12 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 02

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島のけしき2 

どうも容量オーバーなのかもしれません。
画像がアップできませんので
以下のページで続けていきます。

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31

下関の地名13 彦島(ひこしま)3 

彦島(ひこしま)3


大日本地名辞典に引用された、室町時代の人、今川貞世の旅日記「道ゆきぶり」には、
「穴戸の山引き分かれて、今の早友のわたりになりぬ、この山さながら西の海中によりて、引島となれり」
とあり、時代的には“引島”と書かれたものが古く“彦島”という表記方と共用されながら、しだいに“彦島”に統一されたようです。

なお、江戸中期の地理学者長久保赤水は“長崎行役日記”の中で、彦島に“日久島”の文字をあてています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/16 Wed. 09:45 [edit]

category: 下関の地名

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16

地域の史実と口碑伝説17 

地域の史実と口碑伝説17


毎年春ともなりますと湾内は北前船で埋まり、百艘以上を数えることも少なくありませんでした。
明治初期の最盛期には遊女が二百五十人いたということであります。
夕方になると船頭や遊女の声、料亭から三味・太鼓の賑わいで港中が歓楽の坩堝でありました。

さして一旦順風が訪れると、碇を上げた船は先を争って出航するのであります。
空となった港は夕方になると、また人船で賑わうというありさまです。

このころの戸数は百五十戸くらいでありましたが彦島唯一の繁華な所でありました。
というのは他に戸数が五十戸以上の部落はなかった時代であります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/15 Tue. 13:46 [edit]

category: ひこしま発展誌

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15

おおひと 

おおひと


 むかし、彦島では、本村町のことを地下(じげ)と呼んでました。
 もともと『地下』というのは、宮中に仕える人以外の家格で、一般には農民や庶民のことを指しています。それが転じて山口県では、自分の住んでいるところ、つまり地元という意味で使われています。

 彦島だけが、地下を地元でなく、島の中心を指して呼んでいた訳です。
 島では、古くから子どもたちの間で、こんな歌が唄いつがれていました。


  大江屋敷の おおひとは

  けんのう飛びで どこ行った

  和尚さんに聞いたれば

  和尚さんは知っちゃあない

  タイヨさんに聞いたれば

  タイヨさんも知っちゃあない

  どーこー行った どこ行った

  地下の山を けんのうで

  大江山を 飛び越えた


 けんのう飛び、というのは片足跳びのことで、タイヨさんは『太夫』つまり、お宮の神主のことです。また、『知っちゃあない』は、『知っては居られない』という敬悟だそうです。
 このわらべ唄については、面白い話があります。

 むかしむかし、大むかし、天をつくような大男が、旅の途中も馬関と門司に足をかけ、海峡の潮水で顔を洗いました。
 その時、クシュンと手鼻をきった所が、今の岬之町で、丸めた鼻くそをポイと捨てたら六連島が出来、プッと吐き出した歯くそは小六連島になりました。
 それでさっぱりした大男は、鼻唄まじりに何やら唄いながら、彦島に右足をおろし、大股ぎで海の向こうへ消えていきました。その時の大きな波音はいつまでもこの近くの海に残って、響灘と名付けられました。
 大男が去っていく時、踏みつけた右足は、小高い山を砕いて谷をつくり、そこは今でも『大江の谷』と呼ばれています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
『おおひと』の話については、他にも幾つか語りつがれたようであるが、島の古老たちは、ほとんど覚えていない。
大江屋敷は、むかし、本村町五丁目の山手にあったといい、今では地番、あるいは屋号として残されているにすぎない。つまり『大江の新屋』『大江の母屋』『上の谷』『下の谷』『先の谷』などがそれである。
ところで、同じような話が、北九州市門司区にも残されている。それは、二夕松町の小森江東小学校の近くにある巨人坂(おおひとざか)という地名で、昔は二畝ほどの大きな人の足跡があったという。
大江の谷にも、同じように大男の足跡が残されていたが、明治の終わり頃、掘り返されて無くなってしまったといわれている。
この話については、清永唯夫氏が『関門海峡百話』で、『海峡をまたぐというイメージが、関門橋によって新しい観点からよみがえり…』と書いておられる。
また『おおひと』について、門司では『巨人』という字をあてているが彦島では『大人』と書いている。
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Posted on 2019/01/15 Tue. 13:27 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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15

