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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

きぬかけ岩 

きぬかけ岩


 むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
 不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
 すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
 権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
 ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。

 そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
 そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。

 いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/06/03 Sat. 09:59 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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03

金比羅狐 

金比羅狐


 むかし、下関の港は、北前船西廻り航路の寄港地として栄えていました。
 それは、奥羽、北陸地方から米や、にしん、こんぶなど数多くの塩干魚などをなどを積んだ船が、日本海を西下し、瀬戸内海を東上して大阪に向かう際に、この港が最も重要な役割を果たしていたからです。そのころの下関は兵庫の港と共に西国一を競う程の繁昌ぶりだったと言われています。

 一般には、下関の港、と表現されていますが、その中には、彦島の南風泊りと福浦の両港も当然含まれていました。
 南風泊港は、文字通り南の風を避ける為の港で、福浦港は、今の江浦小学校から姫の水あたりまでが海という大きな入江となっていましたので、風待ちには天然の良港でした。


 福浦港の入口には、地元の人びとが、
『ふくらの金比羅さんの石段は、日本一の急坂じゃ。こねえに急な石段はどこにもありゃあせん』
 と自慢する金比羅神社があります。

 その石段の数は、むかしから二百七十七段、二百七十九段、二百八十一段と、登る人によって違っていました。それは、金比羅狐のいたずらによるものだと言われています。

 ある日、その話を聞いた肥前屋の客が、
『ワシが、石段の数を確かめてやろう』
 と出かけて行きました。船宿の人びとはそのあとに続き、石段の下で様子をみることにしました。
『ひとつ、ふたつ、みっつ……』
 肥前屋の客は、大声に数えながら登って行きました。うっそうとした森に囲まれて、金比羅さんの石段は三分の二から上は殆ど見えません。その見えないあたりに男が登って行って、かなり経ちました。

『おーい、やったぞーッ。二百七十九段が本当じゃ』
 森の中から男の喜び勇んだ声が降りて来ました。人びとは、顔を見合わせて笑いました。しばらくすると、ずっと上の方に男の姿が見えはじめ。何やらつぶやき乍ら下って来ました。
『二百三十六、二百三十七、二百三十八』
 男は下り坂でも、また石段の数を数えていたのです。

『二百七十九、二百八十、二百八十一、あれっ、さっきより二段多いぞ。おかしいな』
 参道の石鳥居まで下って来て、男は眼をまるくしました。
『八合目で狐に会うたじゃろうが』
 見物の中から一人の男が訊ねました。
『うんにゃ、会わん』
『狐の声を聞いたろうが』
『いんにゃ、聞かん。鳥は鳴いたがのう』
『なんちゅうて鳴いたい』
『ぎゃおーっ、小さかったけど、そんな声じゃった』
 人びとはまた顔を合わせて笑いました。

『クソッ、もう一回登って来る』
 男は、再び、一つ、二つと数えながら石段を登って行きましたが、何度数えても上りは二百七十九段、下りは二百八十一段でした。その日だけで、この急坂を十往復もした男は、船宿に戻って、とうとう寝込んでしまいました。

 また、ある日のこと、薩摩屋に泊まっていた客が、金比羅さんの石段を数えながら十往復しましたが、この時は上りが二百八十一段で、下りは二百七十七段しかありませんでした。
 その後も、船木屋の客、淡路屋の客などが噂を聞いてこの石段を上り下りしましたが、誰も同じ数を言い当てた人は居ません。

 福浦の人びとは、いつも笑って見守るだけでした。

 それは、誰もが一度は経験していることで、金比羅狐が居る限り、この石段の数は皆目わからない、と諦めているからでした。
 たった一人で登って行っても、あるいは、多数の人びとであっても、八合目にある脇道まで来ると、必ず何かが起こって数を間違えてしまうのです。
 それは、さっと眼の前を走る狐の影であったり、ゴソッと藪に物音がしたり、ギャォーと雌狐が鳴いたりして、気を散らしてしまうのでした。

