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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

七本足のタコ 

七本足のタコ


 西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。

 むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
 と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。

 四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。

 その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
これも一般には『お夏ダコ』として伝えられている話である。
ところで、お夏は、話す人によって、女であったり、娘であったり、老婆であったり、それぞれ違っているようである。

Posted on 2018/02/18 Sun. 11:01 [edit]

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18

親クジラの願い 

親クジラの願い


下関彦島田ノ首町。
1000メートルそこそこの海峡をはさんで、対岸の門司側にも工場の煙突や倉庫群。
すぐ目の前を一日千隻もの大小のタンカー、貨物船が右へ左へひっきりなしに通る。
このにぎやかな海を、戦前までクジラの群れが泳いでいた。

日本沿岸からザトウクジラ、セミクジラなどの小型クジラが姿を消したのは昭和になってから。
幕末から明治にかけては、紀伊半島沖、壱岐、対馬、五島と並んで瀬戸内海はクジラの好漁場だった。

関門海峡を通って波静かな瀬戸内海へ出入りするクジラは、たいてい子連れだったという。
田ノ首町に伝わる「親クジラの願い」も、子連れクジラにまつわるあわれな話だ。


明治40年ごろ、彦島田の首に貧しい漁師がいた。
五つになる男の子があったが、生まれつき体が弱く、病気がちだった。

ある夜、漁師はまくらもとの気配で目がさめた。
部屋の中に真っ黒く大きなものが立ちふさがっている。
よく見るとクジラだった。
驚く漁師にクジラは
「私たち夫婦クジラは、明日の昼ごろ、一人息子の子クジラを連れてこの海峡を通ります。
しかし子クジラは病気です。
どうか息子だけは見逃してやって下さい」
クジラは哀れみをこうように弱々しく頼み終わるとスーッと消えた。

夜が明けた。
漁師はさっそく浜の仲間を集めてこの不思議な出来事を話した。
半信半疑の仲間たちも、クジラが本当にとれれば、いい収入になる。
みんな銛や太綱を用意して待った。

クジラは前夜の話のとおりに親子三頭でやってきた。
たちまち海峡は修羅場になった。
大波をたてて暴れる親クジラ、飛び交う銛。
そのときどうしたはずみか一本の銛が、両親に守られていた子クジラの胴にグサリと命中してしまった。
海を血で真っ赤に染めながら、のたうち回る子クジラ。

突然、父クジラが今までに倍して暴れ始めた。
激しくはね、漁師たちの小舟を次々と大きな尾びれでたたいた。
船はこわれ、漁師たちは海へ投げ出された。
もはやクジラ捕りどころではない。
みんな命からがら泳いで逃げた。

モリ傷を負った子クジラが、その後どうなったかだれも知らない。
そして“夢”を見た漁師が疲れ果てた体を引きずってわが家へ帰り着くと、その少し前に息子が息を引きとっていた。
ちょうど、モリが子クジラに突き刺さったころ高熱を出し、もがきながら死んだという。
(冨田義弘著「彦島の民話」から)


当時、沿岸捕鯨の漁民が最も喜んだ獲物は、子連れのセミクジラだった。
セミクジラは肉がうまく、油も多かった。
しかも子連れの場合、動きの鈍い子クジラを先に仕留めれば、母クジラは決してそのそばを離れず、たやすく二頭とれたからだという。

貧しい漁師が、うまく親クジラをとっていたら、まっ先に病弱な息子に薬を買い、医者を呼んだにちがいない。
クジラに通じる親の情がこの民話を生んだのだろうか。
全く同じ話が、かつて沿岸捕鯨で栄えた各地の浦にいまも伝えられているという。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より

Posted on 2018/02/17 Sat. 11:23 [edit]

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17

お夏ダコ 

お夏ダコ


 西山に、お夏という娘が居た。娘の家は漁師だが、大変貧乏で、その上、両親がとかく病気がちで寝込むことが多かった。お夏は自分の手一つで家計を支え、朝早くから海に出て働かなければならなかった。

 ある寒い日のこと、お夏がいつものように海岸でワカメをとっていると、岩の肌に異様なものがからんでいた。それは、人間よりも大きなタコだった。お夏は、ギョッとしたが、こんな立派なタコを両親に見せると、どんなに喜んでもらえるかわからないと思い、さっそく、抜き足さし足で岩に近づくや、手早に鎌でその足を一本だけ切りとり、うしろも見ずに家に帰った。