下関の地名12 彦島(ひこしま)2 

彦島(ひこしま)2


「平家物語」では、
「平家は長門国引島に著と聞えしかば」

「吾妻鏡」では“彦島”、そして「源平盛衰記」には、
「新中納言知盛は長門国彦島と云所に城を構へたり、是をば引島とも名付けたりとあり、彦島とも引島とも云へり」
とそれぞれ記しています。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/15 Tue. 13:20 [edit]

category: 下関の地名

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地域の史実と口碑伝説16 

地域の史実と口碑伝説16


現在の福浦港は風波のため土砂が積もり浅くなり、港の中はガラ空きで寂れていますが、明治中期までは非常に繁盛したものであります。

また汽車汽船のない頃の運搬機関は全て帆船に依存していたので、北前すなわち北陸や北海道の米やニシン、昆布などの豊富な特産物を大阪に運ぶには、太平洋を通らずにほとんど日本海・玄界灘・瀬戸内海というコースでありまして、その船が往復とも福浦に寄港したので自然繁盛せざるを得ません。

船は北前船と申しまして、米千石を積むことができる堂々とした大船でありますが、追い風でないと走れないという、すこぶる不便な船であります。
船には船頭以下十数人が乗り込んで、まず大阪を出帆して福浦港まで下ってきて風待ちするのであります。
福浦はあの恐ろしい玄界灘に出る最後の寄港地であります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/13 Sun. 12:31 [edit]

category: ひこしま発展誌

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13

こびんおおひと 

こびんおおひと


 むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が
『おなか、へったあ』
 といって座り込んでしまった。
 父親のおおひとは驚いて、
『すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気出せ』
 と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。やむなく、おおひとは、すぐ近くの浜辺でタコ、サザエ、エビ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

 だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を『江尻』といい、南風泊から西山へかけての海辺には、『タコ岩』『サザエの瀬』『エビタ』『イサンダ』などという地名が残った。

 たらふく食べて、ようやく元気になった娘は『ヨイショ』と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ『ヤッ』と玄界灘めがけて旅立って行った。
 父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追うたが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
西山の波高バス停の近くに『明神』と呼ばれる祠がある。そのそばに『こびんおおひと』の足跡だと伝えられる石が残っている。
『おおひと』の地名としては、本村のほかに、西山フイキンの浜が『大人崎』で、田の首の生板の瀬に『大人岩』があり、弟子待には、『大人足跡砲台』か゜実存していたことが、『白石家文書』に記されている。
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Posted on 2019/01/13 Sun. 12:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名11 彦島(ひこしま)1 

彦島(ひこしま)1


下関市の南西に位置する彦島は、生野村に次いで、昭和八年に下関市に合併しました。
明治二十二年当時、彦島は六連島を含め“彦島村”と呼ばれ、大正十年に彦島町となり、下関市と合併しました。

彦島の地名が文献に現れるのは、八世紀にまとめられた「日本書紀・仲哀紀」が最古のもので、
「筑紫の伊観県主の祖五十いとで、天皇の行を聞きて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳先立て、上つ枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握の剣をかけ、穴戸の引島に参迎へて…」とあります。

また、天治年代の歌人源俊頼の「袖中抄」には“ひくしま”と詠いこんだ作品を見ることができます。


「下関の地名」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/01/13 Sun. 11:59 [edit]

category: 下関の地名

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地域の史実と口碑伝説15 

地域の史実と口碑伝説15


金刀比羅宮があります港頭の富観台は、遠く玄界灘から近くは大瀬戸を隔てて、小倉、若松等が手に取るように見える絶景の丘であります。

神社は文政十三年四月の建立で、吉田松陰も嘉永二年の巡視のときに登ったということです。
ここに同年九月に建てられた富観台記念碑の碑文には、当時の福浦の住居はごく僅かであったと記されていますが、港の開発は数百年前からのことでありますので、徐々に戸数も増えてきたのであります。

徳川幕府の頃には、参勤交代のとき肥前の鍋島、肥後の細川、薩摩の島津などの大名は、出府や帰路の荷物の運搬に船を使ったので、風待ちのために、この港に寄港しました。
その船宿として肥前屋、肥後屋、薩摩屋等の名が残っているのであります。

