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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島のけしき2 

どうも容量オーバーなのかもしれません。
画像がアップできませんので
以下のページで続けていきます。

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category: お知らせ

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31

彦島の年表12 

彦島の年表12

明治四十年 1907年

彦島尋常高等小学校、現在地に新築移転。

彦島第二尋常小学校設立。

福浦郵便局、和文電信取扱開始。


明治四十二年 1909年

役場庁舎竣工。

彦島村の五地区と六連島の漁業組合が統合、彦島村漁業組合設立。

彦島村信用組合設立。

六連税関監視所を設置。

竹の子島灯台が完成。


明治四十三年 1910年

彦島青年団創設。


明治四十四年 1911年

彦島船渠(株)設立。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/23 Sat. 10:42 [edit]

category: 彦島の年表

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23

川棚温泉の青龍伝説 

川棚温泉の青龍伝説

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。


怡雲(いうん)和尚

 その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
 以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/03/23 Sat. 10:25 [edit]

category: 下関の民話

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23

租借 

租借(そしゃく)


 むかし、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、四つの連合艦隊が、馬関海峡を襲うたことがある。
 その前の年、長州さまが、攘夷じゃ、攘夷じゃ、と外国船を砲撃したもんじゃけ、その報復で、やって来たんじゃ。
 元治元年(1864年)八月五日のことで艦隊は軍艦十六隻と、商船一隻、それが二手に分かれ壇ノ浦、前田と長府のお城山を目がけて砲撃した。
 そして、半日もせんうちに前田に上陸を果たして、長州さまは、さんざんな目に遭われてしもうた。
 その上、七日には、彦島を襲撃して弟子待と山床の二砲台を占領したけえ、もう攘夷も何もあつたもんじゃない。とうとう、「講和を結ぼう」ちゅうことになった。

 この時の正使が高杉さまで、家老、宍戸刑馬と変名して、いかにも藩の重臣ちゅうような格好で艦隊に乗り込んで行かれた。副使の渡辺内蔵太には小具足をつけさせ、高杉さまは陣羽織に立烏帽子という芝居がかったいでたちじゃったちゅうから面白い。
 日本人にとっちゃあ、有史以来はじめての敗け戦じゃったが、そんなことはおくびにも出さず、堂々と胸を張って和議に臨んだ高杉さまちゅうお人は、やっぱり天下の傑物と言えるじゃろう。

 さて、休戦の和議は、八日、十日、そして十四日と三回にわたり持たれたが、高杉さまは八日と十四日の二回に出席された。
 そして、四カ国の戦勝者に少しも臆せず、堂々とわたり合って五項目の条約に調印はしたが、賠償金三百万ドルを幕府に支払わせてしまう、ちゅうように、長州さまには一文も損失の無いよう話を進められたから、さすがじゃ。

 この時、イギリス提督クーパーが、さりげない口調で、こう切り出した。

「馬関海峡の西に浮かぶ彦島を租借したい」

 ところが、高杉さまをはじめ、伊藤公、井上公も、「租借」ちゅうのが、何のことやら解らん。そこで、いろいろ質問してみると、彦島を占領する意図のようでもあり、また、無償で貸してほしいちゅうようでもあるので、高杉さまが、真っ赤になって怒った。

「なにっ、租借だと。怪しからん。実に怪しからん。日本の国を何と心得て居る」

 艦内に鳴り響く高杉さまの大音声にクーパー提督は青い目をクリクリ動かしたが、そんな表情には見むきもせんで、つづけて、

「彦島は毛利藩領とはなっているが、大名の領土というものは、天子の土地をお預かりしているだけで、勝手に処置することなど出来よう筈がない。それを、貸せとか、分譲せよとか実に怪しからん」

 と怒鳴り散らし、揚げ句の果てには日本の生い立ちについて、とうとうと述べたちゅうことじゃ。

「そもそも我が日本の国は高天原朝廷七代にまします国常立命にはじまり…」

 タカマガハラ、クニトコタチノミコト、イザナギ、イザナミの二柱、アメノウキハシ、アメノサカホコ…、こんなむつかしい神々の名前が次から次へと出て来るもんじゃけえ通訳の伊藤公とアーネスト・サトウが面食ろうてしまわれた。
 そこでイギリスのクーパー提督も苦笑いして、租借の件は取り下げたんじゃが、もしあの時、高杉さまが正使でなかったら、彦島は香港の対岸にある九竜市のように、イギリスの植民地にされてしもうたことじゃろう。

 何しろ高杉さまは、その前に上海に渡ってイギリス人の横暴振りを見ており、アヘンを売り込んで戦費を作り、香港、広東、上海、南京と侵略して行った常套手段も心得ちょったので、租借、と聞いただけで、怒り心頭に発したことじゃったろう。

 考えても見い。

 この海峡のど真ん中に、九十九年間もの永い間、イギリスの植民地が生まれちょったら、今の日本は有り得んじゃろう。
 高杉さまの大勇断は、彦島だけじゃあのうて、日本にとっても大恩人ちゅうことが出来るいゃのう。

 ほんに、えんにょうごっぽう有りがたいお人じゃ、高杉さまは。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/03/23 Sat. 10:09 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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23

