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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島のけしき2 

どうも容量オーバーなのかもしれません。
画像がアップできませんので
以下のページで続けていきます。

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Posted on 2020/12/31 Thu. 12:02 [edit]

category: お知らせ

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31

あかずの扉 

あかずの扉


明治になるちょっと前のこと、天然痘が大流行した年がありました。

長府逢坂の坂口、むかって右手の角屋敷に松田という三百石取りの侍が住んでいましたが、松田の家でも、たった一人の男の子と、その家の中間の子どもとが同時に天然痘にかかりました。
松田家の子どもは、手厚い看護の効き目も無く“痛いよ…痛いよ…”と苦しみながら死んでしまいました。
それにくらべて中間の子どもの方は幸いなことに全快しました。

松田の両親の悲しみは大変なものでした。
「ご主人様の坊様とかわっていればいいのに」
と、主人おもいの中間夫婦は心からそう思っていたし、口にも出して主人をなぐさめました。
そのうち初七日も過ぎましたが、しかし松田の耳には、痛いよ痛いよと苦しんで死んでいった我が子の声が残ってどうすることもできませんでした。

「おお、せがれか、苦しいだろうががまんせい」
真夜中に布団を跳ね返して、こう口走ることもありました。
松田は日に日に痩せ衰え、ほほ骨はとがり、目だけが異様にギラギラと光をおびてきました。

それから数日たったある日のこと、主人の松田が縁側へ出てぼんやりと冬の淡い日差しをあびているとき、全快した中間の子どもがくぐり戸から庭へ入ってきました。
松田には一瞬我が子が入ってきたのかと思いましたが、その子が中間の子とわかってよけいにカッとなり、
「お前がわしの子を殺したのじゃ」
と、庭へ飛び降り、子どもの襟首をつかんで、ずるずると井戸端近く引きずっていきました。
「苦しいよ、はなしてよ」
と、子どもは悲鳴をあげて泣き叫びました。
この声をききつけて、あわててかけつけた中間夫婦は、
「ご主人様、せがれが何かそそうをしましたか、それならどうぞお許しください」
と、主人にとりすがって必死に頼みました。

けれど、その時すでに気が狂っていた主人は、
「うぬ、このガキがわしの子どもに病気をうつしたのじゃ、せがれのかたきだ」
こうののしったかと思うと、やにわに刀を抜いて、子どもを斬り捨てました。
子どもの首は、ころころと転がってくぐり戸前まで飛びました。そしてピューっと血を吹きだしたかと思うと見るまにくぐり戸を真っ赤に染めてしまいました。
それきり、主人の松田は気が変になってとうとう死んでしまいました。

その後、血のついたくぐり戸は、開いても開いてもすぐ閉まるようになり、誰いうとなく「あかずの扉」と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/10 Fri. 09:59 [edit]

category: 下関の民話

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10

福笹 

福笹


むかし、小月の里に、八重というきりょうよしで親孝行の娘がいました。
八重の家は、両親と三人ぐらしでしたが、両親は病気ばかりしていて、家事のことから、野良仕事まで、ぜんぶ八重が受け持っていました。

こうした八重の働き振りが気に入られたのか、村の庄屋さんの息子のお嫁にという話が持ち込まれました。
しかし、相手は金持ちの庄屋さん、こちらは貧乏ぐらしの百姓娘、どう考えてもつりあわないと、両親は断りました。
八重にしても、病気ばかりしている両親を、このままおいて、お嫁にいけるわけがありません。
それどころか、少しでもお金をためて、薬を買い両親に早く良くなってもらうため、体を休めるひまもなく働き続けました。