また、京都を追われまして長州に逃れてきました三条実美ら七卿のうち、五卿が元治元年の正月に長府の外浦から船に乗って福浦港に一泊したということであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/12 Sat. 10:49 [edit]

category: ひこしま発展誌

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巌流島と弟子待 

巌流島と弟子待


 佐々木巌流は、名を小次郎と呼び、生まれは東北の人でした。物干し竿のような長刀と『つばめ返し』で知られる剣の達人ですが、縁あって小倉の藩主に仕え、師範役をつとめられていました。

 そのころ、剣にかけては天下一と言われた宮本武蔵が、諸国遍歴の途中、たまたま小倉に立ち寄り、古くから懇意にしていた長岡佐渡の屋敷に滞在しました。

 ある日、武蔵は、名高い小次郎のことを耳にして、
『巌流佐々木小次郎と真剣勝負をしたいが、いかがなものでしょう』
 と、佐渡に話しました。佐渡は、
『それは面白い。是が非でも実現させよう。殿には、私から頼んでみよう』
 と早速、藩主にその旨を願い出ました。すると藩主も大いに喜び、
『勝負は四月十二日、場所は舟島がよかろう』
 と、即座に許しました。舟島というのは、彦島の沖合に浮かぶ小さな洲のような無人の小島で、帆掛け舟に似ているとろこから、そう呼ばれていました。

 ところが、果たし合いの許しが出た翌日、どうしたことか、突然、武蔵は小倉から姿を消してしまいました。
『見ると聞くとは大違い。二刀流の剣豪と言われた武蔵は、佐々木様の剣技に恐れをなして逃げてしまったらしい』
 そんな噂が巷に流れはじめたので、長岡佐渡はこれを無念に思って、八方手をつくし武蔵を捜しました。そしてようやく、下関の船宿、小林太兵衛の二階にひそんでいる武蔵を見つけることが出来ました。

『藩主の許可を得たというのに、なぜ、無断で雲隠れしたのか』
 こみあげて来る怒りを抑えて、佐渡は訊ねました。すると武蔵は、静かに微笑みながら言いました。
『当日、もし私が小倉から舟島に向かうとすれば、巌流は藩主殿の船に乗り、私はあなたの船に乗ることになるでしょう。そうすれば、どちらが勝っても負けても、あなた達は君臣の間柄ゆえ、気まずい思いをなさるでしょう。ですから私は、自分勝手に下関から島へ渡ることにしたのです』
 それを聞いて佐渡は安心しましたが、その話はまたたくまに小次郎の耳にも入りました。しかし、小次郎は黙ってうなずくだけでした。


 さて、慶長十七年(1612年)四月十二日、いよいよ果たし合いの日が来ました。
 小次郎は朝早く起きて、小倉の長浜という所から船に乗りました。その船が、大瀬戸横切り彦島の浜辺を這うようにして舟島に近づいた時、ふと振り替えると、三、四隻の小舟に二十数名の門弟たちが分乗して、あとを追っていました。小次郎は門弟たちを制して大声で叫びました。
『私について来てはならぬ。お前たちの助けを借りたとあっては、私の名が廃るし、また、宮本殿は、一対一の真剣勝負と伝えて来て居る。お前たちの気持ちは有りがたいが、今は、急いで小倉へ帰って呉れ』
 門弟たちは、今更、引き返すわけにもゆかず、また勝負も気にかかるので、小倉へ帰るように見せかけて、そっと彦島に上陸しました。そして、舟島の様子が手に取るように見える場所を選んで、師の勝ちっ振りを遠くから眺めることにしました。

 そんなこととは知らず小次郎は安心して、ゆっくりと舟島へ向かいました。しかし、武蔵はまだ来ていません。しばらく待っても来る気配がありませんので、長岡佐渡は下関へ使いをやりました。すると驚いたことに、武蔵は、ちょうど起きたばかりで、のんびり支度にかかるところでした。

 朝の太陽が門司の山を離れて、ギラギラとまぶしい光を波間にただよわせはじめたころ、ようやく木刀をさげた武蔵が舟島に着きました。その木刀は、武蔵が下関から小舟で舟島に着くまでの間に、折れた櫂を削って作ったものです。