彦島の年表11 

彦島の年表11

明治二十二年 1889年

市町村制施行、彦島村となる。


明治二十七年 1894年

彦島村が委託で海士郷・伊崎間の渡船を開始する。

江の浦に検疫所を設置。


明治三十一年 1898年

江の浦海岸の埋め立て完成。


明治三十二年 1899年

彦島全島を要塞地帯に編入。

六連島に検疫所を設置。


明治三十五年 1902年

島内の五部落と六連島に漁業組合設立。


明治三十七年 1904年

福浦に家畜検疫所を設置。


明治三十八年 1905年

大日本人造肥料、福浦に工場建設。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/22 Fri. 11:32 [edit]

category: 彦島の年表

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若侍に恋をした白狐 

若侍に恋をした白狐


江戸時代の終わりごろの話です。

長府に武術にすぐれたなかなかの美男の若侍がいました。この若侍はたまたま稲荷町に立ち寄ったさい遊女と親しくなり、それからというものひまをみつけては長府から野久留米街道を通り稲荷町へ通うようになりました。
その日も夜更けて稲荷町をでて、だんのうらの立石神社を通り過ぎるころから、だれかが、後を付けて来るような気配がします。立ち止まって後を振り向いて見ると、何か白いものが、ボーっと立っています。剣術のすぐれている若侍ですが、やはりぶきみで、小走りに歩むと、その白いものもやはり、間隔をおいてついてきます。

こうしたことが毎回続くので、ある月明かりの夜、よし今夜こそ正体をみやぶってやろうと、若侍はひそかに計画をねりました。

またいつもの通り、立石稲荷神社をすぎたころから、白いものがついてきます。前田、野久留米を通り、長府の町へ入る少し手前で若侍は、急に腹が痛くなったふりをして地面にうずくまりました。
そうしてようすをうかがっていると、例の白いボーとしたものも、いっしゅん立ち止まって、それからしだいに倒れている若侍の方へ近づいてきます。
若侍がよくみると、それは、白い着物を着て女性の姿をしていました。
「いつもつけてきたのは、この女性だったのか、それにしても、こんな時間… そうか、さては、狐か狸のしわざだな…」
と、若侍は、それならば一刀のもとにきりすててやろうと、呼吸をととのえ、刀の柄を手にあてて近づくのを待ちました。

白い着物をきた女性は、そんなこととは知らずに近づいてきます。若侍はここぞとばかりに、地面にひざをつけたままの姿から、刀を抜き、切り伏せました。
「キャウン」
という悲鳴がおこり、その女性は、空中に飛び上がりました。若侍が起き上がってみましたが、もうその姿はどこにも見当たりません。しかし、その晩の月明かりで、真黒い血が点々として流れているのを見つけました。

若侍がその血の流れを追っていくと、血は野久留米から前田、だんのうらと街道に沿って流れていましたが、みもすそ川を渡って立石稲荷の前までくると急に右に曲がって鳥居の下、石段をくぐり神殿奥深く消えていました。

若侍は、そこまで来ると急に寒気がして、そのまま家に帰り、床につきましたが、寒気はなおらず十日くらい寝付きました。
しかし、体はもとに回復しても、あの白い着物を着た女性を切ったことがいつまでも目の前にちらつき、次第に元気を失い、とうとう若くして死んでしまいました。

恐らく狐のたたりだったのでしょう。
それにしても、あの切られた狐は、きっと若侍に恋をして若侍がだんのうらを通るたびにつきまとったのでしょう。


(注)
狐が人に恋をしたり、神様のおつげをしたり、あるいは人をだましたりするお話は、各地にたくさん残っています。
この「下関の伝説」の中にある、「立石稲荷の大石」の話や、「赤田代のキツネ」「キツネのくれた刀」なども、そうした狐のお話です。
内日地区などでは、今でも狐がよく人家の近くまで出てくるそうです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/22 Fri. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


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Posted on 2019/03/22 Fri. 10:41 [edit]

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彦島の年表10 

彦島の年表10

明治七年 1874年

志磨・富観・迫西・田の首・竹の子島の五小学校を開設。


明治九年 1876年

六連島小学校を開設。


明治十年 1877年

西楽寺、西南戦争の傷病兵を収容する臨時病院となる。


明治十六年 1883年

彦島が赤間関区に編入される。


明治十九年 1886年

志磨小学校に他の小学校を併合、他は逐次分校または廃止となる。


明治二十一年 1888年

本村棚田に志磨小学校新築移転。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より

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Posted on 2019/03/21 Thu. 10:31 [edit]

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21

干珠満珠物語 

干珠満珠物語(かんじゅまんじゅものがたり)  下関市


  下関の長府の丘から沖の方を見ると、瀬戸内に潮の流れをよそに、二つの美しい緑の島が、なかよく並んでいるのが見える。
陸に近い方を干珠といい、沖に見える方を満珠という。
 この二つの島は、長府の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛地境内(忌宮神社が管理する土地)であるが、大昔から次のような話が伝えられている。


  それは、今から千七百年ぐらい前のこと、神宮皇后(じんぐうこうごう 仲哀天皇のお妃)が、神のお告げを受けて、三韓征伐(さんかんせいばつ その頃の朝鮮にあった新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)の三国を討つこと)をされるときの話である。

