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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
西山の波高バス停の近くに『明神』と呼ばれる祠がある。そのそばに『こびんおおひと』の足跡だと伝えられる石が残っている。
『おおひと』の地名としては、本村のほかに、西山フイキンの浜が『大人崎』で、田の首の生板の瀬に『大人岩』があり、弟子待には、『大人足跡砲台』か゜実存していたことが、『白石家文書』に記されている。

Posted on 2019/12/08 Sun. 10:07 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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08

巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/12/07 Sat. 10:09 [edit]

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07

七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/12/06 Fri. 10:51 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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06

引島は彦島 

引島は彦島


 むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。
 ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。
 ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。


 また、こんな説もある。

 むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。
 外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。
 その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。
 だから、胃までも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。


 さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。
 そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

 しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

 これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。
 それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。


 時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。
 この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。
 その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。
「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」
 それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/12/05 Thu. 09:25 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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05

左眼が細い 

左眼が細い


 今から八百年も昔の話。

 ある秋風の身に沁む夕刻、里の西南の海から、一筋の光が立ちのぼっているのを漁師が見つけた。漁師は早速、島の人びとに知らせ、人びとは河野通次にも報告した。
 大急ぎで駆けつけた通次は、矛を片手に海中に飛び込み、光を指して泳いだ。そして、その中ほどに矛を突きさすと、八幡尊像があがって来た。尊像の背面には、河野八幡、と刻まれていたが、いたわしいことに、矛は尊像の左眼を貫いていた。

 さっそく通次は舞子島に祠を建て、光格殿と名付けて島の守り本尊にしたが、そり以来、彦島の十二苗祖と呼ばれる人びとは、代々、現在に至るまで左眼が細いといわれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
『サイ上り神事』が明鏡であるのに対し、こちらは『八幡尊像』となって居り、しかも『河野八幡』と彫られてあったという所が、どうも出来すぎている。
 また『左眼が細い』という話の他に、『右眼が二重瞼であるのに対し左眼は一重である』と伝える説もあるようだ。
『硯海の楽土』という本によれば、明鏡を引き揚げたのは矛という記録と網であったという記録とがあるという。
 しかし、『サイ上り神事』や、『左眼が細い』などの伝説を尤もらしくさせる為には、やはり『網』でなく、『矛』でなければならないだろう。

Posted on 2019/12/04 Wed. 10:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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04

身投げ石 

身投げ石


 海士郷桟橋の裏手の丘は、小戸山と呼ばれています。その北側の中腹、小瀬戸海峡に突き出たあたりに、大きな岩が海面からそそり立っています。
 それが伝説で名高い『身投げ石』で、岩の上には幾つもの五輪塔やお地蔵様がまつられています。
 むかし、壇ノ浦の合戦のあと、平家の一武将の妻が海峡の潮に流されて、小戸の浜に打ち上げられました。
 不思議に一命をとりとめた妻は、御裳川の藻屑と消えた夫を慕って毎日、小戸の岩にのぼり、武将の名を呼び叫んでは泣きつづけました。
 再び戻って来る事の無い夫を呼ぶその姿に、浦びとも、つい貰い泣きする始末でした。
 ある風の吹きすさぶ夕暮れのこと、女は、狂乱したように大岩にかけのぼって、東を伏し拝みました。そして、大声に何かを叫んだかと思うと、そのまま渦巻く小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。
 浦びとは、女の死を悲しみ、岩のそばに小さな祠を建てて供養しました。
 その後、誰いうとなく、大岩のことを『身投げ石』と呼ぶようになったということです。



富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
 下関と彦島を隔てる海峡は、正しくは、小瀬戸海峡であるが、一般には、小門海峡と呼ばれている。
 そして、下関側の伊崎には『小門』という地名があり、その対岸、彦島の地名は『小戸』である。どちらも『おど』と呼ぶ。

Posted on 2019/12/03 Tue. 09:32 [edit]

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03

身投げ岩 

身投げ岩


 大阪の豪商の一人娘、お米は評判の美人でした。お米には、行く末をちぎった男が居ましたが、ある日、男は他に恋人をつくり、手に手をとって大阪を逃げてしまいました。
 それを聞いたお米は親の止めるのも聞かず男のあとを追って家を飛び出しました。そして、諸国を尋ね歩いた末、彦島にやって来ましたが、求める姿はどこにも見当たりませんでした。

 心身共に疲れ果てたお米は、小戸の大岩に腰をかけて、逆巻く小瀬戸の潮を見つめていましたが、思いあまって、そこから身を投じてしまいました。

 その後、どこかでお米の噂を伝え聞いた若者が彦島を尋ねてきて、お米の最期をことこまかく聞き歩きました。そのあげく、自分の前非を悔いたのか、ある日、同じ岩の上から身を投げてお米のあとを追いました。