 だから、船宿の客が石段の数を確認するという噂が流れると、福浦の人びとはみんな集まって冷ややかに笑い乍ら見守るだけでした。
 そして口々に、こう言ったと伝えられています。

『よそ者の狐ごかしが始まった』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/06/02 Fri. 09:13 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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02

眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2017/06/01 Thu. 09:05 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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01

与次兵衛瀬 

与次兵衛瀬


むかし、彦島の沖には、暗礁がたくさんあって、ここを通る船はたいてい岩に乗り上げ、沈没しました。
だから船頭たちは、死の瀬といって寄り付かず、よほどの腕のたつ船頭でも、ここを通った後は、神経を使いすぎてグッタリとなったほどでした。

明石与次兵衛は腕のいい船頭でした。

そのころ、天下を治めていたのは、豊臣秀吉で、朝鮮との戦のため、佐賀の名護屋城にいましたが、文禄元年、秀吉の母親が急病という知らせが届き、小倉から日本丸という船に乗り、急ぎ大阪城へ帰ることになりました。

そのとき日本丸の船頭が与次兵衛だったのです。
与次兵衛の胸の中には、ひとつの計画がどす暗く渦巻いておりました。

というのは、与次兵衛の兄、黒崎団右衛門が、以前秀吉の中国地方の戦いの際、毛利家から離れて、秀吉の味方になり勝利へ導いた功労者であったのに、何のほうびももらえず、反対に殺されてしまいました。
その兄の恨みを、いつか自分がはらそうと機会を狙っていたのです。

しかし、秀吉のそばには、いつも力の強そうな家来たちが護衛していて、近づくこともできないありさまです。

いよいよ秀吉が船に乗り込んで小倉を出発する日、与次兵衛は、
「今日という日を逃しては、二度と秀吉を討つ機会はない。彦島の沖合いのあの死の瀬に船を乗り上げ、溺れ死にさせてやろう」
こう密かに胸の中で考えました。

ちょうどその日は、天気は悪く、海峡には白波が立っていましたから、疑われる心配もありません。
もし計画が失敗したも、荒波のため舵をとりそこなったと言えば許してくれるかもしれません。

船は碇をあげて出航しました。
与次兵衛の額からは、じっとり汗がにじみ流れてきました。
そして、いよいよ死の瀬に近づいてきたとき、与次兵衛は、思い切り舵を左にきりました。
日本丸は、荒波を斜めに突き進み、ぐんぐん死の瀬に近づくと、突然“ガガッ、ガガッ、ググッ”と不気味な音がして、船は岩に乗り上げ、見る間に船底が裂け、水がドッと入ってきました。

「あ、何事だ」
「静まれ」
「大変だ」
と、船の上は大騒ぎです。

船は横波を受け、今にも沈みそうです。
家来たちは、一生懸命になって、秀吉公を守ろうと、泳ぎの上手な武士を集め、万が一船が沈没したときは、その肩にでもお乗せして、泳ぐよう申し渡しました。

しかし、幸いなことに、日本丸は岩に乗り上げただけで、沈没はまぬがれ、秀吉はやっとのことで助け出されました。

その後、与次兵衛は、取調べの役人に、舵がきかなかったからと、いろいろ説明しましたが、聞き届けられず、門司大里の浜で打ち首になりました。

それから、この死の瀬のことを、だれいうとなく与次兵衛瀬と呼ぶようになりました。


(注)
この与次兵衛瀬に、与次兵衛碑がたっていましたが、明治43年からはじまった関門海峡第一期工事で瀬を砕き、海峡の障害物を除きました。
そのとき碑は、彦島に持って行き、その後第四港湾の建物内に引越しましたが、昭和29年門司側が引き取り、今は、めかり公園にあります。


『下関の民話』下関教育委員会編


追記
現在は、下関市のアルカポート内の赤間神宮側に、その碑はあります。

Posted on 2017/05/31 Wed. 10:24 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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31

舟島怪談 

舟島怪談


 舟島というのは、江ノ浦と弟子待の沖合に浮かぶ巌流島のことです。
 慶長十七年(1612年)春、佐々木小次郎と宮本武蔵がこの島で雌雄を決して、巌流島と名付けられました。

