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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島のけしき2 

どうも容量オーバーなのかもしれません。
画像がアップできませんので
以下のページで続けていきます。

http://hicoshima.blog.fc2.com/
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Posted on 2019/12/31 Tue. 12:02 [edit]

category: お知らせ

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潮の花散る【筋ヶ浜】 

潮の花散る【筋ヶ浜】


彦島と伊崎は指呼の間にあり、小瀬戸を漁船が行きかっています。

伊崎の家並みの先には造船工場が数社あり、仰ぎ見るとクレーンが、左右へ忙しく動いていました。

工場の外れで道も途切れ、やがて「彦島大橋」があり、海辺へ下って行くと、北浦の山並、六連島、北九州、彦島の竹ノ子島などが望まれ、風景が一変します。

響灘に面した海辺には、真砂を背景に、大波が千々に散り、潮の花を一瞬の間咲かせては消えていきます。

筋ヶ浜には、昭和40年に運転を開始した公共下水道の終末処理場があり、旧市内地区約二万二千世帯の下水を処理し、衛生的な生活を進めるために、24時間運転をしています。

このほか「食肉センター」があり、年間約2000頭の牛と、豚約8000頭などが処理され、毎年7月には畜霊祭が執り行われます。

金比羅公園下あたりの海辺では、明治のころまで凧揚げが盛んで、揚がっているタコの糸を切って落とす「かけ合い」が行われる日は、応援のために店を閉め、芸者をくり込ませて、三味線が出る、太鼓が出る、歌が出るなどで、日が六連の沖に落ちるまで、金比羅の浜は終日どよめいたということです。

長崎と並んで有名だった凧揚げが、復活する日はないものでしょうか。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:56 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下関とクジラの歴史3 

下関とクジラの歴史3

南氷洋への捕鯨基地へ

中部幾次郎は、大正7年、土佐捕鯨を買収し、捕鯨業に第一歩を踏み出します。
土佐捕鯨には、福志満丸という捕鯨船と、日本一の砲手・志野徳助がいました。
初めての南氷洋捕鯨は、昭和11年に出港。
頼りにした人、志野徳助が南氷洋到着前に急死したものの、シロナガスクジラ807頭、ナガス279頭など捕獲し大成功をおさめ、翌年の4月23日に下関へ帰港。
全船満艦飾の八隻の捕鯨船は、捕獲の成績順に入港したそうです。

しかし、慣れぬ南極海のこと、次の年には、大惨事が待っていました。
気象の急変に気がつかず、三隻の捕鯨船が氷の海に閉じ込められ、動けなくなったのです。
船長以下50人は、船を放棄し、氷の割れ目に転落を防ぐため、一人一人竹竿をもち、氷原を十時間も歩き、やっとの思いで救出されたそうです。

やがて、戦争が激しくなると、捕鯨母船や捕鯨船も戦争のために使われ、そのほとんどが壊滅してしまいました。

戦後は食糧難救済のため、国策の一環として、昭和21年から捕鯨が本格的に再開されました。
急造の船団は、軍艦を改造して母船とし、小笠原島周辺へ向け、下関港から、軍艦マーチ・進軍ラッパに送られて、勇ましく出港しています。

戦後のクジラは、当分の間、政府によって買い上げられ、他の魚とともに統制食料品で、配給によって庶民の手に届いたそうで、名古屋から東では、これを機に食習慣になったといわれています。

大洋漁業は、昭和24年に本社を下関から、東京に移しますが、捕鯨船40余隻を建造した林兼造船、鯨肉を食品に加工した林兼産業、さらに製氷会社など、関連会社の多くを操業させ、下関市発展の一翼をいなっていました。

昭和40年代のことですが、下関でのクジラの消費量は、鯨肉1000トン、ハム・ソーセージなどに4500トンが使われ、安価で蛋白質が豊富なことから、学校給食にも盛んに活用されていました。

また、下関には、昭和33年開店した大洋漁業直営のクジラ専門レストラン「日新」があり、献立は刺身など23品目と、クジラ和会席、クジラの洋食フルコースがあり、年間13万人の客が訪れました。
岡本幸一調理長は、フルコースのできる全国でただ一人のひとでした。

しかし、探鯨機搭載による捕獲率の向上、捕鯨オリンピックと称し各国が南氷洋で覇を競い、日本も昭和34年に第一位となり、最盛期には七船団が出漁、こうした結果は、同60年、商業捕鯨の一時停止を招くことになりました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:34 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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源平合戦・清盛略年譜 