 あまり大きな足なので、むろん両親にも食べさせたが、残りはぜんぶ近所の人に分け与えた。ほほが落ちるほどおいしかったので、みんなに喜ばれた。

 そのあくる日、お夏がまた海岸に出てみると、昨日の大ダコが傷あともなまなましく、同じ岩にからみついていた。お夏は今日もまた一本だけ足を切り取って帰り、みんなを喜ばせようと思った。忍び足で、ジリ、ジリッと岩のそばに近づいた。
 ところが、やにわにおどり上がったタコは、お夏にかぶさるように襲いかかった。お夏は逃げるまが無く、ついに七本の大きな足で、がんじがらめに巻きつかれてしまった。そして海の中へズルズルと吸い込まれていき、その明くる日も、また明くる日も、ついに大ダコは現れず、お夏のなきがらも見つからなかった。

 それからというもの、この海岸では、どんな小さなタコも『お夏ダコ』と呼び、ここの漁師たちは、そのたたりを恐れてか、この付近のタコを決して口にしなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、佐藤治氏著『ながとの民話』から写した。
下関図書館刊行の『下関の伝説』にも『お夏ダコ』の話が書かれている。
このほうは、お夏が、二、三日おきに足を切り取っていって、最期の一本でお夏の命が奪われたとなっている。
伝説としては、凄味があって面白い。

Posted on 2018/02/16 Fri. 10:27 [edit]

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16

子鯨の話 

子鯨の話


 田ノ首の浜に、貧しい漁師が住んでおった。漁師には、男の子が一人あったが、生まれつき病弱で、いつも床についたままじゃった。

 ある夜のこと、昼の疲れにぐっすり寝込んだ漁師の枕辺に、何か大きな真っ黒いものが立ちふさがった。
 ふと目をさましてみると、それは大きな鯨じゃった。びっくりした漁師は、思わず声を立てた、
『何しに来た』
 すると鯨は、いかにも哀れみを乞うように、弱々しくこう言うた。
『私たち夫婦は、明日の昼ごろ、一人むすこを連れてこの海峡を通ります。しかし、むすこは病気でとても弱っていますので、どうか、むすこだけは見逃してやってください。よろしく頼みますよ』
 そう言い終えると、鯨の姿はスーッと消えてしもうた。

 夜が明けた。漁師はさっそく、浜の漁師たちを集めて、昨夜の不思議な出来事を話し、
『今から、みんなで鯨をとりに行こう』
 と、相談した。そいやけど、漁師たちは、
『そんな馬鹿げた話があるものか』
 と、相手にせんじゃった。でも、よう考えてみると、昔から、鯨一頭とれば七浦が栄える、と言われたほどの収入があるので、
『だまされたと思うて、沖へ出てみよう』
 ということになり、みんなで鯨とりの準備にとりかかった。あれこれ仰山、もりやロープを用意して、人びとは海を見つめて待った。

 やがて、昼少し過ぎたころ、小倉の沖合いに、大瀬戸に向かって来る鯨を発見した。
 一頭、そのあとにまた一頭、そしてその間にはさまって小さな鯨が一頭…。
 それはちょうど、親が子どもの手をしっかりと引いちょるように見えた。

『鯨じゃあ、鯨が来るぞ』
 待ちかねておった漁師たちは、いっせいに舟を出し、沖にむかって漕ぎはじめた。
 舟が鯨に近づくと、鯨波が津波のようなうねりをあげて押し寄せ、小舟はまるで木の葉のように揺れ動いた。
 そいでも漁師たちは、必死になって鯨に近づき、無茶苦茶にもりを投げつけた。もりは、親鯨にさえもなかなか命中せん。

 ところが、どうしたはずみか、その中の一本が、撃っちゃあいけん筈の子鯨の胴に突きささった。子鯨は、海を血に染めながら、のたうちまわった。母鯨は急いで子鯨のそばに寄り、心配そうに離れようともせんじゃった。
 一方、父鯨のほうは、激昂して暴れまわり、尾びれで次々に小舟を海に沈めはじめた。
 漁師たちはみな海に放り出され、もはや、鯨をとるどころじゃあない。命からがら岸にむかって泳ぎはじめた。
 傷を受けた子鯨が、その後どうなったかは全くわからん。