 むかしから、平家びいきと言われるこの地方の人びとのことですから、敗れた小次郎の死をいたみ、哀しんで付けたものでしょう。
 そののち、この島には、小次郎の墓も建てられたと言いますが、いつのまにかなくなり、幕末の頃、吉田松陰が立ち寄った嘉永年間には、また建てられてあったそうです。
 現在、この島には、小次郎の墓と呼ばれる碑が建っていますが、これは明治年間における巌流島拡張工事の際のものです。

 舟島には、小次郎の怨霊を思わせるような怪談が、たくさん残されています。
 それは、俗に『舟島怪談』と呼ばれる一連の話ですが、不気味な中にも、小次郎の死をいたむ人びとの、憐れみや思いやりのようなものが感じられます。
 それらの話の幾つかは、昔、弁天座や稲荷座のお盆興行で、前座に使われたこともある程、かなりたくさん伝えられていたそうですが、今では殆ど、すたれてしまいました。



舟島怪談 青い火


 毎年、お盆の八月十六日、月が西に沈むと、舟島から青い火がすーっと空に舞いあがります。そして小倉のほうへ、ほわりほわりと流れて行くのです。
 すると、それを待ちかねていたかのように、小倉の空からも同じように青い火がすーっと飛び立って、こちらへやって来ます。
 二つの青い火は、大瀬戸の海の上で、もつれ合うように、あがったり下がったりしますが、やがて、ぐるぐる回りはじめます。そして、ぶっつかっては消え、またぶっつかって、それが小半刻もつづくのです。

 だから彦島の海べりの人びとは、その夜だけは早くから戸を閉めて寝込むのが習慣になりました。しかし、中にはこわいもの見たさで、とざした戸のすき間から、恐る恐る青い火を見ようとする人も居ましたが、そんな人は必ず病気になったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

Posted on 2017/05/30 Tue. 12:11 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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30

巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/29 Mon. 09:21 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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29

六人武者 

六人武者


源平合戦で敗れたのち、平家再興を願っていました中島四郎太夫正則の子と、その家来は、小門王城山に隠れていましたが、その希望も消え、ついに海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、ここを占領してしまいました。
その時上陸したところを今でも“六人武者の江良”と呼び、この島を“鬼が島”ともいいました。

六人武者の海賊は次第に力を持ち、近くの土地や舟を襲うようになりました。
そこでとうとう攻め撃つことになり、九州豊前から兵百五十人、船六十三隻が福浦の江良に上陸しました。
福浦に“六十三隻江良”という地名が残っていますが、これはその時、船が着いたところをいいます。
また南風泊の“きかんが藻”という地名は、戦が始まる前、六人武者の様子を調べに来た豊前の兵が、一隻の漁船に、
「竹ノ子島に海賊はいるか」
と、たずねたところ、その漁師は後の祟りが恐ろしいので、何をたずねられても“聞かぬ、聞かぬ”というふうに首を振って答えなかったところからつけられたといわれます。

さて、いよいよ竹ノ子島の戦となりました。
百五十人対六人でしたが、六人の武者は、いろいろな戦法で敵を引っ掻き回し、さんざん懲らしめ、豊前側の死傷者はみるまに増えていきました。
“鶴の江良”“仁蔵の江良”という地名は、その時六人武者から殺された、鶴五郎、仁蔵の死んだ場所といわれます。
こうして総崩れした敵兵は、あわてふためいて田の首の岬まで逃れ、ようやく豊前方の助け舟に乗り、九州に逃げ帰りました。

六人武者は、これ以上追い討ちはしませんでしたが、この戦で勇敢に戦って死んだ、鶴五郎、仁蔵の首をこの地に埋め、手厚く供養しました。
“田の首”の地名はそこからきているといわれます。

その後、六人武者は、ひとまず王城山に引きあげましたが、今度の戦で、平家残党ということが知れたため、必ず大きな逆襲のあることを予想し、五人の家来は、それぞれ姿を変えて、遠くの地へ別れ別れに離れていき、四郎太夫の子だけが、この地に残り、のちついに漁師となって一生を送ったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/05/28 Sun. 10:07 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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28

