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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

関門トンネルと惣の話 

関門トンネルと惣の話


 彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
 なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。


 明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
 そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』

 明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
 トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。

 ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
 と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。

 トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…


 そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。

 やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
 その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
 と、旗を振ったものじゃ。

 ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
 惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
 ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
 と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。


 また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
 そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
 行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
 と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。

 座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』


 戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。

 いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
偕成社版の『山口県の民話』に、日本民俗学会の松岡利夫氏は、『関門トンネルが掘られる当時から、トンネルより橋をと考える人びとが下関の一部にはいたのでしょう。そうした気持ちがたまたま「惣」という男をかりて世間話としてひろがっていったものかと思われます』と解説されている。
下関でもあまり知られていないこの話について『岩国市で聞いたことがあります』と、日本子どもの本研究会の稲生慧氏に聞き、この種の話の広がりを知って驚いたことがある。

Posted on 2019/02/20 Wed. 11:00 [edit]

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20

辰岩(たついわ) 

辰岩(たついわ)


 本村小学校の裏山に小さな森があります。その中に伝説の『辰岩』があるということはあまり知られていません。

 ずいぶんむかしの話です。

 この森に平家の落人がかくれ住んでいました。彼は、いつかはきっと昔のような平家全盛の時代がやってくると信じ、住まいの近くに麻を植えたりして細々と暮らしていました。
 しかし、そんな日は再びやってくる筈もなく、いつのまにか年老いてしまい、辰の年の三月二十四日、落人は森の中で腹かききって死んでしまいました。
 それからというもの、毎月二十四日になると、その森から大きな龍が出ては海峡をにらみつけ、大声に吠えたてましたので、島びとたちはその日が来るのをとても恐れていました。

 ある年の春、偉いお坊さんが、その話を聞いて、彦島を訪ねて来ました。そして、たった一人で森に入って行き、三日三晩お経をあげましたところ、その翌月から龍は出なくなりました。
 島びとたちは安心するとともに、『あの龍は、落人の怨霊であったのか』と、みんなで供養塔を建てようと話し合って、久し振りに森に入ってみました。
 すると、落人の住まいのあった場所に、どこから運んだのか、大きな自然石が建てられていました。それは、人間の力ではどうしても動かせないほどの大岩で、しかも、これを運ぶのを見た人は誰も居ません。
 島びとたちは不思議でなりませんでしたが、結局、これは落人の墓だろう、ということで、そこに花を供えて帰りました。

 そのうち、大岩のことを誰いうとなく『辰岩』と呼ぶようになりました。

 ある年のこと、
『辰岩の下には、平家の財宝が埋められていて、落人はそれを守っていたらしい』
 というまことしやかな噂が、ひそかに流れました。
 それを聞いたある欲の深い男が、秋の夜更けにそっと森に入って辰岩の下を掘りはじめました。ところが不思議なことに、鍬を振り下ろしたとたん、男は発狂してしまいました。
 その後、伊崎からも財宝の噂を聞いてやってきた男が居ましたが、やはり同じように気が狂って、
『龍がにらんだ、龍がにらんだ』と、つぶやくようになりました。
 そんなことが何度もあって、島びとたちは落人の命日に花を供える以外、誰もその森に近づかなくなりました。

 何年かたちました。

 ある日のこと、小倉の与八という商人がやって来て、森の前に島びとを集めました。そして与八は、こう言いました。
『わしゃあ、辰岩の宝物が本当か嘘かを確かめるために、わざわざ小倉からやって来たんや。今までは、どいつもこいつも、夜の夜中に内緒でそろっと掘ったけぇ気が狂うたんやと、わしは思う。そいで、わしゃあ、みんなの見ちょる前で堂々と掘るけぇ、立ち会うてくれいや』
 島びとたちは、恐る恐る与八のあとにつづいて森に入って行きました。

 与八は、多くの人びとの見守る中で、辰岩の根に、ガシッと、鍬を打ちおろしました。
 そのとたん、与八は、
『アーッ』
 と悲鳴をあげました。そして驚いたことに与八は両手を高くあげ、頭をふりふり辰岩のまわりを走りはじめました。島びとたちはどうすることも出来ず、ただ、あれよ、あれよ、と眺めているばかりでした。
 そのうち、持ち上げていた鍬が頭に落ちて、与八は死んでしまいました。

 島びとたちは、辰岩のそばに小さな墓を建て、与八の霊を慰めると共に、それ以来というもの、辰岩に近づくことも、また、その話をすることさえも避けるようになったということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
石ヶ原の森に『辰岩』と呼ばれる大岩は、今も建っている。
何年か前、隣接地に林兼造船アパートが新築された際、施工の大林組は、この岩を取り除こうとしたが、辰岩伝説を聞き、西側の一面をセメントで固定するだけで、その後、工事が終わるまで触れようともしなかった。
時代の先端を行く国際的企業も、こんな話には弱いようだ。
なお、戦前、辰岩の森には五輪塔や大小の地蔵尊が幾つも建っていて、その中に『与八』と書かれた墓標も見られたが、戦後、ほとんどなくなってしまった。

Posted on 2019/02/19 Tue. 11:24 [edit]

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19

手取り鑵子(てとりかんす) 

手取り鑵子(てとりかんす)


 西山の海岸は、新生代第三紀層(約三千万年前)から成って居り、奇岩怪奇勝の連続ですが、あまり知られてはいません。
 青海島よりも、また、東尋坊よりも、そりゃ素晴らしい、と島の古老たちは自慢しています。

 その、西山の舞子島の近くに『手取りカンス』と呼ばれる怪崖の洞窟があります。多年の風化作用によって、穴の中にはいろいろな形をしたものがぶらさがっています。

 むかし、その中に、茶釜そっくりのものがぶらさがっていて、まるで金で作られたもののように、キラキラ光っていました。
 里びとたちは、これは神様が作って下さったものだ、と有り難がって日夜、参拝を欠かさず大切にしていましたが、ある日、小倉平松の漁師がこれを見つけました。
『この茶釜は見事だ。持って帰って家の宝にしよう』
 と、茶釜をもぎ取り、船に積んで帰りかけたところ、俄かに海が荒れて、漁師も急に腹痛をもよおし、ガマン出来なくなってしまいました。

 恐れおののいた漁師は、茶釜を海に投げ捨て、大急ぎで小倉へ帰りました。すると不思議なことに、嵐も腹痛もおさまったということです。

 このあたりでは、茶釜のことを『鑵子』とも言いますので、その後、この岩屋のことを、誰いうとなく『手取りカンス』と呼ぶようになったと言われています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『馬関太平記』では、小倉の長浜の漁師、となって居り、さらに、茶釜では無く、『叩けばガンとなる鐘がさがっていた』と書かれている。しかし、あとの話は殆ど同じである。
尚、鑵子については、古老たちはいずれも『茶釜のことを彦島ではカンスと云うておったが…』と付け加えている。
しかし、鑵子は茶鑵とも呼ばれ、茶の湯に使う茶釜のことである。別に真鍮のものもあるようだ。従って『カンス』は、何もこの地方の方言ではないわけである。

