04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

楠ノ木の精 

楠ノ木の精


 むかし、彦島八幡宮は西山の舞子島にあった。その御神体は、海中から引き揚げた明鏡であったが、河野通次は立派な八幡尊像を彫って奉納したいと考えた。

 そのころ、里の森の東のはずれに、天にも届くかと思われるような大きな楠ノ木が聳え立っていた。
 通次は、家臣の小川甚六・柴崎甚平を呼び寄せ、その楠ノ木で八幡尊像を刻むよう命じた。永暦元年(1160年)三月のことであった。

 小川・柴崎の両人は、小者を集め、さっそく楠ノ木ほ伐り倒し、幹の芯を取って、小さな八幡尊像を彫塑した。たっぷり三ヶ月かかったという。

 しかし、伐り倒された楠ノ木は、千古の大木であったせいか、その後、不思議なことが続いた。
 月の無い夜には、楠ノ木の伐り株から赤い炎が燃え上がったり、嵐の夜には、そこから女のすすり泣く声が聞こえたりもした。そして、ついには、八幡尊像を刻んだ小川・柴崎両人をはじめ、伐採を手伝った小者たちまでが相次いで原因不明の病気にかかる始末。
 そこで、通次は、秋の八幡祭の後、楠ノ木の伐り株に堂宇を建て佛像を安置し、その付近の地名を『楠』と名付けた。
 里を中心に、各地に名前を付け、舞子島のあたりを『西山』、楠ノ木一帯を『東山』と命名したのはこの時のことだ。その後、西山は広範囲に広がり、現在でもその名は町名として残っているが、東山は本村の陰にかくれて殆ど知られなくなってしまった。

 それはさておいて、伐り株に佛像を安置して楠ノ木の精を慰めても、小川・柴崎両人や小者たちの病は、さっぱり良くならない。
 通次は考えあぐねた末、その原因は、伐られた楠ノ木の残り木の山が、そこに放置されたままになっていることにある、と気づいた。

 そこで翌二年(1161年)の春、堂宇の前に祠をつくり、弘法大師作と伝えられる石の地蔵尊を安置して供養祭を催した。そして、おびただしい楠ノ木の残り木を一カ所に集めて、何かある時には必ずこの木を使うことを誓った。
 すると不思議に、人びとの病いもすっかり良くなり、赤い炎も、女のすすり泣きも、いつの間にか聞かれなくなった。

 通次は大いに喜び、東山の小さな丘に『堂宇の山』という名を付け、日夜、地蔵尊への参詣をつづけ、楠ノ木の供養を怠らなかった。


 その後、何年かたって、平家の残党が落ちのびて来た。
 まず、植田・百合野・岡野の三名が、それぞれ平家の守り本尊一体ずつを覆奉して来島した。そして、迫の一角に観音堂を建てて、三尊を安置したが、その材料は東山の楠ノ木を使った。
 今、迫の山辺に『カナンドウ』という地名と屋号が残っているが、それは観音堂がなまったものだという。


 それからまた何年か経って、和田・冨田・登根という人びとが落ちのびて来た。この人たちは、先の植田らと話し合い、平家再興を祈って、堂宇の山のてっぺんに驚くほど大きな矛を建てた。その矛もまた、楠ノ木の残り木から造ったといわれている。

 ところで、この堂宇山というのは、現在では山頂付近が削られて玄洋中学校が建って居るが、一般には『ドオノ山』と呼ばれてきた。そして、本村寄り、つまり東側の八合目付近から下へかけては鉾江山と呼ばれているが、これは『矛柄(ほこえ)』が転じたものであろうか。
 また、鉾江山の真ん前にある西楽寺山は、古くから鉾崎山と呼ばれ、その麓の林兼造船第二工場のあたりは鉾崎の浜で、これも『矛先』がなまって『ほうさき』となったのかもしれない。