 そいやけど、貧しい漁師が痛む体を引きずって我が家へ帰ってみると、いとしい一人むすこが死んでおった。
 それはちょうど、もりが子鯨に命中した時間に、むすこが高熱を出して、もがき死んだちゅうことじゃて。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


 
(注)
この話は『下関の伝説』や、『ながとの民話』などにも収録されている。
題名としては『くじらの話』『子くじらの話』『鯨の願い』などとなっており、これによく似た話が『大津郡誌』にも載っていると、佐藤治氏は書いている。佐藤氏によれば、関門海峡を鯨が通過したことは、明治にはいってから現在まで二度あった。子鯨の話は、そのうちの一度で、明治四十年のことだそうである。
それはさておき、先年も、関門海峡を三頭の鯨が通って大騒ぎした。山口新聞によれば、昭和四十八年六月一日午前十時四十五分ごろ、完成間近であった関門橋の下を、十三メートルか十五メートルくらいの鯨が通ったというのである。
この噂は、またたくまに広がり、海岸べりは物凄い人だかりとなったが、鯨はゆうゆうと泳いで海峡を東へのぼって消えたそうである。
同紙にはその証拠写真まで掲載されていたが、『子鯨の話』と同じく、三頭の鯨であるところが、何か因縁めいている。

Posted on 2018/02/15 Thu. 09:40 [edit]

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15

金の弦(きんのつる) 

金の弦(きんのつる)


 彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。

 むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。
 浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。
 ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。
 浦びとたちは、嘆き悲しんだが、
『わしらの信仰が足りなかったから』
 と、同じ場所に、もう一本の桂の木を植えて、以前にもまして、日夜おがんだ。

 あくる年の春、三日月がだんだん円くなりかけたある夜のことである。桂の苗木が金色に輝いているのを一人の浦びとが見つけて、みんなを呼び集めた。
 あの浜この村から多くの人びとが集まって来た時は、桂の苗木はぐんぐん大きく伸びはじめていた。
 あれよあれよと浦びとたちが驚きの声をあげている間に、桂は三日月のように半円を描きはじめ、やがて、スポンと音がして、根が抜けた。それから、そのままゆっくりと宙を舞い、浦びとたち一人一人の肩にそっとふれて、ゆっくりと空高く昇っていった。

 それからというもの、浦びとたちは三度び桂の木を植えないことを話し合い、岩山にしめ縄だけを張って『金の弓弦の岬』と呼び信仰をおこたらなかった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2018/02/14 Wed. 11:13 [edit]

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14

金の鶴 

金の鶴


 田の首の泥田には、毎年、冬になると鶴がやって来た。
 ある年、その中に一羽だけ、金色に輝く鶴が居た。村びとたちは驚いてワイワイ集まって来たが、よく見ると羽が折れていて、歩くのがやっとらしい。
『これは可哀そうだ。掴まえて手当てをしてやろう』 
 と、近寄ろうとすると、鶴たちは金の鶴を囲み、羽をバタバタ広げて寄せ付けない。
 こんなことが毎日つづいたので、鶴たちはエサを捕りに行くことも出来ず、一羽、二羽と飢え死んでいった。
 村びとたちは、ようやくそれに気がついて、しばらくは鶴に近寄らないことにした。
 鶴たちは安心して、またもとのように四方へ飛び立ってはエサを捕り、金の鶴のところへ運びはじめた。
 しかし、正月が来て、寒もさめたというのに、金の鶴の羽は折れたままで、見るも痛々しい。
『何とかしてやりたいものだ』
 と、村びとたちは集まってラチのあかない話ばかりし合っていた。
 ある夜のこと、鶴たちが寝静まったころ、一人の老人が、そっと忍び寄って、金の鶴を掴まえた。村びとたちは大喜びで手分けをして、ドジョウを捕ってきたり、羽の手当てをしたりして、毎日、田畠に出かけるのも忘れた。
 その甲斐あって、春が近づいたある日、金の鶴は飛び立つことが出来るまでになった。そして鶴たちは、金の鶴をかばうようにして田の首を飛び立った。
 大勢の鶴が名残りを惜しんで、田の首の空をグルーッと一回りした時であった。沖を通る船から弓矢が放たれて、金の鶴の首を射ち抜いた。金の鶴は、まっさかさまに落ちて岩礁に消えた。
 あくる年から、心待ちにする人びとの前に、とうとう鶴は姿を見せなくなった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
『よそ者が鶴を撃った』という話はつい最近まで、田の首あたりで聞くことが出来たという。
鶴は『たづ』とも呼び、『田鶴の首』が転じて『田の首』となったという説がある。
また、散木集に、たつの居る亀の首より漕ぎ出て心細くも眺めつるかな
と歌われていて『亀の首』が『田の首』のことであるという説もある。