彦島七浦七曲り 

彦島七浦七曲り


平清盛が、天下を治めていたころのこと、平氏の祈願所をつくるために、全国に測量班を差し向け“七里七浦七曲り”の場所を探させました。
もちろん浦があるところといえば海岸線ですが、なかなか一つの土地に七浦もあるところは見つかりません。
あっても五浦とか、たまに七浦をみつけて大喜びしてみると、七里にたらなかったりして、いつもがっかりするのでした。

七という数字は大変縁起のいい数字で、その七が三つ続けばなおさら幸運をもたらすものと、平清盛は信じていましたから、全国の“七里七浦七曲り”の候補地五十箇所をしらみつぶしに調べ、残っているのは長門の国の彦島と安芸の国の宮島の二箇所だけになってしまいました。

はじめに彦島の測量からはじめました。
七浦七曲りあることは、簡単にわかりましたが、測量となるとたいへんな努力と労力がいります。
長い紐を使って測っていくのですが、四里、五里とすすむうちに次第に希望がわいてきました。
五里半、六里、六里からは、一間、二間、三間と数えていきましたが、あとわずかの距離で、どうしても七里にたりませんでした。

こうして彦島の祈願所つくりは夢物語におわり、残りの安芸の宮島が“安芸の宮島回れば七里、浦は七浦七曲り”といわれるように、ここに祈願所がつくられたのでした。


(注)
明治になって彦島を測量してみますと、六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)でした。
七里は約27.5キロメートルですから、わずか2.2キロメートル足りなかったことになります。
ところで彦島の七浦というのは、宮ノ浦、江ノ浦、伊佐木ノ浦、鯉ノ浦、桃ノ浦、福浦、名古浦ですが、埋め立てなどですでにわからなくなったところもあります。
いま字名で残っているのは、福浦、江ノ浦、伊佐浦、名古浦の四ヶ所です。


『下関の民話』下関教育委員会編

Posted on 2017/05/27 Sat. 11:28 [edit]

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27

きぬかけ石 

きぬかけ石


 むかし、源氏に追われた平家一門は、壇ノ浦の流れにことごとく沈んで滅びました。

 しかし、ある武将の妻は、不思議に助かって彦島に落ちのびました。
 妻は、毎日、夫の消息を訊ねてあちこち歩きまわっていましたが、夫が、一門と共に海峡の藻屑と消えたと知ると、小戸の大岩にすがって泣きくずれました。

 そして翌日から、朝に夕に、この岩の上から壇ノ浦の空をみつめながら夫の名を呼びつづけました。島びとたちはその姿に貰い泣きするばかりでしたが、どうすることも出来ません。

 やがて妻は、痩せおとろえ、狂ったようになってしまいました。

 ある嵐の吹きすさぶ日でした。

 病人さながらのその女は、頭からずぶぬれのまま、よろよろとこの大岩にのぼり、ゆっくりと衣をぬぎました。そしてこれを、夫の肩にやさしく掛けるかのようにふわっと置いて、壇ノ浦の方を拝んだかと思うと、小瀬戸の渦潮に飛び込んでしまいました。


 嵐は三日三晩つづいて、ようやく去りました。ところが、岩の上には女の衣が、あの大風に吹き飛ばされることもなく、ひらひらと舞っていたといいます。


 それから誰いうとなく、この岩のことを『きぬかけ石』と呼ぶようになりました。



富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2017/05/25 Thu. 10:08 [edit]

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25

楠ノ木の精 

楠ノ木の精


 むかし、彦島八幡宮は西山の舞子島にあった。その御神体は、海中から引き揚げた明鏡であったが、河野通次は立派な八幡尊像を彫って奉納したいと考えた。

 そのころ、里の森の東のはずれに、天にも届くかと思われるような大きな楠ノ木が聳え立っていた。
 通次は、家臣の小川甚六・柴崎甚平を呼び寄せ、その楠ノ木で八幡尊像を刻むよう命じた。永暦元年(1160年)三月のことであった。