 朝鮮に渡るには、先ず、あの荒波で有名な玄界灘(げんかいなだ)を越えていかなければならない。皇后は、この戦いは、大変苦しい戦いになると考えた。そこで、皇后は、長府に豊浦の宮をおき、軍を整え、船を集め、いくさの準備をすすめた。準備が整うと、皇后は、転地のあらゆる神々をまつり、力添えとお守りをお願いした。特に、海の神でである、龍神の無事といくさの勝利を願った。

  ちょうど満願の日のことであった。それまで風もなく、静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに黒雲におおわれ、強風にともなって大波が起こり、音をたててうずまき、狂いはじめた。その荒れ狂う波の中から、
「皇后さま、皇后さま。私は瀬戸に住む住吉明神の化身でございます。」
 と、呼ぶ声が、皇后の耳に聞こえてきた。
 みると、荒れ狂う大波の上に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていた。そして、
「三韓は、いずれも強い国でありますゆえ、ぜひ、龍神のお助けをおかりになるのがよかろうと存じます。ついては、安曇(あずみ)の磯良(いそら)というものを召されて、これを使者として、千珠・満珠の二つの珠を龍神よりかりうけられ、そのご神徳によって、いくさを勝利に進められるがよろしかろうと存じます。」
 とお告げになられた。
 そこで、皇后は、さっそく、この海岸に住む安曇の磯良という若者をよびよせ、二つの珠を借りてこさせた。この二つの珠には、潮の満ち干を自由にすることができるふしぎな力があったのである。

 皇后が、軍を整え、船を浮かべて、いざ海に乗り出すと、海原の魚たちはぴちぴちはねて門出を祝い、追い風をうけた船はすいすいと勢いにのって進んだ。そして、皇后は、朝鮮の沖の大きな島に陣をはって、戦いにそなえた。
 いよいよ、待ち受けていた新羅の大群が、たくさんの軍船を連ねてせめてくるが、皇后は、先ず、潮千る珠を海に投げいれた。するとどうだろう、みるみるうちに、潮がひいていき、海底が現われてきた。
 新羅の軍団は、船底を海底につけて傾き、動けなくなってしまった。困り果てた新羅の兵は、とうとう船をおりて、海底を歩いて攻め寄せてきた。このようすをじっとみつめていた皇后は、敵の兵隊が、陸にあがろうとするときをみはからって、千満つ珠を、岸の近くに投げ入れた。
 すると、たちまち、どこからともなく海水が白波をたて、うちよせるようにして満ちてきて、みるみるうちにもとの海となった。あわてふためいた新羅の兵たちは、逃げ場を失い、海水を飲み込み、つぎつぎにおぼれ沈んでしまった。海底に傾いていた軍船も満ちてくる海水の勢いでひっくり返され、とうとう新羅の兵も軍船も、ぜんぶ滅びてしまったのである。

 皇后は勇み立つ兵をはげまし、軍船を整えると、いよいよ三韓へわたり、一気に敵を打ち破り、三韓の貢物(みつぎもの)を献上させ、これから先ずっと、天皇に仕えることを誓わさせた。
 こうして、皇后の軍船は、大波をけって堂々と長門の海に凱旋した。

 皇后は、戦いの勝利をたいそう喜んで、千珠・満珠の徳をたたえられ、それを、龍神にお返しになる前に、お祝いの儀式をとり行うことにした。
その日は、瀬戸内の波もおだやかで、空も青く晴れわたり、まわりの山々も鮮やかな緑色にはえていた。
 皇后の軍団は、幾組も幾組も組をつくって、壇ノ浦から長門の浦にかけて並び、旗や槍を高くかざして、にぎやかな祭りの行事がくりひろげられた。
 その先頭の一番大きい軍船から、皇后はひときわ声を高くして、
「わたくしたちが、このたびの戦で、三韓をくだして勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、
 みなのものの勇ましい働きによるものであることはもうすまでもない。
 しかしここに、みなのものに告げて、ともにお礼を申さなければならないことがある。それは、この海に住みたもう住吉明神のお導きによって、
龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。わたくしたちは、この珠のご神徳によって勝利をかちとったのである。いま、ここに、お礼を申すとともに、これを龍神にお返ししたいと思う。」
 と言って、静かに二つの珠を海にしずまれたのであった。

 すると、二つの珠がしずめられたあたりの海の上に、見るも鮮やかな美しい島が二つぽっかりと浮かびあがってきたのである。おどろいた兵士たちは、ただ目をまるくしてながめているばかりであった。

  このふしぎなできごとをご覧になった皇后は、いちだんと声を高められ、
「みなのもの、龍神はいま、この海に二つの島をつくりたもうた。永遠に長門の浦をしずめたまうのである。熊襲(くまそ)はすでにたいらぎ、いままた三韓は貢物を献じてきている。こうして平和の波は末永くいつまでも干珠・満珠の岸を洗うのであろう。」
 と、のべられたのである。
 これを聞いた兵士たちは、われを忘れてとびあがり、いっせいにかちどきの声をあげ、何度もさけび続けた。その声は、長門の浦にひびき、やがて関門海峡にすみずみまでひびきわたっていった。

 このようにしてできた二つの島が干珠と満珠である。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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21

小平家(こべけ) 

小平家(こべけ)