Posted on 2018/02/13 Tue. 11:45 [edit]

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13

金の蔓 

金の蔓


 むかし、田ノ首の岬の上に、大きな金の蔓が生えていて、朝夕さんぜんと輝いていた。

 里びとはもちろんのこと、ここらを航海する舟びとも、この不思議な現象に心うたれて、誰も取る者はいなかったが、ある日のこと、欲の深いマドロスが、ひそかにこの金の蔓を根元から引き抜き、船に積んで出航した。

 すると、たちまち大風が起こり、船はそのすぐ近くにある鳴瀬の暗礁に打ち上げ、木っ端微塵に砕けて、マドロスたちは、一人残らず激流にのまれて死んだ。

 そのため、この不思議な金の蔓は、永久に姿を消したが『金のツル岬』と呼ばれて、名前だけは残された。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『馬関覚え帳』に西白道氏書いているものである。
ここでは、ツルが『蔓』となっており、マドロスが出てくるので、明治以降の新しい話であろう。

Posted on 2018/02/12 Mon. 11:27 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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12

鬼の墓 

鬼の墓


 舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。
 むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。

 そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。
 その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。
 鬼どもは大慌てでわれさきにと逃げはじめたが、時はすでにおそく、次つぎに落雷して、ことごとく死んでしもうた。
 ところが、死骸となった鬼どもの表情は、ほとんどが赤ん坊のように柔和にあどけなく美しかった。

 それをみたテントウ様は、
『鬼も、死ねば天に還るか』
 と、つぶやかれて、眼鏡岩のそばに鬼の死体を集めて、ねんごろに葬られた。
 しかし、その数は思っていたよりもはるかに多く、とうとう大きな山になってしまった。テントウ様は、死体の山に土をかけ、その冥福をお祈りになった。

 やがて、この浦にものどかな春がやってきて、人びとは鬼の墓のことを『丸山』と呼び、眼鏡岩の近くの岩屋を『鬼穴』と呼ぶようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
舞子島近くの海岸線は、約三千万年前の浸蝕がそのまま残されていて、奇岩怪礁の地であるが、この付近は、今でも『鬼崎』と呼ばれ、『テトリガンス』を『鬼穴』と呼んでいる。
眼鏡岩や『丸山』は、通称、ドックの浜に、現在もそのままの形で残っている。

Posted on 2018/02/11 Sun. 12:17 [edit]

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11

島が動く 

島が動く


 むかし、竹ノ子島は、二つに分かれて、一方の島には鬼がようけ(たくさん)居ったので、『鬼ヶ島』と呼ばれていた。これは、そのころの話。

『オーイ、大変だぁ』
 鬼どもが集まって酒を飲んでおると、赤鬼が、大声でわめきながら青うなって飛び込んできた。
『どうした、どうした』
『何事が起こったんじゃい』
 鬼どもはゾロゾロ寄って来て、青い顔をしてブルブルふるえ、物も言えん赤鬼を取り囲んで座った。
『出てみい。むこうの島が、こっちいやって来よる』
『バカッ、落ち着けいや』
『むこうの島から、一体、誰が来よるんじゃ』
『いや、違うっちゃ。島が、島がのう、島が動いて、こっちい来るんや。危ないけえ早よう逃げよう』
『こいつ、気がおかしゅうなりおったぞ。ほっちょけ、ほっちょけ』