 それからまた何十年か経って、西楽法師が観音堂の三尊像を本村に移して西楽庵を建てた。この時にも、楠ノ木の残り木を使ったという。

 それからまた四十年ばかり後、舞子島にあった八幡宮を、今の宮ノ原に移して、新しく彦島八幡宮を造営することになったが、この時も同じ残り木を使ったと伝えられている。正和二年(1313年)のことであった。


 東山の森に太古の昔から聳え立っていた大楠ノ木は、八幡尊像を刻む為に伐り倒され、約百五十年もの間に、堂宇、観音堂、矛、西楽寺などの建立に少しずつその身を削ってゆき、再び八幡宮に戻って役立ったのであった。

 だから、楠ノ木は『彦島の守り木だ』と昔から伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/24 Wed. 09:38 [edit]

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十二苗祖 

十二苗祖(じゅうにびょうそ)


 むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。

 今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。
 四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、
『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。
 翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山城再興をはかるに最適な場所であることがわかった。
 そこで、里(迫町の一角)に屋敷を建て、園田一学、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の重臣五名と仮寓することに決めた。

 通次ら主従は、里を拠点に島を開拓し、なれない農業や漁業に励みながら、勝山城再興の日を待っていた。
 西山の舞子島に『光格殿』というお宮を建て、引島で一番大きなくすの木を伐って八幡尊像を刻み奉納したり、海峡を見おろす丘の上に立って、兵を挙げる日の一日も早かれと祈願したものだ。

 二十数年という月日が、またたくまに過ぎた。

 そのころ、都で発した源氏と平家の戦いは、西へ西へと伸び、寿永三年(1184年)秋には、平知盛が引島に城を築いて、源氏を迎え撃つことになった。
 今まで、静かであった引島も、つぎつぎに集結する平家の軍勢によって、修羅場のように騒々しくなり始めたが、翌年三月二十四日、壇ノ浦の合戦で、ことごとく滅び、知盛による引島城は『平家最期の砦』になってしまった。

 ようやく、もとの平和な島に戻った翌年、つまり、文治二年(1186年)一月、平家の残党、植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三名が、平家の守護仏である阿弥陀如来坐像と、観世音菩薩、薬師如来立像を、それぞれ捧持して来島した。
 三人の落人は、里に河野通次を訪ね、平家再興の意図を打ち明け、それまでの間、この島にかくまって貰うことにした。
 そして、平家の守り本尊である三像を仮の草庵に安置したが、その場所は今でもカナンドウ(観音堂)と呼ばれている。

 その後、健保二年(1214年)四月には和田伝済、つづいて翌三年には、同じく平家の残党、冨田刑部之輔と登根金吾が、植田治部之進を尋ねて来島した。
 これら和田を除く五名の人びとは、いずれも平家の執権で、彼らは河野家主従に自分たちの身分を明かし、一門再興に力を貸してほしい、と頼み込んだ。勝山城再興を願う河野一族は、この不思議な因縁に驚いたが、同じ境遇である十二氏が力を合わせれば果たせないことはないと、手を取り合って協力を誓った。

 しかし、そのころは、既に河野家第一の参謀である園田一学は病死し、あとを追うように通次もこの世を去っていたので、河野家再興は、なかばあきらめの状態であった。

 一遍上人の高弟、西楽法師が引島に来られたのは健治二年(1276年)三月であった。法師は、観音堂の阿弥陀如来坐像の威光にうたれ、一遍上人の許しを得て引島に永住しようと決心した。それは、観音堂を今の本村に移し『西楽庵』を建てて三像に仕えるためであった。

 そのうち法師は、平家一門と勝山城の、二つの再興話を耳にしたので、その悲願をあきらめさせ、引島開拓に心を打ち込むよう、説いてまわった。
 初めのうちこそ、かたくなに法師の話に耳をかそうとしなかった十二家の人びとも、やがて挙兵のむなしさに気付き、永年の望みを捨て去ることにした。

 そこで人びとは、平家の守り本尊に仕え、農業、漁業、工業にいそしみ、引島に永住することを誓い合った。弘安元年(1278年)秋のことであったという。


 引島開拓と十二氏共栄に力を合わせ始めたこれらのいきさつは、古くから『十二苗祖の誓い』と呼ばれ今もなお語りつがれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/23 Tue. 08:55 [edit]

