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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、いろいろな説がある。例えば『打ち首』に対して、『何のおとがめも無かったが、門司の浜で自分から切腹して果てた』というのもその一つである。
その後、寛文十年(1670年)彦島の人びとが浄財を集めて『死の瀬』に石塔を建て、『与次兵衛ヶ瀬』と名付けたという。
旧記によれば、植田惣市という人が建てたことになっているが、これが寛文十年の石塔であるかどうかは解らない。しかし、この石塔は、海峡を航行する船舶から非常に重宝がられ、いつの頃からか、通航料を置いていく船も出はじめた。
ところがこの碑も、明治四十三年、関門航路修築の際に取り除かれ、その後、大正三年以来、彦島弟子待に放置されたままであったが、いつのまにか下関唐戸桟橋近くの岸壁に移され、それからまた第四港湾建設局の構内に保管されることになった。保管といっても、いつ見てもゴロンと横にころがったままであったが、昭和二十九年、門司側が引き取って、さっさと、めかり公園に建ててしまった。

Posted on 2020/01/18 Sat. 09:29 [edit]

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18

小瀬戸の海ぼうず 

小瀬戸の海ぼうず


 関門海峡は、むかし二つに分かれておって、それぞれ、大瀬戸、小瀬戸と呼ばれたものじゃ。

 そのころ、小瀬戸の潮のながれは日本一はやかった。だが、どんなに早ようても、一日に何回かは、かならず流れが止まる。そのときを見はかろうて、漁師たちは舟をだした。


 ある、霧のふかい朝のこと。
 小瀬戸に近い浜辺の漁師が舟をだそうとすると、波うちぎわに大入道がすわっておった。
『うわあっ』
 漁師はびっくりして、ころげるように逃げかえった。そして、家の戸をぴたっと閉めて、しばらくがたがたとふるえておったが、おちついて考えてみると、大入道のようすが、どっかおかしかったことに気がついた。なんだか、もがき苦しんでおったようにも思える。
『もしも病気なら、よもや食いつきはすまい』

 漁師は、ひとりごとを言いながら浜辺にとってかえし、こわごわと大入道をのぞきこんだ。
『いったい、どうしたんじゃ。どこか、気分でもわるいんか』
『うん。頭のうしろに、なにやら刺さっちょるらしい。ゆんべから、痛うてやれん。すまんが、抜いてくれんか』
 大入道の声は、思うたよりも、ずっとずっとやさしかった。
『おまえさんがあんまり大きゅうて、わしにはなんも見えんが、背中にのぼってもええかいの』
『うん、ええけ』

 漁師が、おそるおそる大入道の背中によじのぼってみると、もり(さかなをつきさす鉄製の道具)が、頭に突き刺さっておった。
『これじゃあ、痛いはずじゃ。誰ぞの流したもりが、刺さったんじゃろう』
 力を込めて引き抜いてやると、大入道は、
『うーん』
とひと声うなって、気絶してしもうた。漁師は大急ぎで家にかえり、いろんな薬をもってきて、頭の手あてをしてやったんじゃと。

 しばらくたって大入道は、ようやく気がついた。そして、うれしそうに顔をあげて、ゆっくりと、こう言うた。
『わしは、この小瀬戸に住む海ぼうずで、むかしから、潮の流れを止める役目をつとめちょるが、傷がなおるまでは、それもできんじゃろう。ほいやけ、きょうから四、五日のあいだは、だれも舟を出さんよう、浜の衆に伝えてくれ』
 言いおわると大入道は、すうっと海に消えてしもうた。

 漁師は家にかえって、村の衆にそのことを伝えたが、誰も信じるものはなかった。それどころか、
『なにを寝ぼけたことを言いよる。潮は、むかしから、決まった時間にとまることになっちょるわい。それ、もうすぐ、その潮どきじゃ』
 と言うて、次々に舟をだして、漁にでかけたそうな。

 ところが、いつもの時間になっても、きょうに限って潮の流れは、いっこうに止まらん。どの舟も、どの舟も、日本一はやい小瀬戸の潮の流れに巻きこまれて、またたくまに海に沈んでしもうた。
 四、五日たつと、大入道の傷がなおったとみえて、いつものように、潮が止まりはじめた。だが浜の人たちは、
『舟が沈んだのは海ぼうずのせいじゃ。こんなおそろしいとこには居れん』
 と言うて、よその土地へ逃げていった。