 何時間も待たされた小次郎は、いつもの落ち着きを失い、パッと立ち上がって渚へ進み、刀を抜き放ちました。そして思わず、鞘を後方に捨ててしまいました。
『小次郎、敗れたり』
 武蔵は木刀をさげたまま、大声で言いました。相手を長時間待たせていらいらさせ、その上、勝負もしないうちに大声を発してひるませるという策を。武蔵は早くから考えていたのです。
『もし、お前が、わしに勝とうとするのなら、刀の鞘は捨てるべきではない』
 そう言う武蔵の声に、小次郎の怒りはつのるばかりでした。冷ややかに笑いながら、既に相手を呑んでかかっている武蔵と、日頃の冷静さを欠き、怒り心頭に発した小次郎とでは、実力の出し方が違って当然でしょう。

 武蔵が、ジリッと体を右に動かしました。それにつれて、小次郎もジリッと右に二、三歩動きました。すると、海峡の波にゆれる朝の太陽が、まぶしく小次郎の眼をうばいました。

『しまった』
 小次郎は、その時、思いました。
『すべて、武蔵の計略通りではないか』
 しかし、そう気がついた時には、もう遅かったのです。

『ヤーッ』
ギラギラと眼を射る陽光の中から、武蔵の木剣が振りおろされました。とっさに小次郎もつばめ返しで相手を打ちました。

 二人の体がかわって、武蔵の額から鉢巻きがパラッと落ちるのが見えました。
 と同時に、小次郎の意識は薄れ、そのままばったりと倒れてしまいました。武蔵の面をとる直前に、既に小次郎は脳天を打ち砕かれていたのです。それも、武蔵自身が真剣勝負と申し出ておきながら、意表をついた櫂の木剣で…。
 小次郎は、武蔵の錬りに錬った策に敗れました。


 人びとは、小次郎の死をいたみ、小さな墓を立てて、舟島のことを『巌流島』と改めました。

 そして、門弟たちが上陸して、勝負や如何にと見守っていた彦島の浜辺は、いつのころからか、『弟子待(でしまつ)』と呼ばれるようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/12 Sat. 10:18 [edit]

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下関の地名10 彦島古地図 

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Posted on 2019/01/12 Sat. 09:53 [edit]

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地域の史実と口碑伝説14 

地域の史実と口碑伝説14

《福浦》

現在の福浦町はあまり振るいませんが、昔は彦島の中心でありました。
江の浦小学校付近一帯まで海であったのを数百年前に埋め立てまして、現在の姿になったのであります。

「海賊泊」は福浦の対岸の西にあり、ここには年中清水が湧き出ていたので「清水カ谷」とも申しまして、古くから海賊どもの根拠地であったといわれています。

福浦港は昔の帆船時代には天然の良港として有名であります。
北海道、九州方面に行くにはこの港が最後の寄港地であったので、乗組員の慰安の場所でもありました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/11 Fri. 11:17 [edit]

category: ひこしま発展誌

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七里七浦七えびす 

七里七浦七えびす


 島は 七島
 回れば 七里
 七里 七浦 七恵比寿

 古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。

 むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。
 しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りなかった。
 そのため、平家の祈願所は、安芸の宮島に取られてしまったが、そのくやしさを、彦島の人びとは『島は七島、七えびす』と、うたったという。


 ところで、『七えびす』というのは、次の七づくしのことだそうだ。

◎七島

 引島 彦島本島
 舟島 巌流島、船島とも書く
 舞子島 西山の泊まりの沖にあった島
 城ノ島 舞子島の西寄りの島、城ノ子嶋ともいう
 間横島 西山の獅子ケ口の沖にあったという島
 竹ノ子島 竹ノ子島
 伝馬島 福浦湾の海賊島(リンゴ山ともいう)

◎七浦

 天ノ浦 海士郷
 江合ノ浦 江ノ浦
 小福浦 福浦
 百ノ浦 荒田の南の浜 桃の浦とも書く
 宮ノ浦 彦島八幡宮前の浜(三井東圧構内)
 伊佐木浦 西山の伊佐武田の浜、伊佐野浦とも書く
 鯉ノ浦 西山の伊無田の浜 恋の浦とも書く

◎七崎

 浦辺崎 海士郷の小戸寄り
 鉾崎 ホーサキ 本村の林兼造船第二工場付近
 鎌崎 江ノ浦桟橋通りバス停付近
 鋤崎 スキザキ 彦島中学と福浦口との中間 塩谷の辺り
 硴崎 カケザキ 福浦の東隅
 佐々崎 ササザキ 荒田
 長崎 長崎町(本村七丁目)の変電所付近