 壇ノ浦の合戦で命からがら逃げのびた平家の官女たちは、彦島や伊崎などに秘かにかくれて住んでいた。

 やがて源氏の追っ手の者も数少なくなり、梅雨が過ぎ、夏が本格的な暑さとなったある日、官女の一人がそっと浜辺に出てみると。何百、何千という蟹の大群が浜辺を這い回っていた。
 女は驚いて、みんなを呼び集めたが、ゾロゾロと出て来た女たちは、それぞれに蟹を掌に乗せてみて、一斉に叫び声をあげた。

「まあ、驚いた。この蟹には、人間のような顔がある。しかも、恨めしそうに涙まで流して…」

 そのおびただしい蟹の大群は、どれを取っても、甲羅には人の顔、それも武士を思わせるようなりりしい顔がはっきりと浮き出て、目と思われるあたりからはボロボロと涙のような雫が落ちていた。

「本当に、どうしたことでしょう。この蟹たち、みな泣いているようネ。それにしても、この怒ったような、悲しいような顔、なんだか、こわいみたい」

 女たちが口々にそんなことを言っていると、掌の一匹の蟹が、小さな声で、それでもはっきりと人間の言葉で話しはじめた。

「我々は、本当は蟹ではない。ついこの間まで、お前たちと苦楽を共にして来た平家の一門だ。あの日、壇ノ浦で、天皇様のお供をして海へ飛び込んだが、どうにもくやしゅうてならん。我々を滅ぼした源氏が憎うて、このままでは到底、成仏できん。それで今は、蟹に身を変えて鎌倉打倒の機会を待っているのだ」

 それを聞いた女たちは一斉にシクシク泣き出した。

「知らないこととは言いながら、ほんに、おいたわしいこと。それに引きかえ、私たちは、こうして彦島に隠れ住んでいますが、毎日をひっそり生きてるだけで、本当に申し訳ないことです」
「そうです。これから私たちも、源氏を倒すために、何かお役に立つことを考えましょうよ」

 その時、一人の女がこう言った。

「私たちは、蟹ではなく、魚になりましょう。そうだ、魚の王様、鯛になりましょう。そして生きている人びとに食べられることによって、私たちの怨念を人間に乗り移らせるのです」
「そうよ、私たちのような可弱い女には、源氏を滅ぼす良い方法といえば、それしかありませんね」

 女たちはまたたくまに同意して、多くの蟹たちが心配げに見上げる中を、次々に海に入っていった。彦島と下関の間の小門海峡は、その頃、日本一流れが速かったから、女たちはみるみるうちに流されて沈んでしまった。


 それから何か月かたって、この海峡では、今まで全く見られなかった小さな美しい鯛が群をなして泳ぎはじめた。

「これは平家の官女たちの化身だ。恐れおおいが、これをたらふく食べて、一日も早く源氏が滅びるように祈ろうじゃないか」
「そうだ、これは平家の… いうなれば小さな平家、つまり小平家の怨念がこもっている。その恨みつらみを、ワシらが代わって晴らしてやろう」

 彦島の漁師たちは、その小鯛を釣りあげて口々にこういった。そして、それからというもの、彦島や下関では、小鯛を小平家(こべいけ)と呼び、塩焼きののち酢漬けにして、しこたま食べる習慣が出来た。
 しかし、平家を食べるということは良心が許さず、小平家(こべいけ)のことを小平家(こべけ)と詰めて呼ぶようになったが、それでもなお気がとがめたのか、いつの頃からかコマコダイとも呼ぶようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/03/21 Thu. 09:56 [edit]

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彦島の年表9 

彦島の年表9

慶応元年 1865年

五卿、下関から太宰府に落ちる途中、福浦に一泊する。

長府藩、下関・彦島沖の測量を行う。


慶応二年 1866年

彦島・赤間関の兵が海峡通過の船を検査する。


慶応三年 1867年

高杉晋作、新地林邸において死去。満二十七歳。


明治三年 1870年

海賊に備えて赤間関・彦島に警備兵を置く。


明治四年 1871年

廃藩置県により彦島は豊浦県に属す。

六連島灯台が完成する。


明治五年 1872年

明治天皇西国巡幸。
六連島灯台を視察される。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/20 Wed. 11:22 [edit]

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壇の浦に消えた宝剣 

壇の浦に消えた宝剣


永寿四年(1185)三月二十四日、源平最後の合戦、壇の浦の戦が行われましたが、ここで平家は完全に滅んでしまいました。
このとき安徳幼帝は、二位の尼にいだかれ三種の神器のうち、剣と勾玉とをお持ちになって海底深く消えていかれました。

なかでも剣は“天叢雲の剣”(あめのむらくものつるぎ)といって、いわれのある剣でしたので、その時、政治をとっておられた後白河法皇はたいへんしんぱいされ、海峡のはしからはしまでさがさせましたが、どうしても見つかりません。
そこで賀茂大明神におこもりになって、宝剣のゆくえをお願いしましたところ、七日目に大明神のおつげがありました。
そのおつげによると、ながとのくにの壇の浦にすむ、老松、若松という海女を召して調べさせよ、ということでした。そこで法皇はさっそく義経をおよびになって、このおつげをお話になり、いっときも早く、剣を探し出すようお命じになりました。