 たったひとり残された漁師は、ときどき浜辺に遊びにくる大入道を話し相手にして、いつまでも、楽しく暮らしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
私が小学生の頃までは、彦島の老婆たちは『海士郷の海で泳いだら、海坊主に食われる』と、よく言ったものである。
これによく似た『海ヘビ』の話も残されているが、いずれも小瀬戸の急流で遊ぶことを戒めたものであろうか。
ともあれ、この話は、一度、海坊主とやらに会ってみたいと思わせる楽しい物語ではある。
この話について岩国短期大学学長・松岡利夫氏は『山口県の民話』(偕成社刊)で、『海ぼうずは海上にあらわれるという妖怪の一つです。北浦の漁師の間で話されており、海入道とも言っています。そして、海ぼうずが出てもなるべく見ないように、またものを言わないように、ものを言うとたちまち舟をひっくり返されてしまうと言われています。ところが、この本では海ぼうずが漁師に助けられるというふうで、全国的に見ても珍しい話です』と解説しておられる。

Posted on 2020/01/17 Fri. 11:05 [edit]

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17

明神さん 

明神さん


 西山波高バス停の海寄りに『明神さん』と呼ばれる小さな祠が建っている。背後に大きな石を置き、何本かの老松が海風にゆれているが、明神さんのいわれについてはあまり知られていないようだ。


 むかし、伊予の商人が、風待ちで入港した南風泊の宿で、明神さんを信仰すればどんな願いごとでも叶う、という噂を聞いて、むしょうに欲しくなり、ある夜そっと明神さんを盗み出して小舟で海峡を渡り、門司の鼻にかくして、何食わぬ顔で宿に戻った。
翌朝、ようやく波風も静まったので、船は南風泊を出帆したが、門司の沖にさしかかった時、商人はふと思い出したように、
『そうじゃ。門司に嫁いじょるワシの妹は永いこと患ろうちょるらしい。一晩見舞うてからすぐあとを追うけえここで下船させてくれや』
 と言って船を下りた。そして門司に渡り、前夜ひそかに隠しておいた明神を取り出そうとしたところ、急に頭が割れるように痛くなり、おまけに、腹痛まで起こす始末。
『これは、おかしい』と、その夜は門司の宿に泊り、翌日、回復したので再び取りに行くと、また腹痛、頭痛が同時に襲ってきた。
 商人は驚いて『これは明神さんのたたりじゃろうかい』と大慌てで、御神体を海に放り投げ、痛む腹と頭をかかえながら小舟で周防灘へ漕ぎ出した。だが、何町も進まないうちに発狂して、近くの岩礁にぶつかって死んでしまった。

 だから、門司の鼻のことを、今でも明神の鼻と呼び、その沖には明神の瀬もあるという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
『明神』さんの祭礼は古くは十月二十四、五日の二日間であったが、現在は十月十五日に変わっている。
彦島八幡宮の祭礼が、甘酒を供えて『濁酒(どぶ)まつり』と呼ぶのに対して、『明神さん』は、『あめ湯』を作って供え、部落中にふるまうことから『あめ湯まつり』と呼ばれているようだ。

Posted on 2020/01/16 Thu. 11:31 [edit]

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16

六人武者 

六人武者


源平合戦で敗れたのち、平家再興を願っていました中島四郎太夫正則の子と、その家来は、小門王城山に隠れていましたが、その希望も消え、ついに海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、ここを占領してしまいました。
その時上陸したところを今でも“六人武者の江良”と呼び、この島を“鬼が島”ともいいました。

六人武者の海賊は次第に力を持ち、近くの土地や舟を襲うようになりました。
そこでとうとう攻め撃つことになり、九州豊前から兵百五十人、船六十三隻が福浦の江良に上陸しました。
福浦に“六十三隻江良”という地名が残っていますが、これはその時、船が着いたところをいいます。
また南風泊の“きかんが藻”という地名は、戦が始まる前、六人武者の様子を調べに来た豊前の兵が、一隻の漁船に、
「竹ノ子島に海賊はいるか」
と、たずねたところ、その漁師は後の祟りが恐ろしいので、何をたずねられても“聞かぬ、聞かぬ”というふうに首を振って答えなかったところからつけられたといわれます。

さて、いよいよ竹ノ子島の戦となりました。
百五十人対六人でしたが、六人の武者は、いろいろな戦法で敵を引っ掻き回し、さんざん懲らしめ、豊前側の死傷者はみるまに増えていきました。
“鶴の江良”“仁蔵の江良”という地名は、その時六人武者から殺された、鶴五郎、仁蔵の死んだ場所といわれます。
こうして総崩れした敵兵は、あわてふためいて田の首の岬まで逃れ、ようやく豊前方の助け舟に乗り、九州に逃げ帰りました。