Posted on 2019/02/18 Mon. 11:40 [edit]

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18

俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


(注)
田ノ首地区には、深田堤、段地堤、神田堤、雁谷迫堤などの大池があって、海賊たちは処刑した者の胴を池に投げ込み、首は近くの田に埋めた、という伝説がある。
『田の首』という地名がそこから来た、と今なお信じている人も多い。
『マナイタの瀬』は現存する地名であるが、これを俎上の鯉というオチをつけて語り継いだところが、なかなか面白い。

Posted on 2019/02/16 Sat. 09:43 [edit]

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16

サイ上り 

サイ上り


 それは、平治元年(1159年)十月十五日のこと。
 里から西南にあたる海上に、紫色の雲がたなびき、その海中が黄金色に輝いているのをイナ魚取りの漁師たちが見つけた。
 その話は、またたくうちに里中にひろがり、河野通次をはじめ、多くの人びとが浜辺に集まってきた。

 彼らは、不思議な光を遠くから眺めながらワイワイガヤガヤ、勝手なことをしゃべり合っていたが、その中の一人が、通次の命を受けて、それを調べることにした。男は恐る恐る海に入って、鉾で海中を突いた。すると、そこから明鏡があがって来た。明鏡の裏面には八幡尊像が彫られており、鉾はその左眼を突きさしていた。
 しかし、通次は、これこそ我が守り本尊だ、と大喜びで、近くの小島にお堂を作り、明鏡をまつって『光格殿』と名付けた。

 翌年、即ち永暦元年(1160年)十月十五日、通次は、明鏡引き揚げ一周年を祝い、光格殿の前で奉納舞いを舞った。
 その時、通次は甲冑で身をかため、明鏡引き揚げの様子を再現したが、興奮のあまり、
『さあ、揚がらせ給もうたぁ』
 と、大声で叫んだ。その日から、光格殿の小島を、『舞子島』と呼ぶようになった。

 その後、毎年十月十五日には、明鏡引き揚げの舞いを奉納するのがならわしとなったが、正和二年(1313年)五代目河野通貞は、光格殿を西ノ原に移して、八幡祭礼式を定めると共に、奉納舞いを『サヤガリ神事』と呼ぶことにした。
 その神事というのは、まず、境内の中央に三角形の砂土を盛りあげ、榊を一本立てる。そのまわりを、かみしもをつけた三人の子供が、三角状に横飛びに跳ね、手にした榊を伏し拝む。それが三周したところで、甲冑を着て立ちをはいた武者が登場し、盛土を弓で突き、『さあ、あがった』『さあ、あがった』と叫びながら踊る。
 弓は鉾をあらわし、子供たちは、イナ魚の飛ぶさまであるという。
 やがて武者は、御神体が引き揚げられたことを意味して、喜びの声と共に、『さあ、あがらせ給うたぁ』と、大声に叫び、この儀式は終わる。

 つまり、『サヤガリ』とは、『さあ、あがった。さあ、あがった』という武者の叫びがなまったもので、それがいつのまにか、『サイ上り』に転じたのだろうと。古くから伝えられている。今では、彦島八幡宮秋季大祭の圧巻として広く知られている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
 『サヤガリ』は、今では『サイ上り神事』と呼ばれ、下関市無形文化財に指定されている。
 『下関民俗歳時記』によれば、
 『…通次甲冑に身をかため弓箱を携え、鬼門に向って数矢を放ち、従う武士もまたこれにならったものといわれ、いまでも十二苗祖末流の衆が武具甲冑姿で参列する。本殿祭、初輿祭、潮掻行事、サイ上り神事、本殿還幸祭と行われるが、サイ上り神事は潮掻きで心身を清めたあと…』行われると書かれている。
 藩制時代に於いては、この神事は毎年十月十五日に行われていたが、明治に入ってからは陽暦の十月二十七日に変わり、大正十年、正式に十月二十一日と定められ今日に至っている。
 なお、二十日は『宵宮』で、俗に『どぶ祭り』と呼ばれている。
 氏子たちは、それぞれの家庭で、十六・七日から甘酒を準備し、二十日の夜がちょうど飲み頃になるように作りあげるのである。いわゆる『濁酒まつり』である。

Posted on 2019/02/15 Fri. 10:38 [edit]

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15

帰られなかった佛様 

帰られなかった佛様


 むかし、十二苗祖をはじめ。彦島の人びとは西楽寺の門信徒であった。しかし、今ではそのほとんどが、下関の光明寺、了円寺、教法寺と、彦島の専立寺を、それぞれの旦那寺としている。

 今から約三百年もむかしの話。

 寛永十五年(1638年)九州天草の乱で敗れた小西の残党は、海賊に身をやつして玄海を荒らしまわっていたが、ある時、彦島までも襲って来た。
 彦島は、古くから何度も海賊の根拠地されてはいたが、この時ほど大量に、そして残虐な仕打ちを受けたことはなかった。そのため、島の人びとは、相次いで下関に避難することにした。
 折悪しく、その年の春、西楽寺の十九代住職が亡くなったので、本尊である阿弥陀尊、観音様、薬師様も避難して貰おうと、下関の福昌寺(今の専念寺)に預けた。

 島の人びとが疎開して二年後、つまり寛永十七年(1640年)幕府はキリシタンを禁圧する目的から『旦那寺請制度』を設けた。それは、士農工商、すべて、どこかの寺院にその門徒であることを届け出なければならない、という制度で『宗門改め』とも言う。

 彦島から避難していた人びとは、『西楽寺の門徒』であることを誇りにしていたが、廃寺同然となっている西楽寺の名を届け出るわけにもゆかず、仕方なく、光明寺、了円寺、教法寺に、それぞれ一時的な門信徒として申し出ることにした。彦島に残っていた僅かな人びとは、無住の西楽寺に届けることも出来ず、専立寺の門信徒となった。因みに西楽寺は時宗だが、四つの寺院はいずれも浄土真宗である。

 小西党の海賊どもが長府毛利のお殿様に征伐されて、疎開先の人びとが島に戻りはじめたのは、三十五年後の延宝元年(1673年)のことであった。

 ようやく懐かしい古巣へ帰ることの出来た人びとは、早速、西楽寺の門徒に立ち戻りたいと役人に届け出た。しかし、役人は『宗門改め制度は、永代である』と言って、その願いをしりぞけてしまった。
 西楽寺を旦那寺として仰ぐことの出来なくなった十二苗祖をはじめ島の人びとは、せめて福昌寺に預かって貰っている三像だけでも帰島させて欲しいと申し出た。
 早速、阿弥陀様だけが島に帰って来られたが、残る二尊像は、福昌寺が渋って、なかなか返してくれない。おさまらないのは島の人びとだ。人びとはたびたび下関へ渡って、平家の守り本尊だから、是が非でも阿弥陀様と一緒に安置すべきだ、と接渉しつづけた。