こうして、また新しい年を迎えたお正月のこと。
王喜に住むおじさんが、小月での用事のついでに八重の家に立ち寄りました。
「お八重や、明日は初寅の日だが、いっしょにおまいりにいかんか、毘沙門さまのご利益をもらって今年はいい年にしなければ…」
と、さそいました。そばから母親も、
「ほんとうに、わしが弱いばっかりに、八重に苦労ばかりかけて…、お正月の晴れ着もよう買ってやることもできずに…」
そんな、母親の悲しい気持ちを打ち消すように八重は、
「いいえ、別に初寅だからといっておまいりしなくても、私はここから、いつも毘沙門さまをおがんでいます。おじさん、おまいりされたら、お父さんやお母さんの達者をよくお願いしておいてください」
と、八重は、おじさんや母親に向かって、明るく笑ってみせ、またせっせと藁編みの手を進めるのでした。
「そうか、それじゃ、わしがよう頼んで、かわりに福をもらってきてやろう」
と、おじさんは、親子のかばいあう姿に胸をうたれて、そう言って帰っていきました。

あくる日は、毘沙門天さまのおまつり、おじさんは、おまいりをすませて山をおりてしまってから、ふと八重との約束を思い出しました。
福をもらって帰ってやるといったものの、もうここまできてしまっては、なにをおみやげに持って帰ればいいのか…。
おじさんは、思案しながら歩いていますと、とつぜん“バサッ”という音がしました。おもわずびっくりしてその方を見ると、笹の葉がゆれていて、それは笹の葉に積もっていた雪をはねのけた音だったのです。
「おおそうじゃ、この笹を、毘沙門天さまのおさずかりじゃといっておみやげにしよう」
こういっておじさんは、一枝とって帰りましたが、この笹には見事な葉が五枚ついていました。

「お八重や、いま帰ったぞ。今年はおまいりが多くて、おみやげものはみな売り切れてしまった。こりゃあ四王司山の笹葉だが、これには、毘沙門さまの福がこもっている。まぁ神棚にでもまつっておけ」
といって、おじさんは、きまりわるげにお八重に渡しました。

あくる朝、八重が、神棚をのぞくと、たしかに昨日のせたはずの笹が見当たりません。
おかしいと思いながら、背伸びをして手で探していますと、チャリン、チャリンと音がして、板間に落ちたものがあります。
なんとそれは、キラキラとまぶしい光をはなつ小判でした。
「こりゃ、まぁ」
といったなり、八重はビックリして板間に座り込みましたが、すぐさま両親をよんでみせますと、二人ともワナワナふるえだし、ものを言うこともできません。八重はあわてておじさんを呼びにいきました。

聞いて、おじさんは飛んできましたが、目の前の小判五枚を見て、たまげてしまいました。そして、
「これは、やっぱりお八重の日ごろの信心と、親孝行を知って毘沙門さんがおさずけくださったんじゃ」
と、いいきかせるのでした。

この噂は、たちまち村中にひろまっていきました。
そして、ふたたび庄屋さんから、八重を息子の嫁にもらいたいという話が持ち込まれ、村中の祝福を受けながら、春三月お嫁入りしました。
そしてその後も八重は、ずっと幸せにくらしたということです。


ところで、それからというもの、毘沙門さまのおまつりには、おまいりする誰もが、四王司山の笹葉をもらって帰るようになり、いつか笹葉は、初寅まいりの福の笹として、これに張り子の小さな虎や小判を結びつけ“福飾り”といって売り出されるようになりました。


(注)
初寅まいりの日には、今でもこの“福飾り”がお土産に売られています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/09 Thu. 10:46 [edit]

category: 下関の民話

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09

伏拝の峰 

伏拝の峰(ふくはいのみね) 下関市豊田、菊川


 下関市の豊田、菊川にまたがっている山がある。
 華山(げざん:高さ750m)とよばれる美しいかたちをした山である。
 ずっと昔は、山伏たちが、修行をしたところだともいわれている。

 この山の頂上は、ふたつに分かれていて、東の方を岩屋の峰(いわやのみね)といい、西の方を西の嶽(にしのだけ)、または伏拝の峰(ふくはいのみね)ともいっている。
 その西の嶽には、嶽の宮(だけのみや)という小さなほこらがある。
 このほこらは、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の墓のあとだともいわれている。