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23

こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/21 Sun. 09:10 [edit]

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関門トンネルと惣の話 

関門トンネルと惣の話


 彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
 なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。


 明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
 そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』

 明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
 トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。

 ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
 と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。

 トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…


 そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。

 やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
 その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
 と、旗を振ったものじゃ。

 ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
 惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
 ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
 と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。


 また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
 そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
 行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
 と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。

 座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』


 戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。

 いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/20 Sat. 10:10 [edit]

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子鯨の話 

子鯨の話


 田ノ首の浜に、貧しい漁師が住んでおった。漁師には、男の子が一人あったが、生まれつき病弱で、いつも床についたままじゃった。

 ある夜のこと、昼の疲れにぐっすり寝込んだ漁師の枕辺に、何か大きな真っ黒いものが立ちふさがった。
 ふと目をさましてみると、それは大きな鯨じゃった。びっくりした漁師は、思わず声を立てた、
『何しに来た』
 すると鯨は、いかにも哀れみを乞うように、弱々しくこう言うた。
『私たち夫婦は、明日の昼ごろ、一人むすこを連れてこの海峡を通ります。しかし、むすこは病気でとても弱っていますので、どうか、むすこだけは見逃してやってください。よろしく頼みますよ』
 そう言い終えると、鯨の姿はスーッと消えてしもうた。

 夜が明けた。漁師はさっそく、浜の漁師たちを集めて、昨夜の不思議な出来事を話し、
『今から、みんなで鯨をとりに行こう』
 と、相談した。そいやけど、漁師たちは、
『そんな馬鹿げた話があるものか』
 と、相手にせんじゃった。でも、よう考えてみると、昔から、鯨一頭とれば七浦が栄える、と言われたほどの収入があるので、
『だまされたと思うて、沖へ出てみよう』
 ということになり、みんなで鯨とりの準備にとりかかった。あれこれ仰山、もりやロープを用意して、人びとは海を見つめて待った。

 やがて、昼少し過ぎたころ、小倉の沖合いに、大瀬戸に向かって来る鯨を発見した。
 一頭、そのあとにまた一頭、そしてその間にはさまって小さな鯨が一頭…。
 それはちょうど、親が子どもの手をしっかりと引いちょるように見えた。

『鯨じゃあ、鯨が来るぞ』
 待ちかねておった漁師たちは、いっせいに舟を出し、沖にむかって漕ぎはじめた。
 舟が鯨に近づくと、鯨波が津波のようなうねりをあげて押し寄せ、小舟はまるで木の葉のように揺れ動いた。
 そいでも漁師たちは、必死になって鯨に近づき、無茶苦茶にもりを投げつけた。もりは、親鯨にさえもなかなか命中せん。

 ところが、どうしたはずみか、その中の一本が、撃っちゃあいけん筈の子鯨の胴に突きささった。子鯨は、海を血に染めながら、のたうちまわった。母鯨は急いで子鯨のそばに寄り、心配そうに離れようともせんじゃった。
 一方、父鯨のほうは、激昂して暴れまわり、尾びれで次々に小舟を海に沈めはじめた。
 漁師たちはみな海に放り出され、もはや、鯨をとるどころじゃあない。命からがら岸にむかって泳ぎはじめた。
 傷を受けた子鯨が、その後どうなったかは全くわからん。

 そいやけど、貧しい漁師が痛む体を引きずって我が家へ帰ってみると、いとしい一人むすこが死んでおった。
 それはちょうど、もりが子鯨に命中した時間に、むすこが高熱を出して、もがき死んだちゅうことじゃて。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


 
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Posted on 2017/05/18 Thu. 09:40 [edit]