 鬼どもはゲラゲラ笑いながら、腰をあげて外に出て行ったが、ひょいと砂浜のむこうを見て、ぶったまげた。
 南側の大きいほうの島が、ジワーッ、ジワーッと、こっちに近づいて来よったからだ。それだけじゃない。鬼どもが住んでおるこっちの島も、コソリッ、コソリッと動いちゃあ向こうに近づきつつある。眼を広げてよう見ると、むこうの島は、波までけたてて、速度を早めたらしいので、さあ大変。

 赤鬼も青鬼も、みんな青うなって、青鬼の奴なんざあ紺屋の紺つぼに落ち込んだように青うなって、ころげて逃げた。
 どいつもこいつも我さきにと浜の舟に飛び乗って、慌てた奴らがゴチャゴチャに漕ぎはじめた。平常から悪いことばかりして居る鬼どもは天罰てきめん。
 北へ逃げた奴は『螺ノ瀬』にぶつかって全滅、南へ漕いだ舟は『獅子ヶ口の瀬』に呑まれて、みんなオダブツ。

 それまでは、鬼の居る『鬼ヶ島』と、人間の住む『竹ノ子島』の間は、だいぶ離れておったが、この二つの島はその日から一つになって、それでも、まだこまぁい(小さい)竹ノ子島が出来た。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
竹ノ子島付近には、鬼の伝説が多く残されている。
鬼といえば、何となく凄みのある話を想像させるが、この辺りで聞く『鬼』は一様にとぼけた味があって面白い。
『獅子ヶ口』『栄螺瀬』『蛸岩』など、鬼にまつわる伝説は多いが、年々、忘れられてゆくのがたまらなくつらい。

Posted on 2018/02/10 Sat. 15:04 [edit]

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10

六連の大鐘 

六連の大鐘


むかし、六連島の西教寺には、重さ三十二貫(480キロ)もある大きな釣鐘がありました。
鐘はふつう時間を知らせるために鳴らしますが、ここのは、それ以外に舟が安全に進むように羅針盤と危険を知らせる警鐘の役目をもっており、特別な大きな釣鐘を作ったのでした。

それほど六連島のあたりは、漁船、そのほかの舟の行き来がはげしく、また遭難も多かったのです。
とくに六連島を含んだ馬島、藍島、白島一帯は、霧の名所で、この霧に閉じ込められて方向を間違える漁師はたくさんいました。
そうしたときには、必ず島の人はこの鐘を乱打して方向を知らせてやりました。


こんなことがありました。

夜釣りにでた漁師が舟の上でウトウトしていますと、目の前に大きな怪物が現れました。
はっきり目をすえてみると、それは大入道で、人間が四、五人はいれそうな目をギョロギョロさせ、口は耳まで裂け、いまにも舟におおいかぶさろうとしていました。
とたんに漁師は目を回してしまいましたが、それからしばらくして、正気にもどってみると、あの大入道の姿はなく、深い夜霧の中から鐘の音がかすかに聞こえてきていました。

島の人たちは、この怪物を海坊主といっていますが、海坊主のいたずらは、このほかにもまだあります。

真っ暗い闇の中に舟を走らせていると、目の前にこちらを向いて矢のように走ってくる舟があります。
危ない、ととっさに舵を変えてみたが、どうしても舵が動きません。
向こうの舟は、ますます速力をまして近づいてくる。
あせればあせるほど、こちらの舟は吸いつけられるように向こうの舟の真正面に進みます。
アッ、衝突。
気を失った漁師が目をさましてみると、さきほどまで猛スピードで突っ込んできた舟の姿はなく、また自分の舟も壊れていませんでした。

このほか、空から「水をくれ、水をくれ」と叫んで、舟を追いかけてくることもあるし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っ張り込むこともあります。


ある霧の深い夜の出来事です。

一人の漁師がいつものように夜釣りにでていますと、自分の舟が同じ場所をくるくると輪をえがいて回りはじめました。
風もあまりなく、波もおだやかなときなので、漁師は不思議に思って、船べりから身を乗り出して海中を見ると、海坊主が舟の底をくるくる回している。
と見る間に、目もくらむほどの早さに変り、漁師は今にも海に放り出されそうになりました。
もう助からない、いまはこれまでと、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と夢中でお経を唱えました。
そのとき漁師の頭の中に、かすかに“ガーン、ガーン”と鐘の音が響いてきました。
と見る間に、舟の回転はだんだんゆるくなりましたが、それでも漁師はまだ目を明けずに「南無阿弥陀仏」と唱え続けました。
鐘の音はしだいに近くなり、そのうちピッタリと舟が止まりました。
漁師は恐る恐る目を開いてみますと、目の前に六連の島がポッカリと朝霧の中に浮いていたということです。