 仲哀天皇は、クマソ(九州のごうぞく)との戦いにやぶれ貴場(きば)までにげてきて、そこで里の人たちのもてなしを受けたのち、歌野(うたの:宇多野とも書く)というところまで来られた。
 その時、先頭を歩いていた武内宿禰(たけうちのすくね)が古びた一軒屋の軒下に、若い女が立っているのを見つけ、
「お前は、この土地の者か。」とたずねた。

 女は、戦の姿に身をかためた宿禰におどろいたのか、何も答えなかった。
 しかし、宿禰が、
「あとから来る者たちへ、われわれのことを言うではないぞ。口がさけても言うではないぞ。よいか。」
 と言うと、女は、
「うん。」
 とだけ言って、うなずいた。

 それから天皇の一行は、華山の方へと急いだ。

 それから小半時(こはんとき:約1時間)もたったころ、みるからに荒々しい男たちが馬に乗ってやってきた。クマソの軍勢であった。
 その先頭の男が、さきほどの若い女を見つけて馬をとめ、
「女、このあたりに武者(むしゃ)は来なかったか。」
 とたずねた。
 しかし、女はさっきの約束を守ってだまっていた。二度、三度と聞かれたが、それでも女は返事をしなかった。
 すると、クマソの大将は、この女は何かを知っていると思ったのか、馬から飛び降りると、刀をすらりと抜いて、ぴたりと女の顔に押し当てた。
「言わぬか。どこへ行った。言わぬとお前の首をはねるぞ。」
 大将は、刀で女のほおをたたいた。

 女はすっかりこわくなって、とうとう小さなあごを左へ2、3回ふってみせた。
 口さえきかなければ、先ほどの約束をやぶったことにはならないと思ったのだ。
「あっちじゃと言っとるぞ。それッ、追え!」
 大将は、若い女を突き飛ばすと、馬に飛び乗り、左の方角に追いかけていった。

 そして、クマソの軍勢は仲哀天皇の軍に追いつき、いっせいに矢をはなち、刀をふるってせめかかった。
 天皇の一行も勇敢に戦ったが、とうとう力つき、天皇は矢にあたってなくなってしまった。

 天皇の死を知ったお妃(おきさき)の神宮皇后(じんぐうこうごう)は、天皇が亡くなったことをみんなにかくして、こっそりと豊浦の北三里の山中に埋葬させ、天地(あまつち)の神々をまつり、戦いに勝てるよう祈った。
 
 そして、クマソを討たれた。

 神宮皇后が、天皇の冥福(めいふく)とクマソ討伐の成功を祈ったことから、西の嶽を伏拝の峰とよぶようになったとつたえられている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2020/07/08 Wed. 09:41 [edit]

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08

立石稲荷の大石 

立石稲荷の大石


壇の浦立石稲荷神社の下、国道をへだてた海の中に大きな石があります。

形が帽子ににているため烏帽子岩ともいい、この石は立石稲荷のご神体ともいわれており、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。


ところが、いまから六十五年前、この大石がはげしい潮の流れのため海中に倒れたことがあります。
地元の人たちは、もとにもどそうと思いましたが、あまり大きな石だったのでどうすることもできず、そのままにしておきました。

ある日、町内の老漁夫が、倒れている大石に目をやると、何か小さなものが岩にのぼっています。近寄ってよく見るとそれは狐でした。狐がまさか泳ぎにきたわけでもあるまいに、と老漁夫は別に気にもかけずにおりました。
すると、あくる日もまた狐がのぼっているのです。そしてまたその次の日も…

「うむ、これはおかしいわい。狐が何かものいいたげそうにしているが…」
と思いましたが、“さわらぬかみにたたりなし”ということもある、知らぬふりをしておこうと、狐のことは誰にも話さずにいました。

ところが、大石が海中に倒れてから十日くらいたって、壇の浦の町内にいろいろ悪いことが起こりました。
町内にたびたび火災が起こったり、風が続いて漁船が転覆するのです。それがあまりにもたびたび重なるので、しだいに町民たちも不安になって、毎日集まっては相談しましたが、なかなか名案が浮かびません。