源平合戦・清盛略年譜

1118年 平清盛誕生
1149年 清盛、安芸守(安芸国の国司)に任命される
1156年 後白河天皇に味方し「保元の乱」に勝利
1159年 「平治の乱」起こる。義経の父、源義朝らが挙兵、清盛に破れる
1167年 清盛(五十歳)太政大臣となる
1168年 平家全盛、高倉天皇即位
1171年 清盛の娘徳子入内、高倉天皇の女御となる
1178年 中宮徳子に清盛の孫になる皇子(安徳天皇)誕生
1179年 清盛、後白河法皇を幽閉。
1180年 安徳天皇即位。高貪官以仁王の平家打倒の令旨
頼朝挙兵。木曽義仲挙兵
「石橋山の戦い」で頼朝を敗る
「富士川の戦い」で源氏車と対峙
清盛、後白河法皇の幽閉をとく
1181年 高倉上皇没。
後白河法皇が院政を再開。
清盛(六四歳)没。平家政権消滅。
1183年 「倶利伽羅峠の戦い」で義仲が平家車を破る
平家、安徳天皇・三種の神器を奉じて西国へ都落ち
後白河法皇、頼朝に東国支配院宣
平家、大宰府に入。
門司柳ケ浦(大里)に仮御所を造る
1184年 義仲、征夷大将軍に任じられる
「宇治川の戦い」で義仲が敗れる
義仲(31歳)敗死
「一の谷の戦い」で義経に敗北
1185年 「屋島の戦い」で義経に敗北
「壇ノ浦の戦い」平家滅亡
安徳天皇入水
1189年 義経(31歳)自害
1192年 後白河法皇没(66歳)
頼朝征夷大将軍に任じられる
1199年 頼朝(53歳)没


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/15 Fri. 09:18 [edit]

category: 下関あれこれ

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海水浴場の残影はなく【武久】 

海水浴場の残影はなく【武久】


響灘から吹き寄せる風は、白波に勢いをつけ、木々を揺らして通り過ぎていきます。

筋ヶ浜から武久までの海辺は、干潮の時には渚を伝って歩けそうですが、危険な場所もあり、金比羅公園の下あたりは、海岸から2、30メートル上の道を進みます。

武久川を渡ると、多くの方に親しまれた海辺「武久海水浴場」です。

しかし、武久海水浴場と呼ばれたのは、開設された大正11年から昭和30年ごろまでで、松林の中に遊園地があり、無料脱衣場、休憩所、公衆電話まで設けられ、大賑わいだったそうです。

松の並木は、戦時中、松根油を採取することなどで切り倒され、徐々に姿がなくなり、現在では一本の松もなく、また、砂にかわって小石の打ち敷く海辺からは、昔日の面影をしのぶことはできません。

武久から垢田海岸へは、市内でも代表的な新興住宅団地の武久団地や、新垢田町を経て進むことになり、建ち並ぶ住宅横の児童公園には、子供の歓声がいっぱいでした。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/14 Thu. 10:53 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下関とクジラの歴史2 

下関とクジラの歴史2

大陸などへ販売を拡張

明治も後半になると、捕鯨の方法も銛や網を使う方法から、近代的な砲を使った「ノルウェー式捕鯨」へと進展し、捕鯨頭数も飛躍的に増加します。

日和山に顕彰碑のある、岡十郎と山田桃作によって、明治32年、日本遠洋漁業が創立されると、その出張所が下関に置かれました。
すると、西村宗四郎は、岬之町に、「西宗商店」を創立し、鯨油・鯨肉などの一手販売を行い、北海道から九州・朝鮮・満州・台湾を販路とし、その規模は関西随一を誇りました。

このころ、国内はもとより、満州や台湾を販路とし、海上運輸、木材・食品と多方面にわたって、流通業を営んでいたのが、南部町に建物が現存する「秋田商会」です。
その規模は、三井・三菱に負けるなを合言葉とし、機密保持と経費節約から、社内専用の「電信暗号帳」までありました。

クジラに関し、電文を紹介しますと、「鯨頼む」は、「クユ タム」となり、7字が4字で節約できるうえ、電文の意味は、全く不明ということになります。

明治時代は、クジラの流通基地・下関でしたが、明治末の37年、兵庫県明石から下関へ本拠を移し、林兼商店を創業した中部幾次郎によって、クジラとの関わりは、さらに大きくなっていきます。
ちなみに「林兼」の語源は、中部幾次郎の祖父・兼松が、屋号を林屋といっていたことによるものです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/14 Thu. 10:32 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる 

海峡が見守ってきた歴史に思いもはせる

壇ノ浦の合戦に敗れ、平家一門は滅亡しました。それは、中世から近世へ、貴族から武士へと、時代が動いた瞬間でもありました。武士の時代は徳川幕府の大政奉還までの約700年間続きます。そして、その終わりを招いた明治維新は、同じこの関門海峡で勃発した攘夷戦(馬関戦争)を引き金に始まりました。ここ壇ノ浦古戦場跡は、幕松の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあるのです。歴史は繰り返す…。海峡が見守って来た歴史を振り返る時、その思いはいっそう胸に迫ってきます。

赤間神宮

平清盛の孫である安徳天皇を祀る赤間神宮。境内には平家一門の塚である七盛塚があり、宝物殿には重要文化財に指定されている「長門本平家物語」をはじめとした源平ゆかりの書物や絵図などが多数陳列公開されています。