◎七鬼

 鬼ヶ島 竹ノ子島の北半分
 鬼穴 西山の手トリガンス
 鬼先 西山の泊まりの浜 鬼崎とも書く
 鬼山 西山瀬戸の浜の丸山
 鬼番屋 西山丸山の眼鏡岩
 鬼ノ瀬 西山獅子ヶ口の瀬
 鬼岩 南風泊の蛸岩

◎七海賊

 海賊島 福浦湾の伝馬島 別に龍宮島ともいい現在は塩浜と陸続きになってリンゴ山
 海賊谷 塩浜の大山の麓 清水谷
 海賊泊り 塩浜の大山の北麓(福浦のカケザキにもあったという)
 海賊屋敷 福浦金比羅山の裏側
 海賊板 田の首の俎瀬
 海賊ノ瀬 田の首の鳴瀬
 海賊堤 田の首の雁谷迫の堤

◎七堤

 里堤 迫のトンダの堤(彦島有料道路の下)
 小迫堤 迫から佐々崎に通じる山中の堤
 名合浦堤 里から本村百段に通じる山中にあった用水池
 藤ヶ迫堤 老ノ山の第一高校の下にあったが今は無い
 鎌崎堤 江の浦桜町(五丁目)の地蔵坂にあった堤
 杉田堤 杉田の三菱造船アパートが建っている所にあった鯉の巣の堤
 塩谷堤 彦島中学から福浦口へ至る中ほどにあった堤

◎七瀬

 栄螺瀬 サザエノセ 西山の西海岸
 獅子ヶ口瀬 西山の突端
 俵瀬 江の裏鎌崎の沖
 沖ノ洲瀬 現在の大和町が埋め立て以前港であったころの羽根石一帯の瀬
 中州の瀬 巌流島の沖の瀬
 死の瀬 弟子待沖の与治兵衛ヶ瀬
 仏の瀬 小戸の身投げ岩付近の瀬


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/01/11 Fri. 10:42 [edit]

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下関の地名9 武者田 

六人武者


 壇ノ浦の合戦で平家が滅び、そして何年かたったころの話です。

 彦島の対岸、小門の王城山に中島四郎太夫正則という悪者が住んでいました。
 もともと平家一門であった四郎太夫は、一門再興を願っていましたが、いつのまにか、その望みもなくなり、とうとう海賊に身をやつしてしまったのです。

 ある寒い冬のことです。

 四郎太夫は、息子とその家来四人をつれて竹ノ子島を襲い、略奪のかぎりをつくしました。その上陸地は今でも『六人武者の江良』と呼ばれ、竹ノ子島は古く『鬼ヶ島』と呼ばれたものでした。
 六人武者は彦島へも足を伸ばし、あちこちで悪事を働きました。西山の『波高』という地名は、住民の殆どが裸にされてしまったからで、『渡瀬』は『有り金ぜんぶ渡せ』とおどされた所からきているといいます。
 また、迫の『荒田』は、住民をここに集めて財産の有無をあらためた所で、その隣の『絞』は、何もかも絞り取られた人びとの集落となった地名だということです。


 やがて、四郎太夫ら六人の海賊は、彦島だけでは飽きたらず、九州にまで勢力を伸ばしはじめました。そこで豊前の人びとが海賊征伐に立ち上がり、兵百五十人と船六十三隻が福浦の海に集結しました。

 福浦には今でも『六十三隻江良』という磯が残っており、対岸の塩浜には『海賊島』や『海賊泊り』も現存しています。
 その時、豊前の兵は、南風泊の漁師たちに海賊の様子を訊ね歩きましたが、どの漁師も後難を恐れて『聞かぬ』『聞かぬ』と首を振るばかりでした。南風泊の沖には、今でも『きかんが藻』という岩礁があります。

 いよいよ海賊征伐の火ぶたは切られましたが、四郎太夫たちは、さまざまな奇襲戦法を用いて、それに抵抗しました。
 しかし、百五十人対六人では殆ど戦にならず、四郎太夫と息子は一目散に伊崎の山へ逃げてしまいました。

 それでも、あとに残された四人の家来、つまり、鶴五郎、仁蔵、雁次、市太郎らは、最期まで勇敢に闘って死にました。
 今、彦島に残っている『仁蔵の江良』『鶴の江良』『雁谷迫堤』『太郎ヶ鼻の瀬』などの地名は、彼らが討ち死にした場所だということです。