こうして、六連あたりの漁師は、よく“あやかし”に襲われますが、そのたびに六連西教寺の釣鐘は、この“あやかし”退治にご利益があったといいます。


(注)
あやかしとは、船の難破しようとするときに出るという海上の怪物。
六連島へは、いま竹崎町から船が通っていますが、約30分で着きます。
竹崎町から距離にして約6キロメートル、島の周囲3.5キロメートル、世帯数56、人口253人です。

この島の名は、古い本によると日本書紀に「没利島」と記されています。
伝説によりますと、いまから約三百五十年前、この島にある西教寺を最初に開いた人で、麻生与三衛門高房ほか、五人がはじめてこの島に渡り、ここに住みつくようになりましたが、島の土地を分けるために縄でこの島を六等分したことから六連島と呼ぶようになったといいます。

また別の説によると、この六連島一帯には、この島を中心に馬島・藍島・白島など、六つの島が連なっているので六連島の名がついたといわれています。

ところで、この六連島のことは別名で蟹島といっています。
この島を空から見ると蟹の形をしているから、そう呼ばれたのでしょう。
またある人にいわせると、大昔、下関の火の山が大爆発したとき、吹き上げられた熔岩が西に流れ、椋野、幡生から海に入り、玄海に向かいましたが、たまたまそこに蟹の大群がいて、その熔岩を鋏み止めたといいます。
そうしてできた島だから蟹島と呼んだといいます。

いまでも島の北側の海岸に「蟹の瀬」というところがあり、森の中に「蟹の目」という地名が残っています。
島の古老の話では、むかしは六連島の人は絶対蟹を食べなかったといいます。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2018/02/09 Fri. 10:12 [edit]

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09

六連のあやかし 

六連のあやかし


 下関の離島、六連島は、その周辺に浮かぶ、馬島、藍ノ島、白島などをふくめて霧の名所として名高く、それだけ舟の遭難もまた多かった。
 だから漁師たちは、昔から、この付近には『海坊主が出る』とか、『あやかしにやられる』とか言ったものだった。そして、霧の深い時など、ことさら舟を出すことを恐れていた。


 こんな話がある。

 夜釣りに出た漁師が、ウトウト眠りかけていると、目の前に大きな怪物があらわれた。
 それは、四斗樽くらいの目をギョロ、ギョロさせ、口は耳まで裂けた大入道で、今にもこの小舟をひと呑みにしようとしている。それを見て漁師は、とたんに眼をまわした。

 しばらくして正気に戻ってみると、あたりには、何の姿も見えなかったという。
 これを海坊主というのであろう。


 また、ある時こんなことがあった。

 ある霧の深い夜であった。一人の漁師がいつものように夜釣りに出ていると、突然、自分の舟が同じ場所をクルクルと輪をかいて回りはじめた。それは、目のくらむほどの早さで、漁師は、今にも舟から海に放り出されそうであった。
 漁師は生きた心地もなく、ただ目をつむったまま、『南無阿弥陀仏』『南無阿弥陀仏』と夢中で唱えた。
 すると舟の回転はだんだんゆるみ、しばらくしてピタリと止まった。
 これが、いわゆる『あやかし』に襲われたというのであろう。


 まだ、ある。

 漁師が、真っ暗い闇の中を走らせていると、目の前に、こちらを向いて矢のように走ってくる舟があった。
『危ない!』
 と、とっさにかじをかえてみたが、どうしてもかわらない。向こうの舟はますます速力を増してばく進して来る。あせればあせる程、こちらの舟は吸いつけられるように、向こうの舟の真っ正面に向かって進む。
 アッ、衝突!
 失神した漁師がふと正気に戻ってみると、そこには、さきほどの舟の姿も見えないし、自分の舟は何も異常なかったという。