 小川・柴崎の両人は、小者を集め、さっそく楠ノ木ほ伐り倒し、幹の芯を取って、小さな八幡尊像を彫塑した。たっぷり三ヶ月かかったという。

 しかし、伐り倒された楠ノ木は、千古の大木であったせいか、その後、不思議なことが続いた。
 月の無い夜には、楠ノ木の伐り株から赤い炎が燃え上がったり、嵐の夜には、そこから女のすすり泣く声が聞こえたりもした。そして、ついには、八幡尊像を刻んだ小川・柴崎両人をはじめ、伐採を手伝った小者たちまでが相次いで原因不明の病気にかかる始末。
 そこで、通次は、秋の八幡祭の後、楠ノ木の伐り株に堂宇を建て佛像を安置し、その付近の地名を『楠』と名付けた。
 里を中心に、各地に名前を付け、舞子島のあたりを『西山』、楠ノ木一帯を『東山』と命名したのはこの時のことだ。その後、西山は広範囲に広がり、現在でもその名は町名として残っているが、東山は本村の陰にかくれて殆ど知られなくなってしまった。

 それはさておいて、伐り株に佛像を安置して楠ノ木の精を慰めても、小川・柴崎両人や小者たちの病は、さっぱり良くならない。
 通次は考えあぐねた末、その原因は、伐られた楠ノ木の残り木の山が、そこに放置されたままになっていることにある、と気づいた。

 そこで翌二年(1161年)の春、堂宇の前に祠をつくり、弘法大師作と伝えられる石の地蔵尊を安置して供養祭を催した。そして、おびただしい楠ノ木の残り木を一カ所に集めて、何かある時には必ずこの木を使うことを誓った。
 すると不思議に、人びとの病いもすっかり良くなり、赤い炎も、女のすすり泣きも、いつの間にか聞かれなくなった。

 通次は大いに喜び、東山の小さな丘に『堂宇の山』という名を付け、日夜、地蔵尊への参詣をつづけ、楠ノ木の供養を怠らなかった。


 その後、何年かたって、平家の残党が落ちのびて来た。
 まず、植田・百合野・岡野の三名が、それぞれ平家の守り本尊一体ずつを覆奉して来島した。そして、迫の一角に観音堂を建てて、三尊を安置したが、その材料は東山の楠ノ木を使った。
 今、迫の山辺に『カナンドウ』という地名と屋号が残っているが、それは観音堂がなまったものだという。


 それからまた何年か経って、和田・冨田・登根という人びとが落ちのびて来た。この人たちは、先の植田らと話し合い、平家再興を祈って、堂宇の山のてっぺんに驚くほど大きな矛を建てた。その矛もまた、楠ノ木の残り木から造ったといわれている。

 ところで、この堂宇山というのは、現在では山頂付近が削られて玄洋中学校が建って居るが、一般には『ドオノ山』と呼ばれてきた。そして、本村寄り、つまり東側の八合目付近から下へかけては鉾江山と呼ばれているが、これは『矛柄(ほこえ)』が転じたものであろうか。
 また、鉾江山の真ん前にある西楽寺山は、古くから鉾崎山と呼ばれ、その麓の林兼造船第二工場のあたりは鉾崎の浜で、これも『矛先』がなまって『ほうさき』となったのかもしれない。


 それからまた何十年か経って、西楽法師が観音堂の三尊像を本村に移して西楽庵を建てた。この時にも、楠ノ木の残り木を使ったという。

 それからまた四十年ばかり後、舞子島にあった八幡宮を、今の宮ノ原に移して、新しく彦島八幡宮を造営することになったが、この時も同じ残り木を使ったと伝えられている。正和二年(1313年)のことであった。


 東山の森に太古の昔から聳え立っていた大楠ノ木は、八幡尊像を刻む為に伐り倒され、約百五十年もの間に、堂宇、観音堂、矛、西楽寺などの建立に少しずつその身を削ってゆき、再び八幡宮に戻って役立ったのであった。