 戦いすんで日は暮れて、豊前の兵は意気揚々と引きあげて行きましたが、島びとたちは斬り殺された四人の海賊の首を一箇所に集めて田の中に埋め、手あつく供養しました。その地を今でも『田の首』と呼んでいます。

 島の人びとにとっては、それはそれは憎い海賊たちではありましたが、四郎太夫父子の逃走後も、なお、勇敢に闘って死んだ四人への哀れみから、六人武者にまつわる地名があちこちに付けられたのだといわれています。
 そして人びとは四人の武者が最期にたてこもっていた場所を『武者田(むしゃだ)』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話には、ずいぶん多くの地名が出て来る。中でも『六十三隻江良』には、この他に諸説がある。
その一つは弘安四年(1281年)のことだ。元軍十四万の兵と軍船四千四百隻の襲来にそなえ、日本海沿岸はすべて防塁を築いたが、その際、彦島にも小福浦に六十三隻の船を集結させて待機したという。
その二は、永享二年(1430年)のこと、筑前の秋月三郎雅春、原田二郎信朝ら二万八千騎が火ノ山城を攻撃した時、大内氏は、小福浦に船六十三隻を集結させたというのである。

また『雁次』が死んで『雁谷迫』になったという話も、合点がゆかないが、これなどは、永年の間に転化していったものであろうか。

『武者田』は往古は『毘沙田』と書き、毘沙門天が祀られてあったといわれている。
その後、平知盛がこの島に城を築いたので『武士田』となったという。『武士田』が『武者田』に変わったいきさつには、次の説がある。
むかし平家の落武者が、その名を明かさず、武士田の奧で山を伐り開き農耕に励んでいたが、嫁も迎えなかった為、一代で絶えてしまった。そこで、人びとはその死を悲しみ、武士田の峠近くにその死体を埋めて、手厚く葬り、地名を『武者田』と改めた。
というのである。因みに彦島警察署の小字は『虫田』である。
ところで、落武者を埋めたと伝えられる場所は、その後、福浦、長崎、荒田地区の埋葬地となり、大正以降には、火葬場が作られた。しかし、今では、そのあとかたもなく、ただ『焼けあがり』という呼称だけが残されている。

なお、赤間神宮の先帝祭では、上ろう道中の先頭に立って参拝する特権を持っている中島家の祖先と伝えられる四郎太夫が、彦島では、悪者扱いにされていて、そのため、伊崎と海士郷、南風泊の漁師は、昔から仲が悪かったということである。
六人武者のうち、四郎太夫父子が四人の家来を残して逃走したというくだりに、彼らの憎しみが感じられてならない。
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Posted on 2019/01/11 Fri. 10:25 [edit]

category: 下関の地名

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地域の史実と口碑伝説13 

地域の史実と口碑伝説13


なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから四方大山岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。

以前は田の首の所管でありました塩浜町は福浦湾に面しまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/10 Thu. 11:05 [edit]

category: ひこしま発展誌

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引島は彦島 

引島は彦島


 むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。
 ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。
 ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。


 また、こんな説もある。

 むかし、彦島と伊崎とは陸続きであった。
 外海と内海の潮の流れは、大瀬戸の海峡を通っていたが、いつのまにか、伊崎の山の下を浸食して小さな穴を作ってしまった。
 その穴は急潮のため、少しずつ大きくなり、やがて、ついに山を海中に陥没させてしまった。
 だから、胃までも空から見ると、伊崎の岬が彦島の太郎ヶ鼻を引っぱっているような感じを与える。『引島』という地名はそこから来ている。


 さて、引島は、ひくしま、と呼ばれたり、ひきしま、とか、ひけしま、と呼ばれたりしたが、読む人によってその読み方が違っていた。
 そこで神代の昔、彦炎出見尊(ほりでのみこと・海彦山彦の話)が天から降られて兄神の釣り針をを魚に取られ、それを探すために海士となって海に潜り、竜宮へ行かれたという神話の地が、この島であるというわけで、『引島』を『彦島』と改めた。

 しかし、その後も、彦島は、ある時は引島と呼ばれ、ある時は彦島と、その呼称は一定しなかった。

 これではいけない。というわけで、寛永十年(1633年)長府藩主、毛利秀元公が、むかしの名前の『引島』に戻してしまわれた。
 それからというものは永い間、この島は引島と呼ばれた。