ふたたび、義経は激しい戦をくりひろげた壇の浦にもどってきて、老松、若松のいどころを探し、やかたによびよせました。
老松はそのとき三十五歳、若松は娘で十七歳、もぐりにかけてはこの近くでは二人にかなうものはないと、いわれているほどじょうずで、そのうえ、どことなく、気高い感じを人に与えました。
やがて、老松、若松は、みじたくをして海にもぐりました。太陽が沈む頃二人は浮き上がってきました。
若松は、別に剣らしいものはみなかったと義経に報告しましたが、母親の老松の方は、
「ふしぎな大岩をみつけました。その岩には人がくぐれるくらいの穴があって、私は、できるかぎり、その奥へ奥へと進んでみました。およそ一里くらい入ったところで、急に明るくなり、そのむこうに龍宮城らしき建物があり、金銀の砂をしき、その美しい光景に気が遠くなりそうでした。やがて二階構えの楼門まできたとき、どうしたことか手足がしびれだし、いまにも砂の中に引き込まれそうになりました。そこで思わず、お経を唱えると、いくぶんかしびれた手足がもとにもどり、大急ぎで浮き上がってきました。
あの楼門の中へ入るには、神仏のお力にすがるほかはありません」
と申しました。

そこで義経は、くらいの高い僧たちを集め、相談したところ、老松が身につける衣に如法経を書き写し、そのお守りで龍宮城に行かせようということになりました。
老松はふたたび海にもぐりました。そして一日一夜も浮き上がってこないので、義経をはじめ僧たちは、もう老松は死んでしまったのか…と、なげき悲しみました。
ところが翌日のお昼ごろポッカリと水面に顔をだしました。義経は心配のあまり、
「どうであったか…」
と、たずねましたが、老松は、法皇さまにおめにかかり、じきじきにお話いたします、と申しました。

やがて老松親子は京にのぼり、法皇さまの前にでて、ふしぎな話をはじめました。
「如法経のお守りで、手足もしびれず龍宮城に入りました。大日本国の帝王のお使いで、壇の浦で失った宝剣をさがしにまいりましたと門番につげると、広いお城の中をあちこちと案内され、とある庭へつれてこられました。
しばらく待つうちに、しだいに風がでてきて、大地がうなり、はげしく氷雨が降ってきました。私は恐ろしくて、今にも逃げ出そうと思いましたが、ここで逃げ出せばお役にたたずと思いじっとがまんしておりますと、やがて風もおさまり、部屋の奥からうすきみ悪い煙がたちのぼり、シュ、シュという音がしはじめました。
何事かと思って、その方に目をうつすと、小山ぐらいはありそうな大蛇が剣を口にくわえ、七、八才のこどもをかかえていました。その目は、らんらんと輝き、口は耳までさけて、真赤な舌がぶきみにのぞいていました。そしてこういいました。

この宝剣は、日本の帝のものではない。もとはといえば、龍宮城の大切な宝である。
というのは、次郎王子なるものが宝剣を持って陸にあがり、出雲の国のひの川に八つの首を持った大蛇となって住み着き、人をのみはじめた。それで、すさのおのみことが大蛇を退治し、そのお腹から、剣をとりだして姉の天照大神に差し上げた。
そのあと日本武尊に渡ったりして、いろいろ持ち主がかわったが、そのたびに大蛇になり、どうかして剣をうばいかえそうとしたが、いずれも失敗におわってしまった。
しかし、うまいぐあいに、今度は安徳天皇に姿をかえ、源平の戦をおこし、ついに宝剣を見事取り返すことができた。
わしがいま口にくわえているのは、まさに、その剣じゃ、かかえているのこどもは、安徳天皇である。
みよ、平家一門の人々はみな、龍宮城におられる。

と、大蛇が扉を開くと大臣をはじめ法師、女官たちが、じっと私を見つめていました。
そして、大蛇は最後に、

この宝剣は、二度と日本国には渡さない。永久にわしのお腹に入れておく、

というなり、赤い舌を巻いて剣を飲み込んでしまいました。
私は、それを見届けるや龍宮城をあとにして、帰ってきたのです。


老松の長い話が終わると、法皇をはじめ義経たちは、深い失望のためいきをつきました。
こうして、三種の神器のうち、剣は、壇の浦の海中深く、龍宮城の大王である大蛇のお腹におさめられたのでした。


(注)
壇の浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたびさがされ、その回数は二十回にもおよんだといわれています。
また、宝剣が沈んで二十七年も過ぎた頃にも、夜など壇の浦の海に光り輝くものがあるという噂が流れたという話も伝わっています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/20 Wed. 11:01 [edit]

category: 下関の民話

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身投げ石 

身投げ石


 海士郷桟橋の裏手の丘は、小戸山と呼ばれています。その北側の中腹、小瀬戸海峡に突き出たあたりに、大きな岩が海面からそそり立っています。
 それが伝説で名高い『身投げ石』で、岩の上には幾つもの五輪塔やお地蔵様がまつられています。
 むかし、壇ノ浦の合戦のあと、平家の一武将の妻が海峡の潮に流されて、小戸の浜に打ち上げられました。
 不思議に一命をとりとめた妻は、御裳川の藻屑と消えた夫を慕って毎日、小戸の岩にのぼり、武将の名を呼び叫んでは泣きつづけました。
 再び戻って来る事の無い夫を呼ぶその姿に、浦びとも、つい貰い泣きする始末でした。
 ある風の吹きすさぶ夕暮れのこと、女は、狂乱したように大岩にかけのぼって、東を伏し拝みました。そして、大声に何かを叫んだかと思うと、そのまま渦巻く小瀬戸の流れに身を投げてしまいました。
 浦びとは、女の死を悲しみ、岩のそばに小さな祠を建てて供養しました。
 その後、誰いうとなく、大岩のことを『身投げ石』と呼ぶようになったということです。