きょうも海は荒れていました。老漁夫はしかたなしに網の手入れをしていましたが、そのうちに眠くなりついウトウトしていますと、夢枕にあのいつかの狐が現われ
「みんなして早くあの大石をおこせ、さもないと悪いことはいつまでも続くであろう」
というこわいおつげがありました。

老漁夫は、さっそく皆を集め相談した結果、すぐさま作業にとりかかることにしました。
十何人かの人夫がやとわれ、あの大石はやっとのことでおきました。
しかし、せっかくおこした大石もあくる朝には、また海中に倒れている、そんなことが何度も続いたので町内の若者たちは、
「あのおつげはうそだったんだ」
「いっそ石を粉々に打ち砕いてしまえ」
「うそつきじじいめ」
というやけっぱちな言葉をはきはじめました。

町内の人たちも老漁夫をうたがいの目でみるようになりました。
作業は中止されました。また火事は起こり、船は遭難し、けが人も出ました。

老漁夫は毎日ゆうつでしかたありません。みんなからのけものにされ、一人でしょんぼりと漁具の手入れをして暮らしました。
「あのおつげはうそだったんだろうか。狐も本当に見たし、夢もみたのだが…。いやまてよ、あのおつげは…」
老人は、ゆっくりあのおつげを思い出しました。
「みんなして早く… みんなして…」
「あっ、そうか、みんなして、町民全部が作業にくわわらなくてはいけないのだ、よそから人夫をやとったので、それで神様がおいかりになったのだ」
と、老漁夫は、町内の一軒一軒をまわり、真剣に説得して歩きました。

町民たちも、またこのじじいかと思いましたが、あまり悪いことが続いているので、
「よし、じいさん、こんど失敗したら、この町から追い出すよ」
と、約束させ、それから町内のとしよりも若いものも、女こどもまでが総がかりで石おこしの作業にとりかかりました。

大石はたちました。しかしあくる日はどうなっているのでしょう。
老漁夫は一晩中、心配でねむれませんでした。

やがて、めかり神社のうしから真赤な太陽が顔をだすころ、そろーと戸のすきまからのぞいて見ると、石はちゃんと立っているではありませんか。
「石が立ってるぞー、石がー」
と老漁夫は喜びのあまり、大声をだして町内中に知らせて走り回りました。
やがて町内のもの全員が、大石のまわりに集まり
「やっぱし、わしらの手でおこしたのがよかったんじゃ」
と口々に喜び合い、大石にしめなわを飾ったり、お酒を供えたりしてお祭りをしました。

それからというもの、火事はなくなり、あらしもおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。
老漁夫はもちろん長生きをして、町内のものからたいせつにされたということです。


(注)
大石にしめなわをはる「しめなわ祭」の行事は昭和26年からはじめられ、毎年12月の上旬に行われています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/06 Mon. 10:50 [edit]

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06

蚕種の渡来 

蚕種の渡来


忌宮神社の境内に、大自然石で“蚕種渡来の地”という碑がたてられています。

仲哀天皇さまが即位されて二年、熊襲を征伐されるため。豊浦宮を長府におかれ、仲哀天皇と、神功皇后がこの地におかれたときのことです。
その豊浦宮があったのが、今の忌宮神社のあるところですが、それから二年たった即位四年に、秦の始皇十一代の孫にあたる功満王という人が日本を訪れて、帰化しましたが、そのとき、おみやげとして珍しい蚕の卵を仲哀天皇さまに差し上げました。
蚕からは、日本の衣服として最高といわれる絹がつくられます。
その外国の蚕がはじめて日本に持ち込まれたところが、長府だったわけです。


(注)
この碑は、わが国で始めて渡来した地であることを記念して、昭和八年に大日本蚕糸会が建てたもので、戦前には、全国の絹物の商人たちが碑の前に集まり、お祭をしていたそうです。
この蚕種祭が最近また行われるようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/04 Sat. 09:54 [edit]