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18

蟹島 

蟹島


 むかし、むかし、大むかし、下関の火ノ山は、その名の通り、火を噴く火山であった。

 ある年、火ノ山が大爆発を起こした。そして噴き上げられた熔岩は、響灘へと流れ込んだ。
 そのころ、響灘には大群のカニが棲んでいたが、その大半は身を挺して熔岩をせき止め、残る半分は、懸命に鋏み止めたという。

 この時の何千億というカニの死骸は山となって、一つの島が出来た。
 それが、響灘に浮かぶ『蟹島』で、空からこの島を見ると、今でも、カニそっくりであるという。
 そしてこの島には、北の浜に『蟹の背』という瀬があり、森の中には『蟹の目』と呼ばれる所が残っているが、昔からこの島の人びとは、絶対にカニを食べなかったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/17 Wed. 09:36 [edit]

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舟島怪談 貝のうらみ 

舟島怪談 貝のうらみ


 むかし、舟島に若者がたった一人で住んでいました。若者は、島のまわりで仰山とれる貝を売って、その日その日を暮らしていました。このあたりでは、浅利、蛤、馬刀貝はもちろんのこと、一尺四方もある帆立貝や、面白い形をしたコウボ貝にツウボ貝なども鍬を打ち込んだだけで、ざくざく採れました。

 ある夏の夕凪ぎのひどい夜でした。

 じっとり汗ばむ寝苦しさに悶々としていると、トントンと裏戸を叩く者が居ます。
『こんな夜更けに、一体誰だろう』
 眼をこすりながら出てみると、十七、八の美しい娘が立っていました。
『夜分おそく、すみません。でも、ちょっとお話があるんですけど、入れていただけませんでしょうか』
 娘はうつむいて言いました。若者は、その美しさに魅せられて、何を言われたのかも解らず、しばらくぽかーんとしていましたが、ふと我に返って奥に通しました。

『一体…… 今頃…… あなたは…… 来たんでしょ……いや、どこから来たんでしょうか』
 若者は、しどろもどろに訊ねました。しかし、娘は、畳に三つ指をついたまま、黙って答えません。何を話して良いか判らず、若者は戸惑って、おろおろするばかりでした。
 例年にない蒸し暑さのせいだけでなく、ひたいにも背中にも、じわーっと汗が吹き出してきます。二人は黙ったまま、しんしんと更けてゆく夜の音を感じていました。

 と、娘が、はずかしそうに顔をあげ、小さな声で、それでもはっきりとこう言いました。
『私を、あなたのお嫁にして下さい』
 仰天する、というのは、この時の若者の驚き振りを言うのでしょう。彼は、目の前の、夜目にも白く美しい娘の顔をぼんやり見つめながら、口をもぐもぐとさせるばかりでした。
 闇のむこうで、娘はにっこり笑いました。そして、頬を紅潮させながら、そっと寄りかかってきました。娘の甘い香りが二人をあたたかく包んで、若者は病人のように力なく手をのばして、その肩を抱きました。

 それからのことは覚えていません。何か恐ろしいような、嬉しいような、そんないぶかりの中に、天にも昇るような喜びがあったような気がします。
 そして、いつのまにか、若者は眠っていました。

 あくる朝、ふと眼をさますと、昨夜の娘はどこにも居ません。家の中も、いつもと変ったところはなく、
『ゆっぱり、あれは夢だったのか』
 と、がっかりしました。でも、まぶしい朝の光を仰ぐと、若者は急に元気を取り戻し、いつものように漁に出かけました。

 夜になりました。若者は早くやすんで、昨夜の夢のつづきを見ようと、寝床に入りました。寝苦しい夜で、汗ばむ体をもとあましながら、何度も寝返りを打ちました。それでも、昼間の疲れがどっと出てきて、いつのまにかウトウトしかけていました。
 何か音がしたような気がして、若者は眼をさましました。耳をすましていると、裏戸を小さくトントンと叩く者が居ます。心をはずませ外に出てみると、昨夜の娘が眼を伏せて立っていました。
『ああ、あなたは… 夢ではなかったんですね』
 若者は娘の手をとり、喜びを満面に溢れさせて、奥に引き入れました。