富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/03/20 Wed. 10:42 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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彦島の年表8 

彦島の年表8

嘉永二年 1849年

七月に吉田松陰が藩命により引島の台場を巡察する。


嘉永六年 1853年

竹の子島、蓋井島に砲台を築造する。


安政元年 1854年

引島の砲台で試射を行う。


安政二年 1855年

引島で農民130人の教練を行う。


安政三年 1856年

六連島の妙好人お軽同行、死去。


文久三年 1863年

山床・六連島・蓋井島などにある唐船打ち払い用の古塁を廃し、新たに要害を選んで新鋭の大砲を備える。


元治元年 1864年

三条実美ら五卿、福浦、弟子待などの台場を巡察。

四カ国連合艦隊、彦島の山床、弟子待の砲台を攻撃し、砲を略奪する。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/19 Tue. 11:00 [edit]

category: 彦島の年表

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お忌さん 

お忌さん


長府忌宮神社のおまつりの中で「おいみさい」というのがあります。
このおいみさいは、お忌さん、おゆみさんとも呼ばれ、やさしい感じがしますが、実際は十二月七日から十五日までのおまつりの間は、境内にしめ縄をはりめぐらし、一般の人は境内に足を踏み入れることができない、厳しいおまつりです。

おまつりの起こりは、仲哀天皇が新羅を征伐されるときに、豊浦の津に皇居をおかれました。
しかし天皇は病気でお亡くなりになり、その後おきさきの神功皇后さまが、斎宮を建てられ、ここに七日七夜おこもりになり、新羅に兵を進めたほうがいいか、神のおつげをうかがわれました。
この七日七夜おこもりになったことが、おまつりのおこりといえます。

おまつりの第一日、二日、三日間は神様がいろいろ準備される日で、第四日は、神様が白馬に乗られて汐汲に行かれますが、そのとき、戸毎に立ち寄って皆が静かにしているかどうか立聞きされる「立聞の日」、第五日は、戸のすき間から家のようすを見られる「のぞみの日」、第六日は静かにしていなかった人に忌矢を放たれる「矢放しの日」になっています。

そして、七日七夜のおまつりの間は、民家でも、いろいろしてはいけないことがあります。
夜は早く戸を閉めること。外にあかりをもらさないこと、便所をかえてはいけない、下駄の緒をつけかえてはいけない、踊りや音楽を鳴らしてはいけない、外出しないこと、野良仕事、洗濯をしないことなどで、これを守らないときには、必ず白矢を受けて病気になるといわれました。

このお忌さんの行事は、忌宮神社だけでなく、住吉神社、吉見乳母屋神社、吉母の若宮神社などでもおこなわれています。

住吉神社の近くに“濁池”という池があります。一年中常に清水をたたえた池ですが、おまつりになると濁るところからつけられた名です。
これは神様が汐汲の帰りにここで馬の足を洗われたからといわれています。
また吉見乳母屋神社では、神前に大きなたらいを置き、それに水をいれておくしきたりがあります。
やはり濁池と同じように、そのたらいの水が必ず濁っているといいます。

神様の怒りにふれて、石になったという言い伝えもあります。
この石のことを「お斎石」または「門石」ともいいますが、住吉神社のお斎石は、老婆がおまつりの期間に、夜せんたくをしているところを神様が見とがめられ馬の上から鞭で打たれて石になったといいます。
吉見のさき、大河原にある「お斎石」は、老夫婦が夜浜へ出て、わかめを刈って帰る途中、ちようど神様にであい、馬のひずめにかけられ石になったといいます。
現にこの石には、二つのひずめの後が残っています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/19 Tue. 10:42 [edit]

category: 下関の民話

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船台場 

船台場


 幕末の長州さまは、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国を相手に戦争するだけでは納まらず、幕府にも四方八方を囲まれて戦わにゃあならんかった。
 幕府による第二次長州征伐を、ワシら長州人は『四境戦争』と呼ぶが、これは、芸州口、石州口、大島口、小倉口などの敵を相手にしなけれゃあならん大変な戦じゃった。
 その中で、小倉口ちゅうのは、九州勢を向こうに回し、約七ヶ月もの間、激戦をつづけた小倉戦争のことじゃ。

 この戦の前に、小倉藩では、
『長州は、下関沿岸の守護に重きを置いてはいるが、対岸の彦島は全く無防備に等しい。従って、この際、こちらから奇襲を以って彦島の西海岸を攻めては如何』
 と、提案した人も居ったが、幕府の老中に軽くいなされてしもうた。あの時、その献策通りに九州勢が彦島を攻略していたら、恐らく長州さまの勝ち目は無うて、明治維新もまた違うたものになったじゃろう。