 またある時には、何者かが、空から『水をくれ、水をくれ』と叫んで、舟を追っかけて来ることもあったし、海の底から何か大きな網でグイグイと舟を引っぱり込まれそうになったこともあったというが、これらはすべて『あやかし』という魔物の仕業であろうか。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『ながとの民話』に書かれている。
『馬関覚え帳』や『下関の伝説』によれば、六連島西教寺の鐘が鳴ったとたんに、海坊主や、あやかしは消えてしまった、と書いてある。
ところで、六連島という名の起こりについては、
『むかし、麻生与三衛門尉高房ら六人が蟹島にやって来て住みつき、島を六等分して、「六人が末永く、手を連ねて生きてゆこう」と誓い合ったことから六連島と名付けられた』という説がある。『手を連ねて』というのは、『手を取り合って』つまり協力の意である。

Posted on 2018/02/08 Thu. 10:30 [edit]

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08

蟹島 

蟹島


 むかし、むかし、大むかし、下関の火ノ山は、その名の通り、火を噴く火山であった。

 ある年、火ノ山が大爆発を起こした。そして噴き上げられた熔岩は、響灘へと流れ込んだ。
 そのころ、響灘には大群のカニが棲んでいたが、その大半は身を挺して熔岩をせき止め、残る半分は、懸命に鋏み止めたという。

 この時の何千億というカニの死骸は山となって、一つの島が出来た。
 それが、響灘に浮かぶ『蟹島』で、空からこの島を見ると、今でも、カニそっくりであるという。
 そしてこの島には、北の浜に『蟹の背』という瀬があり、森の中には『蟹の目』と呼ばれる所が残っているが、昔からこの島の人びとは、絶対にカニを食べなかったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
蟹島は、今の六連島の古称である。というより、俗称であろうか。
この島には、国の天然記念物指定を受けた雲母玄武岩があるが、これは、蟹の精が凝結して出来たものだ、と信じている人が今でも多い。
六連島の灯台は、明治四十一年十一月の完工で、全国で最初に出来た灯台の一つである。従って、翌五年六月、六連島行幸の明治天皇は、洋式灯台というものを、ここで初めて御覧になられた。
この時、島の人びとが、土下座して天皇をお迎えしようとしたところ、『立って奉迎してもよろしい』と言った西郷隆盛の思いやりは、いつまでも古老の語り草となった、と伝えられている。

Posted on 2018/02/07 Wed. 11:33 [edit]

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07

おおひと 

おおひと


 むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
 もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。

 彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
 島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。


  大江屋敷の おおひとは

  けんのう飛びで どこ行った

  和尚さんに聞いたれば

  和尚さんは知っちゃあない

  タイヨさんに聞いたれば

  タイヨさんも知っちゃあない

  どーこー行った どこ行った

  地下の山を けんのうで

  大江山を 飛び越えた


 けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
 このわらべ唄については、面白い話があります。

 むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
 その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
 それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
 大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
『おおひと』の話については、他にも幾つか語りつがれたようであるが、島の古老たちは、ほとんど覚えていない。
大江屋敷は、むかし、本村町五丁目の山手にあったといい、今では地番、あるいは屋号として残されているにすぎない。つまり『大江の新屋』『大江の母屋』『上の谷』『下の谷』『先の谷』などがそれである。
ところで、同じような話が、北九州市門司区にも残されている。それは、二夕松町の小森江東小学校の近くにある巨人坂(おおひとざか)という地名で、昔は二畝ほどの大きな人の足跡があったという。
大江の谷にも、同じように大男の足跡が残されていたが、明治の終わり頃、掘り返されて無くなってしまったといわれている。
この話については、清永唯夫氏が『関門海峡百話』で、『海峡をまたぐというイメージが、関門橋によって新しい観点からよみがえり…』と書いておられる。
また『おおひと』について、門司では『巨人』という字をあてているが彦島では『大人』と書いている。

Posted on 2018/02/06 Tue. 14:18 [edit]

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06

こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
西山の波高バス停の近くに『明神』と呼ばれる祠がある。そのそばに『こびんおおひと』の足跡だと伝えられる石が残っている。
『おおひと』の地名としては、本村のほかに、西山フイキンの浜が『大人崎』で、田の首の生板の瀬に『大人岩』があり、弟子待には、『大人足跡砲台』か゜実存していたことが、『白石家文書』に記されている。

Posted on 2018/02/05 Mon. 13:04 [edit]

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05

巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2018/02/04 Sun. 11:01 [edit]

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