 三十年という月日が、またたくまに過ぎた。その間、島の人びとは、かわるがわる福昌寺に出かけて二像返戻を迫った。その熱意に動かされたのか、廃寺同然の西楽寺に新しい住職を迎えるという条件を確かめて、観音様だけが彦島に帰されることになった。それが宝永元年(1704年)のことであったという。

 しかし、残る薬師如来様だけは、どうしても返してくれず、そのうちどうしたのか、福昌寺からも行方知らずとなってしまわれた。

 島の人びとは、ひどく哀しんだが『阿弥陀様は平家一門の冥福と島の平和を祈り、観音様は、光明、了円、教法三山の隆盛を見守って下さる為に帰島され、薬師様は全国各地に隠棲している一門の落人を慰めるために諸国を廻って居られる』と、末永く言い伝えることにしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
現在、西楽寺には、薬師如来坐像と観世音菩薩が安置されている。
行方不明となった薬師如来立像について島の古老たちは『関の専念寺に行ったきりで…』と言うだけで、多くを語ろうとしない。
しかし、西楽寺本尊は三像でなければならないということから、幕末において『楠』から地蔵菩薩を移し、参道の一角に安置して、今に至っている。
この地蔵尊は、永暦二年(1161年)の春、河野通次が寄進したものであるが、その作は、弘法大師であると伝えられ、今でも参詣者が多く、線香が絶えない。

Posted on 2019/02/14 Thu. 12:51 [edit]

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14

地蔵踊り 

地蔵踊り


 むかし、西楽法師は、十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねになった。

『伊予の国、勝山城再興をはかり、今は、ひたすら隠忍自重…』
 河野家の主人がこう言うと、その家来の、園田、片山、二見、柴崎、小川諸家の人びとも
『主家の為には、私たちも骨身を惜しまずこうして忍んで居ります』
 と力強く答えた。

『私たちは、平家再起のために…』
 キッと眼を見開いてこう言ったのは、植田家と岡野家であった。
『ちよろずの波に沈みたもおた幼帝のおいたわしさと、一門の無念を思えば…』
 百合野、冨田両家の人びとは、そう言ってハラハラと涙を流した。
『小松殿の守護佛を拝する度に、一日も早く、平家の世を取り返さねばと…』
 登根、和田家の人びとも、ヒザを進めて言った。

 それぞれの立場から、それぞれの胸のうちを聞かされ、法師の眼にも光るものがあった。ややあって、法師は、ゆっくりと、つぶやくように言われた。
『諸氏の胸のうちは、よう判る。しかし、河野家滅びて既に百二十年。先帝入水からももう九十年を経ている。諸氏も、この島に住み付かれた頃は僅か十二名であったものが、今では分家もかなり増え、島の東西南北を支配するまでになられた。四国勝山の城も興したいであろう。平氏一門のくやしさも、思うに忍びがたいものがある。しかし…』
 法師は、十二苗祖の人びとの意図が、今の世では、既に無駄なことであり、たとえ兵を起こしたとしても、それに呼応して来る一門は、ほんの一握りでしかないことを、時間をかけてゆっくりと説かれた。

 だから、そんな考えはこの際、一切捨て去り、明日からは、子孫繁栄と島の開拓を目指して、十二氏が力を会わせて欲しい、と法師は何度も言われた。

 昼が来て、夜になり、法師を囲む十二氏の人びとは、それでも議論をつづけた。やがて朝が来て、昼から夜へと、その日も激しい論戦であったが、結局、人びとは、法師の意見に従ってみようと誓い合うことにした。

『法師、あなたの御意見に添うことに致しましょう。今日からは、鉾を納め、刀を鍬に持ちかえて、島の為、十二家の為に私たちは力を会わせて働きましょう』
 居並ぶ人びとの言葉に、法師もゆっくりうなずいて、
『平家の守り本尊に、諸氏の身柄を預けて下さいますか。これからは再興のことなど考えず、子孫と島の隆盛を誓い、十二氏が手を取り合って生きてゆくということを…』
 と涙ながらに話された。
『すべて、おまかせいたしましょう』
 十二氏の人びとは、口を揃えて、そう答えた。
『ああ、良かった。本当に良かった。これで私も、もう安心です。それでは、明日から島の開拓に精を出して下さい』
 法師の笑顔にも、十二氏の人びとにも、一すじ、二すじ、涙が光っていた。


 この日のことを『十二苗祖の誓い』と言うが、その後、毎年九月に行われる地蔵祭りの踊りに、この日の会話が取り入れられることになった。
 地蔵踊りは永い年月の間に広がって、下関やその近郊の盆踊りとなり、最近では『平家踊り』と呼ばれて、全国でも有名な踊りの一つに数えられるまでになっている。

 その踊りのハヤシで『ヤトエー ソラエーノ ヤトエノエー』というのは、法師が『良かった、本当に良かった』と喜ばれた時の言葉で、『マカショイ マカショイ』とか『アーリャ アリャマカショーイ』というのは、十二家の人びとが『すべて、おまかせいたしましょう』と言ったことから来ている。
 また。『ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤッサ』というハヤシ言葉は、誓いの翌日から島の開拓に励みはじめた様子を現したものだと伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
十二苗祖の誓いは、弘安元年(1278年)八月三十一日から九月一日へかけてであったと伝えられている。
地蔵祭りが毎年九月一日から三日間行われて来たのはそのせいであろうか。
この祭りは先年まで、本村交差点の近くに、三日間だけ、地蔵尊を西楽寺から移奉して行われて来たが、それも、交通と安眠の妨害が叫ばれ、現在は八月下旬の三日間を選び、本村小学校で行われている。
県道から校門に至る坂道は多くの夜店が並び、下関信用金庫本村支店前にはビアガーデンが開かれて賑わう。

Posted on 2019/02/13 Wed. 10:38 [edit]

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13

辰岩(たついわ) 

辰岩(たついわ)


 本村小学校の裏山に小さな森があります。その中に伝説の『辰岩』があるということはあまり知られていません。

 ずいぶんむかしの話です。

 この森に平家の落人がかくれ住んでいました。彼は、いつかはきっと昔のような平家全盛の時代がやってくると信じ、住まいの近くに麻を植えたりして細々と暮らしていました。
 しかし、そんな日は再びやってくる筈もなく、いつのまにか年老いてしまい、辰の年の三月二十四日、落人は森の中で腹かききって死んでしまいました。
 それからというもの、毎月二十四日になると、その森から大きな龍が出ては海峡をにらみつけ、大声に吠えたてましたので、島びとたちはその日が来るのをとても恐れていました。