 さて、本題に入ろう。

 慶応二年(1866年)六月二十九日、幕府の軍艦富士山丸が小倉の長州沖にイカリをおろした。この軍艦は二本マストで、黒塗りの全長八十メートルもある新鋭の鋼鉄船ということで、どひょうしもない大きい。それに百四十ポンドの巨砲を据えて居ったから、長州さまの軍艦なんか、まるでオモチャのようなものだ。

『あの小舟は、目障りでならん。あれをやっつけろ』
 高杉さまの一声で、富士山丸攻撃の準備が始まった。さしもの大精鋭艦も、高杉さまの眼から見りゃあ、小舟にしか映らんかったらしい。

 さて、七月二日の夜、長府の御舟手組から六人の決死隊員が選ばれた。
 浜崎林槌、梅本幹志、平賀銀槌、大庭伝九郎、磯部新三、大隅伊兵衛という面々で、この六人が、二人ずつ三隻の上荷船に分乗することになった。一人は舵を取り、一人は二貫筒の砲を受け持ち、富士山丸を至近距離から撃とうという計画で、下手をすりゃあ自分たちの命も吹っ飛んでしまう。

 小筒ながら、一応、砲を積んだ船という意味で、これを『船台場』と呼んだが、三隻はその夜のうちに西山南風泊ちかくの瀬戸の浜に集結した。いわゆる潮待ちじゃ。
 そして三日午前一時過ぎ、三隻の船台場は瀬戸の浜を出て幕艦にそうっと近づいた。

 富士山丸は標識ランプを一つだけ吊るして、そのまわりには、同じ幕府の軍艦、順道丸、回天丸、長崎丸なども停泊している。
『おーい、その船、とまれえ。この夜更けにどこへ行くのかあ』
『ワシらぁ、彦島の者じゃが、これから若松まで、石炭を積みに行きますだあ』
 と答えると、相手は安心したのか、それ以上、とがめようとはせんじゃった。

 船台場は一列に並び、そのまますーっと幕艦群に近づいて、総指揮をとっていた浜崎林槌が二貫筒を富士山丸の機関めがけてぶっ放した。
 つづく二番手、三番手も、それぞれ機関を目標に撃ち込み、次々に海に飛び込んだ。そして、前日から言いつけてその付近で漁をさせていた伝馬船に泳ぎ着き、彦島に戻ってきた。
 その時、砲一門を載せた船は沈んでしもうたが、あとの二隻は引き潮に流されておったのを、彦島の漁師が見つけて引っ張って帰ったという。

 この船台場の轟音を合図に、対岸の田ノ首山床砲台が富士山丸を砲撃しはじめた。すると、それに呼応して弟子待砲台も、どんどんばりばり撃ち始めたもんじゃから、傷ついた幕艦は慌てて小倉寄りに退いた。
 田ノ首と弟子待にゃあ、二十インチの臼砲や十五インチ長身惣砲などが仰山あり、この勇ましい音をきっかけに、長州さまの大里攻めが始まった。


 こうして、七ヶ月にわたる小倉戦争の火ぶたが切られた訳じゃが、その死を覚悟した勇敢な船台場の奇襲は、幕府や九州を震撼させるに、大いに役立ったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/03/19 Tue. 10:26 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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彦島の年表7 

彦島の年表7

享保二年 1717年

異国船六連島に来泊。
長府・小倉・福岡各藩協力して追い払う。


享保三年 1718年

引島・六連島など六ヶ所に砲台を築く。


享保六年 1721年

長府藩家臣細川志津満ら数十名検地のため来島。
長江浦を名合浦、江合の浦を江の浦、小福浦を福浦、山の尾を山郷、伊佐木の浦を伊佐浦、麻植山を老の山とそれぞれ改称する。


明和四年 1767年

幡生八幡の分霊を勧請し、六連島八幡宮を創建する。


享和元年 1801年

六連島の「お軽」誕生。
のち浄土真宗の「妙好人伝」にお軽同行としてあがめられる。


文政三年 1820年

竹の子島に金刀比羅神社を讃岐から勧請する。


文政十三年 1830年

福浦甲山に忌宮末社金刀比羅神社を勧請する。
福浦金刀比羅神社境内に小田南核、富観台之記碑を建立。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/18 Mon. 11:14 [edit]

category: 彦島の年表

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干る珠・満ちる珠 

干る珠・満ちる珠


長府の沖に浮かぶ、美しい二つの島も、神功皇后さまにゆかりがあります。

神功皇后さまが神様のおつげで三韓征伐をされることになり、長府に豊浦の宮をおかれ、いろいろと作戦をねったり、準備をすすめました。

三韓は遠い国です。皇后さまは、天地のあらゆる神さまに、お力添えとおまもりをお願いしました。
もちろん海の神さまである龍神にも海路の無事と戦の勝利を願われました。
ちょうど満願の日です。それまで、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに潮鳴りをおこし、渦を巻いてたけ狂いはじめました。そのどよめきの中から、
「皇后さま、皇后さま、わたしは瀬戸に住む住吉明神の化身でございます」
と呼ぶ声、皇后さまの耳に聞こえてきました。
みると、一番大きな渦の中に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていました。そして、
「三韓はいずれも強い国です。ぜひ龍神のおたすけをかりなさい。それには、安曇の磯良という者を召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠をかりうけられ、そのご神徳によって戦を勝利にすすめられるがよいでしょう」
と、おつげになりました。

