の苗木はぐんぐん大きく伸びはじめていた。
 あれよあれよと浦びとたちが驚きの声をあげている間に、桂は三日月のように半円を描きはじめ、やがて、スポンと音がして、根が抜けた。それから、そのままゆっくりと宙を舞い、浦びとたち一人一人の肩にそっとふれて、ゆっくりと空高く昇っていった。

 それからというもの、浦びとたちは三度び桂の木を植えないことを話し合い、岩山にしめ縄だけを張って『金の弓弦の岬』と呼び信仰をおこたらなかった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/04/10 Tue. 09:30 [edit]

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羽根石 

羽根石


 現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。

 弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。

 むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
 そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
 船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。

 それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
 そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/04/09 Mon. 10:09 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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