 そんなことが毎晩つづき、夜の明けないうちに、娘はどこへともなく帰って行きます。娘が一体、どこからやって来るのか、そしてその名前さえも若者は知らないままでした。
 それに気がついたのは、お盆が過ぎて秋風の立ち始めたころです。ある夜、若者は、いつものような甘い語らいのあとで、娘の素性を訊ねました。
 すると娘は、はじかれたように後ずさり、若者の顔をじっと見つめて、しばらくは黙ったままでした。やがて娘は、か細い声で言いました。
『私が、どこから来て、どこへ帰ってゆくのか、何も聞かないでください。それを話してしまえば、私はもう、ここへは来られなくなります。それが悲しくて…』
 そう言って娘は泣きくずれました。何度もしゃくりふげるその肩をやさしく撫でながら若者は、娘をいとしく思いはじめていました。

 それからというもの、若者は何も訊ねず、ひたすら夜を待ち、楽しいひとときを過ごすことに没頭しました。

 秋が過ぎ、厳しい冬になりました。もう近頃では漁に出ることもなく、昼間は夜のつづきの夢を見て、若者はのらりくらりと生きるようになっていました。その上、娘に精を吸い取られてしまったのか、次第にやせ細ってゆくようでした。

 みぞれの降るある夜、若者はとうとう体をこわして寝込んでしまう羽目になりました。それでも娘はトントンと裏戸を叩き、すーっと入って来て、若者の枕辺に座りました。そして、いつものように眼をふせたまま、そっとにじり寄って来るのです。
『今夜は、もう駄目だ。しばらく、そっとしておいてくれ。そのうちまた元気を取り戻すから』
 さすがの若者も力無く、そう言って眼をつぶりました。

 すると娘は、にっこり笑って勝ち誇ったように口を開きました。
『今だから申しましょう。私は、この浜に住むツウボ貝です。私には末を契ったコウボ貝が居ました。いつも私たちは、仲良く波乗りをしたり、砂にもぐったり、潮のかけっこをしたりして楽しく暮らしていました。ところが、夏が近づいたあの日、そう、あの霧雨の降る夕方です。あなたは私の大事なひとを鍬で叩き殺してしまいました。私は、その仇を討つために…』
 そこまで言って、娘は、また笑いました。しかし、その笑顔は、口元だけが少し動く程度の、ぞっとするような冷たさがあったといいます。そして、声までが老婆のようにしわがれて低く、若者のはらわたをえぐるように響きました。
『私は、その仇を討つために、夜毎、あなたのもとに通って来たのです。あなたは、日に日に、やせおとろえてきました。でも、まだ当分は死にません。このまま動くことも出来ず、死ぬことも出来ず、しばらくの間、苦しみを味わうことです。それでもまだ私の恨みは晴れませんが、私も、もう力つきてしまいました。だから…』
 酒に酔ってでもいるように、娘はゆっくり立ち上がりました。その眼には二筋の涙が、暗がりの中にもはっきりと見えたそうです。
『だから、海へ戻って、いとしい方のそばへ参ります』
 そう言い終えると、すーっと娘の姿はかき消えました。

 それから何ヶ月もの永い間、若者は寝たままで生きつづけました。
『ツウボ貝も、コウボ貝も、俺は、あんまり採りすぎた。知らなんだ、知らなんだ。ツウボ貝も、コウボ貝も…』
 朝も、昼も、夜も、毎日毎日、若者は、そんなウワゴトを言いつづけ、そして飢え死んだということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/16 Tue. 09:31 [edit]

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金の蔓 

金の蔓


 むかし、田ノ首の岬の上に、大きな金の蔓が生えていて、朝夕さんぜんと輝いていた。

 里びとはもちろんのこと、ここらを航海する舟びとも、この不思議な現象に心うたれて、誰も取る者はいなかったが、ある日のこと、欲の深いマドロスが、ひそかにこの金の蔓を根元から引き抜き、船に積んで出航した。