安徳天皇阿弥陀寺陵

幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、中国地方唯一の御陵。引き上げられたご遺体は、伊崎町にある御旅所と呼ばれる地にひとまず安置されていました。

平家の一杯水

壇ノ浦の合戦で肩と足に深手を負い、命からがら岸に泳ぎ着いた平家の武将が、この場所で小さな湧き水をみつけました。喉をうるおそうとすすったその水は真水でした。しかし、夢中になって2度目を口にしたところ真水が塩水に変わっていたという伝説が残されており、現在は鳥居が建てられています。

紙芝居

みもすそ川公園内では、「歴史体感☆紙芝居」を開催中。ほぼ1年を通して毎日、武者姿の読み手が下関で繰り広げられた歴史などを題材に紙芝居をが行われています。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/14 Thu. 09:35 [edit]

category: 下関あれこれ

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潮の香り船の旅【六連島他】 

潮の香り船の旅【六連島他】


若葉の香りもさることながら、潮の香りも最高の季節。
海のオゾンいっぱいの船旅をしませんか…。

まず、身近な船旅には、関門汽船を利用しての海峡横断があります。
唐戸から門司港まで約5分、少しオーバーかもしれませんが「九州へ船旅をしてね」と吹聴してもウソにならない程の充実感があります。

次は彦島への船旅。
竹崎から彦島海士郷まで、所要時間3分、アッという間の航路ですが、これぞ、ささやかな幸せを感じるミニ船旅です。
海士郷には、平家伝説の「きぬかけ岩」があり、また彦島大橋の景観もすばらしいものです。

また、島へ渡ってみたい方は、竹崎から市営渡船を利用して六連島へ。
所要時間は25分。
島内には、国の天然記念物「雲母玄武岩」など一度は見ておきたい所もあります。

蓋井島は、吉見港から35分の距離。
島には「山の神の森」などがあり、ハイキングや釣りなども充分楽しめます。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/13 Wed. 11:19 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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下関とクジラの歴史1 

下関とクジラの歴史1

平成14年4月24日から一ヶ月、下関市で国際捕鯨委員会(IWC)が開催されます。
これを機に、下関とクジラの歴史をひもとき、その大要を紹介しましょう。

古代から親しまれたクジラ

下関市考古博物館に、クジラの骨を利用してできた「アワビオコシ」が、展示されています。
出土したのは、吉母浜遺跡からです。
このことから、弥生時代からすでに、私たちの祖先は、クジラを食用にしたり、骨を生活の道具にしたりしていたことがわかります。

壇之浦での源平合戦においては、クジラの一種イルカが、勝敗を占う手段とされています。
イルカが、平家軍の下を潜り抜けると敗者となり、向きを変えて戻ると勝者となる、と占いが出ました。
結果は、潜り抜けて、平家は敗者となりました。

クジラは、体の全てが利用できることから、「クジラ一頭で七浦潤す」といわれ、貴重なものでした。
永禄11年、下関市の北端、吉母と室津の境界にクジラが流れ着き、その領有をめぐって、両者が相譲らず、争いが起こっているほどです。

江戸時代になると、積極的にクジラを捕る捕鯨業が、さかんに行われるようになり、萩藩、長府藩も捕鯨を奨励援助し、見返りに税を課して収入を得るようになります。
捕れたクジラは、売り捌くことによって、税を払うことができました。
このとき、下関の問屋は、港町という地の利を生かし、長門仙崎や長崎県の生月から鯨油・鯨肉・鯨骨などを仕入れ、薩摩や大阪、東北へと売り捌く流通センターの役割を果たすようになります。
この傾向は、明治・大正・昭和時代と続き、商業都市下関の、クジラとの関わりの大きな柱でした。

では、クジラは、庶民生活にどのようにかかわってきたのでしょうか。

蓋井島に、七年毎に行われる「山ノ神神事」があることは、よく知られていますが、この祭りの「大まかない」という神事の、買い物控帳に、おばいけ、クジラ油が記されています。
また、今から約140年前、下関で奇兵隊を創設した高杉晋作に、物心両面から支援した白石正一郎の日記には、妻の実家へ尾羽毛を贈ったことが記され、鯨肉は大切な食品であり、贈答品とされていたことがわかります。

鯨油は、灯火用やローソクの原料に使われましたが、稲作の害虫ウンカ駆除のため、水田に散布され、農薬の役目を果たしていました。
また鯨骨や内臓は、肥料として大いに利用されて、捨てるところなく利用されていました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/11/13 Wed. 10:45 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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壇ノ浦古戦場跡 

壇ノ浦古戦場跡

平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。

壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番

壇ノ浦の合戦

平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源治へ裏切るものが相次ぎました。平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母健礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/13 Wed. 10:10 [edit]

category: 下関あれこれ

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