彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
与次兵衛瀬
与次兵衛瀬
むかし、彦島の沖には、暗礁がたくさんあって、ここを通る船はたいてい岩に乗り上げ、沈没しました。
だから船頭たちは、死の瀬といって寄り付かず、よほどの腕のたつ船頭でも、ここを通った後は、神経を使いすぎてグッタリとなったほどでした。
明石与次兵衛は腕のいい船頭でした。
そのころ、天下を治めていたのは、豊臣秀吉で、朝鮮との戦のため、佐賀の名護屋城にいましたが、文禄元年、秀吉の母親が急病という知らせが届き、小倉から日本丸という船に乗り、急ぎ大阪城へ帰ることになりました。
そのとき日本丸の船頭が与次兵衛だったのです。
与次兵衛の胸の中には、ひとつの計画がどす暗く渦巻いておりました。
というのは、与次兵衛の兄、黒崎団右衛門が、以前秀吉の中国地方の戦いの際、毛利家から離れて、秀吉の味方になり勝利へ導いた功労者であったのに、何のほうびももらえず、反対に殺されてしまいました。
その兄の恨みを、いつか自分がはらそうと機会を狙っていたのです。
しかし、秀吉のそばには、いつも力の強そうな家来たちが護衛していて、近づくこともできないありさまです。
いよいよ秀吉が船に乗り込んで小倉を出発する日、与次兵衛は、
「今日という日を逃しては、二度と秀吉を討つ機会はない。彦島の沖合いのあの死の瀬に船を乗り上げ、溺れ死にさせてやろう」
こう密かに胸の中で考えました。
ちょうどその日は、天気は悪く、海峡には白波が立っていましたから、疑われる心配もありません。
もし計画が失敗したも、荒波のため舵をとりそこなったと言えば許してくれるかもしれません。
船は碇をあげて出航しました。
与次兵衛の額からは、じっとり汗がにじみ流れてきました。
そして、いよいよ死の瀬に近づいてきたとき、与次兵衛は、思い切り舵を左にきりました。
日本丸は、荒波を斜めに突き進み、ぐんぐん死の瀬に近づくと、突然“ガガッ、ガガッ、ググッ”と不気味な音がして、船は岩に乗り上げ、見る間に船底が裂け、水がドッと入ってきました。
「あ、何事だ」
「静まれ」
「大変だ」
と、船の上は大騒ぎです。
船は横波を受け、今にも沈みそうです。
家来たちは、一生懸命になって、秀吉公を守ろうと、泳ぎの上手な武士を集め、万が一船が沈没したときは、その肩にでもお乗せして、泳ぐよう申し渡しました。
しかし、幸いなことに、日本丸は岩に乗り上げただけで、沈没はまぬがれ、秀吉はやっとのことで助け出されました。
その後、与次兵衛は、取調べの役人に、舵がきかなかったからと、いろいろ説明しましたが、聞き届けられず、門司大里の浜で打ち首になりました。
それから、この死の瀬のことを、だれいうとなく与次兵衛瀬と呼ぶようになりました。
(注)
この与次兵衛瀬に、与次兵衛碑がたっていましたが、明治43年からはじまった関門海峡第一期工事で瀬を砕き、海峡の障害物を除きました。
そのとき碑は、彦島に持って行き、その後第四港湾の建物内に引越しましたが、昭和29年門司側が引き取り、今は、めかり公園にあります。
『下関の民話』下関教育委員会編
追記
現在は、下関市のアルカポート内の赤間神宮側に、その碑はあります。
むかし、彦島の沖には、暗礁がたくさんあって、ここを通る船はたいてい岩に乗り上げ、沈没しました。
だから船頭たちは、死の瀬といって寄り付かず、よほどの腕のたつ船頭でも、ここを通った後は、神経を使いすぎてグッタリとなったほどでした。
明石与次兵衛は腕のいい船頭でした。
そのころ、天下を治めていたのは、豊臣秀吉で、朝鮮との戦のため、佐賀の名護屋城にいましたが、文禄元年、秀吉の母親が急病という知らせが届き、小倉から日本丸という船に乗り、急ぎ大阪城へ帰ることになりました。
そのとき日本丸の船頭が与次兵衛だったのです。
与次兵衛の胸の中には、ひとつの計画がどす暗く渦巻いておりました。
というのは、与次兵衛の兄、黒崎団右衛門が、以前秀吉の中国地方の戦いの際、毛利家から離れて、秀吉の味方になり勝利へ導いた功労者であったのに、何のほうびももらえず、反対に殺されてしまいました。
その兄の恨みを、いつか自分がはらそうと機会を狙っていたのです。
しかし、秀吉のそばには、いつも力の強そうな家来たちが護衛していて、近づくこともできないありさまです。
いよいよ秀吉が船に乗り込んで小倉を出発する日、与次兵衛は、
「今日という日を逃しては、二度と秀吉を討つ機会はない。彦島の沖合いのあの死の瀬に船を乗り上げ、溺れ死にさせてやろう」
こう密かに胸の中で考えました。
ちょうどその日は、天気は悪く、海峡には白波が立っていましたから、疑われる心配もありません。
もし計画が失敗したも、荒波のため舵をとりそこなったと言えば許してくれるかもしれません。
船は碇をあげて出航しました。
与次兵衛の額からは、じっとり汗がにじみ流れてきました。
そして、いよいよ死の瀬に近づいてきたとき、与次兵衛は、思い切り舵を左にきりました。
日本丸は、荒波を斜めに突き進み、ぐんぐん死の瀬に近づくと、突然“ガガッ、ガガッ、ググッ”と不気味な音がして、船は岩に乗り上げ、見る間に船底が裂け、水がドッと入ってきました。
「あ、何事だ」
「静まれ」
「大変だ」
と、船の上は大騒ぎです。
船は横波を受け、今にも沈みそうです。
家来たちは、一生懸命になって、秀吉公を守ろうと、泳ぎの上手な武士を集め、万が一船が沈没したときは、その肩にでもお乗せして、泳ぐよう申し渡しました。
しかし、幸いなことに、日本丸は岩に乗り上げただけで、沈没はまぬがれ、秀吉はやっとのことで助け出されました。
その後、与次兵衛は、取調べの役人に、舵がきかなかったからと、いろいろ説明しましたが、聞き届けられず、門司大里の浜で打ち首になりました。
それから、この死の瀬のことを、だれいうとなく与次兵衛瀬と呼ぶようになりました。
(注)
この与次兵衛瀬に、与次兵衛碑がたっていましたが、明治43年からはじまった関門海峡第一期工事で瀬を砕き、海峡の障害物を除きました。
そのとき碑は、彦島に持って行き、その後第四港湾の建物内に引越しましたが、昭和29年門司側が引き取り、今は、めかり公園にあります。
『下関の民話』下関教育委員会編
追記
現在は、下関市のアルカポート内の赤間神宮側に、その碑はあります。
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テトリガンスの二つのつぼ
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