 すると、たちまち大風が起こり、船はそのすぐ近くにある鳴瀬の暗礁に打ち上げ、木っ端微塵に砕けて、マドロスたちは、一人残らず激流にのまれて死んだ。

 そのため、この不思議な金の蔓は、永久に姿を消したが『金のツル岬』と呼ばれて、名前だけは残された。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/15 Mon. 09:39 [edit]

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七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2017/05/13 Sat. 09:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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13

左眼が細い 

左眼が細い


 今から八百年も昔の話。

 ある秋風の身に沁む夕刻、里の西南の海から、一筋の光が立ちのぼっているのを漁師が見つけた。漁師は早速、島の人びとに知らせ、人びとは河野通次にも報告した。
 大急ぎで駆けつけた通次は、矛を片手に海中に飛び込み、光を指して泳いだ。そして、その中ほどに矛を突きさすと、八幡尊像があがって来た。尊像の背面には、河野八幡、と刻まれていたが、いたわしいことに、矛は尊像の左眼を貫いていた。

 さっそく通次は舞子島に祠を建て、光格殿と名付けて島の守り本尊にしたが、そり以来、彦島の十二苗祖と呼ばれる人びとは、代々、現在に至るまで左眼が細いといわれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2017/05/12 Fri. 09:56 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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12

金の鶴 

金の鶴


 田の首の泥田には、毎年、冬になると鶴がやって来た。
 ある年、その中に一羽だけ、金色に輝く鶴が居た。村びとたちは驚いてワイワイ集まって来たが、よく見ると羽が折れていて、歩くのがやっとらしい。
『これは可哀そうだ。掴まえて手当てをしてやろう』 
 と、近寄ろうとすると、鶴たちは金の鶴を囲み、羽をバタバタ広げて寄せ付けない。
 こんなことが毎日つづいたので、鶴たちはエサを捕りに行くことも出来ず、一羽、二羽と飢え死んでいった。
 村びとたちは、ようやくそれに気がついて、しばらくは鶴に近寄らないことにした。
 鶴たちは安心して、またもとのように四方へ飛び立ってはエサを捕り、金の鶴のところへ運びはじめた。
 しかし、正月が来て、寒もさめたというのに、金の鶴の羽は折れたままで、見るも痛々しい。
『何とかしてやりたいものだ』
 と、村びとたちは集まってラチのあかない話ばかりし合っていた。
 ある夜のこと、鶴たちが寝静まったころ、一人の老人が、そっと忍び寄って、金の鶴を掴まえた。村びとたちは大喜びで手分けをして、ドジョウを捕ってきたり、羽の手当てをしたりして、毎日、田畠に出かけるのも忘れた。
 その甲斐あって、春が近づいたある日、金の鶴は飛び立つことが出来るまでになった。そして鶴たちは、金の鶴をかばうようにして田の首を飛び立った。
 大勢の鶴が名残りを惜しんで、田の首の空をグルーッと一回りした時であった。沖を通る船から弓矢が放たれて、金の鶴の首を射ち抜いた。金の鶴は、まっさかさまに落ちて岩礁に消えた。
 あくる年から、心待ちにする人びとの前に、とうとう鶴は姿を見せなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


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Posted on 2017/05/11 Thu. 10:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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11

引島は彦島 

引島は彦島


 むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。
 ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。
 ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。


 また、こんな説もある。

 むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。
 外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。
 その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。
 だから、胃までも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。


 さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。
 そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

 しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

 これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。
 それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。


 時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。
 この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。
 その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。
「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」
 それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2017/05/10 Wed. 11:45 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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10