 ある年の春、偉いお坊さんが、その話を聞いて、彦島を訪ねて来ました。そして、たった一人で森に入って行き、三日三晩お経をあげましたところ、その翌月から龍は出なくなりました。
 島びとたちは安心するとともに、『あの龍は、落人の怨霊であったのか』と、みんなで供養塔を建てようと話し合って、久し振りに森に入ってみました。
 すると、落人の住まいのあった場所に、どこから運んだのか、大きな自然石が建てられていました。それは、人間の力ではどうしても動かせないほどの大岩で、しかも、これを運ぶのを見た人は誰も居ません。
 島びとたちは不思議でなりませんでしたが、結局、これは落人の墓だろう、ということで、そこに花を供えて帰りました。

 そのうち、大岩のことを誰いうとなく『辰岩』と呼ぶようになりました。

 ある年のこと、
『辰岩の下には、平家の財宝が埋められていて、落人はそれを守っていたらしい』
 というまことしやかな噂が、ひそかに流れました。
 それを聞いたある欲の深い男が、秋の夜更けにそっと森に入って辰岩の下を掘りはじめました。ところが不思議なことに、鍬を振り下ろしたとたん、男は発狂してしまいました。
 その後、伊崎からも財宝の噂を聞いてやってきた男が居ましたが、やはり同じように気が狂って、
『龍がにらんだ、龍がにらんだ』と、つぶやくようになりました。
 そんなことが何度もあって、島びとたちは落人の命日に花を供える以外、誰もその森に近づかなくなりました。

 何年かたちました。

 ある日のこと、小倉の与八という商人がやって来て、森の前に島びとを集めました。そして与八は、こう言いました。
『わしゃあ、辰岩の宝物が本当か嘘かを確かめるために、わざわざ小倉からやって来たんや。今までは、どいつもこいつも、夜の夜中に内緒でそろっと掘ったけぇ気が狂うたんやと、わしは思う。そいで、わしゃあ、みんなの見ちょる前で堂々と掘るけぇ、立ち会うてくれいや』
 島びとたちは、恐る恐る与八のあとにつづいて森に入って行きました。

 与八は、多くの人びとの見守る中で、辰岩の根に、ガシッと、鍬を打ちおろしました。
 そのとたん、与八は、
『アーッ』
 と悲鳴をあげました。そして驚いたことに与八は両手を高くあげ、頭をふりふり辰岩のまわりを走りはじめました。島びとたちはどうすることも出来ず、ただ、あれよ、あれよ、と眺めているばかりでした。
 そのうち、持ち上げていた鍬が頭に落ちて、与八は死んでしまいました。

 島びとたちは、辰岩のそばに小さな墓を建て、与八の霊を慰めると共に、それ以来というもの、辰岩に近づくことも、また、その話をすることさえも避けるようになったということです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2019/02/12 Tue. 10:46 [edit]

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鬼面ばなし 

鬼面ばなし


 明治の中頃まで、彦島の十二苗祖を名乗る家なら、どこもかしこも、鬼の面を鴨居に下げて居ったものじゃ。
 玄関、勝手口、納屋、長屋、それに土合い(母屋と長屋との間の通路)の入口に、小さい鬼面を下げ、他に人間の顔くらいの大きなやつを佛間に隠して居った。じゃから、少ない家でも必ず五つは持って居り、多い所じゃ、十も十五もあったらしい。

 どおして、そねぇに鬼面があったかと言うと、昔から彦島は何回も何回も海賊に襲われたもんじゃけぇ、もう、ええ加減に来て欲しゅうない、という祈りを込めたものじゃったと伝えられて居る。

 この近くじゃあ海賊のことを、大昔は、鬼と言うて居ったらしい。その証拠に、竹ノ子島やら西山には、今でも鬼にまつわる伝説や地名がようけ残されて居るじゃろう。

 まず、仲哀天皇の頃、朝鮮半島から海賊が押し寄せて来たというのが、今から千七百年以上も前の話。

 それから元久二年(1205年)、文暦元年(1234年)、貞和六年(1350年)とつづいて、応安五年(1372年)には、九州の菊池党に敗れた足利氏の一統が海賊になり、彦島を根城にして荒らし回った。
 その後、天文十七年(1548年)にも海賊に襲われ、島の人びとは下関の伊崎などに避難しはじめたそうじゃ。

 しかし、一番ひどかったのは寛永十五年(1638年)のことで、この時は、天草の乱で敗れた小西の残党どもが海賊に身をやつして、彦島をその本拠地にしてしもうた。そして、この近海を片っぱしらから荒らし回ったもんじゃけぇ、その悪らつぶりに耐えかねた島の者は、ほとんど下関の方へ逃げて行った。
 伊崎、細江、それに垢田、川中、勝谷、内日などに、それぞれ避難して三十年も四十年も隠れ住んだが、その後、次つぎに帰島しはじめても、とうとうそこを動かず、住み着いてしもうた者もかなり居ったという。

 そんな訳で、むかしから彦島の者は、海賊に対しては身の縮まるような恐怖感を抱いて生きて来た。爺から親へ、親から子、子から孫へと、何代も何代も、その不安と恐ろしさは受け継がれて来たんじゃ。
 そいで、彦島の者が、鬼の面を作って、末永い平和を祈ったという気持ちも、よう解るじゃろう。

 ところが、いつのまにか、子供のいたずらや、やんちゃを戒める風習に使われはじめてのぅ。
 例えば、子供が親の言い付けを守らん時やら、なかなか泣き止まん時にゃあ、親は佛間から大きい鬼面を出してかぶり、
『言うことをきかんけぇ、鬼が来たぞ!』
 と、おどかしたりするようになった。ほいやけえ(それだから)しまいには、無理に鬼面を出さんでも『鬼が来るぞ』『鬼ヶ島にやるぞ』と言うただけで子供は泣き止んだものじゃ。それほど鬼に対する印象は強烈で、根強いものがあった。


 ところで、彦島にゃあ、昔から『彦島謡』と呼ばれる独特な謡曲があった。結婚式、上棟式、年祝いなどの、いわゆる祝いごとの時にゃあ必ず謡われて、女やら子供までもが聞き覚えで二つや三つの謡曲は、大抵うたえたものじゃ。
 その彦島謡の謡い納めが十二月三十一日の晩にやる『年もらいの謡』で、この時にも、鬼面が使われることになって居った。

 どの部落にも『謡い所』というものがあって、そこにみんな集まり、夕方から『年送りの謡』をうたい、それが終わったら『年もらいの謡』に変わる。
 年もらいの謡は、除夜の鐘が鳴りはじめるまで次々に謡い次いでゆくのじゃが、その時の聞き手はすべて鬼の面をかぶり、女や子供は謡い所の背戸に出なけりゃあならんかった。
 それは、新しい年もまた、海賊騒ぎの無い平和な年であって欲しいという願いから始まったそうじゃが、今じゃあ、彦島謡も鬼面もみんなすたれてしもうて、ほんに寂しゅうなったのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
彦島謡というのは、何流にも属さず、彦島だけに受け継がれて来た独特な節回しの謡曲であった。
昭和初年まで、島の各部落に設けられていた『若衆宿』では、古くからこの謡曲を教えついで来たから、そこに学んだ古老たちは自筆の謡い本を山ほど持って居る。
しかし、それらの人びとも、現在八十歳以上の年齢に達していて『大工送りの謡』とか『千秋楽の謡』でさえも覚えている人は少ない。
ましてや『年送り』や『年もらい』などの謡は、明治の中期において既にすたれてしまったというほどで、今では伝説化された謡である。
鬼面も彦島の旧家で探し出すことはとうていむずかしい。