 だから、楠ノ木は『彦島の守り木だ』と昔から伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/24 Wed. 09:38 [edit]

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十二苗祖 

十二苗祖(じゅうにびょうそ)


 むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。

 今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。
 四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、
『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。
 翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山城再興をはかるに最適な場所であることがわかった。
 そこで、里(迫町の一角)に屋敷を建て、園田一学、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の重臣五名と仮寓することに決めた。

 通次ら主従は、里を拠点に島を開拓し、なれない農業や漁業に励みながら、勝山城再興の日を待っていた。
 西山の舞子島に『光格殿』というお宮を建て、引島で一番大きなくすの木を伐って八幡尊像を刻み奉納したり、海峡を見おろす丘の上に立って、兵を挙げる日の一日も早かれと祈願したものだ。

 二十数年という月日が、またたくまに過ぎた。

 そのころ、都で発した源氏と平家の戦いは、西へ西へと伸び、寿永三年(1184年)秋には、平知盛が引島に城を築いて、源氏を迎え撃つことになった。
 今まで、静かであった引島も、つぎつぎに集結する平家の軍勢によって、修羅場のように騒々しくなり始めたが、翌年三月二十四日、壇ノ浦の合戦で、ことごとく滅び、知盛による引島城は『平家最期の砦』になってしまった。

 ようやく、もとの平和な島に戻った翌年、つまり、文治二年(1186年)一月、平家の残党、植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三名が、平家の守護仏である阿弥陀如来坐像と、観世音菩薩、薬師如来立像を、それぞれ捧持して来島した。
 三人の落人は、里に河野通次を訪ね、平家再興の意図を打ち明け、それまでの間、この島にかくまって貰うことにした。
 そして、平家の守り本尊である三像を仮の草庵に安置したが、その場所は今でもカナンドウ(観音堂)と呼ばれている。

 その後、健保二年(1214年)四月には和田伝済、つづいて翌三年には、同じく平家の残党、冨田刑部之輔と登根金吾が、植田治部之進を尋ねて来島した。
 これら和田を除く五名の人びとは、いずれも平家の執権で、彼らは河野家主従に自分たちの身分を明かし、一門再興に力を貸してほしい、と頼み込んだ。勝山城再興を願う河野一族は、この不思議な因縁に驚いたが、同じ境遇である十二氏が力を合わせれば果たせないことはないと、手を取り合って協力を誓った。

 しかし、そのころは、既に河野家第一の参謀である園田一学は病死し、あとを追うように通次もこの世を去っていたので、河野家再興は、なかばあきらめの状態であった。

 一遍上人の高弟、西楽法師が引島に来られたのは健治二年(1276年)三月であった。法師は、観音堂の阿弥陀如来坐像の威光にうたれ、一遍上人の許しを得て引島に永住しようと決心した。それは、観音堂を今の本村に移し『西楽庵』を建てて三像に仕えるためであった。

 そのうち法師は、平家一門と勝山城の、二つの再興話を耳にしたので、その悲願をあきらめさせ、引島開拓に心を打ち込むよう、説いてまわった。
 初めのうちこそ、かたくなに法師の話に耳をかそうとしなかった十二家の人びとも、やがて挙兵のむなしさに気付き、永年の望みを捨て去ることにした。

 そこで人びとは、平家の守り本尊に仕え、農業、漁業、工業にいそしみ、引島に永住することを誓い合った。弘安元年(1278年)秋のことであったという。


 引島開拓と十二氏共栄に力を合わせ始めたこれらのいきさつは、古くから『十二苗祖の誓い』と呼ばれ今もなお語りつがれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/23 Tue. 08:55 [edit]

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こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/21 Sun. 09:10 [edit]

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関門トンネルと惣の話 

関門トンネルと惣の話


 彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
 なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。


 明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
 そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』

 明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
 トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。

 ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
 と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。

 トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…


 そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。

 やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
 その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
 と、旗を振ったものじゃ。

 ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
 惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
 ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
 と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。


 また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
 そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
 行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
 と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。

 座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』


 戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。

 いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/20 Sat. 10:10 [edit]