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04

御影の井戸 

御影の井戸


「こち吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
で有名な菅原道真公が、延喜元年に九州大宰府に流されました。

菅原道真公は、平安時代のすぐれた学者であり、また政治家でもありました。
字の上手なことでは小野小町、弘法大師と、並んで有名でしたが、藤原氏のねたみを受けて、くらいを落とされてしまいました。
その流される途中に、豊浦の津に上陸され、忌宮神社の大宮司家におとまりになりました。
四、五日休養されたあと、やがて出発の日が近づいてきました。海峡をひとまたぎすればいよいよ本土ともお別れです。
しかし海を渡るということだけで、また都への距離がずいぶん離れていく感じがします。
道真公は、出発される前の日、壇具川ぞいをひとりで歩かれました。
そして勧学院におはいりになり、そこの庭にある井戸に自分の姿を映してみました。
そうすると、なんだかひどく淋しい気持ちになってきて、水にうつった自分の顔にむかい、
「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた姿になったな、しかし、もう二度と、この土地にくることはなし、この井戸で、私の顔を見ることもあるまい」
と、筆と紙をとりだし、自画像を書きはじめました。

こうして道真公は、大宰府に渡られ、学問の神様として、受験シーズンになるとたくさんの人がおまいりしています。

そして、道真公がのぞかれた井戸は“御影の井戸”と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが残りました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/02 Thu. 09:21 [edit]

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02

数方庭祭 

数方庭祭


神功皇后は長府と深い関係があります。

仲哀天皇二年五月、天皇さまは、熊襲を成敗されるために紀伊より穴門豊浦にこられました。
そのおきさきの神功皇后さまも、やがて豊浦の宮へ入られ、八年までお住みになられました。

豊浦の宮というのは、長府忌宮神社がある地区にあったのでしょう。
その跡をしるす“豊浦皇居跡”の石碑が長府図書館の横にあります。

忌宮の起こりも、豊浦の宮がおかれたときからはじまっています。
では本当に神功皇后さまが、いたのかどうか、という疑問がありますが、それを調べるには千六百年以上さかのぼらなければなりません。
しかし、いまでも神功皇后さまに関係ある地名とか、おまつりとかが、かなり残っていますので、その中で主なものを選んで、お話しましょう。


長府忌宮神社の“数方庭神事”は毎年八月七日から十三日までいとなまれます。
数方庭は別に「スッポーティ」「スッポウデン」あるいは「スホウデン」とも呼ばれていました。
このおこりは、仲哀天皇七年七月七日に、新羅の長、鹿輪が、豊浦の浜に上陸して豊浦の宮に攻め寄せてきました。
宮を守っていた兵たちは、一生懸命防戦しましたが、なにしろ敵は一度に宮を囲んだので、味方はつぎつぎに倒れ、宮守護の大将、阿部高麿とその弟の助麿も戦死して、もうこれで最後と思ったときです。
仲哀天皇が自分で弓矢をとり、鹿輪をねらって矢をはなちますと、見事にあたり、その場にドッと倒れてしまいました。
新羅の兵たちは、自分たちの長が目の前で射殺されたので、恐ろしくなり、あわてて逃げ出しました。
これを見ていた味方の兵は、矛をたて刀をふりかざして、勝利の歓声をあげて鹿輪の死体の周りを踊り狂いました。