龍宮島 

龍宮島


 むかし、福浦の港には海賊が出入りして良民を苦しめていた。海賊の屋敷は、この港のあちこちに散らばっていたが、中でも対岸の伝馬島にあるのが一番大きかった。

 ある日のこと、
『あの島の海賊をみんなで退治しようじゃないか』
 という相談がまとまって。村の若い衆が総出で討伐に出かけることになった。

 さて、夜も寝しずまったころ、舟で島に渡り、そぅっと上陸してみたが、どこにも人の気配がない。
『おかしいぞ、こんな筈はない』
 小さな島のこと、みんなで手分けして探し歩いたが、猫の子一匹見つからなかった。
『今夜は、また沖へ出て、悪いことでもしよるんじゃろう。明日の夜、また出なおして来うじゃないか』
 一人の若い衆がそう言ったが、みんなは、なおも、そろっ、そろっと、足音をしのばせて探し歩いた。と、闇のすそからギーっと音がして、一本の松がぐっと傾いた。若者たちは驚いて一斉に身を伏せ、眼をこらした。
 すると、松の根方にぱっくりと穴があいて、雲をつくような大男が出て来た。一人だけではない。二人、三人、四人、九人、十人…と、出るわ出るわ、あとからあとから、数えてみると三十六人。
 大男のくせに足音も立てず、どこからともなく引いてきた船に分乗すると、すーっと屁のように沖へ消えて行った。

 若者たちは、松のまわりに集まって互いに顔を見合わせていたが、突然、一人の度胸者が、松の木を傾けて、根元の穴に入っていった。しばらくの間、ぼゃあっとそれを見ていた若い衆らも、気をとりなおして、そのあとにつづいて入った。

 そして、仰山たまげた。

 穴の中は立派な御殿、いや、さながら龍宮城で、金銀財宝が山と積まれていたからだ。その奥では、美しい着物で着飾った女たちが、ワイワイ騒いで酒盛りの最中であった。
 若者たちは、すっかりその雰囲気にのまれて、しばらく立ちつくしたままだった。すると女たちもそれに気づいたのか、
『まあ、あなた達は、むこう岸からいらしたのですね。私たちは、ずーっと永い間、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ』と手招きして、大いにもてなしてくれた。
 若者たちは、夢遊病者のようにその宴の輪にさそい込まれ、思わず、時間も目的も忘れて美酒に酔いしれてしまった。
 そうしているうちに、海賊どもがぞろぞろと戻って来て、若ものたちは捕らえられたが、たった一人だけ、命からがら逃げ帰り、村の人びとにこのことを告げた。

 あくる朝、村の人びとは総出で伝馬島に押しかけ、若者たちを救おうとしたが、不思議なことに、前の晩の松はどこにも見当たらなかった。
 その夜から、付近の海を荒らす海賊たちは現れなくなったからそれは良いとしても。とらえられた若い衆の行方も、わからないままであったという。


 海賊が居なくなって静けさを取り戻した福浦の人びとは、伝馬島に若衆たちの墓を建てて『龍宮島』と改め、海賊退治に出向いた人びとの勇気をいつまでも語り伝えた。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/09 Tue. 11:21 [edit]

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09

六連のあやかし 

六連のあやかし


 下関の離島、六連島は、その周辺に浮かぶ、馬島、藍ノ島、白島などをふくめて霧の名所として名高く、それだけ舟の遭難もまた多かった。
 だから漁師たちは、昔から、この付近には『海坊主が出る』とか、『あやかしにやられる』とか言ったものだった。そして、霧の深い時など、ことさら舟を出すことを恐れていた。


 こんな話がある。

 夜釣りに出た漁師が、ウトウト眠りかけていると、目の前に大きな怪物があらわれた。
 それは、四斗樽くらいの目をギョロ、ギョロさせ、口は耳まで裂けた大入道で、今にもこの小舟をひと呑みにしようとしている。それを見て漁師は、とたんに眼をまわした。

 しばらくして正気に戻ってみると、あたりには、何の姿も見えなかったという。
 これを海坊主というのであろう。


 また、ある時こんなことがあった。

 ある霧の深い夜であった。一人の漁師がいつものように夜釣りに出ていると、突然、自分の舟が同じ場所をクルクルと輪をかいて回りはじめた。それは、目のくらむほどの早さで、漁師は、今にも舟から海に放り出されそうであった。
 漁師は生きた心地もなく、ただ目をつむったまま、『南無阿弥陀仏』『南無阿弥陀仏』と夢中で唱えた。
 すると舟の回転はだんだんゆるみ、しばらくしてピタリと止まった。
 これが、いわゆる『あやかし』に襲われたというのであろう。