 時は移り、天下泰平の世の中に、黒船がやって来て、開国を迫るようになると、日本全国が騒然としはじめた。
 この島の近くも、『海防策』とやらで、あちこちに砲台が築かれ、人びとは攘夷実行に突き進んで行った。
 その文久三年(1863年)の春、長府藩主はきっぱりお命じになった。
「引島は、関門海峡の門戸に当たる。そこに引くという名は武事に忌む。依って、本日より、引島を彦島と改めるよう」
 それは、三月七日であったという。その日から、この島は正式に彦島と呼ばれるようになった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/01/10 Thu. 10:39 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名8 姫ノ水 杉田 

姫ノ水


 壇ノ浦の合戦で、悲しくも平家は敗れました。その時、四人の官女が一門から離れて彦島にかくれましたが、数日もしないうちに欠乏の生活に耐えられなくなってしまいました。彼女たちは、このまま島にかくれていても貧するばかりと、思いあまって大瀬戸の流れに身を投げました。

 しかし、そのうちの一人は死ぬことも出来ず、砂浜に押し上げられてしまいました。
 里人に助けられたその女は、三人の官女や一門の人びとの幸せを羨み、平家全盛のころの華やかな毎日を思い出しては、日夜泣き通しました。そして、日に日にやせおとろえていきましたが、ある朝、こつぜんと姿を消してしまいました。

 里人たちが手分けをして探しまわりましたところ、浜辺からかなり奥まった山中に、のどをかききった官女のなきがらがありました。
 人びとは、彼女の死をひどくいたんで、その地に手厚く葬り、一本の杉を植えました。そして、どこにでもあるような山石を運んできて、官女の墓を建てました。

 ところが、不思議なことにいつの頃からか、墓石の下から冷たい水が湧きはじめたのです。そればかりか、杉の木はぐんぐん伸びて何年もたたないうちに見上げるような大樹に成長しました。

 人びとは、この水のことを『姫ノ水』と呼び、杉の木の付近を開拓して『杉田』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/10 Thu. 10:23 [edit]

category: 下関の地名

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地域の史実と口碑伝説12 

地域の史実と口碑伝説12

《田の首》

ここは今では林兼造船所や日新耐火煉瓦工場で賑わっておりますが、昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。

散木集の歌に「田鶴も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。
この田鶴とは鶴のことであります。
昔は鶴が降りてきたようであります。

西側の海岸を「金カ弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたという伝説があります。
また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/01/09 Wed. 10:52 [edit]

category: ひこしま発展誌

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左眼が細い 

左眼が細い


 今から八百年も昔の話。

 ある秋風の身に沁む夕刻、里の西南の海から、一筋の光が立ちのぼっているのを漁師が見つけた。漁師は早速、島の人びとに知らせ、人びとは河野通次にも報告した。
 大急ぎで駆けつけた通次は、矛を片手に海中に飛び込み、光を指して泳いだ。そして、その中ほどに矛を突きさすと、八幡尊像があがって来た。尊像の背面には、河野八幡、と刻まれていたが、いたわしいことに、矛は尊像の左眼を貫いていた。

 さっそく通次は舞子島に祠を建て、光格殿と名付けて島の守り本尊にしたが、そり以来、彦島の十二苗祖と呼ばれる人びとは、代々、現在に至るまで左眼が細いといわれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
『サイ上り神事』が明鏡であるのに対し、こちらは『八幡尊像』となって居り、しかも『河野八幡』と彫られてあったという所が、どうも出来すぎている。
 また『左眼が細い』という話の他に、『右眼が二重瞼であるのに対し左眼は一重である』と伝える説もあるようだ。
『硯海の楽土』という本によれば、明鏡を引き揚げたのは矛という記録と網であったという記録とがあるという。
 しかし、『サイ上り神事』や、『左眼が細い』などの伝説を尤もらしくさせる為には、やはり『網』でなく、『矛』でなければならないだろう。
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Posted on 2019/01/09 Wed. 10:35 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関の地名7 姫ノ水 

きぬかけ岩


 むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
 不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
 すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
 権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
 ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。

 そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
 そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。

 いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/01/09 Wed. 10:05 [edit]

category: 下関の地名

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