Posted on 2019/02/10 Sun. 11:24 [edit]

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10

十二苗祖(じゅうにびょうそ) 

十二苗祖(じゅうにびょうそ)


 むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。

 今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。
 四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、
『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。
 翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山城再興をはかるに最適な場所であることがわかった。
 そこで、里(迫町の一角)に屋敷を建て、園田一学、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の重臣五名と仮寓することに決めた。

 通次ら主従は、里を拠点に島を開拓し、なれない農業や漁業に励みながら、勝山城再興の日を待っていた。
 西山の舞子島に『光格殿』というお宮を建て、引島で一番大きなくすの木を伐って八幡尊像を刻み奉納したり、海峡を見おろす丘の上に立って、兵を挙げる日の一日も早かれと祈願したものだ。

 二十数年という月日が、またたくまに過ぎた。

 そのころ、都で発した源氏と平家の戦いは、西へ西へと伸び、寿永三年(1184年)秋には、平知盛が引島に城を築いて、源氏を迎え撃つことになった。
 今まで、静かであった引島も、つぎつぎに集結する平家の軍勢によって、修羅場のように騒々しくなり始めたが、翌年三月二十四日、壇ノ浦の合戦で、ことごとく滅び、知盛による引島城は『平家最期の砦』になってしまった。

 ようやく、もとの平和な島に戻った翌年、つまり、文治二年(1186年)一月、平家の残党、植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三名が、平家の守護仏である阿弥陀如来坐像と、観世音菩薩、薬師如来立像を、それぞれ捧持して来島した。
 三人の落人は、里に河野通次を訪ね、平家再興の意図を打ち明け、それまでの間、この島にかくまって貰うことにした。
 そして、平家の守り本尊である三像を仮の草庵に安置したが、その場所は今でもカナンドウ(観音堂)と呼ばれている。

 その後、健保二年(1214年)四月には和田伝済、つづいて翌三年には、同じく平家の残党、冨田刑部之輔と登根金吾が、植田治部之進を尋ねて来島した。
 これら和田を除く五名の人びとは、いずれも平家の執権で、彼らは河野家主従に自分たちの身分を明かし、一門再興に力を貸してほしい、と頼み込んだ。勝山城再興を願う河野一族は、この不思議な因縁に驚いたが、同じ境遇である十二氏が力を合わせれば果たせないことはないと、手を取り合って協力を誓った。

 しかし、そのころは、既に河野家第一の参謀である園田一学は病死し、あとを追うように通次もこの世を去っていたので、河野家再興は、なかばあきらめの状態であった。

 一遍上人の高弟、西楽法師が引島に来られたのは健治二年(1276年)三月であった。法師は、観音堂の阿弥陀如来坐像の威光にうたれ、一遍上人の許しを得て引島に永住しようと決心した。それは、観音堂を今の本村に移し『西楽庵』を建てて三像に仕えるためであった。

 そのうち法師は、平家一門と勝山城の、二つの再興話を耳にしたので、その悲願をあきらめさせ、引島開拓に心を打ち込むよう、説いてまわった。
 初めのうちこそ、かたくなに法師の話に耳をかそうとしなかった十二家の人びとも、やがて挙兵のむなしさに気付き、永年の望みを捨て去ることにした。

 そこで人びとは、平家の守り本尊に仕え、農業、漁業、工業にいそしみ、引島に永住することを誓い合った。弘安元年(1278年)秋のことであったという。


 引島開拓と十二氏共栄に力を合わせ始めたこれらのいきさつは、古くから『十二苗祖の誓い』と呼ばれ今もなお語りつがれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
彦島を語ろうとすれば、先ず、十二苗祖を知らなければならない。
彦島の歴史をひもとけば、必ず、十二苗祖の名前が出て来る。
つまり、島の開拓史に欠かせない人びとが十二苗祖で、今でも電話帳を繰れば、これらの名前を次々に拾い出すことができる。

旧記や口伝による彦島十二苗祖の経歴は次の通りである。

◎河野通次
 平城天皇の末孫で、三位中将大江政房の嫡子、伊予の国勝山の城主、河野通匡の嗣子である。保元の乱に於いて崇徳上皇の軍に参戦して敗れ、通匡は京都白河殿の夜打ちで戦死した。

◎園田一学尚久
 河野家の執権で園田一覚が本名であったが、文武に長じ、通匡の片腕となっていたので、一学の名を頂いたという。

◎二見右京勝定
◎小川甚六安友
◎片山藤蔵正直
◎柴崎甚平信重
 いずれも河野家の重臣

◎植田治部之進兼明
 藤原信頼の末孫で、大納言平教盛の執権。平重盛の守護仏、阿弥陀如来坐像を覆奉して来島したという。

◎百合野民部高昌
 藤原秀基の末裔で、平教盛の執権。観世音菩薩を捧持して来島したという。

◎岡野将監重利
 橘伊賀守の末孫で、平知盛の執権。薬師如来立像を捧持した。

◎和田伝済儀信
 和田義盛の五男で、朝日奈三郎の弟。下総の国大倉の領主であったが、頼朝を討たんとして果たさず、隠島した。

◎冨田刑部之輔久次
 平重衛の執権。二万三千石の冨田勝部之進の嫡子。一ノ谷合戦後、備前に隠れ再起を図っていたが、植田治部之進の隠島を伝え聞いて来島したという。

◎登根金吾忠光
 平家の旗本と伝えられている。

Posted on 2019/02/09 Sat. 12:25 [edit]

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09

サイ上り 

サイ上り


保元二年、今から約八百年のむかし、伊予の国勝山城主、河野通次が戦に負け、追っ手を避けながら、ようやくのことで彦島へ落ちのびてきました。

河野通次と五人の家来は、この彦島で力を蓄え、もう一度、勝山城を取り戻そうと、しばらくの間、慣れない農業や漁をして、兵をあげる日を待っていましたが、頼みとする家来たち二人は病気で亡くなり、一人は伊予の国の様子を調べに行って帰ってこず、とうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。

それから二年たった平治元年十月十五日、里から西南にあたる海上に、ふしぎな紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中が黄金色に輝いているのを、島のイナ釣りの男が発見しました。
男はさっそく、そのとき島の長になっていた河野通次に知らせると同時に島民にも知らせました。
島の人たちは、浜辺に集まり、
「ひょっとすると不吉なきざしかもしれない」
「いや、きっとあそこに黄金が沈んでいるんだ」
とか、わいわいいって騒ぎ立てました。