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子鯨の話 

子鯨の話


 田ノ首の浜に、貧しい漁師が住んでおった。漁師には、男の子が一人あったが、生まれつき病弱で、いつも床についたままじゃった。

 ある夜のこと、昼の疲れにぐっすり寝込んだ漁師の枕辺に、何か大きな真っ黒いものが立ちふさがった。
 ふと目をさましてみると、それは大きな鯨じゃった。びっくりした漁師は、思わず声を立てた、
『何しに来た』
 すると鯨は、いかにも哀れみを乞うように、弱々しくこう言うた。
『私たち夫婦は、明日の昼ごろ、一人むすこを連れてこの海峡を通ります。しかし、むすこは病気でとても弱っていますので、どうか、むすこだけは見逃してやってください。よろしく頼みますよ』
 そう言い終えると、鯨の姿はスーッと消えてしもうた。

 夜が明けた。漁師はさっそく、浜の漁師たちを集めて、昨夜の不思議な出来事を話し、
『今から、みんなで鯨をとりに行こう』
 と、相談した。そいやけど、漁師たちは、
『そんな馬鹿げた話があるものか』
 と、相手にせんじゃった。でも、よう考えてみると、昔から、鯨一頭とれば七浦が栄える、と言われたほどの収入があるので、
『だまされたと思うて、沖へ出てみよう』
 ということになり、みんなで鯨とりの準備にとりかかった。あれこれ仰山、もりやロープを用意して、人びとは海を見つめて待った。

 やがて、昼少し過ぎたころ、小倉の沖合いに、大瀬戸に向かって来る鯨を発見した。
 一頭、そのあとにまた一頭、そしてその間にはさまって小さな鯨が一頭…。
 それはちょうど、親が子どもの手をしっかりと引いちょるように見えた。

『鯨じゃあ、鯨が来るぞ』
 待ちかねておった漁師たちは、いっせいに舟を出し、沖にむかって漕ぎはじめた。
 舟が鯨に近づくと、鯨波が津波のようなうねりをあげて押し寄せ、小舟はまるで木の葉のように揺れ動いた。
 そいでも漁師たちは、必死になって鯨に近づき、無茶苦茶にもりを投げつけた。もりは、親鯨にさえもなかなか命中せん。

 ところが、どうしたはずみか、その中の一本が、撃っちゃあいけん筈の子鯨の胴に突きささった。子鯨は、海を血に染めながら、のたうちまわった。母鯨は急いで子鯨のそばに寄り、心配そうに離れようともせんじゃった。
 一方、父鯨のほうは、激昂して暴れまわり、尾びれで次々に小舟を海に沈めはじめた。
 漁師たちはみな海に放り出され、もはや、鯨をとるどころじゃあない。命からがら岸にむかって泳ぎはじめた。
 傷を受けた子鯨が、その後どうなったかは全くわからん。

 そいやけど、貧しい漁師が痛む体を引きずって我が家へ帰ってみると、いとしい一人むすこが死んでおった。
 それはちょうど、もりが子鯨に命中した時間に、むすこが高熱を出して、もがき死んだちゅうことじゃて。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


 
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Posted on 2017/05/18 Thu. 09:40 [edit]

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蟹島 

蟹島


 むかし、むかし、大むかし、下関の火ノ山は、その名の通り、火を噴く火山であった。

 ある年、火ノ山が大爆発を起こした。そして噴き上げられた熔岩は、響灘へと流れ込んだ。
 そのころ、響灘には大群のカニが棲んでいたが、その大半は身を挺して熔岩をせき止め、残る半分は、懸命に鋏み止めたという。

 この時の何千億というカニの死骸は山となって、一つの島が出来た。
 それが、響灘に浮かぶ『蟹島』で、空からこの島を見ると、今でも、カニそっくりであるという。
 そしてこの島には、北の浜に『蟹の背』という瀬があり、森の中には『蟹の目』と呼ばれる所が残っているが、昔からこの島の人びとは、絶対にカニを食べなかったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2017/05/17 Wed. 09:36 [edit]

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