六人武者は、これ以上追い討ちはしませんでしたが、この戦で勇敢に戦って死んだ、鶴五郎、仁蔵の首をこの地に埋め、手厚く供養しました。
“田の首”の地名はそこからきているといわれます。

その後、六人武者は、ひとまず王城山に引きあげましたが、今度の戦で、平家残党ということが知れたため、必ず大きな逆襲のあることを予想し、五人の家来は、それぞれ姿を変えて、遠くの地へ別れ別れに離れていき、四郎太夫の子だけが、この地に残り、のちついに漁師となって一生を送ったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2020/01/15 Wed. 09:25 [edit]

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15

手取りガンス 

手取りガンス


 小倉長浜の商人二人が船に荷を積んで下関へ向かうとき、ちょうどテトリガンスの沖合いにさしかかったところ、岸辺に何かキラキラ光るものがありました。二人の商人は、さっそく船をその岸に着けて調べてみますと、二つの大きなつぼがテトリガンスの中にありました。あけて見ると目もまばゆいほどの金銀財宝が入っていました。
 驚いた二人は、そこで話し合いをし、一応財宝をここにうまく隠しておき、下関で商売が終わったあと、取りに戻り、持ち帰って山分けにすることにしました。

 そして二人は、また船に乗りましたが、彦島西山を回って小門に入ったところで、どうしたことか、一人が急に頭が痛くなったので、陸にあげてくれと言い出し、仕方なく、もう一人の商人は病気の商人を彦島側に上陸させ、急いで唐戸に向かいました。

 しかし、船の中でふと考えて、
『うん、あいつの頭痛は、きっと仮病に違いない。わしをだまして先回りし、あのつぼの財宝を取りにいったのだ。いけない』
 さっそく船をもとに戻し、あとを追いかけ、テトリガンスに急ぎました。

 そして財宝のあったところへ来てみますと、思ったとおり、つぼの一つは、蓋があいており、その中は瓦ばかりが詰めてありました。と、そのそばを見ると、あの先回りした商人が死んでいるではありませんか。次第に、あとから来た商人も恐ろしくなりましたが、もう一つのつぼに何が入っているのか、見たくてたまりません。
 こわごわと、つぼの蓋を取り、中をのぞいてみると、これも瓦や石ばかりです。
 あまりのことに、商人は発狂してしまい、海の中に飛び込んで死んでしまいました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2020/01/14 Tue. 11:09 [edit]

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14

辰岩(たついわ) 

辰岩(たついわ)


 本村小学校の裏山に小さな森があります。その中に伝説の『辰岩』があるということはあまり知られていません。

 ずいぶんむかしの話です。

 この森に平家の落人がかくれ住んでいました。彼は、いつかはきっと昔のような平家全盛の時代がやってくると信じ、住まいの近くに麻を植えたりして細々と暮らしていました。
 しかし、そんな日は再びやってくる筈もなく、いつのまにか年老いてしまい、辰の年の三月二十四日、落人は森の中で腹かききって死んでしまいました。
 それからというもの、毎月二十四日になると、その森から大きな龍が出ては海峡をにらみつけ、大声に吠えたてましたので、島びとたちはその日が来るのをとても恐れていました。

 ある年の春、偉いお坊さんが、その話を聞いて、彦島を訪ねて来ました。そして、たった一人で森に入って行き、三日三晩お経をあげましたところ、その翌月から龍は出なくなりました。
 島びとたちは安心するとともに、『あの龍は、落人の怨霊であったのか』と、みんなで供養塔を建てようと話し合って、久し振りに森に入ってみました。
 すると、落人の住まいのあった場所に、どこから運んだのか、大きな自然石が建てられていました。それは、人間の力ではどうしても動かせないほどの大岩で、しかも、これを運ぶのを見た人は誰も居ません。
 島びとたちは不思議でなりませんでしたが、結局、これは落人の墓だろう、ということで、そこに花を供えて帰りました。

 そのうち、大岩のことを誰いうとなく『辰岩』と呼ぶようになりました。

 ある年のこと、
『辰岩の下には、平家の財宝が埋められていて、落人はそれを守っていたらしい』
 というまことしやかな噂が、ひそかに流れました。
 それを聞いたある欲の深い男が、秋の夜更けにそっと森に入って辰岩の下を掘りはじめました。ところが不思議なことに、鍬を振り下ろしたとたん、男は発狂してしまいました。
 その後、伊崎からも財宝の噂を聞いてやってきた男が居ましたが、やはり同じように気が狂って、
『龍がにらんだ、龍がにらんだ』と、つぶやくようになりました。
 そんなことが何度もあって、島びとたちは落人の命日に花を供える以外、誰もその森に近づかなくなりました。