結局、最初に見つけた男に調べさせようということになり、その男は、こわごわ舟を出して黄金色に輝く場所に行き、矛を持って海中を突き刺したところ、神体と思われる像の左眼に突き当て、海中から引きあげてきました。

心配そうに様子をみていた河野通次は、その像を見て、これこそ我が守り本尊であるとして、近くの小島にお堂をつくって、像をまつり、これを光格殿と名づけました。

このとき、通次は鎧兜を着て、左右に太刀と弓を持ち、武運長久を祈るとともに、舞をまい、
「さあ揚がらせられた」
と、大声で叫んだことから、この小島を舞小島というようになりました。

また、おもしろいことに、氏神様の左眼を矛で突かれたことから、彦島の人はむかしから左眼が細いという言伝えがあります。

ご神体は、その後、正和三年に、今の宮の原に移して、永く彦島の氏神様として親しまれてきました。
そして毎年十月十五日には、「サイ上り」の神事が行われますが、その様子は、まず最初に、裃をつけた子ども三人が飛び回ります。
すると鎧兜をつけ、太刀を腰に、手に弓をもった者が、子どもを矛で突くまねを幾度も繰り返します。
そして「サイ上り」を叫びます。
子どもの飛び回るのは、イナが飛ぶまねで、弓で突くのは、ご神体を海底から突き上げたときの意味。
「サイ上り」とは、通次が「さあ揚がらせた」と喜んで叫んだ古事をそのまま伝えるものといわれます。
そして、この鎧武者やイナなどになる人は、昔から、彦島十二苗祖の家から参加することになっています。


(注)
彦島十二苗祖とは、河野通次の河野姓ほか、平家の落ち武者が住み着いたといわれる、園田、二見、小川、片山、柴崎、植田、岡野、百合野、和田、登根、富田姓で、彦島開拓の祖先といえましょう。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/02/08 Fri. 12:26 [edit]

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08

壇の浦に消えた宝剣 

壇の浦に消えた宝剣


永寿四年(1185)三月二十四日、源平最後の合戦、壇の浦の戦が行われましたが、ここで平家は完全に滅んでしまいました。
このとき安徳幼帝は、二位の尼にいだかれ三種の神器のうち、剣と勾玉とをお持ちになって海底深く消えていかれました。

なかでも剣は“天叢雲の剣”(あめのむらくものつるぎ)といって、いわれのある剣でしたので、その時、政治をとっておられた後白河法皇はたいへんしんぱいされ、海峡のはしからはしまでさがさせましたが、どうしても見つかりません。
そこで賀茂大明神におこもりになって、宝剣のゆくえをお願いしましたところ、七日目に大明神のおつげがありました。
そのおつげによると、ながとのくにの壇の浦にすむ、老松、若松という海女を召して調べさせよ、ということでした。そこで法皇はさっそく義経をおよびになって、このおつげをお話になり、いっときも早く、剣を探し出すようお命じになりました。

ふたたび、義経は激しい戦をくりひろげた壇の浦にもどってきて、老松、若松のいどころを探し、やかたによびよせました。
老松はそのとき三十五歳、若松は娘で十七歳、もぐりにかけてはこの近くでは二人にかなうものはないと、いわれているほどじょうずで、そのうえ、どことなく、気高い感じを人に与えました。
やがて、老松、若松は、みじたくをして海にもぐりました。太陽が沈む頃二人は浮き上がってきました。
若松は、別に剣らしいものはみなかったと義経に報告しましたが、母親の老松の方は、
「ふしぎな大岩をみつけました。その岩には人がくぐれるくらいの穴があって、私は、できるかぎり、その奥へ奥へと進んでみました。およそ一里くらい入ったところで、急に明るくなり、そのむこうに龍宮城らしき建物があり、金銀の砂をしき、その美しい光景に気が遠くなりそうでした。やがて二階構えの楼門まできたとき、どうしたことか手足がしびれだし、いまにも砂の中に引き込まれそうになりました。そこで思わず、お経を唱えると、いくぶんかしびれた手足がもとにもどり、大急ぎで浮き上がってきました。
あの楼門の中へ入るには、神仏のお力にすがるほかはありません」
と申しました。

そこで義経は、くらいの高い僧たちを集め、相談したところ、老松が身につける衣に如法経を書き写し、そのお守りで龍宮城に行かせようということになりました。
老松はふたたび海にもぐりました。そして一日一夜も浮き上がってこないので、義経をはじめ僧たちは、もう老松は死んでしまったのか…と、なげき悲しみました。
ところが翌日のお昼ごろポッカリと水面に顔をだしました。義経は心配のあまり、
「どうであったか…」
と、たずねましたが、老松は、法皇さまにおめにかかり、じきじきにお話いたします、と申しました。

やがて老松親子は京にのぼり、法皇さまの前にでて、ふしぎな話をはじめました。
「如法経のお守りで、手足もしびれず龍宮城に入りました。大日本国の帝王のお使いで、壇の浦で失った宝剣をさがしにまいりましたと門番につげると、広いお城の中をあちこちと案内され、とある庭へつれてこられました。
しばらく待つうちに、しだいに風がでてきて、大地がうなり、はげしく氷雨が降ってきました。私は恐ろしくて、今にも逃げ出そうと思いましたが、ここで逃げ出せばお役にたたずと思いじっとがまんしておりますと、やがて風もおさまり、部屋の奥からうすきみ悪い煙がたちのぼり、シュ、シュという音がしはじめました。
何事かと思って、その方に目をうつすと、小山ぐらいはありそうな大蛇が剣を口にくわえ、七、八才のこどもをかかえていました。その目は、らんらんと輝き、口は耳までさけて、真赤な舌がぶきみにのぞいていました。そしてこういいました。

この宝剣は、日本の帝のものではない。もとはといえば、龍宮城の大切な宝である。
というのは、次郎王子なるものが宝剣を持って陸にあがり、出雲の国のひの川に八つの首を持った大蛇となって住み着き、人をのみはじめた。それで、すさのおのみことが大蛇を退治し、そのお腹から、剣をとりだして姉の天照大神に差し上げた。
そのあと日本武尊に渡ったりして、いろいろ持ち主がかわったが、そのたびに大蛇になり、どうかして剣をうばいかえそうとしたが、いずれも失敗におわってしまった。
しかし、うまいぐあいに、今度は安徳天皇に姿をかえ、源平の戦をおこし、ついに宝剣を見事取り返すことができた。
わしがいま口にくわえているのは、まさに、その剣じゃ、かかえているのこどもは、安徳天皇である。
みよ、平家一門の人々はみな、龍宮城におられる。