 それ以来、七日毎の命日の夜には、大きな青い火が二つ、小戸の空を追いつ追われつ飛んでは海に落ちて消えるようになりました。

そこで、島びとは西楽寺の和尚にお願いして読経して貰ったところ、その夜から二つの火は見られなくなりました。


 島びとは二人の供養のため、岩の上に石塔を建てて、いつまでも花を絶やさなかったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
お米は『発狂して』身を投げたという説もある。
この話には西楽寺住職が出て来るので、前項の『身投げ石』よりも、かなり新しい年代のことであろう。

Posted on 2019/12/02 Mon. 11:36 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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02

身投げ岩 

身投げ岩


 寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、女性は戦に同行することを強制されませんでしたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は罪もない彦島の漁師が担っていた平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって平家一門の滅亡で戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。
「新平家物語」によると義経は彦島に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。
 多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 身投げ岩の上にたつ桃崎稲荷大明神は800年たった今でも花が絶えることはありません。

Posted on 2019/11/28 Thu. 09:07 [edit]

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28

きぬかけ岩 

きぬかけ岩


 むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
 不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
 すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
 権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
 ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。

 そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
 そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。

 いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。

ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。

Posted on 2019/11/27 Wed. 11:09 [edit]

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27

桃崎稲荷大明神 

桃崎稲荷大明神


 かつてこのあたりは小瀬戸の風景の中でも最も美しい場所と言われており、対岸には高級料亭が軒を並べ、漁船に篝火をともし、捕れたての魚を客に振る舞う船遊び(小門の夜焚)も盛んでしたが、大正から昭和にかけて現在の大和町付近の大規模な埋め立てが行われ、潮の流れが変わってしまい、今はもうその面影もありません。
 その一角にあるこの身投げ岩は緑の木立を背景にいくつもの巨岩が屹立している場所で、地形的には老の山の山かげにあり、入り組んだ細い路地の奥なので通行人もほとんどなく、身投げ岩の存在は一般にはあまり知られていません。

 12世紀後半の源平の時代、ここ彦島は平清盛の息子、平知盛の所領地でした。当時平家は木曽義仲によって京都を追われ、瀬戸内や九州各地を流浪する身となっていました。寿永4年(1185)2月、屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平家一門は、平知盛が平定した瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして体制の立て直しを計ろうとして、瀬戸内の西側の守りの要衝である彦島にやってきました。

 彦島は平知盛の築いた彦島城を中心とした平家の要塞となっており、一門を追って西下してくる源義経を迎え撃つ準備が着々と進められました。そして、寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが起きるわけですが、この戦いに平家方はここ彦島の福良(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、海峡の潮の流れを知り尽くした猛将平知盛の指揮のもと天皇の御座所を持つ巨大な唐船をはじめとした多くの船で次々に海峡に出ていきました。
 安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、平宗盛は女性には自分たちと共に戦に出ることを強制せず、希望する者は一門から離れて島に残ることを許しましたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた平家方が優勢でしたが、四国や九州から参戦していた郎党の相次ぐ離反や、当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって、朝から始まった戦は夕刻には平家の敗色が濃くなっていました。

 運命を悟った平家一門が男と言わず女と言わず次々に壇ノ浦に入水して源平の最期の合戦は源氏方の勝利で終わりました。
 このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて入水し、天皇の象徴である三種の神器のうちのひとつである宝剣も失われました。

 戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。「新平家物語」によると義経は彦島に、梶原景時は串崎に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 彦島で細々と漁師を営んでいた男達は、島の人々を非常に大切に扱った知盛のお役に立てるなら・・・と、平家の軍船の舵取りや水先案内人として一門に同行しました。
 それまでの水上戦の常識であれば、彼らのような現地で雇われた水夫達は、たとえ平家が滅ぶとも、命だけは助けられるのが当然でしたが、義経の奇策によって、源平の争いにはなんら関係のない彼らまでもが皆殺しにされ、また、島に残った女性達もその源氏の兵士達の傍若無人な振る舞いによって多くが命を落としました。

 現在の島には源氏にまつわる史蹟は何一つ語り継がれておらず、源平の合戦から800年がたった今でも、この地は強烈な「平家贔屓(びいき)」の地として、平家の哀話が大切に語り継がれています。
 平宗盛が早々に放棄して逃げたため、源氏軍の滞留がなく、彦島ほどの被害を受けなかった屋島(香川県)には源氏に関する史蹟が数多く残されて、今では観光資源として扱われているのとは非常に対照的です。

Posted on 2019/11/26 Tue. 10:57 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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