 何年かたちました。

 ある日のこと、小倉の与八という商人がやって来て、森の前に島びとを集めました。そして与八は、こう言いました。
『わしゃあ、辰岩の宝物が本当か嘘かを確かめるために、わざわざ小倉からやって来たんや。今までは、どいつもこいつも、夜の夜中に内緒でそろっと掘ったけぇ気が狂うたんやと、わしは思う。そいで、わしゃあ、みんなの見ちょる前で堂々と掘るけぇ、立ち会うてくれいや』
 島びとたちは、恐る恐る与八のあとにつづいて森に入って行きました。

 与八は、多くの人びとの見守る中で、辰岩の根に、ガシッと、鍬を打ちおろしました。
 そのとたん、与八は、
『アーッ』
 と悲鳴をあげました。そして驚いたことに与八は両手を高くあげ、頭をふりふり辰岩のまわりを走りはじめました。島びとたちはどうすることも出来ず、ただ、あれよ、あれよ、と眺めているばかりでした。
 そのうち、持ち上げていた鍬が頭に落ちて、与八は死んでしまいました。

 島びとたちは、辰岩のそばに小さな墓を建て、与八の霊を慰めると共に、それ以来というもの、辰岩に近づくことも、また、その話をすることさえも避けるようになったということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
石ヶ原の森に『辰岩』と呼ばれる大岩は、今も建っている。
何年か前、隣接地に林兼造船アパートが新築された際、施工の大林組は、この岩を取り除こうとしたが、辰岩伝説を聞き、西側の一面をセメントで固定するだけで、その後、工事が終わるまで触れようともしなかった。
時代の先端を行く国際的企業も、こんな話には弱いようだ。
なお、戦前、辰岩の森には五輪塔や大小の地蔵尊が幾つも建っていて、その中に『与八』と書かれた墓標も見られたが、戦後、ほとんどなくなってしまった。

Posted on 2020/01/13 Mon. 10:55 [edit]

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13

関門トンネルと惣の話 

関門トンネルと惣の話


 彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
 なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。


 明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
 そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』

 明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
 トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。

 ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
 と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。

 トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…


 そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。

 やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
 その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
 と、旗を振ったものじゃ。

 ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
 惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
 ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
 と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。


 また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
 そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
 行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
 と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。

 座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』


 戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。

 いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
偕成社版の『山口県の民話』に、日本民俗学会の松岡利夫氏は、『関門トンネルが掘られる当時から、トンネルより橋をと考える人びとが下関の一部にはいたのでしょう。そうした気持ちがたまたま「惣」という男をかりて世間話としてひろがっていったものかと思われます』と解説されている。
下関でもあまり知られていないこの話について『岩国市で聞いたことがあります』と、日本子どもの本研究会の稲生慧氏に聞き、この種の話の広がりを知って驚いたことがある。

Posted on 2020/01/12 Sun. 11:17 [edit]

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手取り鑵子(てとりかんす) 

手取り鑵子(てとりかんす)


 西山の海岸は、新生代第三紀層(約三千万年前)から成って居り、奇岩怪奇勝の連続ですが、あまり知られてはいません。
 青海島よりも、また、東尋坊よりも、そりゃ素晴らしい、と島の古老たちは自慢しています。

 その、西山の舞子島の近くに『手取りカンス』と呼ばれる怪崖の洞窟があります。多年の風化作用によって、穴の中にはいろいろな形をしたものがぶらさがっています。

 むかし、その中に、茶釜そっくりのものがぶらさがっていて、まるで金で作られたもののように、キラキラ光っていました。
 里びとたちは、これは神様が作って下さったものだ、と有り難がって日夜、参拝を欠かさず大切にしていましたが、ある日、小倉平松の漁師がこれを見つけました。
『この茶釜は見事だ。持って帰って家の宝にしよう』
 と、茶釜をもぎ取り、船に積んで帰りかけたところ、俄かに海が荒れて、漁師も急に腹痛をもよおし、ガマン出来なくなってしまいました。

 恐れおののいた漁師は、茶釜を海に投げ捨て、大急ぎで小倉へ帰りました。すると不思議なことに、嵐も腹痛もおさまったということです。

 このあたりでは、茶釜のことを『鑵子』とも言いますので、その後、この岩屋のことを、誰いうとなく『手取りカンス』と呼ぶようになったと言われています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『馬関太平記』では、小倉の長浜の漁師、となって居り、さらに、茶釜では無く、『叩けばガンとなる鐘がさがっていた』と書かれている。しかし、あとの話は殆ど同じである。
尚、鑵子については、古老たちはいずれも『茶釜のことを彦島ではカンスと云うておったが…』と付け加えている。
しかし、鑵子は茶鑵とも呼ばれ、茶の湯に使う茶釜のことである。別に真鍮のものもあるようだ。従って『カンス』は、何もこの地方の方言ではないわけである。