と、大蛇が扉を開くと大臣をはじめ法師、女官たちが、じっと私を見つめていました。
そして、大蛇は最後に、

この宝剣は、二度と日本国には渡さない。永久にわしのお腹に入れておく、

というなり、赤い舌を巻いて剣を飲み込んでしまいました。
私は、それを見届けるや龍宮城をあとにして、帰ってきたのです。


老松の長い話が終わると、法皇をはじめ義経たちは、深い失望のためいきをつきました。
こうして、三種の神器のうち、剣は、壇の浦の海中深く、龍宮城の大王である大蛇のお腹におさめられたのでした。


(注)
壇の浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたびさがされ、その回数は二十回にもおよんだといわれています。
また、宝剣が沈んで二十七年も過ぎた頃にも、夜など壇の浦の海に光り輝くものがあるという噂が流れたという話も伝わっています。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2019/02/07 Thu. 10:16 [edit]

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07

辰岩伝説 

~辰岩伝説~


 老の山公園や第一高校へ上る途中の右手に真新しい市営住宅が建っていますが(林兼造船従業員アパート跡)、この東端の一段高いところに「辰岩」と呼ばれる岩があります。

 辰岩のあるこの森には800年以上も前、平家の落人が隠れ住んでいました。この男は平家再興の望みもむなしく、辰の年の3月24日に割腹自殺してしまったということです。それ以降毎月24日には、落人の隠れ住んでいた森から大きな竜が出てきて海峡に向かって大きな声でほえるので、この村の人たちは24日が来ることを非常におそれていました。

 ある年、偉いお坊さんがその話を聞いて竜を鎮めるために彦島にやってきました。そして森に入り、三日三晩お経を唱えて落人の魂を鎮めたところ、竜は現れなくなりました。村人は、平家落人の魂を弔うために供養塔を森の中に立てることにして、森に入ってみると、落人のすまいがあった場所にはどこから運んできたのか大きな岩がたてられていました。村人は不思議に思いましたが、きっとこれは落人の墓であろうと考え、その後、酒や花を供えて平家落人の供養を続けました。この頃から、この岩のことを「辰岩」と呼ぶようになったそうです。

 その後、いつの間にか、辰岩の下には平家の財宝が埋まっており、ここに住んでいた落人はそれを守っていたのだ、という噂が広まりました。その噂を聞きつけて、多くの欲深い男が夜中に辰岩にやってきてそれを掘り出そうとしました。しかし、財宝を掘ろうとした物は皆、気が狂って「竜が来た」「竜が来た」と叫ぶばかりでした。そう言うことが続いて、落人の命日に花を供える以外、誰も辰岩に近づかなくなりました。

 ある時、小倉の商人、嶋屋与八という人物が財宝の真偽を確かめようとやって来ました。与八は、これまでの盗掘者が、夜中に一人でやって来てこっそりと掘り出そうとしたから、竜の幻を見て気が狂ってしまったのだと考え、村人を辰岩のまわりに集め、大勢が見ている前で財宝を掘り出すことにしました。

 与八が大勢の村人の前で鍬を振り下ろした途端、鍬を持った両手を高々と振り上げ、大声を上げながら気が狂ったように辰岩のまわりを走り回り始めました。やがて、持っていた鍬が自分の頭に落ちて与八は死んでしまいました。村人は、与八の墓を建て、やがて、誰も辰岩のことを口にしなくなり、忘れ去られていきました。

 郷土史家富田義弘氏の「ひこしま昔ばなし」によると、戦前は辰岩の森には多くの五輪塔や地蔵尊が立っていたそうですが、現在は山の所々に、辰岩と同じ岩質の石が転がっている程度で特に何も見つけることが出来ません。また、同書には「与八と書かれた墓石などもあったが、戦後ほとんどなくなってしまった」と記載されていますが、与八の墓石は、現在辰岩のすぐ脇に立っています。


WEBサイト「日子の島」より転載

Posted on 2019/02/06 Wed. 12:13 [edit]

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06

耳なし芳一 

耳なし芳一


 むかしむかし、下関(しものせき→山口県)に、阿弥陀寺(あみだじ→真言宗の寺)というお寺がありました。
 そのお寺に芳一(ほういち)という、びわひきがいました。
 芳一は幼い頃から目が不自由だった為に、びわのひき語りを仕込まれて、まだほんの若者ながら、その芸は師匠の和尚(おしょう)さんをしのぐほどになっていました。
 阿弥陀寺の和尚さんは、そんな芳一の才能(さいのう)を見込んで、寺に引き取ったのでした。

 芳一は源平(げんぺい)の物語を語るのが得意で、とりわけ壇ノ浦(だんのうら)の合戦のくだりのところでは、その真にせまった語り口に、誰一人、涙をさそわれない者はいなかったそうです。

 そのむかし、壇ノ浦で源氏と平家の長い争いの最後の決戦が行われ、戦いにやぶれた平家一門は女や子どもにいたるまで、安徳天皇(あんとくてんのう)として知られている幼帝(ようてい)もろとも、ことごとく海の底に沈んでしまいました。
 この悲しい平家の最後の戦いを語ったものが、壇ノ浦の合戦のくだりなのです。

 ある、蒸し暑い夏の夜の事です。
 和尚さんが法事で出かけてしまったので、芳一は一人でお寺に残ってびわのけいこをしていました。
 その時、庭の草がサワサワと波のようにゆれて、縁側(えんがわ)に座っている芳一の前で止まりました。
 そして、声がしました。
「芳一! 芳一!」
「はっ、はい。どなたさまでしょうか? わたしは、目が見えませんもので」
 すると、声の主は答えます。
「わしは、この近くにお住まいの、さる身分の高いお方の使いの者じゃ。殿が、そなたのびわと語りを聞いてみたいとお望みじゃ」
「えっ、わたしのびわを?」
「さよう、やかたへ案内するから、わしの後についてまいれ」
 芳一は身分の高いお方が自分のびわを聞きたいと望んでおられると聞いて、すっかりうれしくなって、その使いの者について行きました。
 歩くたびに、『ガシャッ』、『ガシャッ』と音がして、使いの者は、よろいで身をかためている武者だとわかります。
 門をくぐり広い庭を通ると、大きなやかたの中に通されました。
 そこは大広間で大勢の人が集まっているらしく、サラサラときぬずれの音や、よろいのふれあう音が聞こえていました。
 一人の女官(じょかん→宮中に仕える女性)が、言いました。
「芳一や。さっそく、そなたのびわにあわせて、平家の物語を語ってくだされ」
「はい。長い物語ゆえ、いずれのくだりをお聞かせしたらよろしいのでしょうか?」
「・・・壇ノ浦のくだりを」
「かしこまりました」
 芳一は、びわを鳴らして語りはじめました。