 まだ、ある。

 漁師が、真っ暗い闇の中を走らせていると、目の前に、こちらを向いて矢のように走ってくる舟があった。
『危ない!』
 と、とっさにかじをかえてみたが、どうしてもかわらない。向こうの舟はますます速力を増してばく進して来る。あせればあせる程、こちらの舟は吸いつけられるように、向こうの舟の真っ正面に向かって進む。
 アッ、衝突!
 失神した漁師がふと正気に戻ってみると、そこには、さきほどの舟の姿も見えないし、自分の舟は何も異常なかったという。


 またある時には、何者かが、空から『水をくれ、水をくれ』と叫んで、舟を追っかけて来ることもあったし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っぱり込まれそうになったこともあったというが、これらはすべて『あやかし』という魔物の仕業であろうか。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/08 Mon. 10:41 [edit]

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08

サイ上り 

サイ上り


保元二年、今から約八百年のむかし、伊予の国勝山城主、河野通次が戦に負け、追っ手を避けながら、ようやくのことで彦島へ落ちのびてきました。

河野通次と五人の家来は、この彦島で力を蓄え、もう一度、勝山城を取り戻そうと、しばらくの間、慣れない農業や漁をして、兵をあげる日を待っていましたが、頼みとする家来たち二人は病気で亡くなり、一人は伊予の国の様子を調べに行って帰ってこず、とうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。

それから二年たった平治元年十月十五日、里から西南にあたる海上に、ふしぎな紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中が黄金色に輝いているのを、島のイナ釣りの男が発見しました。
男はさっそく、そのとき島の長になっていた河野通次に知らせると同時に島民にも知らせました。
島の人たちは、浜辺に集まり、
「ひょっとすると不吉なきざしかもしれない」
「いや、きっとあそこに黄金が沈んでいるんだ」
とか、わいわいいって騒ぎ立てました。

結局、最初に見つけた男に調べさせようということになり、その男は、こわごわ舟を出して黄金色に輝く場所に行き、矛を持って海中を突き刺したところ、神体と思われる像の左眼に突き当て、海中から引きあげてきました。

心配そうに様子をみていた河野通次は、その像を見て、これこそ我が守り本尊であるとして、近くの小島にお堂をつくって、像をまつり、これを光格殿と名づけました。

このとき、通次は鎧兜を着て、左右に太刀と弓を持ち、武運長久を祈るとともに、舞をまい、
「さあ揚がらせられた」
と、大声で叫んだことから、この小島を舞小島というようになりました。

また、おもしろいことに、氏神様の左眼を矛で突かれたことから、彦島の人はむかしから左眼が細いという言伝えがあります。

ご神体は、その後、正和三年に、今の宮の原に移して、永く彦島の氏神様として親しまれてきました。
そして毎年十月十五日には、「サイ上り」の神事が行われますが、その様子は、まず最初に、裃をつけた子ども三人が飛び回ります。
すると鎧兜をつけ、太刀を腰に、手に弓をもった者が、子どもを矛で突くまねを幾度も繰り返します。
そして「サイ上り」を叫びます。
子どもの飛び回るのは、イナが飛ぶまねで、弓で突くのは、ご神体を海底から突き上げたときの意味。
「サイ上り」とは、通次が「さあ揚がらせた」と喜んで叫んだ古事をそのまま伝えるものといわれます。
そして、この鎧武者やイナなどになる人は、昔から、彦島十二苗祖の家から参加することになっています。


(注)
彦島十二苗祖とは、河野通次の河野姓ほか、平家の落ち武者が住み着いたといわれる、園田、二見、小川、片山、柴崎、植田、岡野、百合野、和田、登根、富田姓で、彦島開拓の祖先といえましょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/05/07 Sun. 09:26 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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