そして、鹿輪の首は切られて土中に埋め、大石でふたをしましたが、この石が鹿輪の顔に似ていたので“鬼石”と呼ばれるようになりました。

そののち、神功皇后が三韓に兵を出されたときにも、出発するとき、凱旋したとき、この鬼石を回って、勇ましい踊りをくりひろげたといいます。


(注)
神事のようすは、男が幟、女が切籠を持って、鉦・太鼓のはやしに合わせて、鬼石を中心にぐるぐると踊り回りますが、幟を持つ男の勇壮さと、切籠を持つ女・こどもの典雅さは、対照的ですが、これが不思議によくとけあって、優雅な雰囲気をつくりだしています。
切籠(きりこ)の起こりは、神功皇后さまが、凱旋されたとき、浦の女たちが、油筒に火をともして浜辺にお迎えしたのがはじまりとされています。
それが、徳川時代に入って、油筒をやめ、七夕紙をつけた笹に燈籠をつるすようになり、また矛や刀に代えて幟を持つようになりました。
数方庭ということばは、むかし忌宮で行われていた念仏講習の修法庭からきているていわれます。
このお祭のとき、鬼石をまわる輪に加わってまわると、一年中元気で、子どもは強い子に育つといわれ、お父さんが小さい子どもを肩車にして、小さい幟を持たせ、一緒に輪の中へ入って回っている姿がよく見られます。
なお、祭は七日間続けられますが、初日と中日と最後の夜が一番の賑わいをみせます。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2020/07/01 Wed. 10:05 [edit]

category: 下関の民話

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01

引接寺伝説 『三門の龍』 

引接寺伝説 『三門の龍』


 江戸時代末期、引接寺付近(現在の唐戸地区)は山陽道の起終点でもあったことから、大繁華街でした。
 その頃のある夜中、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が何者かによって殺されます。番所役人が何度となく調査しても、犯人が見つからないので苦慮しているところ、次々と同じ場所で人が殺されます。奇妙なことに、殺された旅人のふところにはお金が残っており、これは強盗の仕業ではないとすると、鬼か大蛇ではないかとのうわさが広まります。

 そんな中、ある勇敢な侍が「それでは拙者がその鬼とやらを退治してやろう」と夜中に引接寺へ出かけます。
 侍は不意に襲い掛かった怪物を見事早業で切りつけ、怪物はうめき声とともに消え去りました。
 翌朝、侍が現場に行ってみると、黒々とした血筋がお寺のほうに向かって流れています。その跡をたどって行くと、ちょうど三門の下で血筋が消えていました。不思議に思った侍が上を見上げると、そこには真っ二つに割れた龍の彫刻が!
 旅人達を襲った怪物は、この三門の龍だった、というお話です。


引接寺について

 引接寺は永禄3年(1560)に一徳和尚が豊前国の黒田村より移創された寺院です。慶長3年(1598)には小早川隆景(毛利元就の三男)の霊を弔うため、息子の秀秋が現在の地に建立しました。以降、朝鮮使節使等、度々使節の宿所となっていることから、国際的にも認知度の高い寺院であり、歴史的にはもっと古いものがあったのではないかとも言われています。

 明治28年(1895)日清講和条約(いわゆる下関条約)の際、清国全権大使李鴻章一行の宿所となりました。
 本堂は昭和20年の大空襲で焼失しますが、三門は辛うじて残りました。その後平成8年9月、日清講和条約締結100周年を記念して本堂が建立されました。
 大空襲による焼失のため、わからなくなってしまったことがたくさんありますが、多くの賓客がここを宿所とされてきたことや、三門の龍の彫刻などを見て、その由緒を感じとることができます。
 引接寺にとって、先の2つの伝説はあまり喜ばしい伝説ではありませんが、江戸後期から明治の時代にかけて日本で一番有名になったお寺は?といえば、やはり引接寺ではないでしょうか。


「三門の龍」について

 そもそも「龍」は想像上の動物。大陸ではご存知のとおり「守護神」「厄払い」的な意味を持つものとして崇拝されています。
 その龍が三門に飾られてある寺院は、その格式の高さを示しているのです。
 名工、左甚五郎の作といわれていますが、検証しようにもすべてが空襲によって謎となってしまった。
 三門の龍は時には人を襲ったといううわさで人を仰天させ、そしてその中で下関の繁栄と関門海峡を行く船の航行安全を見守っているのかも知れません。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2020/06/30 Tue. 10:22 [edit]

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川棚温泉の青龍伝説 

川棚温泉の青龍伝説

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。


怡雲(いうん)和尚

 その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
 以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2020/06/29 Mon. 09:25 [edit]

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