 ろをあやつる音。
 舟に当たってくだける波。
 弓鳴りの音。
 兵士たちのおたけびの声。
 息たえた武者が、海に落ちる音。

 これらの様子を、静かに、もの悲しく語り続けます。
 大広間は、たちまちのうちに壇ノ浦の合戦場になってしまったかのようです。
 やがて平家の悲しい最後のくだりになると、広間のあちこちから、むせび泣きがおこり、芳一のびわが終わっても、しばらくは誰も口をきかず、シーンと静まりかえっていました。
 やがて、さっきの女官が言いました。
「殿も、たいそう喜んでおられます。
 良い物を、お礼に下さるそうじゃ。
 されど、今夜より六日間、毎夜そなたのびわを聞きたいとおっしゃいます。
 明日の夜も、このやかたにまいられるように。
 それから寺へもどっても、この事は誰にも話してはならぬ。
 よろしいな」
「はい」

 次の日も、芳一は迎えに来た武者について、やかたに向かいました。
 しかし、昨日と同じ様にびわをひいて寺に戻って来たところを、和尚さんに見つかってしまいました。
「芳一。今頃まで、どこで何をしていたんだね?」
「・・・・・・」
「芳一!」
「・・・・・・」
 和尚さんがいくらたずねても、芳一は約束を守って一言も話しませんでした。
 和尚さんは芳一が何も言わないのは、何か深いわけがあるに違いないと思いました。
 そこで寺男(てらおとこ→寺の雑用係)たちに、芳一が出かけるような事があったら、そっと後をつけるようにいっておいたのです。

 そして、また夜になりました。
 雨が、激しく降っています。
 それでも芳一は、寺を出ていきます。
 寺男たちは、そっと芳一の後を追いかけました。
 ところが目が見えないはずの芳一の足は意外にはやく、やみ夜にかき消されるように姿が見えなくなってしまったのです。
「どこへ行ったんだ?」
と、あちこち探しまわった寺男たちは、墓地へやってきました。
 ビカッ!
 いなびかりで、雨にぬれた墓石が浮かびあがります。
「あっ、あそこに!」
 寺男たちは、驚きのあまり立ちすくみました。
 雨でずぶぬれになった芳一が、安徳天皇の墓の前でびわをひいているのです。
 その芳一のまわりを、無数の鬼火が取り囲んでいます。
 寺男たちは芳一が亡霊(ぼうれい)にとりつかれているにちがいないと、力まかせに寺へ連れ戻しました。

 その出来事を聞いた和尚さんは、芳一を亡霊から守るために、魔除けのまじないをする事にしました。
 その魔除けとは、芳一の体中に経文(きょうもん)を書きつけるのです。
「芳一、お前の人なみはずれた芸が、亡霊を呼ぶ事になってしまったようじゃ。
 無念の涙をのんで海に沈んでいった、平家一族のな。
 よく聞け。
 今夜は誰が呼びに来ても、決して口をきいてはならんぞ。
 亡霊にしたがった者は、命を取られる。
 しっかり座禅(ざぜん)を組んで、身じろぎひとつせぬ事じゃ。
 もし返事をしたり声を出せば、お前は今度こそ殺されてしまうじゃろう。
 わかったな」
 和尚さんはそう言って、村のお通夜に出かけてしまいました。

 さて、芳一が座禅をしていると、いつものように亡霊の声が呼びかけます。
「芳一。芳一。迎えにまいったぞ」
 でも、芳一の声も姿もありません。
 亡霊は、寺の中へ入ってきました。
「ふむ。・・・びわはあるが、ひき手はおらんな」
 辺りを見回した亡霊は、空中に浮いている二つの耳を見つけました。
「なるほど、和尚のしわざだな。
 さすがのわしでも、これでは手が出せぬ。
 仕方ない。
 せめてこの耳を持ち帰って、芳一を呼びに行ったあかしとせねばなるまい」
 亡霊は芳一の耳に、冷たい手をかけると、
 バリッ!
 その耳をもぎとって、帰って行きました。
 そのあいだ、芳一はジッと座禅を組んだままでした。

 寺に戻った和尚さんは芳一の様子を見ようと、大急ぎで芳一のいる座敷へ駆け込みました。
「芳一! 無事だったか!」
 じっと座禅を組んだままの芳一でしたが、その両の耳はなく、耳のあったところからは血が流れています。
「おっ、お前、その耳は・・・」
 和尚さんには、全ての事がわかりました。
「そうであったか。
 耳に経文を書き忘れたとは、気がつかなかった。
 何と、かわいそうな事をしたものよ。
 よしよし、よい医者を頼んで、すぐにも傷の手当てをしてもらうとしよう」
 芳一は両耳を取られてしまいましたが、それからはもう亡霊につきまとわれる事もなく、医者の手当てのおかげで傷も治っていきました。

 やがて、この話は口から口へと伝わり、芳一のびわはますます評判になっていきました。
 びわ法師の芳一は、いつしか『耳なし芳一』と呼ばれるようになり、その名を知らない人はいないほど有名になったという事です。

おしまい

Posted on 2019/02/05 Tue. 09:56 [edit]

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佛の瀬 

佛の瀬


 昭和の初めのころまで、小戸の身投げ岩から海士郷寄りのゆるい坂道をくだり切った浜辺に位牌の形をした岩が建っていました。
 この岩のことを彦島の人びとは、むかしから『ほとけ岩』と呼んで、いつも花を絶やさなかったといいます。

 むかし、壇ノ浦合戦のあと、平家の落人は、小門の王城山や彦島などに隠れ、平家の再興をはかっていました。
 しかし、やがてその望みも絶たれてしまいましたので、ある者は漁師となり、ある者は百姓になり、またある者は海賊に身をやつしてゆきました。

 その中に一人だけ、かつての栄華の夢が忘れられず、武人の誇りを守り通そうとする男が居ました。その武士は、百姓、漁師などに身を落としてゆく一門を見つめながら、日夜、悶々として生きていましたが、ついに自分の生きる道をはかなんで、小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。

 浦びとたちは、その武士の死をいたみ、大きな墓石を建てて、霊を慰めました。すると小瀬戸の急流に押されたのか、大小いくつもの岩石が墓石のまわりに寄せ集められて、いつのまにか大きな岩礁が出来ました。
 そこで誰いうことなく、墓石のことを『ほとけ岩』と呼び、その周囲の岩礁を『佛の瀬』と呼ぶようになりました。

 ところが、不思議なことが起こりはじめました。というのは、そこを通る漁船から、少しでも白いものが見えたりすると、急に潮流が渦巻いて荒れ狂うようになったのです。
 だから漁師たちは、船に赤い旗を立てて小瀬戸の海峡を航行するようになりました。

 今、船に色とりどりの旗と共に、大漁旗などを立てる風習は、この赤旗のなごりだそうです。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この佛の瀬は、下関漁港修築の際に取り除かれ、現在はその影をとどめない。
ここでは『佛岩』の伝説とかなり違ったものになっているが、いずれにしても、永い間、庶民の間に、平家の哀しさが語り継がれたことだけは間違いないようだ。

Posted on 2019/02/04 Mon. 10:55 [edit]

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