Posted on 2020/01/11 Sat. 10:15 [edit]

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俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
田ノ首地区には、深田堤、段地堤、神田堤、雁谷迫堤などの大池があって、海賊たちは処刑した者の胴を池に投げ込み、首は近くの田に埋めた、という伝説がある。
『田の首』という地名がそこから来た、と今なお信じている人も多い。
『マナイタの瀬』は現存する地名であるが、これを俎上の鯉というオチをつけて語り継いだところが、なかなか面白い。

Posted on 2020/01/10 Fri. 10:06 [edit]

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10

サイ上り 

サイ上り


 それは、平治元年(1159年)十月十五日のこと。
 里から西南にあたる海上に、紫色の雲がたなびき、その海中が黄金色に輝いているのをイナ魚取りの漁師たちが見つけた。
 その話は、またたくうちに里中にひろがり、河野通次をはじめ、多くの人びとが浜辺に集まってきた。

 彼らは、不思議な光を遠くから眺めながらワイワイガヤガヤ、勝手なことをしゃべり合っていたが、その中の一人が、通次の命を受けて、それを調べることにした。男は恐る恐る海に入って、鉾で海中を突いた。すると、そこから明鏡があがって来た。明鏡の裏面には八幡尊像が彫られており、鉾はその左眼を突きさしていた。
 しかし、通次は、これこそ我が守り本尊だ、と大喜びで、近くの小島にお堂を作り、明鏡をまつって『光格殿』と名付けた。

 翌年、即ち永暦元年(1160年)十月十五日、通次は、明鏡引き揚げ一周年を祝い、光格殿の前で奉納舞いを舞った。
 その時、通次は甲冑で身をかため、明鏡引き揚げの様子を再現したが、興奮のあまり、
『さあ、揚がらせ給もうたぁ』
 と、大声で叫んだ。その日から、光格殿の小島を、『舞子島』と呼ぶようになった。

 その後、毎年十月十五日には、明鏡引き揚げの舞いを奉納するのがならわしとなったが、正和二年(1313年)五代目河野通貞は、光格殿を西ノ原に移して、八幡祭礼式を定めると共に、奉納舞いを『サヤガリ神事』と呼ぶことにした。
 その神事というのは、まず、境内の中央に三角形の砂土を盛りあげ、榊を一本立てる。そのまわりを、かみしもをつけた三人の子供が、三角状に横飛びに跳ね、手にした榊を伏し拝む。それが三周したところで、甲冑を着て立ちをはいた武者が登場し、盛土を弓で突き、『さあ、あがった』『さあ、あがった』と叫びながら踊る。
 弓は鉾をあらわし、子供たちは、イナ魚の飛ぶさまであるという。
 やがて武者は、御神体が引き揚げられたことを意味して、喜びの声と共に、『さあ、あがらせ給うたぁ』と、大声に叫び、この儀式は終わる。

 つまり、『サヤガリ』とは、『さあ、あがった。さあ、あがった』という武者の叫びがなまったもので、それがいつのまにか、『サイ上り』に転じたのだろうと。古くから伝えられている。今では、彦島八幡宮秋季大祭の圧巻として広く知られている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
 『サヤガリ』は、今では『サイ上り神事』と呼ばれ、下関市無形文化財に指定されている。
 『下関民俗歳時記』によれば、
 『…通次甲冑に身をかため弓箱を携え、鬼門に向って数矢を放ち、従う武士もまたこれにならったものといわれ、いまでも十二苗祖末流の衆が武具甲冑姿で参列する。本殿祭、初輿祭、潮掻行事、サイ上り神事、本殿還幸祭と行われるが、サイ上り神事は潮掻きで心身を清めたあと…』行われると書かれている。
 藩制時代に於いては、この神事は毎年十月十五日に行われていたが、明治に入ってからは陽暦の十月二十七日に変わり、大正十年、正式に十月二十一日と定められ今日に至っている。
 なお、二十日は『宵宮』で、俗に『どぶ祭り』と呼ばれている。
 氏子たちは、それぞれの家庭で、十六・七日から甘酒を準備し、二十日の夜がちょうど飲み頃になるように作りあげるのである。いわゆる『濁酒まつり』である。

Posted on 2020/01/09 Thu. 12:38 [edit]

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