そこで皇后さまは、この海岸に住む安曇の磯良という若者を召して、龍神のもとに使わされ、二つの珠を借り受けてこさせました。

いよいよ新羅の大軍が攻めてきましたが、皇后さまは、まず潮干る珠を沖の方へ投げられました。
すると、見る間に潮が引いていって海底があらわれましたので、しかたなく新羅の軍隊は船を降りて海底を歩いて攻め寄せてきましたが、もう少しで陸へ上がろうとという時、こんどは潮満つ珠を岸の近くに投げられると、たちまちまた潮が満ちてきて、新羅の軍隊はおぼれてしまいました。

そののち、皇后さまは、軍船をととのえて、いよいよ三韓へわたり、敵を打ち破り、やがて皇后さまの軍船はいさましく長門の海に凱旋してきました。


皇后さまは、干珠・満珠のあらたかな徳をたたえられ、それをもとの龍神におかえしになるに先立って、お祝いの儀式をとりおこないました。

その日は、軍船が幾組みも組をつくって、壇の浦から長門にかけて、にぎやかなまつりの行事をくりひろげました。
そして、その先頭のひときわ大きい軍船から、皇后さまは、声を高くして、
「わたくしたちが、このたびのいくさに勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなの勇敢な働きによるものであることは申すまでもない。しかし、それにもまして、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。いまここに、お礼を申すとともに、この珠をお返ししたいと思う」
と、おつげになり、静かに二つの珠を海に沈められました。
つわものたちも軍船の上から、二つの珠が沈められた海のあたりを、深い感謝の心をこめて、いつまでもふり返りふり返り見守っていました。

すると、二つの珠が沈められたあたりの海の上に、見るもあざやかな美しい緑の島が、ふたつぼっかりと浮かび上がってきたのです。

この不思議な出来事に、皇后さまをはじめ、つわものたちは感動の目をもって眺め入りました。皇后さまは、
「みなのもの、龍神はいまこの海に二つの島をつくりたまわれた。永遠に長門の浦を鎮めたまうのである。この平和の波はいつまでも干珠・満珠の岸を洗うことであろう」
と申されました。

これを聞いたつわものたちは、いっせいによろこびの声をあげ、そのこだまは海峡にひびき、干珠・満珠の美しい島をつつみました。


(注)
長府の沖合いに、夢のように浮かんでいる島影は、どちらが満珠・干珠だろうと、よくいわれますが、この島の樹林が天然記念物に指定されたとき、沖の方を干珠、陸に近いほうを満珠としており、いまでは、そのとおりに呼ばれています。
また二つの島は、忌宮神社の飛地境内になっています。

島をおおう、うっそうたる樹林は、千古の原始林で、植物目録によると、きょう木17種、かん木30種、草木41種があげられ、大正15年10月22日に、天然記念物に指定され、さらに昭和31年5月1日に、火の山とともにこの二つの島をふくめて、海面区域が瀬戸内海国立公園に編入されました。

なお、船の航海に必要な世界中の海図には、燈台のある沖の島が満珠島、手前の陸に近いほうが干珠島となっており、どちらの島の名前が本当なのかと問題になったことがあります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/18 Mon. 10:54 [edit]

category: 下関の民話

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金の弦(きんのつる) 

金の弦(きんのつる)


 彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。

 むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。
 浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。
 ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。
 浦びとたちは、嘆き悲しんだが、
『わしらの信仰が足りなかったから』
 と、同じ場所に、もう一本の桂の木を植えて、以前にもまして、日夜おがんだ。

 あくる年の春、三日月がだんだん円くなりかけたある夜のことである。桂の苗木が金色に輝いているのを一人の浦びとが見つけて、みんなを呼び集めた。
 あの浜この村から多くの人びとが集まって来た時は、桂の苗木はぐんぐん大きく伸びはじめていた。
 あれよあれよと浦びとたちが驚きの声をあげている間に、桂は三日月のように半円を描きはじめ、やがて、スポンと音がして、根が抜けた。それから、そのままゆっくりと宙を舞い、浦びとたち一人一人の肩にそっとふれて、ゆっくりと空高く昇っていった。

 それからというもの、浦びとたちは三度び桂の木を植えないことを話し合い、岩山にしめ縄だけを張って『金の弓弦の岬』と呼び信仰をおこたらなかった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/03/18 Mon. 10:37 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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彦島の年表6 

彦島の年表6

寛永六年 1629年

六連島に肥やし網(イワシの地引)漁法起こる。


寛永十五年 1638年

西国より海賊が横行し略奪。彦島の人々が本土下関へ移住する。


寛文二年 1662年

専立寺本堂建立される。


元禄二年 1689年

勝安寺が引島から豊前田に移る。


元禄四年 1691年

藩主、中国九州地区など碁打ち二十四人を招き、引島小戸で碁会を催す。
これが六夕囲碁の始まりである。


享保元年 1716年

六連島に寧波船漂着。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/17 Sun. 11:00 [edit]

category: 彦島の年表

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